真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第153話 蔡瑁反乱画策
蔡瑁の屋敷にある執務室。蔡瑁は豪奢な机を向かい同じく見事な細工が施された椅子に腰をかけていた。彼女は椅子に座し、頻繁に出いりする彼女の部下の報告や届けられる書類に目を通し指示を出していた。
蔡瑁の部下達の報告の多くは徴兵した農民兵の数、雇い入れた傭兵の数、購入した兵糧の量など不穏な単語が飛び交っていた。
慌しく仕事をする蔡瑁の元に張允が訪ねてきた。蔡瑁は人の気配に気づくと書類に目を通すのを止め張允へ視線を移すが、それが張允と分かると興味を失ったように書類に視線を戻した。
張允は蔡瑁に声をかけるのを何度も逡巡した後に意を決したように蔡瑁の前に進み出た。
「伯母上、劉伯母上が私に用があると宜城から迎えが来ています」
張允は蔡瑁に言い難そうに告げた。しかし、蔡瑁は彼女の話など聞こえないかのように書類に目を通しては筆を走らせていた。
「伯母上、宜城に戻ってもよろしいでしょうか?」
張允は蔡瑁にもう一度言った。
「駄目だ」
蔡瑁は書類に視線を落としたまま張允の話を却下した。
「伯母上、劉伯母上からの指示です。無視するのはいかがかと思います」
張允はなおも蔡瑁に食い下がった。蔡瑁は顔を上げ張允の顔を見ると笑みを浮かべて見つめた。彼女の表情は「全て知っているぞ」と語っていた。張允は蛇に睨まれた蛙のように体を固まらせた。
「駄目だと言っている。義姉上の元に行って余計なことを喋られては困るからな」
「劉伯母上は襄陽の様子など既にご存知のことと思います」
宜城と襄陽は目と鼻の先である。張允は自分の存在など関係なく劉表が襄陽の情勢など直ぐに分かると訴えた。
「お前が帰れば義姉上は裏付を得ることになるであろう?」
蔡瑁は視線を上げると感情を感じさせない表情で張允を見た。張允は蔡瑁の言葉に泣きそうな表情だった。
「伯母上、お考え直しくださいませんか?」
張允はうろたえながら蔡瑁を説得した。蔡瑁は冷徹な視線で張允を凝視した。彼女の瞳は張允の言葉に耳を貸すような雰囲気は一切感じられなかった。
「何を考え直すのだ?」
蔡瑁は両目を血走らせ張允を睨みつけた。
「劉車騎将軍と戦うことです。彼は荊州の豪族に檄文を送り兵を募り、冀州からも軍を呼び寄せると噂を聞いています。明らかに分が悪いと思います」
「私は劉正礼に黙って殺されるつもりは毛頭ない。この私に荊州水軍がある限り私が簡単に敗れることはない。長期戦に持ち込めば、劉正礼の威光も地に落ちる。そうなれば劉正礼は私と和睦を結ぶしかなくなる。生き残れば再び劉正礼を殺す機会を得ることができる」
蔡瑁の考えは一理あった。当時、朝廷に反乱を起こしても抵抗が激しく戦が長期にわたった場合、朝廷側が懐柔策をとることはままにあったからだ。
だが蔡瑁は知らないことがあった。蔡瑁討伐の勅が朝廷より出ていることである。また、正宗は長期戦は望むところであるからだ。正宗は蔡瑁討伐を大義名分にして荊州支配の足がかりにしようと考えているため、蔡瑁が抵抗すればするほど荊州中に軍を展開して合法的に豪族を押さえつけることが可能になるのだった。
張允は賭けにも近い蔡瑁の策に戦慄していた。
「秋佳、そんなに襄陽から離れたいか?」
張允の引きつった表情を見た蔡瑁は薄い笑みを浮かべた。張允は悪寒を感じたのか顔を青くした。
「帰ってもいいのですか?」
「襄陽から出してやる」
張允は蔡瑁の言葉に違和感を覚えているようだった。
「?」
「襄陽から出してやると言っているのだ。これを私の部下と一緒に劉正礼へ届けてこい」
蔡瑁は張允に布で巻かれた竹巻を投げ捨てた。張允はおずおずと竹巻に手を伸ばし拾い上げた。
「読んでもいいでしょうか?」
「好きにするがいい」
蔡瑁は興味を失ったように書類に視線を落とした。蔡瑁から許しを得た張允は布を解き竹巻を開き読み出した。張允は徐々に手を震わせていた。
「これを私に届けろと仰るのでしょうか?」
張允は口を震わせていた。
「そうだ」
蔡瑁は書類の竹巻に筆を走らせながら張允に告げた。
「こんなものを劉車騎将軍に届ければ、私は劉車騎将軍に八つ裂きにされます」
張允は体と口を震わせ蔡瑁に訴えた。蔡瑁は張允の訴えなど興味が無さそうだった。
「お前は襄陽から出て行きたいのであろう? だから役目を与えると言っている」
「私は劉伯母上の元に帰りたいだけです」
「役目を放棄するなら襄陽からは出せんな。大人しく部屋にでも篭っていろ。この戦が済めば帰してやる」
蔡瑁は筆を止め顔を上げると淡々と張允に言った。
「この文を劉車騎将軍に届ければいいのですね?」
「私の部下と一緒にな。無事に届けることができれば好きにして構わない」
張允は顔を青くし悩んでいた。蔡瑁は張允の心中などお構いなしに書類仕事を再開しはじめた。蔡瑁の口振りから張允が生きて帰る可能性は低いことが窺えた。張允が正宗に対して妙な真似をすれば、一緒に出向く蔡瑁の部下は張允を殺す算段なのかもしれない。
「伯母上、少し考えさせてもらってもいいでしょうか?」
「構わん。好きなだけ考えるのだな」
蔡瑁の口振りから張允が襄陽を出ることを諦めることを期待しているようにも感じられた。
執務室を後にする肩を落とした張允の後姿を蔡瑁は一瞬顔を上げて確認すると、また書類仕事に戻った。
「劉荊州牧から張允様を迎えにきたと兵達が参っていますがいかがしますか?」
蔡瑁の部下と思しき男が蔡瑁に判断を仰ぎにきた。
「秋佳は病に臥せっていて連れて行ける状態でないと伝えておけ」
「張允様に直接会わせてくれと申しております」
「病がうつると言って追い返せ」
蔡瑁は部下に淡々と指示した。部下は蔡瑁に頭を下げ去っていた。
「義姉上は私を見捨てるつもりのようだな。所詮、中央の人間ということか」
蔡瑁は眉間にしわを寄せ愚痴るとまた仕事に戻った。
「蔡徳珪様、大変です!」
部下が慌てふためいて蔡瑁の執務室に入ってきた。
「蒯異度様が兵を引き連れ宜城を立ちました」
「なんだと!?」
蔡瑁は顔を上げると驚いた表情で部下に言った。
「どういうことだ?」
「蒯異度様の配下の兵を全て引き連れて行ったもののと思われます」
「宜城に駐留する伊斗香の配下となると。七千程か? 伊斗香はどういうつもりだ」
部下は蔡瑁に頷いた。それを確認した蔡瑁は思案気な表情を浮かべた。
「伊斗香はこちらに向かっているのか?」
蔡瑁は緊張した様子で部下に尋ねた。
「いいえ、襄陽には向かっていません。進軍している方角から考えて、おそらくは南陽郡へ向かっているのでないかと思われます」
蔡瑁は激昂して机の上を乱暴に殴った。机の上の竹巻が散らばり机の下に散乱した。部下は慌てて散乱した竹巻を拾いはじめた。
「今直ぐ集められるだけの兵を用意しろ。伊斗香の背後を突く」
「蒯異度様を攻められるのですか?」
部下は蔡瑁の命令が理解できない様子だった。蒯越は蔡瑁の同僚である。蔡瑁の計画遂行上、蒯越の協力は不可欠である。それにも関わらず蒯越を襲撃するなど理解できるはずがない。
「誰を攻めるというのだ! 伊斗香め! 私を裏切り劉正礼に乗り換える腹積もりに違いない。生かして劉正礼の元に向かわせるものか!」
蔡瑁は眉間に皺を寄せ部下を睨みつけた。
「蒯異度様に確認を取ってからでも遅くないのではありませんか?」
「黙れ! お前はあの女の狡猾さを理解していないのだ。あの女は義姉上を見限ったようだな。劉正礼が荊州に軍を乱入させ混乱を引き起こせば義姉上の立場も危うくなるのは目に見えている」
「まさか、そのような」
部下は蔡瑁の話に半信半疑の様子だった。
「伊斗香は義姉上が荊州牧だったから従っていただけに過ぎない! あの女はそういう女だ。わかったらさっさと兵をかき集めてこい」
蔡瑁は部下の襟元を乱暴に掴みあげ、部下の顔を睨みつけ怒鳴ると掴んだ手を離した。部下はいきなり解放されたため無様に地面に尻餅をついた。
「何をしている! さっさと準備をしろ!」
蔡瑁の表情はかなり緊張していた。部下も蔡瑁の緊迫した雰囲気を感じ取り慌てて執務室を出て行った。
「伊斗香、この私を餌にして劉正礼から官位を得ようというつもりであろうがお前の思い通りにはさせんぞ」
蔡瑁は戦支度をするために執務室を出て行った。
四刻(一時間)後、蔡瑁は兵一万を率い襄陽を立った。蔡瑁は蒯越を追うために兵を急かせたが蒯越の率いる軍の姿を確認できなかった。
蔡瑁は苛立っていた。彼女の周囲にいる兵達は彼女の焦りを感じ、彼女同様に焦っている様子だった。
「くそ! 伊斗香は何処にいる。あの女のことだ。私が追ってくると考え警戒しているやもしれんな」
「蔡徳珪様、蒯異度様の行軍方向がわかりました」
「でかした! さっさと案内しろ」
蔡瑁の斥候からの兵の報告を受けると笑みを浮かべた。
斥候の案内で蔡瑁軍は移動を開始した。八刻(二時間)後、人の足と馬蹄と車輪の跡を確認した。その後、蔡瑁軍は蒯越軍の行軍の痕跡を追って行軍を開始した。
蒯越軍を追跡して四刻(一時間)後、蒯越軍は二手に分かれて行軍している形跡があった。進行方向は北と西に分かれていた。北は南陽郡である。西から南陽郡に向かうには山越えをし湿地隊を超えて移動するためかなり遠回りする必要がある。
「伊斗香のやつはどちらに進んだのだ。あの女が馬鹿正直に南陽郡に向かうであろうか? 山越えなどありえん。やはり北の道か。このまま考えあぐねても伊斗香の軍と距離が開いてしまう」
蔡瑁は馬上で考えこんでいた。
「蔡徳珪様、北の道は馬蹄のみ。騎兵のみで向かったものかと!」
蔡瑁の元に騎乗した武官が声をかけてきた。
「騎兵のみか」
蔡瑁は独白すると口元に人刺し指を斜めにあて考えこみはじめた。
「歩兵は捨てたか? となると三百騎程度か。その程度の兵で劉正礼に媚びを売ろうとは伊斗香も焼きが回ったものだな」
蔡瑁は北の道を凝視していた。
「もしくは兵が損耗することを恐れたか?」
蔡瑁は次に西の道を凝視していた。
「口惜しいが伊斗香の軍をこのまま追跡するのはまずいな。劉正礼に気取られ南陽郡から兵が出てくるかもしれん。それに急襲をするつもりであったから兵糧も持ってきていない」
蔡瑁は苦虫を噛み南陽郡の方角を睨んだ。
「襄陽に戻るぞ」
蔡瑁は不機嫌そうに兵達に声をかけ襄陽に向けて転進した。
蔡瑁が去って十六刻(四時間)後。空は既に赤く染まっていた。西の道から歩兵を中心とした六千五百の兵達が姿を現した。兵達の中心には騎乗する蒯越がいた。
蒯越は周囲を見回した後、斥候を放ちその場に駐留した。四刻(一時間)後、斥候が戻ってきて蒯越に報告をはじめた。
蒯越は斥候達全てから報告を受けると北の道を凝視して兵達に行軍を指示を出し四刻(一時間)程行軍した後に野営を行なった。空は既に日が落ち辺りは薄暗くなっていた。
蒯越が野営を行う八刻(二時間)前に遡る。蔡瑁は蒯越軍への追撃を諦め襄陽への帰路についていた。空は赤く染まっていた。蔡瑁はその光景に目をやることもなく不機嫌な表情をしていた。彼女の周囲にいる側近の兵士も、彼女の放つ空気を感じ取り余計なことを言わないように沈黙を保っていた。
蔡瑁達が襄陽に到着し城門を潜るといつもの光景が広がっていた。
露天を営む商店主達は片付けを行い、仕事を終えた住民達はそれぞれの家路に向かっていた。日暮れということもあり人通りは少ない。
「兵達を解散しておけ。それと夜の見張りの兵の数を増やすように」
蔡瑁は軍を解散する命令を出すとともに、夜の見張りの増員に関する指示を出していた。彼女の指示を受けた側近は兵達に命令を出しに行く。その様子を彼女は確認すると側近三名と護衛の兵三十人を引き連れ、城の大通りの真ん中を堂々と進んでいた。彼女を確認した住民は深々とお辞儀をして彼女が過ぎ去るのを待っていた。彼女と住民の関係がよく分かる光景だった。
大通りを抜けた蔡瑁は寄り道をすることなく彼女の屋敷がある方角に進んでいった。
「徳珪様、大変でございます!」
蔡瑁が自分の屋敷に戻ると、血相を変えた家宰が彼女を出迎えた。家宰は蔡瑁の元までくると息を乱し喋れずにいた。
「どうしたのだ? 落ち着け」
蔡瑁は家宰の様子に気になりながらも家宰に息を整えるように促した。彼女に言われ家宰は息を整えはじめた。程無く落ち着いた家宰は騎乗する蔡瑁の足元まで駆け寄った。
「張允様の姿が見えないのです!」
家宰は動揺した様子で蔡瑁に訴えた。
「何だと!?」
蔡瑁は目を剥き出しにして驚くと、下馬し鎧を身に着けたまま屋敷の中に慌ただしく足音を鳴らしながら入っていた。彼女は張允の部屋に真っ直ぐに向かうと扉を乱暴に開け中に入った。
蔡瑁は部屋の中を何度も見渡した後、彼女は棚の中や寝台の下を組まなく見て部屋を散らかした。彼女は散々部屋を散らかし終えた後、肩をわなかせて立ち上がり鬼を髣髴させる表情を浮かべた。
「あの小娘っ!」
蔡瑁は吐き捨てるように独白したが、声音が高く側にいる者達全て聞こえるほどだった。
蔡瑁は苛立ちを隠さない表情で戸口に立って控えている家宰を見た。
「いつから姿を見なくなったのだ?」
蔡瑁は家宰に掴みかかり問いただした。家宰を今にも殺すような勢いだった。
「徳珪様、申し訳ございません。徳珪様が出陣される前では部屋におられたのですが。気づいた時にはもうお姿がありませんでした」
家宰は本当に申し訳無い様子で必死に蔡瑁に訴えていた。
「義姉上が寄越した者達はどうした?」
蔡瑁は家宰の様子を見て、これ以上問いただしても時間の無駄と思ったのだろう。蔡瑁は何かを思い出したように家宰に質問を変えた。
「徳珪様のお言いつけ通りに帰っていただこうといたしました。ですが、これから帰ると日が暮れるから宿を紹介してくれと頼まれ、仕方ないので目ぼしい宿を紹介しました」
蔡瑁の表情が変わった。
「あの者達はまだ帰っていないのか?」
「はい、案内した宿にいると思います」
「その宿に直ぐに人を遣れ! 秋佳がいたら私に直ぐに連絡しろ」
蔡瑁は凄い剣幕で家宰に命令した。
「かしこまりました」
家宰はいそいそと張允の部屋を出て行った。
蔡瑁は家宰が出て行くのを見送ったが、気が変わったのか張允の部屋を足早に出て行った。屋敷の入口付近に蔡瑁が来ると、屋敷の家宰が若い何人かの下女二人に指示を出していた。彼らを劉表の使い兵達が宿泊している宿に向かわせるつもりなのだろう。
「私も行くぞ。早く案内しろ」
蔡瑁は家宰に声をかけた。
「徳珪様もご一緒に行かれるのですか?」
家宰は蔡瑁の言葉に驚いている様子だった。
「早く案内しろ!」
「かしこまりました。お前たち徳珪様を例の宿にご案内差し上げるのだ」
蔡瑁が苛立ちを隠さずに家宰に命令すると家宰は下女二人に命令した。下女二人は蔡瑁を案内すると聞き緊張している様子だった。
蔡瑁が宿屋に到着すると劉表配下の兵達は宿を既に後にしていた。それを店主から聞いた彼女は怒り狂い、店主に掴みかかり首を絞めると乱暴に殴りつけた。彼女と一緒に来ていた下女二人は店主を気遣い介抱していた。
「伊斗香の奴に気を取られ、秋佳を逃がしてしまうとは。何たる醜態だ」
蔡瑁は苦虫を噛み潰し愚痴った。下女二人は彼女の勘気に触れるのを恐れ余計なことは口にせず、彼女の言葉を待っている様子だった。宿屋の店主に至っては、彼女の怒りに恐怖の表情を浮かべていた。
「蔡徳珪様、私が至らぬばかりに劉荊州牧の使者様が宿を立ったことをお知らせせずに申し訳ございませんでした」
店主は必死に蔡瑁に頭を下げ謝罪した。
「義姉上の兵達は何時立ったのだ?」
「八刻(二時間)程前にございます」
店主はほっとした様子で蔡瑁に答えた。
「間に合わんか」
蔡瑁は険しい表情で思案していた。
「いや。秋佳を連れていてはそう馬の足とはいえそう遠くまで行くことはできまい」
蔡瑁は口角を上げくすりと笑った。
「店主、この宿に泊まる予定だった者達の人数は分かるか?」
「五人でございました」
しばし、蔡瑁は思案気な様子だったが考えがまとまったのか顔を上げると狡猾な笑みを浮かべた。
「秋佳、逃がさんぞ」
その後の蔡瑁の行動は早かった。彼女が保有する涼州産の駿馬十六頭を自分と部下に割り当て、襄陽を速やかに立った。彼女達が向かう先は宜城の方角だった。
蔡瑁達は日が完全に沈んだ後も進みを止めず、月明かりだけを頼りに張允と劉表の兵達を追っていた。これは彼女達に土地勘があるからできたことだろう。
その後も蔡瑁達は一度も休みを取ることなく張允達を追い続けたが急に馬の速度を落とした。彼女に付き従う兵達も彼女に倣い馬の速度を落とす。
「皆の者、このまま馬を走らせれば今夜中に秋佳に追いつける。義姉上の兵達は秋佳がいるため無理をせず、この先で夜営をしているはずだ。我らは兵達を皆殺しにし秋佳を誘拐する。いいな」
馬上から蔡瑁は兵達に自分の考えを伝えた。その内容に兵達は驚いている様子はなかった。この場に付き従う兵達は彼女の子飼いの兵士達だからである。彼らは彼女に馬上より拱手して返事した。それを確認すると彼女は馬の走る速度を上げ、張允達を追うべく先を急いだ。
蔡瑁が兵士達に腹の中を告げてから四刻(一時間)が経過した頃、蔡瑁達は百里先に炎の明かりを確認した。蔡瑁はその明かりを確認すると更に馬の速度を上げた。
蔡瑁は明かりの元となる場所の近くまで到着すると馬の速度を落とし、後ろから追いかけてくる兵達に目配せをした。それに従い四名のみが彼女に従い、残りの兵達は進路を変えて去っていった。
「このまま襲撃するぞ、残りの兵達は手筈通り上手くやるだろう」
蔡瑁は兵達に口角を上げ笑みを浮かべた。そして、彼女はしばし炎の明かりを凝視した後、馬を走らせた。その後を追うように兵達が付いていく。
蔡瑁が明かりのある場所に到着すると、劉表の兵達が夜営していた。見張り番の兵は蔡瑁達を確認すると、慌てて仮眠する兵を起こそうとするが蔡瑁に斬り殺された。斬り殺された見張り番の叫び声に劉表の兵達は何事かと目を覚まし各々の武器を手に取った。蔡瑁は視線を見渡し、張允の姿を確認すると悪鬼の如き底冷えする笑みを浮かべた。張允は寝ぼけ眼で体を起こし蔡瑁を見つめていたが、その人物が蔡瑁と分かると表情を青くして、慌てて劉表の兵達の後ろに隠れた。
「蔡徳珪様、どういうおつもりですか!?」
劉表の兵達の隊長格らしき壮年の男が蔡瑁に対して抗議した。隊長は蔡瑁のことを警戒しながら周囲の様子を伺っていた。
「お前らこそ私の許しなく勝手に秋佳を連れて行くとはどういう了見だ?」
蔡瑁は不気味な笑みを浮かべながら隊長を凝視した。隊長は蔡瑁の放つ雰囲気に緊張していた。その緊張は他の劉表の兵達にも伝染した。
「劉荊州牧の御下命です。蔡徳珪様のお許しを得る必要はないかと存じます」
隊長は蔡瑁に一瞬怯むも懐から絹布に書かれた命令書を蔡瑁に見えるように見せた。そこには確かに荊州牧の印璽が押されていた。この絹布が劉表の発給した正式な命令書であることを証明していた。
突然、蔡瑁は低い声で笑い声を上げた。
「義姉上の命令であろうと私に話を通すのが筋だろう」
蔡瑁は怒気を孕んだ声で隊長に言った。
「張允様が病に伏していると嘘を私達に告げた蔡徳珪様に筋を通す必要はありますまい。それに私達を襲撃していい理由にならないではありませんか? このこと劉荊州牧にご報告させていただきます」
「秋佳をここに置いて宜城に帰れ」
蔡瑁は冷めた目で隊長に言った。張允は蔡瑁の言葉に怯え、劉表の兵の一人の腰に捕まっていた。
「張允様の姿を確認した以上、このままおめおめと宜城に帰るわけにはいきません。張允様はお渡しできません」
蔡瑁は鼻を鳴らし笑うと右手を振り下ろす仕草をした。蔡瑁の後の兵達は剣を抜刀して劉表の兵達に遅いかかる。
「この場は私達に任せて張允様を連れて逃げろ!」
隊長は蔡瑁の兵達と交戦しながら、張允の側にいる兵に大声で命令した。兵は頷くと張允を連れ馬に向かっていくが、進行方向から騎乗した蔡瑁の兵達が五騎姿を現しその兵を槍で刺殺した。張允は咄嗟の出来事に腰を抜かし体勢を崩すと尻餅をついた。
「無様だな」
蔡瑁は張允の元にゆっくりと近づいてくると張允に見下すような視線を向けた。
「叔母上」
張允は腰を地面につけたまま、蔡瑁の顔を見ると視線を周囲に向けた。そこには蔡瑁の伏兵により既に絶命した劉表の兵達の躯が転がっていた。張允は自分を守る者達がいないことを悟り、体を震わせながら蔡瑁に視線を戻した。
「叔母上、私を宜城にお返しください」
「駄目だと言ったはずだ」
蔡瑁は感情の篭もらない瞳で張允を凝視した。
「何故です? 私が襄陽にいようと役には立たないではありませんか?」
「お前を生かして義姉上の元に返すのも厄介でな」
蔡瑁はそう言い張允の前で剣を地面に突き立てた。
「お前には失望したぞ。この場で自決するか、劉正礼に例の文を届けるかどちらか好きな方を選べ」
蔡瑁は感情の篭もらない声で淡々と言った。張允は涙目で蔡瑁を見ていた。
「叔母上、何故私が自決しなければならないのですか?」
「お前は大した情報は知らないが、この襄陽に長く居すぎた。それだけで私がお前を殺す理由は十分だ」
「いやです。自決も劉車騎将軍の元に行くのもどちらも選びたくありません!」
張允は涙を流しながら蔡瑁にすがりつき訴えた。蔡瑁は彼女の兵達に目配せした。すると張允を両肩を抑えるようにして二人の兵が押さえつけた。張允は殺されると思ったのか暴れた。だが、二人の兵に押さえつけられ身動き出来ずにいた。
「叔母上、お許し下さい! お許しを! 何でもします!」
張允は半狂乱になりながら蔡瑁に訴えた。蔡瑁は張允の言葉など無視して彼女の髪を頭頂部から鷲掴みにし乱暴に顔を持ち上げた。張允は苦しそうだったが蔡瑁に許しを乞おうと必死に目で訴えていた。
「お前の言葉など信用できん。お前に選ぶ道など無いことを理解させてやる」
蔡瑁は冷徹な視線を張允に向けると張允の整った鼻に剣の刃を当てた。張允は顔を引き攣らせ瞳から涙を止めどなく流す。張允の様子など意を介すことなく、蔡瑁は張允の鼻を削ぎ落した。張允は悲鳴を上げるが顔を蔡瑁に持ち上げられ、くぐもった声しか出せないでいた。
「化膿しない様に治療してやれ。秋佳、義姉上にはお前の代わりにお前の鼻を贈り届けてやる。明日にでも劉正礼の元に使者として行ってもらうぞ。この私を裏切ろうと思うな。その顔では心配あるまいがな。劉正礼が万が一にでもお前のような女に情けをかけるわけがあるまい」
蔡瑁は兵に指示を出すと張允に吐き捨てるように言い、自分の馬に跨がり襄陽に向けて去って行った。
この蔡瑁の判断は正宗の行動により裏切られることになるが、それはもう少し先の話である。
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