ワンピース~ただ側で~
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おまけ7話『真なる力』
――……不思議、だよなぁ。
どこか人ごとに、ハントはふと思う。
クロコダイルに致命傷をもらった時も、エネルからナミを守った時も、ガープにボロボロにやられてしまった時だって。ハントは常に己の限界に立ち向かい、それを超えてまで戦おうという強い意志を見せてきた。
けれど残念なことに結果は伴うものにはならなかった。
ルフィたちならば超えるであろう壁に、ハントはいつも激突し、崩れ落ちてきていた。
少しずつ、少しずつ。
高く跳べたなどという己の甘い成長を踏みしめて、ハントはそれでも歯を食いしばって飛び越えようとしていた。
そして、今回も。
3大将に立ち向かい、ほとんどなすすべもなく負かされて、最後には赤犬によってとどめを刺されてしまった。
そう、今回もハントは己の限界を超えることができなかった……そのはずだった。
いくら挑んでも越えられなかった高み。
いくら望んでも得ることのできなかった強さ。
――本当に、不思議だ。
そっと、心の中で呟いたハントの想いは心の中で呟いたそれそのもの。
ただひたすらに、不思議なそれ。
――死んでも手に入れたくて、けど今にして思えばどうってことじゃなかったんだな。
遠い目をして、思った言葉の着地点はつまり簡単なことだ。
「……」
それをそっと呟き、ハントはただひたすらに首をかしげつつも実感していた。
「当たり前、か」
まるで笑みをこぼしそうになるほどの自嘲の言葉をふと紡ぐ。
そう、それは当たり前なこと。
成長の過程でジンベエに出会い、白ヒゲ一味とも出会いを経てきたハントは、いうなれば戦闘において誰よりも優れた環境にあったといっても過言ではなかっただろう。師匠は王下七武海で、さらに世界最強と称される男が率いる一味の人間たちと手合わせを繰り返して。
これほどに優れた環境はない反面、だからこそハントには持ち得ぬ思いがあった。
誰よりも強い男たちにもまれた中で、ハントが必然的に抱いていた思い。
それはつまり、海の広さであり、ハントの矮小さであり、つまり――
俺は弱い。
――その思い。
ハントは強い。だが、ハントは己よりも強い男をごまんと知っている。だからこそ、ハントの根底には常に自分よりも強い男がどこかにいるという、つまりは自分はまだまだ弱いという思いがあった。
確かにハントの思いは間違った思いではなく、事実ではある。
だが。
だが、しかし、だ。
自分が弱いと思っているということはつまり、自分には自信がないということで。
そんな、自分に自信をもつことのできない男に、自分の弱さを肯定しているような男に、いったい何ができるというのだろうか。
いや、できない。
……だからこそハントはいつも最後の壁を超えることができていなかったのだ。
「サンキューな、ナミ」
自分が強いと、ハントが思えるようになった言葉をくれたその人物へと。ハントはそっと感謝を述べる
――やっぱ、俺の全部はナミから、だよなぁ。
恥ずかしそうに、そして、誇らしげに。
ナミを守るために、ベルメールに本格的に戦闘術を教えてもらい始めた。
ナミと一緒にいるために、ルフィたちのもつ自分を信じるという強さに触れることができた。
ナミに『私が保証する。あんたは強い。絶対に強い!』という言葉をもらったおかげで、ハントは自分が強いということを認めることができた。
全ては、やはりナミ。
これまでずっと自分が弱いと思ってきたハントの心が、ナミの一言でまるで別のものへと変貌していた。
それは赤犬に負けたことで絶望と死の淵にいたからこそ、なおのことハントにとっては希望の言葉となってハントの最後の枷をほどいていた。
――ほんと、ナミには一生かないそうにないな。
自分は強いと、今では心の底から言い切れるはずなのに、それでもきっとナミには勝てないと心の底から思っている自分が楽しくて、そしてなによりも嬉しくて。
ハントはゆっくりと魚人空手を構えて、そっと、誰に言うでもなくハントは言葉を落とした。
その言葉に込められた感情はかつてないほどに――
「俺は強いぞ、覚悟しろ?」
――力強い。
風にたなびく灰色の甚兵衛。
「……ハン、ト?」
そんな背中を、どこか呆然と見つめながらジンベエとエースがその名前を漏らした。
既に赤犬に敗北して、もうこの戦場では完全にリタイアしていたと思われていたその男の名前に、彼らは自分でもあまり信じられないのだろう。どこか空気の抜けたような面持ちでその背中を見つめている。
そんな二人とは対照的に、明らかに疲れているもののそれ以上に明るい「ハント! やっと目ぇ覚ましたか!」というルフィの声が、近くにいたエース、ジンベエ、それともちろんハントの耳にも響く。
ルフィの声を受けたハントは視線を赤犬から外すことなく、小声で言う。
「悪い、ルフィ。ちょっと寝てた……こっからは俺に任せてくれ」
「……わかった!」
まるで当然であるかのように違和感なく言葉を交わす二人だが、やはりジンベエとエースは信じられない思いでそれを見つめていた。
――ありえない。
そんな言葉を飲み込んで、ルフィと会話をしているハントの後ろ姿を見つめる。
そう、ありえない。
赤犬から一撃を受けて、こんな短時間で意識を取り戻して平然とした顔でいるハントの体力がまずありえない。けれど、それ以上にありえないのは――
「――本当にハント……なの、か?」
エースが漏らした言葉に、ジンベエもほとんど無意識で無言のままに頷いた。
確かに、体力の限界を超えて人が動くことがあるということは二人も各々の経験から既に理解している。けれど二人の知っているハントならば、そんな己の限界を超えてまで動けるようなナニカは持っていなかった。
インペルダウンとこの戦場の中でハントを見てきたジンベエは確かに彼の成長を実感していた。だが、それでもまだそんなナニカがあるようには見えていなかった。まだまだどこか甘ったれた、そんな雰囲気は確かにハントにはあったのだ。
だが、そんなハントの醸す空気がどこか違っている。
だから、やはりありえない。
赤犬に倒される前と今。男子三日会わざれば刮目せよという言葉は二人も知っているが、そもそも三日どころか3時間もたっていないような時間にそれほど劇的に人が変化することなどあるのだろうか。
「師匠、ルフィとエースのことをお願いします」
「……は、ハント」
ハントに言葉を投げかけられても、まだろくに実感をもてずにいるジンベエがゆっくりと頷きかけて、それからやっと頭が働き始めたのか、唾を飛ばしながらハントへと怒鳴りつけた「い、いや……このアホウ! 師匠が弟子に背中を守らせて逃げるなどっ! ワシが殿を務める! ハント、お前がルフィ君を連れて――」
改めてハントの前に立とうとしてだがそれは叶わなかった。
なぜなら。
「先ほどわしの拳を止めて見せたんも貴様か?」
赤犬の言葉が空気を切り裂いていたから。
「……だったら?」
悠然と、いつものように魚人空手の構えをとってハントが答えた。
海軍最高戦力の一人として数えられている赤犬とハントには歴然とした差が存在している。にも関わらず、そんな余裕の見て取れるハントの態度に赤犬が警戒を高める。
当然といえば当然かもしれない。赤犬が、今目の前に立っているハントに完勝してかたらまだ大した時間もたっていないというのに、このハントの余裕の態度はいったいどこから出てくるというのか。さらに言えば、まだ赤犬には先ほど自分の拳が空中で止まった原因を把握できていない。
これを不気味と思わずしてどう捉えればいいのか。
ハントは能力者ではない。それはハントがこの戦場に乱入してきたときに能力者のルフィを海中から引っ張り出してきたことからも簡単に推察できる。ならば、それこそいったいどうやって空中で赤犬の拳を止めたというのか。
赤犬はハントをにらみつけ、次いでその後ろにいるルフィとエースをにらみつける。いつでもハントと赤犬の間に割って入ろうとしているジンベエの気配に注意を配ることも忘れない。
「……」
黙り込んだ赤犬だったが、それは1秒にも満たないほんのわずかな時間。
たとえ目の前に、若干不気味な様子で佇んでいる男がいたとして、その後ろに王下七武海として数えられあげた一人がいたとして、そんなものは赤犬という人間の実力からして些細な問題だ。
ルフィとエースを逃がすことだけは絶対正義を掲げる海軍大将としての彼の正義が許さない。
だからこそ、赤犬は動くことにもう躊躇をしなかった。
「全員まとめて冥土に送ってやるわぃ!」
言葉とともに、距離が開いたままでそのマグマの拳を振りぬいた。
「大噴火!」
下手をすれば10mにも及ぶのではないかと思われたその巨大なマグマの拳に「いかん!」というジンベエの声と「っ!」というエースの焦った声が小さく漏れる。次いで「ハント!」という二人の慌てた声がはじけるのだが、ルフィとハントは動じない。
「『任せてくれ』ってハントが言ったんだ、ハントに任せろ!」と言ってハントに信頼の目を向けるルフィの声に反応したのか定かではないが、ハントはそっと、まるで誰かと会話をしているかのように言葉を紡ぎ、動き出す。
「誰もやらせないって……言ったばかりだぞ?」
ハントがそっと両手を前に突き出し、空中のままで何かを握ったかのように手を動かす。もちろんその手には何かが握られたわけではなく、そういったような動きをしてみせただけだ。とはいえそれでもハントにとってはそれで十分だったらしく、満足げにうなづきそっとその両手を大地へと振るった。
意味不明の行動。
「……?」
ジンベエもエースも、そしてルフィも同時に不思議そうな表情を浮かべた。だが、次の瞬間にはその表情が驚愕のそれへと変化する。
「なっ!?」
声を漏らしたのは先の3人だけではない、おそらくは赤犬とハントの動きを見ていた全員が少なからず声を漏らしていたことだろう。この戦場下でのんきにも驚いている場合があるのかと、赤犬が見ていたらしかりつけそうなものだが、当の赤犬でさえも驚いた表情を浮かべているのだからある種仕方がないという言葉で許されるだろう。
「なんじゃと!?」
赤犬の驚愕の声。腕が何かに引っ張られるかのような感覚を覚えると同時、大噴火という巨大な拳がそのまま引っ張られるままに向きを地面へと変える。
結果、赤犬の大噴火はハントたちの手前へとずれて、大地を焼くというだけに留まった。
何が起こったのか、真の意味で理解できた人間がどれだけいただろうか。
それほどに呆気なく、赤犬の拳が大地へと突き刺さっていた。
もちろん、赤犬ほどの男がその拳を振り間違えたなどということがあるはずがない。
ハントがそれをやってのけたのだ。
――……空気を引っ張った?
ハントよりも強い見聞色を発動できる人間たちが唯一、それを把握するが、それでも彼らの心は混乱に彩られている。理解のできない、けれど事実としてそういった行為をハントがしてみせた。
能力者でない人間が空気を引っ張るなどと、百戦錬磨の彼らとて理解のできる範囲の現象ではない。
「……」
違う。
ハントの何もかもが、違う。
雰囲気が違う。
やってのけることも違う。
そして赤犬の技をいとも簡単に防いで見せた……その実力すらも違う。
そう、違っていた。
赤犬が、いやその光景を見ていた誰もが驚いたその瞬間、ハントはすでに行動を開始していた。
――一緒に行こうぜ、相棒。
心の中で、これまで一緒に戦ってくれていた相棒へと語り掛けると、語り掛けられたそれがハントの心に答えるようにハントの肌へと空気を振動させる。力強いその返事にハントは笑みをこぼれさせて一歩だけ踏み込んだ。
ずっとハントを悩ませていた空気の違和感。その正体。
これが答えだった。
ナミに言われた言葉『私が保証する。あんたは強い。絶対に強い!』
ハントの中にあった、まだまだ自分は弱いという意識に光を差したそのナミの言葉以降、ずっと空気そのものがハントへと訴えかけていた。いや、空気がハントへと訴えかけ始めていたのはハントが空気という存在を強く認識できるようになった日から、魚人空手陸式を覚えたその時からずっとだろう。ただハントがそれに気づかなかっただけだ。ナミの言葉を受けて以来、やっとハントへと空気の想いが通じるようになり始めていた、ただそれだけのこと。
ずっとハントを支えていてくれた、ずっとハントとともに戦い続けてくれていた空気という存在、その心。
気を失っている時間に、やっとそれをハントは知ることができた、理解することができた。
空気という相棒の存在を、その心を理解したハントは、一歩だけ踏み込んだと同時に空気へと腕を伸ばす。
今ままでハントが用いてきた技、魚人空手陸式はただ空気というものをハントがより強く感じ取れるようになったからこそ用いることのできた技だった。だが、今のハントはその空気を感じるのではない、真に理解している。故に、ハントが大気の心を真に理解できたことにより魚人空手陸式という枠組みの技とは別のものへと昇華されており、だからこそハントはその新しい力を、魚人としての力と人間としての力を融合させて更なる高みへと成長させた力を、ハントは発動させる。
「魚真――」
もともとハントは魚人空手だけでなく魚人柔術も習ってはいる。水心を理解できないハントには決して発動できなかった魚人柔術だが、今から放とうという技は大気の心を理解して放つ技。
魚人柔術の技術と大気の心を理解したハントは、更なる力を秘めている。使いこなせなかったはずの力をも発動するこができる。
つまり。
「――柔術!」
柔術も、今となっては発動できる。
言葉を紡ぐと同時、また先ほどと同じように体の前に突き出した両手で、大気を握りしめたハントはそのままクルリと背を向けてそれを全力で、一本背負いで大地へと投げて叩き付ける。
「――気心! 一本背負い!」
ハントに使えなかったはずの魚人柔術。いや、今となっては魚真柔術。それは従来の魚人柔術のように水を理解し、水を掴むのではない。大気を理解し、大気を掴むという新たな技だ。
「むっ!?」
空気を投げつけるという技を、見聞色で察していた赤犬だったが、いきなりのそれに対処ができなかった。いや、対処をしようと試みはしたのだが動けなかったのだ。赤犬の周りに気流が生まれて、赤犬の体ごとそのハントの動きにつられて体を運ばれてしまっていたのだから。
自然と浮かび上がる体は身動きをとろうにもなぜか誰かに拘束されているかのごとく動かない。そのまま、ハントという点を中心として、赤犬がいた地点のちょうど反対側の位置にたたきつけられることとなった。
身動きがとれないため、受け身は取れない。とはいえ何かをする必要性はない。なにせ赤犬は自然系の能力者。地面にたたきつけられたからといってダメージはゼロだ。
「ふん」
どこかハントを小馬鹿にしたかのような息を漏らした赤犬はそのまま地面にたたきつけられたが、やはり無意味なものは無意味。体が地面にぶつかると同時、赤犬の体がマグマとなって周辺に飛散した。
もちろんその体を立て直すことに時間は必要ない。
ほんのコンマの時間があれば態勢は元に戻る。
だが、いや、だからこそ。
「このまま一気に決めてやる」
それがハントの狙いだった。
まるで誰かに語り掛けるように、呟いたハントが態勢を戻そうとする赤犬へと走り始める。
「っ゛」
まるで何事もなかったかのようにふるまっているハントだが、やはり体のいたるところにガタが来ているらしく、全力で走り始めた途端に口から血が漏れる。とはいえ、それはハント自身百も承知だったのだろう。
それでハントの足が淀むことなどなく、ひたすらに一直線に赤犬へと走っていく。
こぼれる血を右手で拭い、これでハントの準備は完全に整った。
「ふっ」
短い呼吸をして、そこから戦闘態勢へと移行。
左掌は赤犬に向けて、血に濡れた右掌は腰だめに構えて、そのまま一瞬でゼロ距離へと到達。もちろん赤犬もすでにそれを理解している。
ハントが技へと移行するとほぼ同時に、普通ならば誰もが対応できないはずのその瞬時の時間に、さすがは赤犬といったところだろう。ギリギリで態勢を取り戻し、その危機を既に察していた赤犬もまた技を発動させる。
両者の鋭い視線が交差したのは一瞬。
先に叫んだのはハント。
「魚真空手!」
新たな技へと昇華されたそれは、ハントが今まで足りなかったピースを埋めた。そして、そのピースこそがハントにとって唯一未完成だった魚人空手陸式の技をも完成させる。
それを本能で理解していたハントだからこそ、今まで未完だったはずのその技を今この場で放つということにためらいなど存在しない。それが完成されていることを疑いことすらもない。
「奥義!」
今からハントが放つのは今までのように、なんちゃって奥義ではない。
ハントが今までに学んだすべての技と、力と、心の集大成。
完成された真の奥義、それをハントは叫ぶ。
「楓頼棒!」
放たれたハントのそれ。当然だが、赤犬もまたそれに呼応するかのように赤犬もまた技を発動させていた。
「冥狗!」
ハントと赤犬の視線が再度交差し、裂ぱくの声が弾けて、そして黒く変色した掌とマグマの拳がぶつかり合う。
それはまるで、つい先ほどにあった光景だ。
ハントが奥義を放ち、赤犬に焼き尽くされた時の映像だ。
まるで焼き回しでしかないはずのその両者の二度目のぶつかり合い。
違うのは――
「ぐっ……ふっ!?」
――その結末。
技に秘められた単純な、いわゆる物理的な威力そのものにはおそらく大した差がなかったのだろう。楓頼棒というハントの掌と冥狗という赤犬の拳がせめぎあい、ぶつかったままの状態で止まる。
だが、赤犬の技は自然系の技で、つまりは彼の技が単純な物理の技で済むはずがない。
既に重い火傷の右腕が赤犬による更なるマグマによって焼かれ、そのままハントの全身へと広がり、焼き尽くしていく。武装色の覇気で最低限のガードはしているハントだが、それでもやはり赤犬のマグマはそれだけでダメージをシャットダウンしきれるものではない。
「っ゛ぅ゛」
苦痛からか、ハントがうめき声を漏らし、両膝を大地へとつく。
まるで降参しているかのようなポーズとなったハントを、何のダメージもなかったかのように見下ろす赤犬。
「ハント!」
ハントの背後から聞こえるジンベエやエースの焦りの声。
慌ててハントを助けようと動き始めているのだが、今からではもう間に合わないだろう。
この二人の2度目のぶつかり合いも結局は赤犬の勝利という結末――
「むっ!?」
――ではなかった。
とどめを刺すために拳をふりあげようとした赤犬が、体をピクリと動かしただけでその動きを止めた。
「?」
ジンベエもエースも、その露骨な赤犬の異変に気づき首を傾げて動きを止めるが、すぐにハッとした。ジンベエとエースが知る魚人空手陸式が本当の力が発揮されるのはここからだからだ。
魚真空手の真髄はぶつかりあってから。
それは魚人空手陸式の時と変わりはない。
「……」
体を動かすことそのものに危機感を覚えて動きを止めた赤犬だが、それでも体を動かさないと何かをすることもできない。改めてハントへととどめを刺そうと拳を振り上げた、その瞬間だった。
赤犬に襲い掛かる爆発的な衝撃。いや、魚人空手陸式から魚真空手へと昇華されたそれはもはや爆発的などという表現すらも生ぬるい。
更に、魚真空手により発動されたその楓頼棒は完全に完成されたそれ。
威力はまるで別のそれであるかのように桁違いに強い。
「っ゛!?」
赤犬を包む大気が爆発。それが赤犬の体内の水分を爆発させることへと連動。ハントとぶつかりあったのは右腕だけのはずだったが、その衝撃は完全に全身へと伝わっていく。
まるで右腕が急に粉みじんになったかのような感覚が赤犬を襲い、かと思えば全身へとその感覚が幾重にも広がっていく。
体中を砕いて、微塵になるまで爆発させる。
それを何度も繰り返したものを一度にまとめて発揮させたかのような衝撃。
「……っっがっ゛!?」
ふと、高い上空へと赤犬が吹き飛ばされて、大量の血を吐き出した。いや、漏れた血は口からだけではない。全身からも、まるで穴という穴すべてから噴出させたかのように大量の血が迸り、そのまま空中からハントの目の前へと落下。
地面に激突した。
「……」
それで終了。
「…………」
動かない。
「………………」
本当に動かない。
「……………………」
ピクリとも動かない赤犬のあまりにも呆気ない幕切れに、海軍も白ひげ一味も声を失う。戦場ではありえないほどに粛々とした空気が流れたとき、ふと誰かの声が静かな戦場に響く。
「誰もやらせない……俺がっ…………守る、絶対にだ!」
全身を覆う痛みと疲労感に顔をしかめ、息をたえだえにしながらもいつの間にか立ち上がっていたハントが吐き捨てた声だった。
その言葉は決して大きい声ではない。肩から息をしていることからも声量はむしろ小さかっただろう。だが、あまりにも静かだった戦場ではどこの誰のどんな音よりも強く響く。
その声を皮切りに白ひげ一味が騒ぎだてる。
「ハントが赤犬に勝ったぞぉぉぉぉ!」
「やった! ハントがやったぞ!」
「すげぇぞ、ハント!」
「海軍最高戦力の一人を、たった一人で倒しちまいやがった!」
「おっしゃぁぁぁぁぁぁ!」
「今のうちに撤退しちまうぞぉ!」
白ひげを殿として撤退しようとしていた白ひげ一味。ついさっきまで悲痛な声をあげていたはずの彼らから次々と歓喜の声があがる。
だが。
ハントの表情は相変わらず、いや、赤犬と対峙していたその時よりも険しく、厳しいそれ。
視線の先は、ただ一つの背中。
いくつもの大きな傷を負い、既に重傷にあり、肩で息をしているにも関わらず最前線にて命を捨てる覚悟で殿をつとめようという男の、大きな背中。
すなわちハントは――
「……っ」
――白ひげの背中を見つめていた。
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