ソードアート・オンライン 穹色の風
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圏内事件 6
「ワーン、ダウーン」
小さなナイフを喉元に突き立てられ、闇色に染まった草の上に力なく倒れこんだシュミットが聞いたのは、まるで少年のような無邪気さを孕んだ声だった。声の主を確かめるべく、そしてこの敵対者から一刻も早く離れるべく必死に身体を起こそうとするが、四肢に全く力が入らない。その代わりに、視界の隅に映るHPゲージの縁が緑色に点滅して異常を警告している。
麻痺状態。それが、シュミットから身体の自由を奪っている原因だった。しかしそれを理解しても、彼に安堵はできない。むしろ、より恐怖が増したと言うべきだろう。何故なら、今自分を蝕んでいるのは、壁戦士として磨き上げてきた耐毒スキルを貫通するほどのハイレベル毒だということに他ならないのだから。
――そんな強力な毒を、一体、誰が……?
シュミットが混乱した頭で考えながら顔を上げると、黒ずくめの服装が目に入った。鋭い鋲が打たれたブーツに、ぴっちりと身体覆うパンツとレザーコート。左手には、これが自分を攻撃した凶器なのだろう、緑色に濡れた刀身のナイフ。更に視線を上げると、目の部分だけがくりぬかれた、頭陀袋のような黒いマスクが目を引いた。と同時に、真っ黒の服装だったが故に一際目立つ鮮やかなオレンジ色のカーソルが、思わず見開いた目の中に飛び込んできた。
「おま……えは……!」
上手く動かない唇で、シュミットは喘ぐように言葉を漏らした。
脳裏で、以前見た要注意プレイヤーリストに載っていた全身図が、眼前の男と重なった。《ジョニー・ブラック》――この浮遊城で最も恐ろしい殺人者ギルド、笑う棺桶で幹部を務める殺人鬼だ。
「あっ……!」
背後で短い悲鳴が聞こえ、シュミットが視線を向けると、やや小柄なプレイヤーが手に持ったエストックでヨルコとカインズを脅しているのが見えた。こちらも全身黒ずくめだが、頭を覆っているのは髑髏を模したマスクだ。
その頭上に浮かぶカーソルは、こちらもオレンジ。この男も、シュミットは知っていた。ジョニー・ブラックと同じ《笑う棺桶幹部の、通称《赤目のザザ》。
「デザインは、まあまあ、だな。オレの、コレクションに、加えて、やろう」
ザザは棒立ちのまま硬直して動けないヨルコから黒いエストックを奪い取ると、しゅうしゅうと独特な息遣いで声を漏らす。
アインクラッドで最も恐ろしく、そして最も狂ったギルドの幹部クラスが二人も目の前にいるという事実に、シュミットの身体は麻痺ではなく、恐怖で竦んだ。が、すぐにそれも解け、代わりに震えが止まらなくなった。シュミットは思い至ってしまったのだ。この二人がここにいるということは……あの男が、《笑う棺桶のギルドリーダーにしてアインクラッドに存在する全てのレッドプレイヤーの頂点に立つ男が、この場所にやってくるのでは……と。
――そんな、まさか。やめてくれ。嘘っぱちだ。タチの悪い冗談に決まってる!
シュミットの叫びはしかし、震えた唇を微かに上下させることしかできない。そしてすぐに、そのこ
とに心から絶望することになる。このとき、自らの聴覚を絶叫で埋め尽くせていれば。じゃり、じゃり、と近付いてくる、死刑宣告のような足音を聞かないでいられたならば。一体それは、どれだけ幸せなことだっただろう――?
「ひっくり返せ」
短く告げられた命令が、新たな人物の登場を声高に告げた。シュミットがその存在を飲み込むより早く、ジョニー・ブラックのつま先が腹の下にねじ込まれ、そのままごろりと転がされる。仰向けになったシュミットの視界に、一人の男が映った。
灯りのない夜よりなお黒い、膝下までを包むポンチョ。そこから伸びたフードが、顔を目深に隠している。右手に握られた、中華包丁のように四角い大型ダガーは、啜ってきた何人もの生き血でコーティングされているかのような赤黒い色味を帯びていた。
「Wow……確かに、こいつはでっかい獲物だ。DDAのリーダー様じゃないか」
「……《PoH》……」
くつくつと肩を揺らして笑うポンチョの男の名を、シュミットは絶望に染まった声で小さく告げた。その瞬間、シュミットは己の運命を悟った。自分は、今、ここで、彼らによって殺されるのだと。どこか夢見心地だった意識がすうっと現実に戻ってきて、同時に認識した現実的な恐怖が全身を這い回った。
何故……。
シュミットは自らに襲い掛かってきた絶望の深さに耐えかねて目を瞑りながら、何度も何度も疑問文だけを繰り返していた。誰にも行き先など伝えていなかったというのに、何故この三人はこの場所に来たのか。アインクラッドでも最大級の犯罪者が、理由もなくノコノコとこんな下層のフィールドを歩いているとは考えにくく、ヨルコとカインズが居場所を流したとも思えない。第一、彼らは今、自分と同じように命の危機に瀕しているのだから。
となれば……何か別の理由で偶然通りがかった三人が、ちょっとした思い付きで自分たちを襲ったというのだろうか? そんな、馬鹿げているとしか思えない不運が……否、ひょっとしたら、それがグリセルダの復讐とでも言うのか? ……しかし、だとしたら、何故ヨルコとカインズまで殺そうとする? 彼らはグリセルダを殺した真犯人を暴くため、ここまでしたというのに。なのに、何故――。
恐怖と絶望の中に諦めを滲ませ、脳裏をよぎった一人の女性にシュミットは問いかけた。その直後。
――ごうッ! という音が聞こえたかと思うと、プレートアーマーに覆われたシュミットの長身が宙に浮いた。一瞬遅れて、獣系モンスターの突進を喰らったような強烈な衝撃。
「ぐ、がぁッ!?」
麻痺状態のため受身が取れないシュミットは、全身をあちこちにぶつけながら丘を転がり落ちる。遂に奴等が手を下したのかと考えたが、そうではなかった。朦朧とした意識を必死で繋ぎとめながら頭をもたげると、PoHたち三人までもが同じように吹き飛ばされていたのだ。
では、誰が……?
シュミットの疑問に答えるように、空色の軌跡が目の前をよぎった。音もなく、幾度とないモンスターとの戦闘で磨かれたシュミットの動体視力ですら見切れないほどの速さで突如現れたそれは、シュミットの目の前でこちらに背を向けて停止する。
「……久しぶり、だな」
《穹色の風》マサキはこんな状況だと言うのに一欠けらの動揺すら感じさせない声で呟くと、視線だけでシュミットを一瞥し、月の光を受けて青白く煌めく刀を三人の殺人鬼に向けた。
「……久しぶり、だな」
背後で倒れているシュミットにチラリと目をやりつつ、起き上がった三人にマサキは蒼風の切っ先を向けた。今にもシュミットが殺されそうな状況だったため、《神渡し》で奴等をシュミットたちから引き剥がそうとしたのだが、成果は上々といったところか。巻き添えで吹き飛ばされたシュミットやヨルコたちには悪いが、救援に来たということで相殺してもらうしかない。もっとも、客観的に見れば、感謝されこそすれ非難される謂れはないが。
視線を三人の殺人鬼に戻す。その人相は相変わらずマスクやフードで隠れていたが、溢れんばかりの怒気と殺気が、隠れている彼らの表情はきっと愉快な笑顔ではないだろうと推測させた。
「ンの野郎……余裕かましてんじゃねーぞ! 状況解ってんのか!」
上ずった声をキンキンと響かせてジョニー・ブラックが怒鳴るのを、PoHの左手が制した。そのまま一歩前に出ると、右手の肉切り包丁の背で自分の肩を軽く叩く。フードの下に覗いた口元には、自分たちの余裕と優位を見せ付けるような笑みが張り付いていた。
「こいつの言うとおりだぜ、《穹色の風》。いくら貴様でも、俺たち三人を一人で相手できると思ってるのか? 言っとくが、俺たちは貴様がヤった奴等ほど弱かないぜ? ……ああ、それとも――」
ニィ、と。意地悪く笑っていた口角が、一層激しく狂気に歪んだ。
「――大事な大事な相棒が死んだ時を思い出したか?」
「黙れ」
マサキの声に、刃のような殺気がこもった。予想以上の殺気に、自分の怒りが決壊寸前だと気付いたマサキはほんの一瞬だけ目を瞑る。
自分はいつだって、自分の利益だけを合理的に選択してきた。これまでも、これからも。橋本雅貴とはそういう人間だ。だから、他人のことで怒るなんて、有り得ない。馬鹿馬鹿しい。そう胸で念じると、熱暴走を起こしかけていた右手がすうっと冷えていくのを感じた。
――そうだ。それでいい。
マサキは目を開け、面白そうに顎を突き出してこちらを見下ろしているPoHに向かって言い放つ。
「確かに、一人なら無理だろうな。が、生憎、俺はそこまで馬鹿じゃない。――三十人の攻略組がじきに来る。それまでの時間稼ぎ程度なら、俺一人で十分だ」
マサキが感情を封じ込めたポーカーフェイスで告げた直後、足元に微かな振動が走った。それは三人も同じだったようで、動揺を隠せない視線を辺りに彷徨わせる。
マサキがPoHたちに細心の注意を払いながら視線を左右に配ると、主街区から一直線に駆けて来る騎馬を見つけた。
アインクラッドにはアイテム扱いの騎乗動物は存在せず、NPCが経営している厩舎に行けば牛や馬などを借りられるが、かなり高額な上乗るためにはかなりの技術が必要とされるため、デスゲームとなったこのSAOで、わざわざ乗りこなそうという好き者は皆無と言っていい。それがこのタイミングでとなると、恐らく乗り手はキリトなのだろうが……。彼が乗馬を習得していたのか、それとも持ち前のセンスで何とかしたのかは知らないが、この土壇場に大枚はたいてまでそれを使って駆けつける無茶苦茶さとお人よし加減に、マサキはひっそりと呆れの溜息をついた。
そうしている間にも、騎手と同じく漆黒の毛並みを白い燐光で包んだ騎馬は猛スピードで丘を駆け上ってくる。そしてマサキの横手で急ブレーキを掛けると、後ろ足だけで立ち上がり、バランスを崩した騎手を振り落とした。
「こいつが来たってことは、もう他の奴等も出発済みってことだ。増援が来るまで、もう十分もない」
「……Suck」
内心の呆れを気取られぬよう、顔にポーカーフェイスを貼り直してマサキが言うと、PoHは短く罵ってこちらに背を向けた。右手の包丁をくるくると回して腰のホルスターに収めようとした寸前、思い出したようにマサキを指す。
「貴様を殺す奴はもう決まってる。絶望と血の海で無様に溺れさせてやるから、楽しみにしといてくれよ」
最後にもう一度ニヤリと笑って見せると、今度はしっかりと包丁をホルスターに収めた。ばさりと音を立ててポンチョを翻すと、今度こそ部下二人を連れて丘を下りて行く。
「っと、意外といいタイミングだったか?」
「振り落とされなければ完璧だったな」
三人のカーソルが《索敵》スキルの範囲外に消えたことを確認すると、マサキはキリトに見せ付けるように溜息を吐いた。蒼風を鞘に収め、まだ呆然とこちらを眺めていたシュミットに解毒ポーションの瓶を手渡す。長身の男は震える手でそれを飲み干すと、がしゃがしゃと音を立てて上体を起こした。
「……マサキ、キリト。助けてくれた礼は言うが……なんで判ったんだ。あの三人がここを襲ってくることが」
「判ったわけじゃない。かなり高い確率で、それが起き得ると予測しただけだ」
今までと全く変わらないトーンで答えると、マサキは左足を引き、キリトと話していたヨルコとカインズに身体を向けた。すぐ二人もマサキの視線に気付き、神妙な顔を見せる。
――さて。
マサキはもう一度頭の中で考えをまとめると、三人にいらぬ刺激を与えないよう、落ち着いた声と言葉を選びつつ口を開いた。
後書き
……はい。誠に申し訳ございません。前話のあとがきでうそぶいておきながら、圏内事件、完結できませんでした。も、もう一話! もう一話で終わるから!(震え声)
一応次は殆どできているので、今週中には投稿できると思います。多分。きっと。めいびー(オイ)
こんな作者ですが、今後ともよろしくお願いいたします。
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