藤崎京之介怪異譚
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case.5 「夕陽に還る記憶」
Ⅷ 同日 PM3:38
「こりゃ…酷いな…。」
タクシーから降りて南校舎へと歩いて行くと、俺達の目にその光景が入ってきた。
そこにはパトカーや救急車も来ていて、未だ忙しそうに右往左往していたのだ。
南校舎と言えば、全面の硝子が砕け散り、それが外へも散乱している。よく見れば、壁にも幾つか亀裂が走り、一部には基礎付近にもそれがあった。
恐らく、床が陥没した場所だろう。ま、これくらいじゃ倒壊はしないだろうが、当分は使用不能だろうな…。
「先生…これはやはり、必然なんでしょうか?もしそうだとしたら…僕は…」
「田邊君。君の気持ちも分かるよ…。だが…先ずはこの状況をどうにかしないとな。そうしないと、もう栗山亜沙美の体ももたないだろうから…。」
俺がそう言うと、今までポカンとしていた美桜が俺に言った。
「お兄様?なぜ栗山亜沙美さんがどうにかなってしまいますの?ここにはいらっしゃらないのでは?」
俺はその問いに、直ぐ様こう答えたのだった。
「美桜。この力は、元来使えない代物だ。霊が生きている人間の精神をエネルギーとして、自分達の力をこの世界に具現化しているに過ぎない。だから霊が力を行使した際、必ず誰かが犠牲になっている。触れて命を奪うことは禁じられているが、精神をエネルギー源として使用することを禁じられてはいないからな…。」
「お兄様…それって、とても恐ろしいことだと思うのだけど…。」
「ああ…そうだな。人がこの世に在る限り、霊はその力を行使することが可能であり、それ故、人は霊に惑わされる…。」
「でも先生。僕達みたいのもいるんですから、霊が絶対的なものじゃないんですよね?」
横から田邊が入った。確かに、俺達は霊にとっては厄介者で、エネルギー源としては使えない。霊=幽霊や魂ではなく、太古の霊または堕ちた御使いだと知っているし、人が霊になることはないと確信して言えるからだ。
「そうだな。逆に言えば、僕達みたいのもを攻撃すれば、それは即ち神の存在の肯定になるからな。」
「お兄様。それじゃ、なんでお兄様はこんなことばかりに巻き込まれてしまうんですの?知っているのなら、無視し続ければ良いと思うんですけど。」
痛いとこを突いてくるな…。確かに、美桜の言う通りなんだが…反論出来ない。知っているからこそ放っておけないというか、何とかしてあげないとと考えてしまうんだよな…。
俺が余計なことを考えていると、誰かがこちらへと向かって走ってきた。
「先生!いらしてたんだったら声掛けて下さいよ!」
「いやぁ…皆バタバタしてるから、どうもを声掛けそびれてね…。君は大丈夫だったのか?」
「はい。僕は割れた硝子で少し腕を切った程度だったんですが、何人かは結構傷が深かったので病院へ搬送されました。」
俺達のところへと来たのは、楽団員でもある真中君だった。腕に幾つか絆創膏を貼ってある程度で、他は大丈夫そうだ。
「真中。さっき僕が電話したとき、何で出なかったんだ?」
「悪い…田邊から電話がきたとき、警官に事情聴取されてたんだ。」
「なんだ。彼女が心配で駆け付けてたとかじゃないのか…。」
田邊はさも残念そうに言うと、真中の顔が見る間に真っ赤になってしまった。こいつ…彼女いたのか…。講義にも練習にも欠かさず出席しているし、その上自主練までやっているから…てっきりいないかと思ってたんだがなぁ…。世の中はやはり不思議だ。
「田邊!それは言わない約束だろうが!」
「え?そうだったっけ?ま、同じ楽団員同士だし、いつかはバレるんじゃない?別にいいじゃん。もう結婚したって不思議じゃない歳だしさ。」
あぁ…真中が田邊に遊ばれてる…。隣で美桜も、可笑しそうに見物しているが、遊びに来たわけじゃない。さっさと仕事を始めないとな。
「真中君…。もう彼女の方は大丈夫なのかい?」
「は、はい!怪我もしていなかったので…。」
「そうか、それは良かった。でだ、連絡していた件だけど。」
「声を掛けておきました。一応、小規模な声楽作品まででしたら大丈夫だと思います。」
俺は真中の答えを聞いて、どうするかを考えた。まさかこの場で演奏会を始めるわけにもいかないからな。周囲には未だ警官や消防なんかもいて、何かとバタバタしていて喧しい。
「北棟を使おう。あそこにはオルガンもあるしな。」
「え…先生?かなり距離がありますよ?」
俺の提案に、田邊が難色を示した。
確かに、北棟はかなり距離が離れている。普通だったら音は届かないと思うが、ここでは違う。
「田邊君。君は知らないかも知れないが、この四つの校舎は響きも計算されて作られてるんだよ。」
「先生…それは僕にも分かりますよ。これでも建設会社の息子ですからね。でも、この距離でそれは…」
「全く問題ない。」
田邊は俺の答えに首を傾げた。だが、美桜が何かを思い出したように手を叩き、俺に言った。
「お兄様。この大学を建設したのって、確か天宮グループの先代社長よね?資金は全て出したけど、名前は伏せていたとか…。で、校舎全体で音響を良くするため、中心…あの中庭へ音が広がるように設計したんじゃなかった?どうやってそんなことしたか分からないけど…。」
「その通りだ。この四校舎、各校舎へ音が響き合うように設計されてるんだ。だが、このままじゃただのコンクリの箱だからね。そこへ細工がされているって訳だ。」
「どんな細工ですか?僕はそんな話、聞いたこともないのに…。」
田邊は不服そうな顔をして俺を見ている。その隣にいる真中は、何を言っているのか分からないといった風だ。
この天響音楽大学は、もとは四校舎からステレオ効果で音を作り出すために実験的に建造された。この大学の名前「天響(あめのひびき)」とは造語だが、中心から天へ音が昇るような…そんな効果を求めていたようだ。一体、どんな目的で建造されたかは謎で、きっと天宮氏にも分からないだろう…。この大学が完成した直後、先代は老衰で他界し、全実権を天宮氏は手に入れた。だがそんな彼も、先代が残した不明瞭な足跡を全て知り得るには未だ時が足りないのだ…。
「そんなわけだから、音響に問題はないさ。それでだ…真中君。君、テノールもやってたよね?」
「…まさか…僕が歌うんですか…?」
たまに主役を回したのに…露骨に嫌な顔をされた。まぁいい…これも経験の内だ。
「器楽奏者が声楽を担当するのは、別に不思議じゃない。リコーダー奏者のハンス=マルティン・リンデも、そのテノールで素晴らしい歌唱を披露していたことだし、真中君、出番だ。」
「先生…どんな理屈ですか?僕の声楽での専門は、ルネッサンス歌曲ですよ?まさか…バッハなんて言わないですよね?」
あぁ…なんか後退りしてるよ…。そんなに歌うのが嫌なのか?いや、一回彼の歌曲を聴いたことがあるが、彼の声は透き通るような伸びやかな響きがある。折角だし、これを使わない手はない。
俺達がこうしている間も、周囲はてんやわんやの大騒ぎだった。中心からはかなり離れているものの、それでもそのドタバタは耳に入ってくる。
そんな中、俺達の周りには三十人近く人が集まっていて、自らの役割を待っていた。ふとその中に、同僚の教授がいることに気付き、俺はその教授を呼んだ。
「岡田教授、ちょっといいですか?」
「藤崎…君に教授なんて呼ばれると…気味が悪い。で、何をしろと?」
こっちも露骨に嫌な顔をしてるな…。ま、いいか。
「詳しく説明してられないから手短にいくが、要は指揮を頼みたい。」
「はぁ?お前が指揮をするんじゃないのか?ってか、曲目は決めたのか?」
「ああ。これだけ人数が居れば結構な演奏が出来るが、今回はカンタータの82番にする。俺はその前後にオルガンを演奏するから、カンタータの通奏低音も同時にやるよ。」
「82番って…元来バス独唱のカンタータじゃないか。テノール稿なんて楽譜が用意出来ないだろ?」
岡田が溜め息混じりにぼやいた。
バッハのカンタータ第82番は、最初教会用としてバス独唱で作曲されたが、バッハこのカンタータを気に入っていたようで、何回も再演してはそのつど手を加えていたため、異稿が多い作品の一つになっている。バッハの二番目の妻、アンナ・マグダレーナに贈った音楽帳には、このカンタータの第2、3曲をソプラノ用に改作したものも記入されていて、彼がどれだけこの作品を気に入っていたかが窺える。マグダレーナも元は宮廷ソプラノ歌手だったから、マグダレーナもお気に入りだったのかも知れないな。
いやいや、今はそんなことを考えている場合じゃなかった…。
「田邊君。楽譜、用意出来た?」
「はい、先生。もう印刷も出来上がる頃です。パソコンからのプリントアウトって、結構時間掛かりますから…。」
この会話に、岡田の眉がピクついていたのは見なかったことにしよう。
「それじゃ…行くか。」
俺が一言そう言うと、皆は首を縦に振って移動を始めたのだった。
見上げるともう日は傾き、空を紅く染め上げていた。
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