真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第166話 襄陽城攻め前夜1
蔡瑁が正宗への夜襲を失敗した翌日。正宗は、空が朝焼けるのを待ち、斥候を周辺に放った。これとは別に正宗は、泉と榮菜に対し早馬を送り、正宗達が夜襲を受けたことと警戒を怠るなと文を送った。
四刻(一時間)ほど経過した頃、放った斥候が帰還した。正宗は斥候の報告を受ける前に全ての幕僚と荀爽を本陣に呼び集めた。この場には朱里、桂花、伊斗香、紫音、黄承彦、慈黄、秋佳、荀爽が居る。正宗は皆の顔を順に確認した。
「昨晩、我が軍への襲撃は蔡徳珪によるものだった。この私自身が槍を交え、言葉を交わしたから間違いない」
正宗は徐に口を開いた。朱里と桂花は事前に承知していたこともあり落ち着いていた。伊斗香も蔡瑁の夜襲は想定していたのか同様の様子だ。残りの者達は蔡瑁自身が夜襲を加えてきたことは既に承知しているが、各々複雑な表情をしていた。その中で黄承彦は表情から苛立ちを隠さず、慈黄は呆れた様子だった。荀爽に至っては表情を歪め胃が痛むのか右手を腹に当てていた。
「蔡徳珪は蔡一族を余程滅ぼしたいのでしょうな」
口を開いたのは呆れた表情の慈黄だった。
「自決し正宗様に己が首級と詫び状を送る方が未だ蔡一族を生かす道もありましょう。これでは劉景升様は州牧の留任の目はないでしょうな」
慈黄は淡々を正宗に述べた。彼は荀爽に対して牽制するためにわざわざ口にしたのだろう。
皇帝劉弁から勅を受けた正宗軍は官軍である。その官軍に夜襲をしかけ干戈を交えた以上、両者の全面衝突は避けられない。そして、荊州の統治者たる劉表の責任は免れることはできない。蔡瑁は劉表の側近中の側近であり、姻戚関係を通じて義姉妹の間柄でもある。近親者の重臣が官軍の朝敵であることも問題だが、その人物が正宗軍に夜襲を加えたことで劉表の管理責任が問われてくる。朝廷に背信行為を行なうような身内を側近に引き立てるなどあってはならないことからだ。
「劉景升殿はどうされているのだ?」
正宗は視線を荀爽に向けた。荀爽は正宗の視線に体を緊張させ表情を固まらせた。
「何か知っているか? 劉景升殿は私との面会を希望し、そなたに仲立ちを願いでたと聞いた。その後、何か接触はあったのか?」
荀爽はしばし沈黙を保つが意を決して正宗に言った。
「劉景升様は車騎将軍とご面会を希望されました。その後、車騎将軍の存念をしたためた文を部下に託し、劉景升様に届けさせました。未だ返事がございませんが」
荀爽も荊州牧とは呼ばず姓と字で呼んだ。彼女の目からも劉表は官職を全て剥奪されると見ているのだろう。それでも敬意を示すのは劉表が儒家としては一角の人物だかだろう。
「これはあくまで推測です。劉景升様は車騎将軍に接触するために洛陽に向かう前に南陽郡に寄ろうとしたのではないかと。しかし、車騎将軍が蔡一族を襲撃されたので貴方様とのご面会を断念をされたのでないかと思います」
「荀侍中は劉景升殿の消息を知らないのだな」
正宗は念を押すように荀爽に聞いた。
「部下を宜城に残しておりましたが先頃戻って参りました。既に洛陽へ向かったと聞いております。この情勢下で車騎将軍に接触しようなどと考える方ではないかと思います」
「劉景升殿は決断が出来ない御仁のようだな。蔡一族を切り捨てる判断をせねば御身も危うくなることをご承知でない」
正宗は冷徹な瞳で虚空に視線を逸らした。その瞳の先を見るは洛陽に向かう劉表か。
「荀侍中、宜城には主はいないということになるな」
正宗は突然に荀爽に聞いた。荀爽は頷いた。
「劉景升様がご不在ではありますれば、名代がいるのではないでしょうか?」
「名代は劉琦殿か?」
正宗は劉表の長女・劉琦の名を出した。
「劉琦殿はご病弱ゆえ劉琮殿ではないかと思います」
荀爽の返答に正宗は驚いた表情を浮かべた。
「襄陽城攻めを目前として放置はできんな」
「いかがなさるおつもりでしょうか?」
荀爽は正宗を窺うように訊ねた。
「劉琮殿は蔡徳珪の縁者。姪と叔母の関係。そのような者に城陽の隣である宜城を任せるなどできん。伊斗香、直ちに兵を率い宜城を接収せよ。劉琦殿とその縁者家臣は丁重に保護し連れて参れ。蔡一族の関わる者は後顧の憂いならないように全員処刑せよ」
正宗は伊斗香に命令した。
「お待ちください。劉琮殿は蔡一族の縁者とはいえ劉景升様の娘にございます。まずは拘束のみに留めて、しかる手続きを踏み刑罰をお下しください」
荀爽の訴えを聞き正宗は考えた。
「伊斗香、劉琮殿は拘束し劉琦殿と一緒に私の元に連行せよ。ただし、劉景升殿の夫は蔡一族のはず。この者は処刑せよ。荀侍中、これでいいな」
「劉景升殿の夫も拘束でお願いいたします」
「できんな。聞けば劉琮殿は姉の劉琦殿を蔑ろにし、件の夫と蔡徳珪は共謀し劉琦殿を貶める流言を流していると聞き及んでいる。それに劉琦殿の病は本当に病なのか? 蔡徳珪は余を殺すために二度も武器に毒を塗布し暗殺者に使用させた。蔡徳珪のやり口を見る限り、劉琦殿にも毒を使用し体を蝕ませている可能性もあり得る。そのような恐ろしき考えを持つ者は処刑が相当である」
「その証拠はどこにございます。ただの噂では証拠としてはあまりに不十分でございます。仮に事実であろうと十分な詮議をお願いいたします」
荀爽は正宗に自らの手で処断して欲しいと願い出た。彼女としてはみすみす正宗配下の兵に処刑させることは避けたいようだった。彼女を正宗の元へ送った王允への体面もあるのだろう。それと劉表の恨みを買いたくないと思っているのかもしれない。
「私が直々にか」
正宗は顎に手を当て考える仕草をすると酷薄な笑みを浮かべ荀爽を見た。彼にすれば荀爽の頼みを聞いてやる謂われなどない。
「いいだろう。ただし、交換条件がある」
「交換条件にございますか?」
「そうだ。お前の顔を立てる代わりに、余に少し便宜を図ってくれてもいいだろう?」
「どのような内容でしょうか?」
「我が妻・袁本初を揚州刺使に。荀文若を揚州の九江郡太守に任官出来るように奏上して欲しい」
「揚州? でございますか?」
荀爽は一瞬困惑した表情に変わった。刺使・太守とはいえ辺境である揚州の地方官の役職を希望していることが驚きのようだった。
「その程度であれば口利きを吝かではありません。姪にお心遣いいただき叔母として感謝いたします」
荀爽は正宗に丁寧に拱手して返事した。彼女としても姪に太守の官職を宛がうことには抵抗がなかったのだろう。
「荀侍中、約束は守らせてもらう。伊斗香、劉琮殿と劉景升殿の夫は拘束し連行せよ」
「逃げられた場合は如何いたしますか? 宜城と襄陽は近いです。襄陽城に逃げ込まれる恐れがあります」
伊斗香は正宗と荀爽を順に見て聞いた。正宗は視線を荀爽に向ける。
「その場合致し方ありません」
荀爽は伊斗香に言った。
「宜城の件を進める前に斥候からの報告を受けるとしよう」
正宗は控える近衛兵に声をかけ、斥候を呼び出した。しばらくするとそそくさと斥候の兵達が入ってきた。彼らは正宗の前で片膝をつき、拱手をすると話はじめた。
斥候の兵達の報告ではこの辺りには蔡一族どころか住民が居なくなっているとのことだった。彼らは人気が無いことに違和感を覚え、次の目標の村まで調査範囲を広げたらしいが結果は同じだった。正宗軍による蔡一族が治める村への襲撃が幾度となく行われた結果、蔡一族が危機感を抱き逃げ出したようだ。それと昨晩の蔡瑁軍の襲撃は正宗軍の襲撃のみが狙いではなかったということだ。
「朱里、今後はどうすべきだ」
「予定より計画を切り上げ襄陽城に転進すべきと思います」
朱里は即座に意見した。
「まだ本隊は来て居ないぞ。本隊は一月もすれば荊州に到着するはず、それを待ってからでも遅くないのでないか?」
「それでもです。昨晩の我が軍の勝利の知らせは荊州の民の口を伝い豪族達の耳にも届くことでしょう。蔡瑁軍は我が軍の反撃で壊滅状態でございました。直ぐに野戦をしかけるだけの余力はないと思います。ここで襄陽城を囲めば物資の補給は不可能になります。また、この機会に荊州の民と豪族達に我が軍が蔡瑁軍に勝利したことを喧伝するべきです」
朱里は正宗に意見した。
「それがよろしいと存じます」
伊斗香は口を開いた。
「正宗様が襄陽城に向け出立すれば、蔡瑁軍の敗退は事実と荊州の民は受け取るでしょう。それは豪族達も同じです。正宗様が襄陽城を面前に対陣される頃には蜜に集る蟻の如く豪族達が兵を連れて集まっておりましょう。豪族達の兵など物の役に立たないでしょうが、周囲の警備程度なら使えますでしょう。恩賞は彼らの現状の権益を安堵すればよいかと存じます」
伊斗香は続けて正宗に献策した。
「我らは襄陽城に向かう。伊斗香はお前の旗下である七千五百を率い宜城を接収し計画を遂行せよ」
正宗は頷き幕僚に命令を出すと伊斗香に指示を出した。その後、正宗軍は軍を編成し直し襄陽城に向けて転進をはじめた。
正宗に命を救われた魏延は正宗軍には同行していた。彼女は多くの血を失い身動きを取れない状況であったため、兵糧を運ぶ荷台を改造し彼女を傷病兵としてそれに乗せ運ばれた。
その後、正宗軍は襄陽城の正面から二十里(八キロメートル)の場所に着陣した。正宗軍の元には近隣の豪族達が小勢を供出に正宗に参陣の願いを申し出てきた。
一ヶ月が経過した頃、星を主将とする正宗軍五万が荊州入りした。その軍は荊州入り同時に南郡を南下し襄陽城に着陣し正宗と合流した。街道を移動する正宗軍五万の威容は荊州の民の目に止まり、民の口々から豪族達の耳にも入った。既に蔡瑁の夜襲を正宗軍が盛大に蹴散らしたことは荊州中に広まっていたこともあり、正宗軍五万の到着の報は蔡瑁軍の敗色は濃厚であると思うに十分だった。既に正宗軍に参陣する軍がちらほらと出てきていたが、この頃から豪族達は小勢ながら正宗軍に馳せ参じるようになった。彼らは戦後の後のことを見据えているのだろう。
星が正宗と合流を果たした頃、孫堅が娘の孫策と孫権を連れて参陣の挨拶をしに正宗のいる本陣を訪ねてきた。彼女達は目通りを求めると直ぐに陣所に通された。
孫堅達三人は陣所に入ると足を止めた。陣所内に豪族の当主やその名代達が簡易の椅子に腰掛けて所狭しの状態だったからだ。彼女達は気を取り直して中へ進むと陣所の最奥で豪奢な椅子に腰掛ける正宗の前へ進み出た。正宗の周囲には彼の主立った幕僚と荀爽がいた。
「車騎将軍、お久しぶりにございます」
孫堅が挨拶をすると後ろに控える孫策と孫権も拱手し挨拶した。孫策は少し遅れて挨拶した。孫堅は顔を後ろに向け孫策に半目で睨んだ。憮然とした表情の孫策は母・孫堅の無言の剣幕に苦笑いをした。
「孫文台、健勝そうで何よりだ」
「ありがとうございます」
孫堅は過日の正宗との出会いの時と違い武人らしい荒々しく精悍な雰囲気を放っていた。正宗も孫堅の様子の変化に一瞬戸惑っていた。
「車騎将軍、此度は長沙郡より一万二千の兵を連れて参りました」
孫堅は正宗に力強く返答した。彼女は武勇で太守にまでなった傑物ではある。それだけに戦場での今の姿が彼女の本当の姿なのかもしれない。正宗も孫堅の評価を変えたのか表情に笑みを浮かべていた。孫堅も正宗の友好的な態度に安堵しているようだった。
「孫文台、参陣の挨拶わざわざご苦労。太守とはいえ一万以上の兵を出すとは長沙郡の守りは大丈夫なのだろうな?」
「信用できる部下に任せておりますので問題ございません」
正宗は視線を後ろに向け、孫策と孫権を順に見た。
「甘興覇はいないのか?」
「甘興覇は陣所には参上する身分ではないと考え外で控えさせております。甘興覇にご用でございますでしょうか?」
孫堅は正宗に言った。
「この私の檄文を届けるために昼夜を問わず走ったと以前聞いたのでな。褒美を取らそうと思う。この場に呼んで来て欲しい」
正宗が孫堅に返答すると、周囲がざわめいた。豪族達は嫉妬の視線を孫堅に向けていた。孫堅自身に褒美を与えた訳ではないが、甘寧は孫堅配下である。家臣の功績は主人の功績といえるため豪族達は孫堅に出し抜かれたと思っているようだ。孫堅と彼女の娘達は表情を固くしていた。孫堅は思いつきで正宗に嘘をついた。だが、この場で真実を喋る雰囲気ではなかった。正宗は孫堅達三人を訝しむが周囲の豪族達に視線を移すと得心した様子になった。
「甘興覇の件は後で良いだろう。軍議を先に進めるとする。孫文台、甘興覇を後で私の元に呼べ」
「車騎将軍、畏まりました」
孫堅は一瞬沈黙するも正宗に対して拱手し頷いた。
「余は出自を問わん。余が問うは功の大小のみ。褒美を望むなら勲功を上げよ」
正宗は孫堅の返事を確認すると、豪族達に冷徹な視線を送り黙らせた。正宗の迫力に気圧され豪族達は沈黙し、その場に静寂が包まれるが豪族達の嫉妬の視線は孫堅達三人が席に着いても向けられていた。孫堅と孫策は豪族達の視線を気にしていなかったが、孫権は居心地が悪そうだった。
「孫長沙郡太守、此度の参陣ご苦労様です」
静寂を破ったのは朱里だった。孫堅は朱里に対して黙礼した。
「孫長沙郡太守、正宗様が貴殿の武勇を見込み頼みたき儀がございます」
朱里は朗々と豪族達にも聞こえる声で孫堅に言った。孫堅は彼女の言葉に表情を固めた。孫堅の斜め後ろ左に座していた孫策は不満気な表情を浮かべた。襄陽城攻めを目前にして正宗が孫堅に頼みたいことなど限られる。彼女は正宗に貸しがあるからだ。豪族達はひそひそと話はじめるが表情は喜色をはらんでいた。豪族達も正宗と孫堅の因縁を噂で聞き及んでいるのかもしれない。
「孫文台、そなたの武勇を見込んで頼みたいことがある」
正宗は自ら口を開き孫堅に声をかけた。孫堅は正宗に顔を向けた。
「如何様な頼みにございますか?」
孫堅もここで否とは言えないと自覚したのか口を開き内容を尋ねた。
「襄陽城攻めの先陣を任せたい」
孫堅は正宗の頼みを聞くと沈黙した。豪族達は正宗と彼女を見比べ様子を窺う。下手なことを言って先陣の役目を命じられては堪らないと正宗と視線を合わせないようしていた。正宗は豪族達を一瞥し彼らの様子を見て興味を失ったように孫堅に視線を戻した。
「孫文台、どうだ頼みを聞いてもらえるか?」
再度、正宗は孫堅に頼んだ。孫堅は悩ましい表情を浮かべ沈黙していた。正宗軍による蔡一族への粛清の結果、南郡に居を置く蔡一族は正宗軍を恐れ襄陽城に逃げ込んでいた。他郡に居を置く蔡一族も正宗軍の虐殺の話のみが一人歩きし、正宗への恭順後の処遇に恐怖し襄陽城に逃げ込んでいる有様であった。この状況下で正宗が襄陽城攻めを開始すれば、襄陽城側の抵抗は激しいことが予想でき、先陣を勤める部隊の損耗はいかほどのものとなるか想像できない。それが分かるだけに正宗へ媚を売る機会と理解しつつも豪族達は先陣の役目を避けていた。
豪族達は孫堅に先陣を任されることに何ら不満を抱いていない様子だ。これが同郷の他の豪族が先陣を任されれば反応はまた違ったかもしれない。元々、彼女と豪族達は友好的な関係とはいいがたい。彼らは彼女個人と彼女が育て上げた軍閥を背景とした軍事力に服しているだけで、腹の中では彼女のことを見下していた。当然彼女に助け船や支援をしようという者達はいなかった。
「孫文台は武勇に優ると聞いていたがただの噂であったか」
正宗は興味を失ったように孫堅から視線を逸らした。
「星、三日後に襄陽城を攻める。主将は星。副将は滎菜とする。準備を進めよ」
「畏まりました」
星と滎菜は揃って拱手し正宗に即答した。正宗は二人の返事を確認すると視線を孫堅に向けた。彼の瞳は失望の色が映っていた。
「孫文台、先ほどの話は忘れてくれ。襄陽城を余の配下の軍で攻め落とす」
正宗は淡々と言った。この様子に豪族達は安堵の表情を浮かべていた。だが孫堅だけは違った。正宗の言葉を孫堅への侮りと感じたのか苦渋の表情だった。
「車騎将軍、お待ちください。孫文台、喜んで襄陽城攻めの先陣を勤めさせていただきます」
孫堅は正宗に拱手して力強く言った。勝気な性格の彼女にとって他者に臆病者と思われることが我慢ならなかったのかもしれない。今の彼女には躊躇する気持ちなど霧散していた。正宗は孫堅の返事を聞くと心強そうに彼女を見た。
「孫文台、そなたの武勇をとくと見せて貰うぞ」
正宗は打って変わって満足そうな笑みを浮かべ孫堅に言った。孫策は正宗の笑みを見て憮然とした表情を一瞬見せるも直ぐに平静を装った。
「車騎将軍、ご期待に添うべく粉骨砕身頑張らせていただきます。孫文台必ずや一番槍を勤めさせていただきます」
孫堅は正宗に力強く豪語すると拱手した。孫権は周囲の雰囲気から母孫堅を心配そうに見つめていた。
「必要なものを申してみよ。出来るだけのことはさせて貰う」
正宗は孫堅に言った。
「ではお言葉に甘えさせていただきます。孫家軍は恥ずかしながら兵糧が心許なく援助賜りたく存じます」
孫堅は正宗に申し出た。
「その位なら造作ない。後で受け取りに使いの者を送って参れ」
「ありがとうございます。それともう一つお願いがございます」
孫堅は礼を正宗に述べるともう一つ願いがあると正宗に言った。
「もう一つの願いとは何だ?」
孫堅は恭しく正宗に対して拱手した。その所作を見て正宗は一瞬憮然とした。彼女が面倒な願いを言うと思ったのだろう。
「我が娘、孫仲謀は今回の戦が初陣でございます。先陣の大役は真に光栄でございますが、娘に先陣の勤めは荷が重いと考え、後学のために車騎将軍のお側にて戦を見聞させたいと思っております」
「孫長沙郡太守、不躾が過ぎますぞ」
泉は孫堅を睨み付けた。豪族達も孫堅の申し出に不快を覚えたのか彼女に見下した視線を送った。
「満朗中令、娘が南陽郡に滞在の折、車騎将軍に娘がお世話になったと聞いております。車騎将軍が娘を気に入られたのなら、側に置き使っていただければ果報と思ったまでです。客将の話もいただいたとか」
孫堅は泉の苛立った様子などお構いなしに話続けた。彼女らしい大胆不敵な行動といえる。彼女の話を聞いた豪族達は正宗に視線を向けた。正宗は平静の様子で孫堅を見ていた。
「孫仲謀に客将の話は出したのは確かだ」
豪族達は正宗の言葉に驚いた表情をしていた。正宗は目を細め右手を乗せた椅子の肘を指でゆっくりと叩きだした。
「いいだろう。孫仲謀、同道を許す」
正宗はしばし考えた後、椅子の肘を叩くのを止め、ゆっくりと口を開いた。
「孫文台、余を失望させるなよ」
正宗は一際鋭い目つきで孫堅を見た。正宗は失態は許さないと目で語っていた。周囲の豪族達も正宗の雰囲気の変化を感じ取り、先ほどまで不満を表情に出したいた者達も大人しくなった。
「必ずやご期待に添わせていただきます」
孫堅は正宗に拱手し力強く答えた。軍議はつつがなく終わり散会した。
「主、孫仲謀の件はよろしかったのですか?」
幕僚のみが残り荀爽が軍議の場を去った後、星が正宗に声をかけた。すると正宗はほくそ笑んだ。
「人質と思えばよい。孫文台は私を裏切ろうとなどとは思っていないだろうがな」
正宗は淡々と言った。
「あの遣り取りを見た豪族達の中には正宗様が孫家に目をかけていると錯覚を抱く可能性があります。戦後の荊州統治に支障がでるのでは?」
星は正宗の言葉が納得できないのか自らの考えを述べた。
「支障はない。孫堅が戦功を上げなければ長沙郡太守の官職は解官する。上げれば長沙郡太守の官職を解官し豫州刺使に任じるだけだ。孫堅は荊州から切り離す」
幕僚は正宗の計画に押し黙った。正宗にとって孫堅が荊州人士の評価が上がろうと上がるまいと関係ないのだろう。孫堅は荊州から遠ざける。これは正宗の規定路線のようだ。
孫堅は正宗の計画など知るよしもなく、軍議の場を去る時は機嫌良さそうにしていた。幕僚達は正宗の考えに納得したようで皆々彼に対して拱手し去っていた。
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