月に登った三人
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1部分:第一章
第一章
月に登った三人
ハンガリーという国は二十世紀にかなりの苦労を経験した。第一次世界大戦でオーストリアと別れその時も苦労があったが第二次世界大戦ではドイツとソ連の間で塗炭の苦しみを味わった。東部戦線においてはこの国は激戦地の一つであった。
首都ブタペストは両軍の死闘の場となり廃墟と化した。その後ソ連の介入で共産主義国家となったがソ連の圧政は続きそれから必死に逃れようとした。
それで起こったのがハンガリー動乱であった。命懸けで起こした運動だったがあえなくソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍により鎮圧された。この時多くの血が流れた。
この時こんな話が残っている。日本の大内兵衛という『偉大な』マルクス主義経済学者が世界という雑誌で堂々と言った言葉だ。
「ハンガリーは百姓国ですから」
これは本当に言った言葉である。呆れる他ないが当時の日本の学者というものはソ連を賛美していればそれでやっていけたのだ。少なくとも教育や経済、歴史、哲学ではそうであった。命懸けで運動を起こした人達をこうして罵りソ連という全体主義国家を擁護していたのが我が国の『良識派』であった。政党で言えば社会党がそうであった。彼等にしてみれば赤旗さえ振っていればそれが正義なのだ。所詮良識も正義も作り出されるものであるがそこには卑しい人格や行動、発言も混じるものだ。こうした輩が堂々と大手を振って歩いてしかも責任ある立場にいたという怪奇現象が起こっていたのは当時の日本の学者のレベルの低さを表わす一つの指標であろう。
その動乱の後のハンガリー。この国はまだ軍が残っていた。言うまでもなくソ連軍がである。
街には戦車が走り武装した兵士達が巡検している。見事な『平和勢力』の軍隊であった。
「くそっ」
ブタペストの市民達は彼等をみて影で忌々しげに舌打ちする。
「さっさと帰りやがれ、露助が」
「全くだぜ」
三人の若い男達がアパートの一室でビールを片手に愚痴をこぼしていた。
「俺達は御前等の奴隷じゃないんだよ」
「俺達はハンガリー人だ」
口々に言い合う。ソーセージを口に放り込む。
「そもそもよ」
「ああ、わかってるさ」
青い目の青年ダルビに金髪のクリストフが頷く。もう一人は顎鬚のバーンであった。
「ビールもソーセージもまずくなったよな」
「そうだよな」
バーンがクリストフの言葉に応えた。小さな木製のテーブルの上に置かれているそのそセージは何か色もよくなくやけに小さかった。
「昔はもっと上手かったよな」
「ああ」
彼等は口々に言い合う。
「何か今の体制になってからな」
「急にまずくなった」
「何が理想の主義だ、理想の経済だ」
ダルビは酔いに任せて言う。
「全然違うじゃねえか」
「おい」
声が大きく荒くなった彼をクリストフが制止した。
「外に聞こえるぜ」
「おっと」
ダルビは彼の注意を受けて慌ててすぐ側の窓を見下ろした。幸いそこにはソ連兵は通り掛かってはいなかった。
「アパートの中は大丈夫か」
「今いるのは俺達だけさ」
バーンが面白くないといった感じで答えた。
「皆憂さ晴らしにパブに行ったさ」
「イワン共がいないパブにか」
「そうさ」
ハンガリー人も酒が好きだ。そこれで憂さを晴らすのは彼等も同じである。もっともロシア人も酒は好きなのでわざと彼等がいないような店を選んでいるのだ。
「そこでな。皆飲んでるさ」
「皆同じなんだな」
ダルビはそれを聞いて思わず苦笑いを浮かべた。
「今が最高に面白くないのは」
「正直逃げたいさ」
クリストフは苦い顔をして述べた。
「今のこの国には。何の未練もないさ」
「ないか」
「じゃああるか?」
ダルビだけでなくバーンにも問うた。
「今のこの国に。イワン共に好き放題されてるこの国によ」
「それはな」
二人共その答えは決まっていた。ビールの味がさらに苦くまずいものになるのを感じながら言うのだった。
「今はないな」
「ないか」
ダルビはわかっていたとはいえバーンの言葉に落胆した顔になった。
「やっぱりそうか」
「昔はあったのにな」
クリストフは俯いてこう呟いた。
「今は完全になくなったな」
「亡命でもしたいんだがな」
ダルビはかなり危ない言葉を出した。これは周りにいる蓋衛を信頼しているからこその言葉だが流石に二人もこの言葉には目を剣呑にさせた。
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