白梅
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3部分:第三章
第三章
「どういうことでしょうか」
「わからぬか。これは智伯のものだ」
「智伯のですか」
「そうだ。あの者のしゃれこうべで飲んでいるのだ」
また誇らしげに告げてみせてきた。
「この男に勝った祝いでな。これでわかったか」
「ああ、そういうことでしたか」
ここまで言われてわかった。それならば納得がいくのだった。
「それでしたら」
「わかったな」
「はい」
主の言葉にこくりと頷く。
「よく。しかし智伯も哀れなことですな」
「哀れか」
「はい。敗れただけに留まらず」
彼は笑いながら主に告げた。その手にある美酒を楽しみながら。
「こうして今は宴の場で杯にされる始末。それもこれも我が君に逆らった故のこと」
「悔しさを感じるぞ」
嗜虐を感じさせる笑みと共の言葉だった。
「悔しさをですか」
「そうだ。無念を」
今度は無念と言い換えた。その風格と気品を漂わせた顔にそれが浮かぶのだった。複雑な色を見せている顔になっていた。
「はっきりと感じておる」
「それはよいことですな」
「いや、全く」
家臣達も客達もそのことを喜んでみせる。これは世辞が多分に入っている。
「あ奴には苦しめられましたからな」
「しかしそれももうない」
対立と抗争がなくなったことも喜んでいた。それと手強い敵がいなくなったことも。
「これでようやく我が君も安心して眠れますな」
「実際近頃よく眠れておる」
本当にこう言葉を返す趙だった。
「さて。それではだ」
「どちらへ」
席を立った趙に対して皆が問う。
「厠だ」
「厠ですか」
「そうだ。暫くしたら戻る」
こう皆に伝える。なおこの時代は用を足すとそれから服を着替える風習があった。あくまで上流階級だけであるが。
「その間も楽しくやっておいてくれ」
「わかりました。それでは」
皆彼のその言葉に頷く。それに従い宴を楽しみ続けている。趙は厠に向かう。今厠は壁塗りをしていたがそれは気にしなかった。
その壁塗りの中に異彩を放つ男がいた。目は鋭く蟷螂に似た外見の男だ。
実は彼は豫譲だった。主を討たれた怨みと彼の最期の言葉を果たさんと姓名を変え趙の屋敷の者に近付き人夫となって機会を窺っていたのだ。その胸には常に匕首がありそれで趙を討たんとしていた。
この時がまさにそれであった。趙は厠に近付いて来る。豫譲はただ壁塗りをしているだけだ。しかしその目は。趙を捕らえて離さなかった。
「いよいよだ」
豫譲はぽつりと呟いた。
「趙襄子を。ここで」
しかし。伊達に趙とて数多くの政争や抗争を生き抜いてきているわけではない。その勘もかなりのものなのだ。そして今はその勘が動いた。彼は目の前の壁塗りの人夫、つまり豫譲を見て急に怪訝な顔になった。そのうえで左右に控えている護衛の者達に声をかけたのだ。
「あの壁塗りを連れて来い」
「壁塗りをですか」
「そうだ。気になる」
鋭い顔と声で護衛の者達に告げた。
「あの男。只者ではないでしょう」
「何故そう思われるのですか?」
「気配だ」
「気配ですか」
「そうだ。・・・・・・それに」
ここで彼のところに。何かの香りが漂ってきた。それは梅の香りだった。
「この香りもな。気になる」
「だからですね」
「左様。すぐにわしの前に連れて来るのだ。よいな」
「わかりました」
こうして護衛の者達は豫譲に声をかけた。豫譲はこの時一瞬顔を強張らせたがすぐに観念した顔になった。そのうえで彼等に両手を捕まれ縄で縛られた後で趙の前に引き立てられたのであった。
「我が君、連れて来ました」
「御苦労。そしてだ」
趙は彼等をねぎらったうえであらためて彼等に問うた。
「何かおかしなものはなかったか」
「まずはこれです」
最初に出されたのは匕首であった。
「ふむ、それか」
「そしてこれです」
次に出されたのは梅の枝であった。白い梅の花がその枝に咲いている。
「この二つです」
「梅か」
趙はその梅の花を見てすぐにあることを思い出したのだった。
「そういえば智伯が梅を好んでいたな」
「その通り」
豫譲は縛られ趙の前に跪けさせられていた。しかしその表情も態度も堂々としたものであり悪びれることもなく卑屈になることもなく彼に言ったのだった。
「我が名は豫譲」
「豫譲か」
「左様。御存知か」
「知っておる」
趙はその豫譲に顔を向けて答えた。
「智伯の下にいた説客の一人だな」
「その通り」
「剣の使い手と聞いていたが。生きていたか」
「生き延びていたのだ」
豫譲の言葉はこうであった。
「貴殿を討つ為に」
「敵討ちか」
「そうだと言えばどうされるか」
今度は豫譲から問うのだった。やはり悪びれてはいない。
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