同士との邂逅
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二十五 永訣
鳥の後を追って、一匹の狼が駆けていく。
その背に乗っている青年は、木ノ葉の里で一際目立つ崖を仰いだ。
「…………ここにいるのか?」
この世界に来て最初に目についた崖。岩肌に彫られた歴代火影の彫刻が青年――横島を見下ろしている。軽やかに跳躍した狼―破璃が、火影岩の上に飛び乗った。
傍目には誰もいない火影岩。その上に破璃が降り立った途端、ぐにゃりと空間が歪んだ。
どうやら結界を張っていたらしく、横島が来たためにナルトが一端術を解いたらしい。
試験会場が騒然としているのに対し、こちらは閑散としている。会場屋根には火影の死体に化けたナルトの影分身があるからだ。
大蛇丸と彼の影の如き部下の命運は暗部総隊長である月代によって尽きた。音忍の子どもの身柄を暗部の部下に引き渡して、彼はすぐさま本物の火影のもとに向かったのである。
月代に化けた影分身を残して。
瑠璃と破璃は影分身ではなくナルト本体の許へ正確に辿り着いたのだ。横島と破璃、それに瑠璃が結界内に入ったのを確認し、ナルトは再び印を結んだ。
「つき……ナルト?」
破璃の背から降りた横島は、呼び掛けても微動だにしないナルトを不審に思う。そっと背後から覗き込み、彼ははっと息を呑んだ。
「…火影の、じいさんじゃねえか……」
ナルトの眼前にて横たわるご老体は、ヒューヒューとか細い息を繰り返している。土気色を帯びた顔色が老人に残された命を物語っていた。
横島はナルトを押し退け、文珠を生成しようと拳に力を込める。しかしガクリと膝が笑い、彼は岩垣に突っ伏した。
霊能力が既に底をついているのだ。無理に引き出そうとすればするほど身体が悲鳴を上げる。破璃に支えてもらってようやく立ち上がった横島は己の不甲斐無さに臍を噛んだ。
「……もういい…無駄じゃ…」
ふっと意識を取り戻した火影が息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。それに反論しようと口を開き掛けた横島を、ナルトが静かに遮った。
「………じじいの言う通りだ…。もう遅い…。俺が、間に合ってさえいれば…」
「自分を責めるでない…。これはわし自身の闘いだった。それに介入は許さんと、事前に伝えておいたじゃろ……」
火影は、自身を責めるナルトに言い聞かせる。その光景はまるで祖父が孫を宥めているようだ。
血の繋がりはなくとも今の二人の間には、単なる里長と部下だとは言い切れない空気が流れていた。
火影という肩書も暗部総隊長という肩書も、今や無い。
ただ互いを案じる、か弱き老人と華奢な子どもであった。
火影に「手を出すな」と言い含められていたナルトだが、彼はその命令に従うつもりは毛頭無かった。我愛羅との闘いの後、すぐさま影分身に表の自分のふりをさせ、試験会場に赴くつもりだったのだ。
しかしながら瑠璃の連絡により横島とハヤテの危地を知った彼は、急ぎそちらへ足を向けた。
横島と出会う前のナルトならば、迷わず火影の命を優先したであろう。横島とハヤテを見殺しにして火影の許へ向かっていただろう。
だが今のナルトはどうしても、横島の危機を見て見ぬふりをする事が出来なかったのだった。
それに【屍鬼封尽】の術を使ったのならば、ナルトにも横島にもどうしようもない。あの術は一度発動すれば死神に魂を譲らなければならない。
契約したからには最後、どう足掻いても死から免れないのだ。
今はナルトの介入によって生き永らえているが、そう長くはもたないだろう。たとえ横島が文珠を使い、傷を癒したところで彼の死は確実なもの。三代目火影の運命は『死』だと決定事項である。
ナルトの影分身が死体に化けているのも、火影自身がそう望んだためだ。未練がましく生にしがみつく里長を皆に見せたくないというのもあるが、なによりナルトに伝えたい言葉が彼にはあった。
「月代…いや、ナルトよ……」
誰よりも強いナルトが木ノ葉の里での酷い処遇に耐えてきたのは自分のせいではないか、と火影は長年思い煩っていた。
彼を木ノ葉に繋ぐ鎖こそ、己が身勝手に発した言葉だったのではないか、と。
それは自分がナルトの幼き頃に言い聞かせた―――――「ただ、強く在れ」という言霊。
自身が生きている限り、この子は自由にはなれない。
だからこそ火影は生還を望んでいない。死ぬ間際だからこそ出来る事。
火影である前に子どもの幸せを願う老人は、最後の最後でナルトと木ノ葉の里を繋ぐ鎖を断ち切りたかった。
「ナルト…前言撤回、じゃ……」
片膝立ちで覗き込むナルトの耳に、火影の掠れた声が届く。ぼそぼそと呟く火影の言葉を正しく聞き取ろうと、ナルトが彼の口元に耳を寄せた。
「」
か細くしかし切望が込められたその言葉を耳にした瞬間、動揺する蒼の双眸。しかしそれに取り合わず、火影はもう一度その言葉を反芻する。
「ただ、自由に在れ」
木ノ葉の里。九尾の惨劇に囚われ続けている里人。里と里人を背負う義務を持つ火影。
それら柵(しがらみ)を全て容赦なく捨てろと。己に遠慮などせず切り捨て、自由に生きてくれと。
だからこそ、幼き時刷り込んでしまった「ただ、強く在れ」という言葉を取り下げる。
翳む眼を必死で凝らし、火影は虚空へと手を伸ばした。伸ばされた片手が、ナルトの髪にそっと触れる。その一房をついっと掴むと、月色の金糸がさらさらと靡いた。
それはまるで、水面に映る決して捉えられない月のように。それらは火影の無骨な手…その指の間から零れ落ち、流れていく。
「猿が月を捉えようと木に登るが落ちて死ぬ、か…。『猿猴促月(えんこうそくげつ)』とはよく言ったものじゃわい…」
月に、逃げられたような。そんな錯覚に陥り、火影は自嘲染みた笑みを口許に湛える。
しかしその笑みは、愛し子のゆらりと零れ落ちそうな瞳と搗ち合った途端、掻き消えた。困ったように目尻を下げながら、火影は再び手を伸ばそうと力を入れる。
細い枯れ枝と似通った己の腕を、懸命に動かして。
翳りの入る蒼天。揺らぐ二つの曇り空から、雲霞を一切取っ払ってやろうと。老いた腕は、ただそれだけの意志を持つ。
頼りなく、しかし確固とした強い意志。
けれどそれすら叶わずに。老いたその手は。
ゆっくりと空を切って。
地に、墜ちた。
空振りしたその手をぎゅっと握りしめる。ぐったりと力の無いそれは、もはや物体と化していた。
冷たい。その冷たさが否応なく、ナルトに真実を突き付ける。
先ほどまで必死にナルトの幸せだけを望んでいた三代目火影が、老人が、もはやこの世の者ではないことを。
横たわる火影の身体からすうっとナニカが浮き出ていく。霊能力のある横島だからこそ視えるソレは、あの人の良さそうな笑みを浮かべた。そして横島に向かって、幾度も切望の言葉を口にする。
『……この子の傍で、見守ってやってくれんか……』
その声を聞き入れた横島は、必死に目頭を押さえた。そうして、僅かに、しかし確かにソレに向かって頷く。
ソレは酷く驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏和な表情で、横島と、顔を伏せたまま動かないナルトを交互に見つめると。
空に溶けていった……………………。
保護者であったその亡骸を、未だ片膝立ちでナルトは見つめている。一つと一人の、その一歩後ろで横島は黙って立っていた。
ナルトには、哀しみに咽ぶ様子も嗚咽を漏らすことも動揺すら無い。その素っ気ない態度を見た者は皆が皆、なんて非人情で冷酷な子どもだと責めたてるだろう。
しかしながら横島には、彼が感情の全てを削ぎ落すことで平静を装っているように見えた。
いっそ無情にも見えるナルトの、背中が全てを物語っている。
十三年間生き永らえたその小さな背中は、キレイで済むはずのない大人の考えも汚い世界も世の理もその裏も、そして人の生死も、全てを悟っているのだ。
常日頃なら簡単なはずの、感情を削ぎ落すその行為。けれどやはり今は、流石の彼も難しいらしい。
顔を伏せるナルトの蒼い双眸は、微かに蠢く金の睫毛にて隠れている。しかし一文字にきつく結ばれた口許から、彼の感情が見て取れた。その唇からは一筋の血が滴っている。
横島に、ナルトの表情は窺えない。けれどきっと見られたくなどないだろうと、横島もまた、横たわる亡骸をじっと見下ろしていた。
その場に流れる時は、酷く重い。
はたとナルトが顔を上げた。その所作は、俊敏な彼に似合わずゆったりとしている。
しかし横島の瞳が瞬く頃には、いつも通りの無表情な顔に戻っていた。
狐面をつける。
月代に変化した彼は火影の亡骸を抱き抱えると掻き消えた。
木ノ葉の里の各所で多発している戦の火種が次々に鎮火していく。
火影岩という高所から俯瞰していた横島には、その火を消しているのが誰かすぐにわかった。
里中を奔る、荒々しくも哀しい金の矢。
地平へと沈みゆく朱に向かって瑠璃が甲高く鳴き、破璃がくうんと鳴いて横島に寄り添った。
二匹の鳴き声には、まるでナルトの心中を代弁しているかのような愁嘆の色が含まれている。
落陽に赤く染まる里を横島は見下ろした。
里ではなくどこか遠くを見据えている彼の瞳の奥には、夕焼け空に負けないほど赤く燃え上がる決意の炎が窺い見えた。
子どもを慕う獣の静かな慟哭が、空に溶けて消えていった。
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