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月下に咲く薔薇

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月下に咲く薔薇 12.

 
前書き
2013年8月10日に脱稿。2015年10月12日に修正版が完成。 

 
 第4会議室のデスクに2本のバラがいつ置かれたのか。その時刻を特定する事は、非常に困難な作業となった。
 外出するまでの間は中原が飾った1本きりだったと、キラ達が口を揃える。但し、件の会議室が無人だった時間は確かに存在している上、監視装置の類が一切取り付けられていなかった為、人の出入りや侵入時刻を明らかにする事はできないという。
 神出鬼没なアイムが絡んでいるところを見ても、バラの一件があの男の仕業である可能性は極めて高い。次元獣にアイムまで登場した今件についてはスメラギから基地にいる者達へと伝えられ、クロウ達がバトルキャンプに帰還した時には異様に張りつめた空気が随所に漂っていた。
 バラが残されていた会議室では黒の騎士団が見張りに立ち、仰々しい規制線の手前と奥に目を光らせている。ワッ太や勝平達15歳未満の子供達は一カ所に集められ、その集団には竜馬と隼人、武蔵が張りついていた。
 大塚長官も武装した兵士による巡回警備を徹底させるなど策を講じており、屋内外を問わず夜とは思えない盛んな人の動きが見受けられる。中でも、多くの役割を積極的に買って出たのは、黒の騎士団のメンバーだった。
 第4会議室の封鎖だけではない。基地の兵士達と共に巡回警備に参加し、深夜は他のパイロット達に休息を取らせるシフトまで組んでいるというから驚きだ。
「お前らはゆっくりしとけよ」これから徹夜だと話す玉城が、トレミーとマクロスクォーターから降りてきたパイロット達に労いの言葉をかける。母艦は屋外故、やりとりは夜の空気が冷たい月下のもとで行われた。「6本目のバラなんざ絶対に置かせねぇ。俺達黒の騎士団の目が黒いうちはな」
「頼むぞ。だが肩の力は抜いておけ」オズマが、熱くなりすぎている玉城に忠告する。「奴が仕掛けているのは心理戦だ。必ず見つけてやるとこちらが遮二無二になる程、ああいう手合いはその裏をかきたがる」
「ああ、わかってるって」
 感情が先行しがちな玉城にしては、珍しく素直な態度を返してきた。意気込みと同時に、怒りをなるべく静かに燃焼させようと努力している事が伝わってくる。今ある熱意の維持だけでなく、長期戦の覚悟をしておくべきと理解しているのだ。
 それに気づいたSMSの小隊長は、一つ頷くに留め再び建物に向かい歩き始めた。
 クロウ達は、ぞろぞろと彼の後ろに続く。
 玉城と千葉達四聖剣のメンバーは、クロウやオズマ達と入れ違いに母艦を目指して夜間警備に就く。
 トレミー、マクロスクォーター、そしてダイグレンといったZEXISの3母艦は、バトルキャンプの滑走路を塞ぎ基地の機能を下げてしまわぬよう、基地の端で慎ましく接岸場所を確保していた。
 更にトレミーは常時光学迷彩を施し、ソレスタルビーイングの母艦が日本に拠点を設けていると周囲に悟られぬよう最大限の配慮をするという念の入れようだ。
 今夜の月明かりは、弱々しい光ながらも妙に澄んでいる。しかし、たとえ月の青い光がクロウ達を照らそうとも、実際に影を描き出すのは屋外各所から人を見下ろす照明群だった。その為、1人の影が足下から放射状に長短合わせて6つも延びる。
 次第に小さくなる玉城達の確かな足取りも、濃淡の様々な6つの影を従えていた。
「皮肉なもんだな」
 声の主は、ロックオンだ。玉城達の背中を見送っていた彼が、黒の騎士団に対する複雑な心中を一言で表す。
 非常に要約した物言いだというのに、クロウだけでなくアスランや琉菜達までもが小さく頷いた。
「本当だね。大きな事件だけが、傷ついた黒の騎士団を生き返らせる事ができるなんて」
 敢えて言葉にするアレルヤに、「俺達だって同じだ」と刹那が呟く。「俺達も、カラミティ・バースで受けたあの痛みと闘っている。リモネシアの首都を砂地に変えた謎の力。そして、俺達の攻撃が全く通用しなかった銀色の大男と」
「ああ。だから俺達も、結果の積み重ねでインペリウムをひっくり返すしかないんだ」赤木がきっと顔を上げ、雲の少ない夜空を仰いだ。「俺達が辛いって事は、誰かが苦しんだって事だろ? 大きな事件が起きたら、もう誰にも辛い顔はさせないって思うのは有りじゃないか。元々俺達は、そういう資質をエルガン代表に買われた訳だし」
 気炎を吐く赤木だが、厳密に言うとその解釈は事実と異なる。しかし、『正義の味方』たろうとする者の思想として、赤木の主張は皆を納得させるだけのものを十分に含んでいた。
「だとしたら」前置きを用意して、琉菜が表情を曇らせる。「黒の騎士団のモチベーションは、上がるようにアイムがわざと誘導したのかしら。落とす事を前提に。…正直、あんまり考えたくはないんだけど」
「そいつが最悪のシナリオだな」
 背後でのやりとりに耳を傾けていたオズマは、琉菜の指摘を敢えて否定はしなかった。ひたすら一定のペースで歩き続け感情の揺らぎは身の内に秘めるオズマだが、アイムが企てているかもしれない最悪のシナリオに憤っているのは明らかだ。
 ずんずんと風を切って全員が屋内に入る。言葉少なに歩き続け、ふと立ち止まったかと思うと、目前には何台もの自販機が整然と並んでいる。
 1階の通路に用意された簡易休憩コーナーだ。プレートに印刷されている様々な飲み物の絵が、無駄に明るく通行人達の目を引きつける。
 食堂まで行くのではなかったのか。まるで、「これで済ませておけ」と言わんばかりの扱いに、まずクランが破顔する。
「了解したぞ! オズマ」
「いいんじゃないか」エイジも、遠目から飲み物を選びつつ賛同する。「俺達は24時間監視の任務がなくなって、丸々時間を持て余してる訳だし」
「ほんと、拍子抜けしたままじゃ終われないよ」
 シンがコーヒーを購入し、カフェインで気合いを入れるのかと思いきや、赤服の少年は意外にも缶の飲み物をアルトに投げ渡した。
「あ、ありがとう」
 きょとんと受け取るアルトを横目に、ルナマリアが「あら、私には?」と悪戯っぽく膨れて見せる。
「女の子達は、先に休憩。俺達は、このまま黒の騎士団と動くから」
 さも気をきかせた風なシンが、そこまで言い切った後で目線を泳がせオズマに事後承諾を求めた。
 そもそもアルトはSMS所属のパイロットで、側には上官たるオズマ少佐がいる。突然、分をわきまえぬ独りよがりをしたとの負い目に苛まれたのだろうが、シンに対するオズマの眼差しは、子供というより子犬を見つめるそれに近い。
「やりましょう、オズマ少佐」と、キラもシンを後押しした。「そもそも僕達は、黒の騎士団の背中を押したくて集まった有志ですから」
「いいんだな」
 低く短い問いかけの後、オズマは集まった30人以上のパイロット達を見回す。勿論、異を唱える者は1人もいなかった。そして、皆が指揮官の次の言葉を待っている。
「これまでのやり方を検証するまでもない。アイムは、人の弱い部分に力をかけて追い込む事に長けている。しかも奴は、ZEXISのパイロットについての詳細な情報を握っている。絡め手で攻め、相手が自滅するのを待つやり方だ。しかし! そんな戦い方は外道のする事だ! 俺達はZEXISの仲間として、敢えて黒の騎士団と同じものを被る」
「そうこなくっちゃ!」
 アポロ達が喚く中、刹那やティエリアはじっとオズマを見つめていた。
「おそらく、アイムの基地侵入を防ぐ方法はない。下手をすれば、奴のやりたい放題を許すだけだ。…働きづめになる分、皆には悪いが、これから俺達は黒の騎士団の自主活動を支援する。万が一アイムの侵入を許した時には、ZEXISの全員でその負債を背負うぞ」
「了解!」
 まとまった人数の声が、一つになった。
「私もそうしたいんだけど…。女の子が先に休憩っていうのは、もう決まった事なの?」
 いぶきがオズマに確認を求めると、「問題はないだろう」とちらりとシンを見る。
「良かったな」
 クロウがシンに声をかけると、それは嬉しそうに少年は目を細めた。
「うーん、私も休憩しなければならないのか」
 クランが名残惜しそうにミシェルを見上げると、当のミシェルはクランの肩を押し共に集団から抜けようとする。中原といぶきの背を押しながらオズマに目配せをする青山も同じだ。揃って、それが自分の役割だという自覚を静かに背負っている。
 なるほど。女性だからというだけではない。クランと中原はバラを贈られた疑いがある為、護衛付きで外されるのだ。
 ぼんやりと指示を待っていたクロウの肩を、不意にロックオンが叩く。
「わかってる筈だよな? お前もだ」
「…おい、勘弁してくれよ。俺だって」
 黒の騎士団の応援くらい。そう思っていても、上からのきついお達しが容赦なくクロウをシフトから外してしまう。
「さっき言われたばかりだろうが。子供や女の子が我慢してるんだぜ。ここでお前が従わなくてどうする」
 不貞腐れぎみのクロウに、オズマが「早く行け!」と怒鳴りつけた。しかも、「ロックオン。言って従わない奴の扱いは、心得てるか」と高圧的な脅しまでする。
「ああ」気落ちしたクロウなど眼中にないのか、ロックオンがオズマと思考を通わせた。「いざとなったら、殴り飛ばしてでもいい子にさせるさ」
「何かあったら、すぐに俺達を呼べ」
「了解だ」
 首を摘まむ親猫よろしく、ロックオンがクロウを集団の外に出す。
「力ずく、か」とぼやきながらも、クロウは後ろを見ずに歩き始めた。本気で拳を使う事も辞さない相手に抵抗する方法は、ただ一つ。自主的に行動する事だ。
「そういう事なんで、後は任せる」
 声だけをかけ、クロウはロックオンと共に昨夜から使っている自室に戻った。
 そこでクロウは自分の服に着替え、借り物の靴をロックオンに預けると、ボビーの私物一式を抱え持ち主の部屋を訪れる。
「悪い。汚しちまった」
 アイムと何があったのかには触れず、クロウはまず詫びボビーがどう出るのかを待った。
「いいのよ。汚れたって構わないって言ったでしょ」両腕に下げている服を受け取ると、まず汚れ具合を確認し、ボビーはそれらを椅子の背もたれにそっとかけた。ロックオンから受け取った靴も同様に見、「軽傷ってとこかしら。本当に無事で良かった」と優しい表情でクロウの肩にそっと触れる。
「かすり傷程度さ」
「聞いたわよ。こってり絞られた後なんでしょ? なら、私から言う事は何もないわ」
「…ホッとさせてくれるな。今の言葉で生き返ったぜ」
 ある意味、本物の女性よりも人の心を満たすものがある。もしこれで本人に男性嗜好さえなければ、ZEXISの半数以上を占める男性陣の接し方はもう少し柔軟なものになるのだろうに。
「クロウちゃんは、この後どうするの?」
「別に、これといって…」
 一瞬躊躇してから、クロウは正直に予定の一つもない事を吐露した。皆が対アイムで自主的に対策を講じているというのに、参加できない我が身がもどかしくてならない。
「だったら、ちょっとミシェルの様子を見てあげてくれるかしら」
「ミシェル? クランじゃなくて?」
 つい訊き返してしまったクロウに、「当たり前だろ」とロックオンがつっこみをかける。「こういう場合、花を贈られた当事者よりも、隣にいる男の方が気を揉むのが普通じゃないか」
「そりゃそうだ」合点するクロウに、「もう…」とボビーも言葉を減らす。
「張りつめてるわ。いつもの彼らしくないのが痛々しくて」
「そうだな。ばらばらでいるより、少しでもまとまっていた方がいいか」
 ロックオンの決断で、この後のクロウの行き先は決まった。さて、そのクラン達は今どこにいるのだろう。
 朝、クランが出てきた部屋のドアをクロウが視線で叩こうとすると、代わりにボビーがノックした。
「ミシェル。クロウとロックオンが来たわよ」
 無言のままドアが開く。
 そして、「急げ」と内から唱える少年の声がした。確かにボビーが案じる程に、訪問者の顔ぶれを確認する余裕さえなさそうだ。
 男のウィンクで送り出され、クロウとロックオンはクランの部屋に入った。普段ならば男が3人も女性の部屋に入るなどあり得ないが、クランとミシェルは朝からの情報共有以来直接クロウに尋ねたい事があるのだろう。2人は、先程のスメラギ達と酷似した表情を浮かべ仲間達を迎えた。
「クロウ。俺達も、あの後何があったのか、大体の話くらいは知っている。だが、敢えて訊きたい。本当にアイムがいたのか? それから、もう一つ。バラは、奴の仕業と断定されたのか?」
「…俺の判断でお前に教える。前者はイエス。後者はノーだ」
 歯切れの良い返答から始め、クロウはショッピング・モールで起きた事とスメラギ達の反応、そして基地に残された4・5本目のバラについてどのような流れで自分が知ったのかを伝えた。
「ただ、スメラギさん達には悪いが、俺は今でもアイムの仕業だと思ってる」アイム犯行説が一旦棚上げになった事に納得がいっていないのか、ロックオンの語気はいつになく荒い。「獣人が、ズール星人が、ZEXISに花を贈るとかあり得ないだろ? だが、アイムになら動機がある。事実、ミシェルとクランはその花のおかげで気まずくなりかけた。第4会議室に花が2本贈られて、バトルキャンプは警戒態勢に入ってる。そういう下地を整えてから俺達の足を掬うのが、アイムの常套手段じゃないか」
「それは言えるな。よもや、ミシェルに贈られたバラが敵の作戦だったとは。うっかり私は、その罠にはまってしまうところだったぞ」
 クランが立ったまま1人で納得の腕組みをすれば、一方でミシェルは一拍置いてから「アテナの方は?」と訊き返す。
 今の問いには、クロウが答える事にした。
「どうやら桂がつきっきりらしい」
「なるほど。今の様子だけで判断するなら、バラ騒動の影響で、守勢なりにもZEXISのモチベーションはかえって上がったって訳だ」
 SMSの制服姿で、ミシェルが何がしかを考える素振りを見せた。
 その小ささ故に女性1人用となった部屋の中、男3人は窮屈そうに立ったまま会話をしている。クランが敢えて男達全員に付き合うのは、ベッドサイドに座ってしまうと身長差が更に広がってしまう為なのだろう。
「怖いのはこの後だな。何をやって、アイムが現状を派手にひっくり返すつもりなのか」
 低く呟くロックオンに、クロウのみならずミシェルとクランも同感だと首肯する。
「では、こういうのはどうだ?」渋い顔をする男達に混じりながら、切り替えたクランが明るい前振りでクロウ達の視線を釣り上げる。「ティファの力を借りるのだ。ZEUTHが信じる通り、ティファの予知は大当たりではないか。緊急事態なのだ。まず、ここにいる4人だけで彼女の意見を聞きに行こう!」
「話としてはわからなくもないが、やめた方がいい。今彼女は、シンフォニーの痕跡を探しているってロジャーから聞いているんだが」そのネゴシエイターから聞いたままを説明し、クロウは更に付け加える。「第4会議室の事を予知した彼女なら、俺達が何も言わなくたってアイムの感知には注力してくれているさ」
「いや。スフィア・リアクターのアイムは、色々と未知数だ。対抗するには、こちらも全員参加で事に当たらなければ」小さなクランが、いきなりドアに向かって闊歩する。「どれ。一つ私が直接…」
 しかし、矢のような早さで、ミシェルの右手がクランの襟を後ろから掴んで止めた。
「お前の考えそうなアイディアだな、クラン。もうじっとしていられなくなって、ティファを訪ねるとか言いながら、アイムに待ち伏せを仕掛けるつもりなんだろう」
「くぅーっ!!」
 見透かされた事が余程悔しかったのか、クランが身を翻してミシェルの腕を掴むなり投げ技に出る。
「ちょ、クラ…!」
 ろくに言い返す事もできないうち、少年の足は大きく弧を描く。あのミシェルが何もできぬまま、次の瞬間には仰向けに倒されていた。
 流石はゼントラーディ。体勢の不利を、反射的な重心移動で強引にねじ伏せてしまったようだ。
「どうなりたいのだ? お前達は」
 更に、クランの上目遣いがクロウとロックオンを見比べにかかる。
「クラン」仰向けから上体を起こしつつ、ミシェルが幼馴染みの背中に呼びかけた。「今の時間は、女の子達全員が休憩に甘んじてるんだ。お前が1人だけいい思いをしたらずるいだろう?」
「ひ、1人ではないぞ」
 クランの視線が、クロウに刺さった。その瞬間、クロウは相手の意図を全て察知する。
 鬱積を抱えたクロウまでもを巻き込む事で、「1人でいい思いをする」という問題の箇所をちゃっかり克服しようとしているのだ。クランは。
「一応、お前の意見も聞いてやる」少々不機嫌な様子で、ロックオンがクロウに尋ねた。「行きたいのか? ティファのところに」
「まぁ、暇は暇だしな。それに、全員の力を結集するっていう考えには、俺も大賛成だ。ロックオン。お前だって、このままじゃアイムの仕業と証明できないって歯噛みしてるところはあるんだろ?」
 見張りと護衛に熱心な友人へ、クロウは逆に問いかけてみる。
「俺か? 俺は…」
 元々、内に蟠りを抱えたままでいる事はわかっている。隻眼のスナイパーは、視線を泳がせ突然無口になった。
「行こうではないか、ロックオン」それを押し時と読んだのか、クランが語気も強く力説する。「我々4人が暇を持て余しているうちは、まだまだZEXISの総力ではないぞ!」
「ま、俺達に乗るかどうかを決めるのはティファだろうけどな」一応の抵抗を示した後、前髪をかき上げたロックオンがミシェルに手を差し伸べ立つ手伝いをする。「仕方ない。やるか」
 3人で部屋を出、さてティファは今何処にいるものかと考える。
「ロアビィとかロジャーとか、ZEUTHのメンバーに訊かないとわからないのだな」
 昨夜の部屋割りの全てを頭に入れている者は、極僅かだ。しかも、そのような人物こそ、クランやクロウの室外活動には決していい顔をしないだろう。
「うーっ、ミシェル」クランが護衛の少年を見上げれば、「何だ、もう壁に衝突か」と少々惨い返事が返って来る。
「ティ…、ティファのいる所にはガロードがいる。ガロードを捜せば良いのだ」
「どうやって」
「むー…」
 掛け合い漫才のような2人の会話に、クロウは助け船を出す事にした。
「案外、シモンのところにいるかもな。最近ティファちゃんは、ブータとよく話をしているそうだ」
「ブータとは、あの小さな生き物か!」クランが、ぽんと手を叩いた。「シモンの居所ならば知っているぞ。ニアと一緒に食堂だ!」
 さっそく走り出そうとするも、ちらりとミシェルを顧み、ぐっと堪えてゆっくりと歩く。そんな彼女も、見る者にある種の動物を連想させた。
 女性に対し、少なからず失礼な発想かもしれないが。
 クランのツインテールが揺れている。右に、左に。
 ところが、そのお下げ髪の先が天井を指し、一回転した。
 クランが跳ねたのかと思ったが、揺れているのは何もクランの髪ばかりではない。
 ロックオン、ミシェル、そして天井が震えていた。
 不意に、足下の感触を失い、全身を襲う落下感に仰天する。
「おかしいのは俺か!?」
 手足を目一杯に伸ばそうとも、壁や床といった固いものに触れる事ができなかった。食事を抜きすぎて目を回した事もあるが、その際に起きる感覚の異常とは明らかに異なっている。
 生身で落下を体験するなど、決して楽しいものではなかった。どこまで落ちるのだろうと考え、それが底なるものの存在を前提にしていると気づく。
 クロウはふと、小銭が落下するイメージを自分の中で膨らませてみた。1G硬貨が引力に引かれ、それは長い直線を描いた後、底で音を立てるイメージだ。
 本物の硬貨ならば1Gを失うも同然だが、想像で1つ投げ落としたところで金を粗末にした事にはならない。藁にも縋る思いで、自作の感覚に五感を委ねようと決意した。
 耳が記憶している硬貨の音を、頭の中で作り上げる。耳に心地よく心を高揚させる小さな金属音を、1つ。
 クロウが両目を見開いた時、靴先が固い何かに当たり音を立てた。
 床か、それに近いものがある。靴のつま先と踵が平面をとらえ、クロウはようやく何がしかの上に立った。
 辺りは薄暗い。それでも、照明かそれに類するものはあるのだろう。光源を見定める事ができない中でも、両目が光を感知している。
 弱々しく透明感のある、黄色というより青に近い光。まるで今夜の月光でも僅かに差し込んでいるかのようだ。
 明るさを頼りに自分の手足を見てみれば、着替えた後のいつもの服と軍用ブーツを履いている。五感も鈍ってはおらず、今の自分が夢中ではないとの考えに大きく傾いた。
 ただ、驚いたのは足下だ。固い床か石と思しき感触を足の裏が捉えているというのに、実際には何もなかった。
 いや。何も見えない、と言うべきなのか。
 試しに歩いてみると、足の負荷など体を進めている実感は常に伴うが、靴音は全く立たなかった。
 ふと、口だけ浮かせていたあのライノダモンを思い出す。何故か雄叫び一つ上げる事のできなかった敵の次元獣を。
「なんか、まずい雰囲気だな」
 クロウは、無性にこの穴とも空間ともつかない場所から脱出したくなってきた。
 ライノダモンの事を考えた為とは思えないが、次第に周囲の見通しがきかなくなってゆく。
 何かが漂い始めていた。大きさは様々で、クロウの身の丈程の歪な塊もあれば、拳程度のものもある。ただ、揃って色は赤や濃茶、黄土色など、ライノダモンの体色と同じものばかりときている。
 偶然にしては出来すぎだ。それは時間の経過と共に数が増え、50や100ではきかなくなってきた。頭上も目前も浮遊物ばかりで、とうとうクロウの行く手を塞ぐ程に密度は上がってしまう。
「押したら動くのか」と手を伸ばし、クロウは血の気が引く思いのまま凍りついた。右手が、赤い角の一部を貫通したのだ。
 他の浮遊物に触れようとしても、結果は同じだ。クロウの手は何の感触も得る事ができぬまま、塊の向こうまで突き抜けてゆく。
「どういう現象なんだ…?」
 改めて、夢か現か、どちらとも判断がつけられなくなってきた。もしや通路で転倒し、頭でも打ったのか。
 そう考えると幾分気は楽になったが、生憎意識をバトルキャンプに戻す方法には繋がらなかった。もし体に異常が起きている場合、医師の適切な処置が功を奏するまで待つしかないし、それ以外に原因があるなら正にお手上げ状態だ。
 クロウは何故か、漂流物を無視しその中を突っ切って歩く心境にはなれなかった。体に当たる心配もないのだし歩くには全く問題ないが、どうにも気持ちのよいものではない。
 いつの間にか歩くのをやめ、ただ途方に暮れ立ち尽くしていた。
 すっかり囲まれている。感触のない影のようなものに。
 クロウの足下から何かが現れたのは、その時だった。
 白く細い紐状の物体が、二股に分かれるや、それは瞬時に枝分かれを繰り返し、大小様々な漂流物を縫いながら空中を進む。まるで針のない糸が、自分から破片を探しては次々と縫いにゆく。そんな不思議な光景だ。
 その糸はクロウとは異なり、破片を物体として捕らえる事ができるらしい。
 黙して眺めているうちに、縦横無尽な線を描く白い糸はクロウのいる場所を檻のように仕立てあげてしまった。
「どうせ、こいつにも触れやしないんだろ」と手を伸ばすと、やはり右手は糸の向こうまで突き抜けた。
 しかし、痛みは伴った。右の中指で、指先から指の付け根へと激しい刺痛が走る。
「くっ!」
 反射的に顔が歪んだ。
 大きな棘でも刺さったのかと指先を眺めるが、刺したものどころか刺された痕すら残っていなかった。白い糸は、見た通りの代物ではないのだろうか。
 試しに靴で押し出そうとして、やめる。貫通してしまうのなら、良い結果は期待できそうにない。
 クロウは、段々と心細くなってきた。医師の処置が進んでいるとの実感はなく、これが自身の心象風景だと思いたくもなかった。いい加減に出たいが策はなく、戦士として培ってきたものが一つとして今の自分を助けてはくれないのだ。
「どうすりゃいいんだ…」
 周囲を見回し嘆息をつくと、矢庭に足下が赤く輝く。その色は光沢を含んだ鮮やかさを持ち、瞬時にクロウの神経を緊張の領域へと導いた。
 見覚えのある赤だ。しかも、やたら嫌な記憶に結びつこうとする。
 但し、記憶自体を掘り起こす事はできなかった。真下から巨大な手が出現し、クロウを拳の中に捕らえると握り潰しにかかったのだ。
 息ができない。その掌の正体もわからぬ状態で、クロウの意識は白濁し粘りけのある沼に引きずり込まれた。
 暗く上下の感覚は乏しい。
 ただ。沼の中には音があった。
 音。それとも声、なのだろうか。
 誰かが、しきりとクロウの名を呼んでいる。
「わかった。今、そっちに行ってやるから」
 精一杯の力で、そんな事を喚いて返した気がする。
 あの赤は何の色だったろう。知っているとの認識はあっても、思い出す事まではできず。
「目を覚ませ!」と叫ぶ誰かの声の後に訪れた左頬の痛み。それが決定打となって、クロウは億劫そうに瞼を開く。
「クロウ!!」
 視界の大半を占めていたのは、逆光に薄黒く染まるロックオンの顔だった。


              - 13.に続く -

 
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