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乱世の確率事象改変

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道化師が笑う終端

 秋斗からの一報を耳に入れ、稟の思考は冷たく速く廻り行く。
 十面埋伏の成功した戦場も収束に向かいつつあるが、未だ袁紹軍の抵抗は冷める事無く続いている。
 猪々子の残した兵士達は新兵が多く、熱さに当てられて降伏する事すら出来ないでいた。いや……降伏しようとしなかったと言った方が正しい。
 既に徐晃隊と楽進隊に斗詩の兵士達の監視は任せてもいいと判断を置き、斗詩本人は沙和に監視を命じてある。数の差は引っくり返り、曹操軍が優勢であるにも関わらず死人が出続ける。

――頭を失った軍の末路は様々、という事ですか。

 黄巾の乱の時は、怯えに駆られて逃げ出すような者達に溢れていた。
 反董卓連合ならば、混乱に支配され纏まりが無く、主力部隊の確固撃破と内部の強引な鎮圧にて戦が終わった。
 徐州での戦では、袁家の逃亡によって終わりを迎えた。
 では今回は……如何にすれば終わらせる事が出来るのか。
 選択としては幾つか取れるのだが……主だったモノを上げるのならば恐怖と諦観が肝である。その為、まず稟は風との合流を図る。もはやそれぞれの部隊での個別指揮は終わらせてもいい。一個の軍として纏まった後にこの戦の収束をと決めた。
 親友の旗に馬を駆って近づけば、こっくりこっくりと馬の上で船を漕ぐ風の姿に呆れが浮かぶ。
 隣で腕を組んで戦場を見やる春蘭が居ればこそ、彼女はこうして安心しきっているのだろう。

「あなたは出ないのですか、春蘭」

 いつもなら直ぐに起こす所であるが、まずは春蘭に話し掛けた。
 真っ先に敵の制圧に向かっていてもおかしくない春蘭が此処で動いていない。それが少し異常に思えたのだ。

「稟か……そろそろ出る。風がお前の到着を待ってからだと言ったのでな」
「風が? なるほど……秋斗殿の動きのせいですか」
「ああ。まったく、あのバカモノめ……私が追撃しても同じだろうに……」

 愚痴を零す春蘭に対して、稟はやはり……と一言。
 秋斗の伝令を受けて予想したのは、彼が猪々子の捕縛を画策している事。保険として凪や明を連れて行ったのも分かっているし、任せろと言うからには口出しはしない。
 無茶を通して帰ってきたというのに相変わらず自分勝手な事をする。少しばかり腹立たしいが、一つの事柄に気付き、彼の思惑が読み取れていたから何も言わなかった。

「ふむ……風、起きてください」
「……ぐー」
「起きろっ!」
「おおっ」

 さらに近付いて頭を叩けば、いつも通りに飛び起きる。眠たげにこしこしと目を擦り、半目で稟をじとっと見つめた。

「お日様の日差しが暖かすぎてついうとうととー」
「戦場で寝る奴がありますか!」
「天高く昇り始めた日輪の光を感じずにはいられなかったのですよー」
「それでも――――」
「あー、では、私は行くぞ?」

 漫才をし始めた二人に気まずそうな春蘭が声を掛けると、視線が両方そちらに向く。

「行ってらっしゃーい」
「終わらせてきてください」
「うむ」

 交互に見やって、コクリと頷いた後、春蘭は馬を駆って行った。
 残された場は遠くに戦場の音が聴こえるだけで、しばらくの沈黙が支配していた。
 天を仰ぎ、蒼い蒼い空を見たのは二人共。どちらともなくため息を零して、互いの顔を見ずに口を開いたのは……稟。

「残すは二つ、ですね」
「そですねー。雛里ちゃんにも伝令を送りましたし、白馬義従も止まるでしょう」
「敵を皆殺しにするまで止まらないと思いましたが?」
「一応、雛里ちゃんの言う事は聞くみたいですから」

 この戦の直前に合流し、真名を交換した少女を思い出して風が応える。
 白の旗が遠くで駆けていた。
 怨嗟を飼い慣らすのは難しい。一度首輪が解き放たれれば、湧き出る感情に突き動かされて止められなくなるのがほとんどである。
 暴虐性はほとんどの人間が持ち寄る業であろう。弱いモノを蹂躙するのは優越感と愉悦と狂気に満たされ、誇りを無くして人を外させる。弱者を虐げる行いは甘美な果実の如く人をケモノへと誘う。
 利用しやすい感情ではあっても、最後まで突き詰めてしまうのならそれは賊徒と変わらない。欲望を止められないのなら……華琳の元で天下を目指すには不十分。

「秋斗殿の考えは読めましたか?」
「……多分、欲しいモノが一つ」

 急な話題転換にも疑問を零さず、直ぐに会わせて答えを述べた。
 風も稟も、このような時は無駄な話をあまりしない。道筋が既に出来ているのなら、答え合わせをするくらいでいい。

「お兄さんは凪ちゃんを副官にしたいんじゃないかと思ってましたが」
「初めから曹操軍に所属していたなら抑え役として向いていたでしょうね」
「華琳様の将を奪うつもりはない、というわけですかー」
「その為にあの二人の内から選ぶつもりでしょう」

 はぁ、とまた稟はため息を吐いた。

――曹操軍に所属するのなら凪か沙和を副官として扱えば彼にとっても都合がいいはず……やはり彼は……。

 彼の思考の行く先は稟にとって受け入れがたいモノであった。

――あくまで客将で居たいということ。中立の立場と言えば聞こえはいい。けど中途半端と言われればそれまで。この戦の終わりに彼の配下を作ろうとしている。そして彼自身も……

 忠を誓い、心命を賭して華琳に全てを捧げるのが何より。しかし彼はそれをしない。
 劉備軍に所属していたときよりもさらに曖昧ではっきりとしない位置づけ。ある意味で華琳の同盟相手とも取れる立ち位置。
 認められるかと言われれば否。しかし“あの大地”の扱い方やこの後に行う事を思えば……是とするのが最良であった。
 ふるふると首を振った。まだ、考えなくていい。今は違う事を考えよう、と。

「この戦、風もこの局面まで予想出来ていましたか?」
「お兄さんが秘密基地を作っていた時点で予測の一つとしては……」
「華琳様の動きも?」
「あの方の性格は皆知っているのですよー」

 口に手を当てて慎ましやかに笑う風であれど、瞳に宿るのは羨望の眼差し。
 この局面を作り上げたのは曹操軍だが、蜘蛛の巣に為したのは自分達とは違う二人。黒き大徳と賢き狼。華琳の性格であれば最後に選ぶのは何か……其処まで考えて十面埋伏を行えるように曹操軍をばらけさせる戦絵図を、官渡に到着した時から描いて組み立てていたのだ。

――劉備軍はこんな恐ろしいモノを内に飼って……いえ、気付かせずに騙し通していた彼こそ異質に過ぎる。

 一寸だけ、稟の背筋に寒気が走る。事実として見てみれば、彼と朔夜は曹操軍を華琳の代わりに動かしていた……それは誰も届き得なかった覇王の頂に二人なら届く、そう取れる。
 つまりは、朔夜に近しい思考速度を持つ雛里が彼の王佐として常に隣に居たあの時は、もう一つの曹操軍が出来上がっていたというに等しい。劉備軍に留まり続けて成長していたなら、例えいくらかの無茶を推してでも、この官渡の戦を平然と掻き乱しに来たことだろう。
 フルフルと首を振って思考を追い払う。昔の彼の事は、今は考えなくていい、と。

「そうですね。あの華琳様が……ご自分の手で戦の終端を担わないはずないですから」

 話すのは主のこと。
 臣下としては止めるべき。されども軍師としては取るべき選択の一つとして、二人は華琳の判断に口を挟まず。
 また、彼と朔夜の策略を信頼し、有用であると判断したからこそ……この戦の終わりを任せた。

「戦の後が一番大変かと」
「雛里が持ってきた斧、彼は使うでしょうか?」
「……華琳様なら使わせると思いますよ」
「幽州掌握の布石として怨嗟を晴らさせる為に“彼に袁紹を殺させる”……ですか。私達が選んだのも同じ結論ですが……」
「そですねー。なんとなく、お兄さんと華琳様が組んだらもっと酷い事になる気がするのですよー」

 風も稟も、この戦場に居ない主と、不可測ばかり起こす彼を思って空を見上げる。
 彼女達を以ってしても、華琳と秋斗の思考の先は読めない。だからこそ彼女達にとっては得難き幸福でもあるのだが。

 日輪が眩しく輝いていた。暖かい日差しは心地いい。雲が光を遮ることなく、青々とした空が広がっていた。
 ただ、戦が終わるというのに、彼女達の心の中には不安の雲が浮かんでいた。



 †



 剣戟は鋭く速く、それでいて尚、力強さは十分に過ぎた。
 俺の引き上げられた膂力を持ってしても耐えられない程の純粋な重たい攻撃に、瞬間の判断で切っ先をそっと寝かせて彼女の武器を受け流し続ける。
 馬上での一騎打ちは俺にとって不利。もともとが馬の扱いも苦手な為に、月光が動きやすいように合わせてくれるからこそ戦える。
 ただの兵を蹂躙するのとは全く違う戦い。目の前の少女の笑みが獰猛さに染まって行く。

「黒麒麟ってのはこんなもんか? 全力で来いよ。あたいはいつだって全力全開だぜ?」

 言いつつ振られる大剣での横なぎを屈んで避けて、長剣での切り上げを行うも身体を少し逸らしただけで避けられる。
 刃を重ねれば弾かれて隙が出来、月光を動かして避けても追いの二の太刀が迅速に向かい来る。

――馬上での対武将用の個人鍛錬もしとけばよかったな……。

 例えば霞や元譲と。長く戦に身を置いて来た彼女達と少しでも鍛錬しておけば違った部分もあったのではないだろうか。
 今言っても遅い。もう既に戦っている時分に考えても無駄なだけだ。割りきり、攻撃をいなし続けてどうにかこうにか戦って行くしかない。
 隙が出来るのを待つか、はたまた自分から崩しに行くか……頭だけがやけに静かに回っていた。
 そんな中で、自分の乗っている黒馬が徐々に荒い動きに変わって行く。
 月光の憤りが伝わってくるようだ。きっと黒麒麟なら、もう少しまともに戦えたのだろう。不甲斐無いとでも言うように鼻を一つ鳴らされる。

――せっかくお前に手伝って貰ってるのに……ごめんな。

 そう考えた途端に、俺の意思に反して月光が勝手に動き出した。

「うおっ」
「うぇ!?」

 次の一撃が来るか否かという途中の不可測は、文醜も予想の範囲外であったのか素っ頓狂な声を上げた。
 肉薄した俺と文醜。そして……月光が相手の馬に思いっ切り激突した。身体の大きさから、質量の差で不利な敵の馬は頭に突撃を受けてよろめく。
 次いで、自分の気分を表すように月光は俺を振り落しつつ脚を振り上げ……一寸戸惑った文醜に向けて蹄を振り下ろした。

「なんだぁ!?」

 敵の馬はふらふらと脚元が覚束ずに動けない。咄嗟の判断からなのか文醜は馬から飛び降り距離を取った。易々と踏み砕かれる敵馬の頭蓋から血と脳漿が飛び出し、嘶きさえ上げる間も無く死に絶えた。
 俺も受け身をとって倒れる事は無かった。二丈程の距離が出来、俺と文醜は互いに地に脚を付ける事となった。
 月光を見ると……苛立ちを含んだ鼻息を鳴らしてそっぽを向き、悠々と明と楽進の方へと向かっていく。

――ああそうかい。徐晃隊もいないし、文醜に手間取ってるようじゃ背中に乗せてやらないってか。

 苦笑が漏れる。
 俺を戦いやすくする為にしてくれた行動だったならツンデレなんだが、素で俺に対して怒っているらしい。
 まあいい。これで俺が本調子で戦えるのも事実。月光には悪いが地上戦の方が得意だ。文醜を見やると、不思議そうな顔で月光を見つめていた。

「全力で……って言ったな? お望み通り全力で行こうか」

――自分の馬に落とされるなんて……かっこ悪いだろうなぁ、俺。

 せめて、と虚勢を張ってみたモノの、後ろで明の笑う声が聴こえた。素直に無様だと笑ってくれるだけありがたい。

 肩に担いだ長剣を水平に構えて取るのはいつもの構え。突撃と斬撃に転換しやすい刺突の型。左手を剣の腹に添えて文醜を見やる。
 俺と目を合わせた文醜の表情がまた笑みに変わった。

「なんだかよく分かんないけど……馬の上よりこっちのが強いってか? ま、弱い黒麒麟を倒しても面白くないし、あたいとしても問題ないけどさ」

 それでいい。お前みたいな奴は、真っ直ぐ真っ直ぐ戦いを楽しめ。
 俺は別に楽しくないから、お前が楽しんでくれないと意味が無い。
 お前みたいに戦いを楽しめたなら、綺麗事を並べることなく、好きな事をしていると胸を張って言って……ヒトゴロシに興じれただろう。
 楽しくないよ。こんなモノ。剣戟の音を聞く度に嫌気が差す。殺気と闘気をぶつけられる度にうんざりする。与えられただけの力だから、自分の力に対する優越や達成感なんて、なぁんにもありゃしない。
 楽進は強くなりたいと言った。守りたいから、と。きっとあの子やお前みたいに努力して強くなって守れたなら、満たされる心もあるんだろうに。

――黒麒麟なら、自分がしてきた行いに胸を張って……満たされる心もあったのかもしれないが。

 渇いている。心が、脳髄が、空っぽの自分を満たしたいと叫んで荒れる。
 明のように他人を重ねようなんて思わない。俺が重ねるのは俺自身。自分がなれるはずのその姿。なれないと分かっても追い掛けなければ……より黒く、黒く。

――救いたいんだ。救わせてくれ。一人でも多く。より多く。

 救いたいと自分から願ったくせに、俺は救えなかった。
 知っていたはずなのに、世界を捻じ曲げられなかった。
 必要だったのに、求められたのに、求めたのに、助けられなかった。
 黒麒麟は……捻じ曲げたのに。

――それでも諦めなんざしない。お前ならどうするよ黒麒麟? お前だって……この官渡を捻じ曲げたいと思うだろ?

 だから俺は文醜と戦おう。黒麒麟を演じる道化師として。
 こんな時、きっと“俺”なら笑うだろう。楽しそうな顔で笑って誤魔化すんだ。

「頼むから油断すんなよ? お前の力を見せてみろ」
「言うじゃんか。油断ならあんたのがしてると思うぜ?」

 軽口を投げればにやりと笑って言い返して来る。
 つくづく面白い奴だ。こういう奴をこそ……求めていた。
 引き裂く口は三日月のカタチ。悪辣に思える笑みを浮かべて、俺は彼女を嘲笑った。

「油断? これは余裕ってもんだ。お前じゃ俺に勝てないよ、文醜」

 普通なら怒りに染まりそうな挑発も、子供のようにキラキラと瞳を輝かせる彼女には効かないらしい。
 こうやっていきがる奴等を真正面からぶっ潰してきたんだろう。それがきっと彼女の在り方で、彼女の生き方。

「じゃあさ、あんたのその余裕、ぶっ壊させて……貰おうか!」

 蹴る脚は大地を抉り、大きく駆けること二歩三歩。文醜の大剣が唸りを上げて袈裟に振られた。
 戦いの経験は積んできた。俺があいつと……魏武の大剣とどれだけ戦ってきたと思ってやがる。
 純粋な力を信頼しての一撃は重い。真正面から受け止めようものなら叩き伏せられもするだろう。だが如何せん、あいつよりも僅かに遅い。その剣速では足りえない。
 つい……と添えるように剣の腹を敵の刃が描く軌道上に添え、左腕で方向をぶれさせるように受け流すだけ。ずらせばただの大振りになるのは必然で、隙が出来るのも当然。
 予備動作での追撃は文醜の一撃の殺しきれなかった余力に耐えきれず潰されて行えない。なら、膝を抜き、力を流し、大地を迎え入れるように頭を垂れ、抜け出るだけにしておこう。
 一重の交差は互いの力量を確かめる手段に過ぎない。
 振り向き、恍惚といった様子で震えている文醜は、自分の渾身の一撃が馬の上よりも容易に躱された事に驚愕していた。

「へへっ、行くぜおい!」

 それでも、と。彼女は自分の力を信じて真正面から突っ込んでくる。
 逆袈裟の一撃は屈んで避けて、踏ん張った両足の力をそのまま使い、柄での反撃に転じた。懐に潜り込んだ俺に驚愕せず、彼女は見切っていたというように膝を上げて受け止める。
 次に行うは拳での突き上げ……しかし、両手で振っていたのにいつの間にか開けていた片手で受け止められた。
 若干、彼女の身体が浮く。体重移動ギリギリで体当たりを行うと、彼女が一歩分だけ下がった。
 それでも彼女の笑みは崩れない。無理やり振ってきたような大剣の片手振りが襲い来た。
 寝かせた刃で受け止めると……派手な金属音と共に俺の身体が僅かに浮いた。

「オラァッ!」

 そのまま力任せにもう一方の手を添えて振り切られ、俺もその力を利用して後ろに下がる。

――バカ力過ぎるだろ。

 元譲並、いや、今はそれ以上かもしれない。本来の自分以上の力が出ているに違いない。誰かの為に強く為れるってのはどこぞの霊界探偵みたいだな、と呑気な感想が頭に浮かんだ。
 人間ってのは無意識でリミッターを掛けているらしいから、何かのスイッチでそうなる事もあるんだろう。この世界の元譲みたいな女達が俺の世界の常識で測れるかと言われれば否だが。

「そっちから来ないのか?」
「じゃあ、次はこっちから行こうか」

 言われて、カチャリ……と長剣の構えを変えた。
 両手で持つのは余りしないが、剣速を上げるにはこっちの方がいい。
 頭に思い浮かぶ戦い方と、嘗て戦っていたであろう身体に刻まれた記憶。無意識で最善を判断すること幾日幾刻。技量の高い奴等と何度も戦って慣らしてきた。

 彼女は文醜。知識にあるのは、呆気なく敗北して殺される武将。
 しかれども、今目の前に居るのは……ただの踏み台や引き立て役では無く、誰かを守るための暴力。
 心が冷たく凍りつく。頭が幾分冷えて行く。
 元譲のように無理やり叩き伏せて降参させる事は俺には到底無理で、文醜としても納得しない。
 何よりも、俺には一つの目的があった。

――こいつが欲しい。

 戻るまでの間だけでも俺が俺としても戦う為には……片腕に成り得る副官が必要だった。
 探した。徐晃隊副長の話を聞いた時から。
 求めた。戻れないかもしれないと覚悟した時から。
 出来るならバカがいい。単純で、純粋で、歯向かってくれるバカがいい。
 明の話を聞いた時から決めていた。真っ直ぐブレずに狂えるくらいの文醜を俺が貰おう……そう決めていた。

 だから先に顔良を捕えさせた。だからこいつと戦いに来た。
 欲しいから力付くで奪い取る。殴って、殴って、服従した相手を慈しむ。それが覇王の遣り方なんだろう。
 俺はそんなもん出来ない。対価を押し付けて払わせて、そうして欲しいもんを奪い取ろう。
 利害の一致での薄い関係でいい。呪い呪われの歪な関係でいい。黒麒麟が戻るまで、俺を憎みながらも従えばいい。

 距離を詰めるのは一瞬。見切っていた、というように彼女も走り出していた。
 ただ、些か予想外の手段に走った。小さく速い剣戟は重量武器とは思えない扱い。振り上げて叩き斬る、それこそが力のはずなのに、彼女は俺の身体運びを見て戦い方を選んでいた。
 しかしながら、俺としてはそちらの方が遣り易い。純粋な膂力で抑え付けに来ないのなら……俺の力でも打ち合える。
 もっと速い攻撃は知ってる。
 神速の張遼の偃月刀はもっと速く、恐ろしい。幾重にも重なる刃と中距離攻撃は近づくことすら出来ない程。だから、お前の攻撃は見切れるし対応出来る。

 ズキリ、と頭が痛んだ。

 もっと速いモノと戦っていた気がする。ひらりひらりと煌く小さな刃が空を割く蝶のように。
 もっと力強いモノと戦っていた気がする。無茶苦茶でありながら本能で繰り出される攻撃は逃げ場が見当たらなかったはずで。
 もっと理に適ったモノと戦っていた気がする。黒が流れて、戦えば戦う程に自他ともに研鑽されてきた舞の如く。

 誰かの記憶。きっと俺では無い俺の記憶。ああ、と考えるまでも無く身体が動く。その誰か達と戦った事があったから、俺の身体は戦い方を覚えているのだ。
 芯をずらした体重移動にて、身体全てを任せた上段蹴り。敵の刃は当たらず、俺の鉄板入りのブーツが咄嗟に防ごうと上げられた彼女の腕にめり込んだ。次いで繰り出す下段蹴りは、彼女の脚を掬って転ばせる。
 文醜はそのまま、力の流れに逆らわずに転ばされた宙の上、驚く事に片手を地に付き飛び退いた。武器を引き摺って。
 彼女の膂力があればこそ出来る力技の隙消し動作。ほう、と嘆息を一つ吐き出して、俺はまた笑う。
 言葉はもういらない。今度もこっちから行かせて貰う。
 そう決めてまた剣を構え、ぎらぎらと興奮し始めた文醜の瞳をしっかりと見据えてから……最速の突きを放った。
 一直線。縮地を刻む脚は真っ直ぐに突き出される剣に速度の暴力を乗せ、しかし文醜の衣服を少し裂くのみだった。避けたのだ、と気付くころには彼女の拳が飛んできた。剣では間に合わないからそうした、と言わんばかりの対応だった。

 やけにスローモーションに感じ取れる拳の軌道。心に湧くのは歓喜に思えた。

――そうかい。それなら泥臭い戦いをしようじゃないか。

「っ!」

 ガツン、と音がして彼女と自分が止まる。
 避けず、額で受け止めてやったのだ。全力の一撃なら俺の頭蓋が砕けただろうが、攻撃に合わせただけの拳では不可能。ただ、少し皮膚が裂けたようで血が滴ってきた。
 舌で舐め取ると前のような生温さでは無く、燃えるように熱いと感じた。
 拳の先、絡む瞳が歓喜に震えている。

――バカが好きか。お前はもっとバカになりたいんだな?

 少しだけ、楽しいかもしれない。殺し合いだが殺し合いにもならないこの戦いが。

「へへ……バカだな、あんた」
「ああ、バカだよ、俺は……なっ」

 声と共に、彼女の武器を蹴り上げる。まるでそうする事が分かっていたかのように、彼女は武器を手放して自由になった拳を握っていた。俺が拳を握るよりも先に。
 無駄な動作の分、一寸だけ、彼女の方が速い。
 なるほど、確かに強い。そう感じると同時に、隠された事に気付くのが遅れた。

――こいつは……殺し合いをするつもりがない。勝とうとも思っていない。俺が提案した事を……本気で信じてやがる。

 いや違う。違った。こいつは勝とうと思ってる。だが、俺を殺そうとは思っていないだけ。約束を守るなら、一緒に顔良を逃がす手伝いをしろと、そう言ってやがるわけだ。
 勝った方が負けた方の言う事を聞く。それが賭け。彼女は俺との約束に賭けた。そういう事。
 面白い奴だ。だからこそ、価値がある。

 ギシリ、と歯を噛みしめて腹に力を込めた。
 横っ面に強かな殴打を受け、脳みそが揺れる。目の前をちかちかと星が舞っていた。
 あの腹黒がいじった身体は頑丈になっているようだ。痛みはあれども気絶せず、身体ごと吹き飛ばすような力の持ち主の攻撃でも死ななかった。

――殴り合いなんざ久しぶりだが、女に負けるわけにはいかねぇな。

 するりと剣を手放して、握った拳は固く強く。
 一回は一回で返そうか。避けるならそれでもいい。それなら、またコロシアイの真似事を始めるだけなのだから。
 殴るし蹴るし切り裂くし……どうしても邪魔をするなら……。

 ガツン、と音がしたと同時に拳に痛みが走った。生の拳で殴れば痛むのは当然。彼女の方も些か頑丈に出来ているようで、俺の攻撃では倒れなかった。
 殴られても声を出さず彼女は……笑ってゆっくりと俺の方を向いた。
 文醜は武器を取りに行かない。俺も武器を握ろうとしない。此れは一騎打ちとは名ばかりの、ただの喧嘩に成り下がった。
 それでも俺とこいつには意味のある事で、俺とこいつにしか分からない勝ち負けがある。

 顔だけでは無く、肩も、胸も、腹も、脚も、腕も……殴れるならどこでもいいと彼女と俺は一撃に力を込め続けた。
 一発一発が重くて強い。とても女のモノとは思えぬ程に。
 別に躱す事は出来るけど、そんなもん今はしてやろうとも思わない。

――下らない。本当ならコロシアイをしているはずだ。

 冷めた自分が見下すように吐き捨てる。茶番のような戦いに呆れる人もいるだろう。
 俺が選んだのはこいつの存在だ。だから効率はいらない。
 楽しそうにじゃれついてくるこのバカを、俺のモノにしたいんだ。

 何度も殴り合う内に彼女の指の骨が折れていた。それでも尚殴ろうとしやがる。この時代の医術では拳を砕くと治らないかもしれない。此れから先、こいつが全力で戦えなくなるのはさすがに認められない。
 だから俺は、ふっと、全身の力を抜いた。

――お前がそのつもりなら退く事なんざしてやらん。けど少しやり方を変えようか。

 楽しい悪戯をしよう。面白い事をしよう。此れが普通の戦いじゃないんなら、俺は俺らしく、悪戯ばかりをすればいい。
 そうして俺は、彼女の拳を掻い潜って腰にしがみ付いた。殴り合いが効いているのか、それとも不意の行動に呆気に取られたのか、彼女は動作が遅れ、俺は彼女の後ろに回り込めた。

「ふぇっ!?」

 異常な行動に着いて行けずに上げられた声は、可愛らしい女の子の声音。
 傍から見れば俺は変態にしか見えないんだろうな、と情けなさが込み上げる。女の子の腰に抱きついてるんだ、普通なら変態で間違いない。
 でも、お前らは知らないと思う。この技がどれだけ美しいのか。どれだけ雄々しく、優雅で、ロマン溢れるモノであるのか。
 見せてやろう。この世界の住人に。研鑽された漢の技の美しさを。

 彼女の身体は……驚くほど軽かった。俺の上がった力も相まって、その技をするには十分に足り得る。

「ぅあっ……離せ、こらっ! かっこ悪いって思わねぇのか! あたいと前を向いてちゃんと戦えっ!」

 わたわたと慌てる声は焦りに彩られて張りが無く、武将として戦場を駆けてるのに、男勝りな感じだが、結局はそこらの女と変わらない部分もあるんだろう。
 ただ、殴ってくる拳は固くて痛い。腕の骨が折れそうだ。

――だが……それがどうした。

 出来るなら、お前は俺が世界を変える邪魔をしてくれるなよ、文醜。世界を変える為に、お前を此処で殺してなんかやらない。

 もがく身体を腕で締め付けて、逃れようと殴る拳すら気にせずに、両の脚を踏ん張って彼女の体躯を掲げ上げる。
 此処は戦場だ。俺達とお前らが殺し合いをしてた戦場だ。だけど、こんなにも面白い悪戯だってしてやんよ。
 勝ち負けは生き死にだけではないのだから。

――文醜の心を叩き折るには、俺がバカやって負けさせるのが一番だろうよ。お前と同じような兵士達の前でなら余計に、さ。

「行くぜオラァァァッ!」

 裂帛の気合を込めて声を上げた。
 弓なりに背中をしならせて、抱え上げた彼女を……後ろの地面に叩きつけた。

 そうして……彼女がバカを望むから俺の方がバカだって教えてやった。




 †




「ぐっ!」

 短い悲鳴と鈍い音。これで動けるモノはそう居ない。動いたとしても、もう先程までのようには戦えない。
 秋斗がブリッジをした身体を起こしてぐるりと辺りを見回すと、呆気に取られている兵士達が居る。後ろで噴き出す音が聴こえ、明がケタケタと笑い始めていた。

「あはっ! あははっ! ひ、ひひっ! 秋兄……なぁにそれぇ!? あはははははっ!」

――あいつには分からないらしい。残念だ。いや、きっと誰にも理解されないだろう。

 気にせず敵軍の方をじっと見据えて、また額から流れてきた血をも気にせずに拳を突き付けて声を出す。

「文醜は負けたぞ。お前ら――――」
「ま、待てよ」

 投降を促そうとした瞬間に挟まれるのは掠れた少女の声。
 首に手を当て、痛みから顔を歪ませてどうにか立ち上がった猪々子の脚は震えていた。

「あたいは、立ってるぜ? 負けてない。あたいは、負けないんだ。いつもなら、賭けでは、負けてばっかだけど、この戦い、あたいには絶対負けが無い!」

 へへっと笑う顔は清々しい程に純粋で、また同じように、あんたバカだろと言いそうな気がした。

――こいつを敗北させないと兵士は聞かない。こいつの部隊は、きっとバカばっかりだ。黒麒麟の身体と同じ事をするくらいなのだから。

「強がるなよ。脚、震えてるけど?」
「うっさい! 通りたいならあたいを殺して通れよ! それでも……あたいの勝ちだけどな!」

 秋斗は目を細めて彼女に歩み寄る。剣を拾い上げる事はしなかった。
 時間稼ぎの役割は果たした。捨て奸による将の足止めは成功している。だから猪々子は自分の勝利を信じて疑わない。
 拳を握った彼女は、まだ秋斗を倒そうと腕を振った。

――そうかい……ならお前が納得するまで殴ってやろうか。

 一発目。
 彼女の拳が秋斗の頬を打った。思いの外強い一撃に驚愕はしたが、やはり力が落ちていて体勢を崩させることさえ叶わなかった。
 秋斗は、ぎゅう、と握りしめた拳を彼女の腹に突き刺した。

「ぐっ……うぉ……ぇ」

 くの字に曲がる身体、吐き出される胃液、苦悶の声が小さく漏れる。
 ああっ、と彼女の部隊から声が上がる。それでも一騎打ちだからと、彼らは手を出そうとはしない。
 部下が近づかない事に、彼女は満足したのか笑って立ち上がった。彼の気分次第で一方的な殺しに出来るこの戦いを、まだ続けようかと、秋斗に向ける視線は些かも光が衰えず。

 二発目。
 向かい来る彼女はまた拳を振りかざす。彼に避けるつもりは無かった。力が抜けた膝のせいで、振られる拳は胸の位置にまで落ちる。受け止めて、彼はまた拳を固く握った。
 猪々子の目には彼の顔が良く見えた。ふらふらの頭で、彼の笑みが眩しく映る。

――さっさと殺せばいいのにさ、あたいに付き合ってくれるなんて、あんた……やっぱりバカだよ。

 右腕が振り下ろされた。身長差から脳天に当たり、べしゃりと地面に這いつくばる。
 ぐぐっと両の拳を握って立ち上がろうとする彼女を見て、秋斗は先程の発言にひっかかりを感じて思考が巡る。

――負けない……? 死んでも負けないってのは変だ。いや、他にも何か……

 頭の片隅に浮かんだのは、自分が彼女ならどうするか。
 自己の命を度外視する選択を取ったのなら、考えられるのは一つだけ。
 彼女の勝利は友の命。麗羽を逃がせると信じきっているから折れなくて、秋斗達が斗詩を殺さないだろうと信じているから満たされている。
 眩しいな、と秋斗は思う。
 他人を信じるその心が。嘘つきな自分を信じている……真っ直ぐな少女が。

「死んでも構わないってか?」
「ああ、あたいは、此処で死んでもいい。曹操に従ってなんか、やんない。あたいは姫の為だけの将で……姫の友達なんだっ」

 忠義と共に親愛の想いから、彼女は引く事無く命を賭けている。
 また向かってきた猪々子の拳を受け止め、膠着して視線を合わせた。
 分かっていて聞いた秋斗は、もう一つ問いかけを投げてみた。

「顔良と共に生きようとは思わないのか?」
「じゃあ、逆に聞くけど、負けを認めれば、姫を見逃すのか?」
「はっ……無理だな」
「だろ? だからあたいは、引かないし従わない。あたいが負けない限り、あんたは追わないって、言った。その言葉を、信じる」

 いいな……と彼が小さく呟いた。
 誰にも聞こえないその言は風に流れて消える。
 彼女の後ろを見れば、彼女の部隊の者達が目を爛々と輝かせてこちらを見ていた。

――文醜を殺しても捨て奸に移行するだけ。兵が動けばこっちの兵も動かさざるを得ない。死に物狂いで俺を殺しに来るから、こっちの被害が増えちまう。

 猪々子が負けを認めさえすれば終わる戦。きっともう、春蘭と霞が戦場は掌握しているだろう。
 軍師達も華琳も、一人でも犠牲を減らしたいだろうとは秋斗とて分かっている。

――ならさ、お前を俺のもんにしちまうしかないよなぁ。

 彼は薄く笑った。もう終わりにしよう……そう言うように。

「バカになるのはやめだ。お前が死ぬまで戦うってんなら……こっちにも考えがある」

 楽しげに笑っていたさっきまでとは全く違う笑みに、猪々子の笑顔も消える。
 冷たい空気に変わった。ついさっきまでは熱に溢れていたというのに……切り替わった彼は、猪々子にとって別人のように感じた。
 離れようと思ったその時に、

「ぐぅぇ……かは……」

 彼の膝が猪々子の腹にめり込んだ。
 呼吸が出来ず、その場に膝から崩れ落ちる。空っぽの腹の中から胃液を吐き出し、それでも苦しみは止まらない。
 立ち上がろうともがいても膝に力が入らなかった。抗い続ける限り麗羽は追い詰められない。だから、と彼女はもがいて足掻く。
 ほう……と感嘆の吐息を吐いた秋斗から、楽しげな声が紡がれる。

「いいな、お前。そういう奴を探してた。大事なナニカを守りたいなら、全てを賭けて俺のもんになれ」

 上から圧しかかる冷たい声。耳に入った言に、とんでもないモノを見たというように彼女の表情が驚愕に染まる。

「は、はぁ? あんたの、女になれ、ってか? 冗談、きついぜ。あたいは、なぁ……斗詩だけを、愛してんだ」

 苦しさから息も絶え絶え、嫌悪感から眉を顰めて、ゲスが……と言うように口に溜まった血を吐き捨てた。
 目をぱちくりとさせた彼は苦笑を一つ。

――ああ、そうだわな。さっきのじゃあ人質を利用して女侍らせようとするクズ男にしか思えないわな。

 言い方が悪かったと漸く気付く。

「……女としてのお前さんには興味ねぇよ。俺が欲しいのはお前の将としての力とその真っ直ぐでバカ正直な在り方。曹操の部下としてじゃなくて、俺の下でその命を使えってこった」

 女として興味が無いのは他の誰かなら傷つくかもしれないが、猪々子としては全く気にならない。
 問題はその後。麗羽の将を辞めて自分の下に着けと言っているのだ。当然、認められやしない。
 苦しむ猪々子の目が細まった。

「あ、あたいの、命はあたいの、もんだ。お前のもんに、なんかならない」
「いいや、お前は俺が貰う。お前は俺に……従うしかなくなるさ」

 振り向いて月光の横に立つ明と視線を合わせると、彼女がべーっと舌を出して笑って来る。あなたは何を食べるの、と問いかけるように。
 少しだけ頬を吊り上げて、彼は無言でまあ見てろと伝え返した。
 下から睨みつける猪々子を見下して、は……と彼は嘲りの吐息を吐き出す。

「お前の勝ちは袁紹と顔良の命が繋がる事、だろ? それなら他人に任せちゃあいけないな」

 しゃがみこみ、合わせた視線は冷たく昏い。
 犬歯をむき出しにして睨む猪々子に対して、トン……トン……と猪々子の額を指で叩いて、彼は尚も続けて行く。

「曹操軍は追撃をしない。“お前らがこの道を選んだ時点で、端っから追撃にやる必要なんざ無かったんだ”」

 意味が分からない、とばかりに首を傾げる猪々子。
 自分達が選んだのは戦場で決断を下したからだ、だからお前らは追撃するしかないだろう、頭に浮かぶのは自分視点から見た当然の答え。

「分からないのか? 分からねぇよな。じゃあさ、なんで舌戦の後に、曹操軍の大将は一度も姿を現していないと思う?」

 ふと、自分の知っている誰かが、思考を積ませるような言い聞かせ方をしていなかっただろうか……と感じた。
 黒髪と黒瞳であるからか、性別も話し方も違うのに……猪々子には彼が失われた軍師とダブって見えた。
 茫然。彼女の思考が真っ白に染まる。

「それになんでお前らが官渡で戦ったはずの……許緒と典韋、そんで夏侯淵が戦場に居なかったと思う?」

 並べ立てられる言葉を受けて徐々に回り出す思考。彼女の拳が、ギシリ、と音を立てた。

「曹操軍はな……この戦いを始めた時から袁紹を捕まえる為に動いてたんだよ」
「……うそ、だろ?」

 弱々しい声には絶望の昏さ。膝が震えてしかたない。力無く、視線を向けていた瞳がブレてしまう。

「官渡に仕掛けた秘密基地はお前らの逃走経路の限定と本隊の発見の為に。張遼は将と戦わず多くの兵を引き付ける為に。夏候惇は文醜を部隊ごと動かさない為に。楽進と于禁は顔良を縛り付ける為に。白馬義従と張コウ隊は恐怖の助長と二枚看板の意識と連携を割かせる為に。そして俺と明は……お前に捨て奸をさせる為に。
 全ての駒は十分に動いた。これで王手。袁紹軍は……袁紹はもう、詰みなんだ」

 全ては掌の上。否、各々の駒達が独自に、覇王の求める結果の為に動いたと言えようか。
 どんな状況になっても対応しきれる手を残しつつ、一番起こせる可能性の高い一手に照準を絞って……秋斗は盤上の駒として動き、華琳は打ち手として、そして自身も駒として王手を先読み、見極めた。
 信じられない、と猪々子はふるふると首を振って否定を示す。

「うそだ……うそに、決まってる。そんな、最初から戦場で戦うあたい達が眼中に無いみたいな戦い……そんなの、あるかよ」
「事実だ。受け入れろ」

 まるで敵である自分達でさえ駒であったような戦を認めるなど、必死で戦っていた彼女には出来ない。
 認められないから受け入れられない。猪々子は、犬歯を剥いて彼を睨みつけた。

「でまかせ言ったって降参なんかしてやんないかんな!」
「それならそれでいい。許緒に典韋に夏侯淵はお前も知ってる通り強いし、曹操殿も夏候惇と同じくらい強いらしいんだが……ただの兵卒如きで止められるとでも? それも捨て奸の為に減らした数で」
「……っ……てめぇ……」

 迷いが生まれる。直ぐに助けに行かなければと思うのに、勝負が付いていなくてこの場を離れられない。
 敵の言葉だ。本当は信じる方が愚かしい。しかし……それなら斗詩の命はどうなる? 彼の言葉を信じて助かる方に賭けたのに……と、矛盾が彼女の心を乱して散らす。

「騙して悪いが……お前はこの賭けを受けた時点で始めっから負けてんだ文醜。勝ちの目なんざ一つたりとも無かったのさ」
「それが……お前の遣り方かよ、黒麒麟」
「ああ、そうだ」

 嫌いじゃないと思っていたのに……こいつは嫌いな男と同じだと、猪々子は思う。
 ギシギシと歯を噛み鳴らした。燃え上がる心は怒りに染まる。振れ幅の大きい感情の変化は、容易く彼女を呑み込んでいく。

「……最低のクソ野郎だ、あんた」
「ああ、その通りだよ。俺は最低のクソ野郎だ。んで、大嘘つきの大バカもんだ」

 吐き捨てられた言葉にも動じず、彼は彼女の顎をつまんで上げ、じっと碧水晶の瞳を覗き込んだ。
 憎しみの炎が燃えはじめていた。絶望の昏さが宿っていた。それでも秋斗に勝てればどうにかなるかもしれないと、意思の光が輝いていた。
 ふっと笑い、秋斗は彼女の顎から指を離して立ち上がる。
 一歩、二歩と歩みを進める彼の背を睨みつけて……猪々子は全身の力を振り絞る。

――なんでだよ……あんたは、あの徐晃隊の親玉なんじゃないのかよ。

 徐州では彼ら誇り高い死に様に敬意を表した。
 命を捨てて彼の為に戦う兵士達が眩しくて仕方なかった。
 自分もそうなりたいと思っていた。
 今は自分もそうなっているのだとさえ歓喜していた。
 なのに彼は、猪々子の最も嫌いなあの男のように、人の心を弄んで利用する。

「……うそつき」

 呟いた言葉は小さくて、彼の耳には入らない。

「あんたは……最低だ……」

 今まで散らせた命にも嘘をついてきたのか、と彼女は思う。

――そんな戦いして……死んでいった奴等は満足出来るのかよ……

 最後まで笑みを浮かべて死に行く男達が守ろうとしていたのがこんな奴だなんて……燃える心があった。
 こんな冷たい奴にあの男達が従っていたのか……其処まで考えて、彼女の心にやるせなさと怒りが同時に湧いた。

「こんのっ……クソ野郎ォォォッ!」

 立ち上がり向かうのは、自然と口から吐き出された叫びと共に。
 もう考えることなどしない。只々、彼女は彼を殺してやろうと武器がなくとも襲い掛かった。
 しかし、あらん限りの力を込めて向けたはずの拳も……秋斗には、通じない。

「ぐっ……うぁ」

 彼は振り向きざま、肉薄した猪々子の胸に手を当てて引き倒した。
 背中を打ちつけて一寸呼吸が止まり、頭を打って視界に星が舞う。
 もう抑え切れず、猪々子の部隊が動き出していた。雄叫びを上げて、彼女の兵士達が彼を殺そうと武器を持ちて駆けてくる。

「まずいっ!」
「おっと……動かないでいいよ。秋兄が選んだんだから秋兄に任せなきゃ♪」
「しかしっ――」
「あたしは信じてるけどあんたは信じられないの?」
「……っ」

 後ろでは明が凪を止めていた。曹操軍は兵士を動かすな、と。彼に襲い来る敵に向かうことは許さない、と。
 彼を信じろ……それはまるで明の大切を救いに向かったあの時のように。
 凪は手を上げて兵を制した。戦闘に直ぐに赴けるように準備をさせたまま。

 明と凪のやり取りも殺意を向けて迫りくる敵兵も、なんら気にする事なく、秋斗は猪々子の耳に唇を寄せて……ぼそり、と言葉を紡いで渡した。

「なぁ、文醜。俺は――――」

 つらつらと話される事柄に、彼女の目が大きく見開かれる。
 震える身体、唇から零れる吐息は熱く冷たく。瞳に浮かぶ感情は恐怖にも思えて、悲哀にも満ちていた。

「――――ってことだから此処からは新しい賭けをしよう。お前はどっちを選ぶ? 救いたいモノの為に縋り付いてでも生きるか、意地を貫き通して死ぬか」

 近づく兵士はもはやあと一丈程の距離。振りかぶられた幾多の剣が日輪の光を反射して輝いていた。
 文醜隊の兵士が彼に向けて剣を振り下ろす……前に、彼らの掲げる将の口から、一つの命が下された。

「こいつを、殺すなっ!」

 大きな声は誰もの耳に届き、しんと静まり返る場。ピタリと止まった兵士達が、彼の事を睨みつけていた。
 沈黙が場を支配していた。誰も話そうとしない。皆が次の言葉を待っていた。静寂を打ち破れるのは……一人だけ。

「……っ……ぅ……っく……ぅぇ……」

 幾分、小さく、嗚咽が響き始める。
 大地を背に、少女が一人泣いていた。
 身体を離した彼は空を見上げて嘆息を吐き出す。疲れからか、それとも胸に来る痛みからか、吐き出された吐息は重く冷たく感じた。

「……いい、よ」

 しゃくりあげながらの声は弱々しくて、其処には男勝りな女武将などいやしない。

「もう、いい……分かった」

 瞼に当てた腕。衣服は涙を吸って徐々に濡れて染まって行く。

「あ、あたいは……あんたの、もんに、なる……」

 何を……と兵士達は驚愕のままに彼女を見据えた。泣いている少女を責めることなど出来ず、命令に逆らう事も出来ず、彼女の言葉の続きを待つしかなかった。

「あたいの、負けだ……もう、誰も……殺さないで、くれ……。
 お前らも……お願い、だから……こんな所で、死なないで」

 がちゃり、と金属音が一つ二つ。
 すぐに、豪雨が降りだしたかのように、一斉に高く響く音が場に落ちた。
 兵士達が力無くするりと零した剣が、彼女の敗北を天に響かせる。
 彼女に頼まれたなら従うしかなく、泣いている彼女の言葉を聞かないわけにもいかない。
 遣り切れない想いと、無力によって心に来る虚しさから、文醜隊は叫びを上げた。

「……徐公明……あんた、なんなんだよ……ちくしょう」

 敗北による慟哭の叫びで掻き消され、彼女の発した涙声は誰の耳にも入らなかった。
 その場から一人離れた彼は、楽しそうに笑う明と、安堵を浮かべながらも咎めの視線を送る凪の元に近付き、昏い笑みを一つ。

「さて……悪いこと始めようか」



 †



 猪々子がまだ戦っている。兵士達も皆戦っている。
 何の為に……? 自問を幾度となく繰り返し、出てくる答えは一つだけ。
 どこに行っても無価値なはずの自分を生き残らせる為に。
 涙さえ流れない絶望の中、麗羽は一言も言葉を口にせずに逃げ続けていた。
 彼女はただ、生きろと言われて逃げただけ。生きてくれと願われたから逃げただけ。自分の意思は、全く介入していない。
 狼狽えて戦わなかったのは麗羽の失態。鼓舞も指揮も、自身の根幹が揺るがされた事で出来なかったのだ。
 何処へ逃げるのだろう……考えたのはそんな事。
 袁家にも見捨てられるのが確定な麗羽が逃げられる場所など、この大陸には何処にもない。袁家の名を出せば憎まれ疎まれる場所ばかりで、再起を計ろうなどとはこれだけの大敗を喫したモノが口にしても滑稽であろう。
 いや……なりふり構わず、一介の民にまで落ちてしまえば生きることくらいは出来るかもしれない。
 畑を耕したり、モノを作って売ったり……其処まで考えて笑えてきた。

――わたくしは……生き方が分からない。

 与えられた財産、初めから持っていた力、身の回りの事など全て侍女任せ……そしてあの二人に任せていた。
 だから彼女は普通に生きる事が出来ない。泥を啜ってでも生き延びろとは言っても、根本的に生き延び方が分からないのだ。
 恐怖もあった。もし生き延びていたとして、ひょんなことから彼女の正体が周りにバレてしまったら……考えるだけでも恐ろしい。
 そして未だ付き従ってくれる兵士達は彼女の親衛隊だが、寄り掛かるしか出来ない彼女の側にずっと居てくれるかと言えば……否。
 無一文でこれから表にさえ上がれないモノに付き従う人間など、よほどのお人よしか親愛を育んで来たモノではなかろうか。
 麗羽が袁紹であればこそ、彼らは親衛隊として成り得るのだ。名を捨てて民になるのなら、彼らの存在意義は無いに等しい。
 忠義を持ってくれているとしても、彼らを巻き込む事をしたくない……というのも一つ。
 どれだけ考えても、どれだけ悩んでも自分が生きている姿が思い浮かばない。
 それでも生きろと向けられた願いを無碍に出来ず、彼女は逃げる事を辞めなかった。

 そうして街道を駆ける事幾分幾刻。林の中から笛の音が高らかに鳴り響いた。

「な……おい、まさか……」
「嘘だろ……? なんで黒麒麟の嘶きがこんなとこで……」

 どよめく兵士達の声は焦りに彩られ、駆けていた馬がピタリと止まる。上司である猪々子の命令は彼女を生き延びさせろである為に、警戒するのは当然であった。
 笛の音がまた一つ。今度は遠くから聴こえた。まるで……先程の笛の音に応え合わせるかのように。
 兵士達は焦燥からどよめき、厳しい面持ちに変わって行く。

「まずいんじゃねぇのか?」
「ああ、こりゃあ……速く抜けちまう方がいい」
「袁紹様、如何致しますか?」

 考えた末に彼女に問いかける親衛隊の隊長。麗羽は彼の名前さえ知らない。
 頭がそう悪くは無く、敵がどれだけの化け物かも麗羽は知っている。彼女が真名を交換した仲である華琳の考えは読めないが、自分を捕える為に準備を怠らない事くらいは分かっていた。
 故に何も言えない。もう、逃げ場などないのだろう……そう麗羽は思う。
 諦観に支配された昏い眼差しを覗き込んで、親衛隊長は悲痛に眉を寄せた。

「袁紹様……」
「ちっ……あんた……何諦めてんだ……」

 一人の兵士が舌打ちと共に麗羽を睨みつける。
 つい、とそちらに視線をやるも、麗羽は何も言わなかった。

「おい、やめろ」
「いいや、やめないね。俺らは戦ったぞ。命を賭けて戦ったんだ。そんであんたを逃がす為に此れから戦うんだ。なのになんで……諦めてんだよ!」

 言い分は正論で、兵士が感じる普通の事。
 逃がそうとしている本人が逃げる事を諦めてしまうなら、自分達が戦う意味は何処にある、と。

「やめろっつってんだろうが!」
「袁家は!」

 止められても、兵士が大きく遮った。

「俺が戦ってる袁家は、袁紹様の元でないと意味が無いんだよ! だから逃がす! だから生かす! だから殺させねぇ! なのにあんたが諦めてたら……意味ねぇだろ!?」

 しん……と静まり返った。兵士達が思い起こすのは此れまでのこと。
 街では、彼女がバカのような高笑いを上げながら巡回する日々があった。
 戦では、優雅に優美に、どっしりと自信満々で構える彼女を守ってきた。
 悪逆非道の限りを尽くして賊徒の如き戦いをしてきたわけでは無い。此処に居るのは、何処の軍にも居る主の為の兵士達。
 故に、彼と幾人かは麗羽の諦観が許せず、親衛隊長と幾人かは麗羽の心を慮っている。

 自分を叱りつける声を初めて聞いた気がした。名前も知らない兵士にむき出しの叱咤を向けられるなど、麗羽としては初めての経験。
 そも、彼女を叱るモノなどいやしない。暗く脅されたり、駆け引きがあったりと、真っ直ぐに怒るなど誰もしなかった。猪々子や斗詩でさえ、彼女には何も言わなかったのだから。
 ありがたい……と麗羽は思う。励ましてくれているとも取れるから、彼女の心は少し震えた。
 しかして……彼女は正確に理解している。もう袁家は終わりだ、と。それを説明する事さえ、想いを向けてくれるならしたくなかった。

――なら、わたくしはどうしますの?

 自問を投げれば、自答が脳髄に浮かんだ。
 ふ……と麗羽は小さな微笑みを零した。次に鼻を鳴らして、兵士を嘲笑った。
 兵士の優しさを受け止めて、彼女は仮面を被りなおし、不敵な笑みが甦る。

「あらぁ……このわたくしにそんな口の利き方をするなんていい度胸ですわね。あなた……このモノの頸を刎ねなさいな」

 親衛隊長に命じる声は普段通りの麗しさで。
 兵士達は信じられないようなモノを見る目を浮かべ、呆気に取られる。

「なにをしていますの? わたくしは頸を刎ねろと言いましたわ。早くおやりなさい」
「それは……」
「出来ない? ではそっちのあなたが頸を刎ねなさい」
「い、いえ……俺は……」
「わたくしの命令が聞けない、と?」

 目を細めて見下す麗羽の瞳は冷たく輝く。威圧を含んだその空気に、兵士達は圧された。

「そう、あなた方は全員わたくしの命令に従わない……なら袁家の、わたくしの敵ですわ。ほら、あなたの敵が現れましてよ? 殺しなさいな」

 今度は先ほど怒りを向けた兵士に言い放った。
 ぐ、と言葉に詰まった兵士は、何も言い返せない。
 なんたる無様、とわざとらしく呟いた麗羽は大仰に手を巻いて、いつも通り優雅に手の甲を口元に持って行く。

「ふふ……忠義はどちらにありますの? あなた方は誰に従っていますの?」
「え、袁紹様に――――」
「このわたくし! 華麗なる袁・本・初に従っているというのなら、指先一つの命令まで全てをお聞きなさいな。出来なかった時点であなた方は袁家では無いですわねぇ」

 彼女は一寸、目を伏して自分を叱咤する。

――わたくしは最後まで袁紹で居なければ。麗羽のままでは死ねない。

 呆れて離れて行けばいい。憎んで離れて行けばいい。自身の臆病が作った敗北は、自分だけの責としてまっとうしなければ、と。
 王は死に方を間違えてはいけない。袁本初が王であるのなら、傲岸不遜で、自分勝手で、バカで、わがままでなければならない、と。
 脚が震えているのに気付かれていないか、声が震えていないか。大丈夫大丈夫と口の中で呟いて心を落ち着かせていく。
 くるりと、彼女は馬首を巡らせる。何をしている、と兵は思うも彼女の背を見つめるだけであった。

――こんな傲慢な姿を見せても離れて行かないなら……普通に話すしかないですわね。

 いい兵達だ、と思った。兵を消費物のように扱ってきたが、彼らにも心があるのだと認識が深まる。
 ゆっくり、ゆっくり彼女は馬を進めて行った。誰も従えず、誰も侍らせず、たった一人で。

「ど、何処へ……?」

 堪らず問いかけた兵士の声は、不安をこれでもかと映した曖昧な声音。
 振り向きもせずに麗羽が苦笑を零した。

「わたくしは華麗にして雄々しく、美しい袁本初。こそこそ隠れて逃げ去るなんて似合いませんわ。臣下の願いを聞き届けるのも王の務めなれば、臣下の意を押しのけて我を通すのもまた王。わたくしの臣下で居たかったのならば、あなた方も一つくらい命令をお聞きなさいな、おバカさん達」

 麗しい声は凛と場に落ちて、鈴の音の如く脳髄に響く。

「汝ら、追い駆ける事を禁ず。直ちに終戦報告を伝えて回り、我が愛する袁の民にして同朋の命を……せめて一つでも多く救うべし。
 ……出来ないとは……言いませんわよね?」

 言い切って、豪著な金髪がバサリと揺れる。
 振り返った表情は妖艶に過ぎた。
 嗚呼、嗚呼、と嘆息を漏らすモノ幾多。
 御意に……と膝を付く者と、ギシリと歯を噛み鳴らして走り去って行くモノに分かれた。

 袁の王の元に侍り、命を賭けて戦う事を禁ずる。それが袁紹としての最期の命令。敗北宣言の意味を持つそれは、王としての責務を果たす事を伝える。
 臣下であるのなら、王の望みを叶えんと動かなければならない。故に彼らは彼女を追ってはいけない。

 支える者を全て失った彼女は、この時になって初めて本物の王として立った。
 奪われた事を怨む事無く、負けた事を誰かのせいにするで無く、人の命を扱っていたモノとして責を全うする為に。







 孤独な背中に金髪が棚引く。たった一人きりの彼女を笑うモノは誰も居なかった。
 一陣の風が吹き荒ぶ開けた場所にて、麗羽を待ち受けていたのは不敵に笑う覇王。
 笑みを深めて、優雅に優美に、どちらともなく視線を合わせた。

「ごきげんよう、麗羽」
「ごきげんよう、華琳さん」

 静かな言交は決戦の始まりよりも穏やかにして麗しく。
 警戒を怠らない秋蘭や季衣、流琉には目もくれず、麗羽は華琳だけを真っ直ぐに見据え続けた。

「其処まで至るのが少し遅かったわね、“袁本初”」
「あなたは些かせっかち過ぎませんこと? “曹孟徳”」

 話すのは王としてか、それとも個人としてか……見極めた華琳は間違えずに彼女の名を呼び変えた。

「一人で来た……という事は、負けを認めたと取っても構わないかしら?」
「ええ、間違いありませんわ。既に戦闘停止の指示は出しておりますもの」

 小さく吐息を零して華琳は目を細めた。嬉しそうに、楽しそうに。そしてほんの少しの、寂寥を感じて。

「そう……じゃあ、あなたが此れからどうなるかも……分かってるのね?」
「わたくしに相応しい、美しい舞台でと……お願いしてもよろしくて?」
「ええ、あなたに相応しい、面白い舞台を用意してあげる」

 ふわり……と麗羽が馬から軽く飛び降りる。
 口元は微笑みを刻み込み、決して崩れることは無い。
 脚が震えていた。自分が此れから死ぬのだと思えば、恐くて仕方ない。それでも彼女は笑みを崩さない。
 敗北を口惜しいと感じる心はあった。負けた理由も、勝てた可能性も既に考えつくして知っている。
 結果はたった一つだけ。華琳の後ろには大勢の臣下が居て、麗羽の後ろには誰も居ない。
 両腕を手首で合わせた。両の手の平を自分で握りしめた。やはり彼女の笑みは決して崩れなかった。

「誇り高き王足り得るあなたに敬意を以って、汚さず、手を縛るだけで連れて行く」
「感謝致しますわ」

 静かな決着だった。
 血の流れない、刃が合わさらない。言葉でも斬り合わない。そんな決着。
 敗者であっても優雅なる彼女は馬に乗せられて断罪の場所へと進む。


 華琳は何を問いかける事も、話す事もせずに、己が王佐と共に先頭を切って軍を進めて行った。

「まだ終わってないわよ、桂花」
「……はい、華琳様」

 凛、と鈴の音のような声が響くも、返す声は震えていた。麗羽の成長は自分の友が死ななければ起こらない結果であると、聡く気付いてしまった為に。

「泣き顔を見せるな」
「……はい……華琳様……」

 言いながらも、彼女の頬には涙の雫がつたって落ちる。
 桂花の方を見もせずに、華琳はただ前だけを見ていた。

「終わってから……泣くなら友の前で泣きなさい。それが嫌なら、私の胸を貸してあげる」
「……は、い……華琳様……」

 バサリ、と華琳は羽織っていた外套を桂花に投げ渡した。
 くぐもった嗚咽が風に消える。先頭に居るから、彼女の涙を見たモノは誰も居なかった。









 †




「この大バカ者がっ!」
「ぐへっ」
「ほんま……バカやバカやて思うとったけど、其処までバカやとは思わへんかった、で!」
「うぐっ」

 脳天に直撃する春蘭の拳に涙目になった秋斗。追い打ちを掛ける霞の拳も同じ所に当たり、痛みから蹲った。

「もう! 動いちゃダメなの!」
「む、無理言うなよ……」

 そんな彼の治療を甲斐甲斐しく行っていたのは沙和。凪や真桜が怪我をした時ように常備している軟膏を付ける場所がズレてむぅっとむくれる。
 顔の腫れは冷やしてどうにか見れるくらいには治まったモノの、猪々子との殴り合いで傷ついた箇所は其処だけでは無く、身体にも幾つかあった。
 肩にぬりぬりと軟膏を塗られながら、彼は下から二人を涙目で交互に見つめる。

「すまん」

 小さく一言。
 怒られた後の子供のような表情に、霞が呆れたように喉を鳴らし、春蘭が鼻息を一つ鳴らしてそっぽを向く。

「はい、出来たよ」
「ありがと、于禁殿」
「お礼は街に帰ってからでいいの」

 ふふん、と得意げに言う沙和が何を言い含めているかは彼とて分かっている。

「……分かった。娘娘の新作甘味を奢ろう」
「さっすが徐晃さん! 話が早いの! でもー……凪ちゃんと真桜ちゃんも一緒なら嬉しいなーって」
「……ん、了解」

 仲良し三人組で連れて行けと言ってくる辺り、無茶をした事を許すつもりは無いらしい。
 凪に一寸視線を送り、じとり、と見つめられた事で彼は財布を軽くする事を決めた。

「どうせなら皆で会食をするというのは如何でしょうー?」
「店長に城に来て頂くのがいいですね。城の料理人達の勉強にもなりますし」
「おおっ、ええなぁ! 美味い料理に美味い酒、んでわいわい楽しい時間! 最高やんか!」

 乗っかって話す風と稟に霞が合わせ、一様に皆が頷くのを見て彼の顔がさーっと蒼褪める。

「おい待て。んなことしたら俺の給金じゃ足りないんだが?」
「食後の“でざぁと”を一品、お兄さんの自腹で行けばいいのではー?」

 慌てて言うと、風がなんでもない事のように答えたが……

「けっ、甲斐性無しめ」

 頭の上の物体がすかさず貶した。

「てめぇ宝譿……バラバラに分解してやろうか」
「きゃー、襲われるのですー」
「……だからよ風、棒読みで言っても意味ないだろ……ってお前らなんで引いてやがる!」

 わたわたと手を振る風の仕草に呆れのため息をついても、誰も乗っかってくれない。
 ドン引き、といった様子で皆が一歩下がった。一応振りではあったが。

「そりゃあ街でも官渡でもやたら朔夜とべたべたいちゃいちゃひっついとったし、なぁ?」
「うむ、言い逃れ出来まい」
「ぐ……それは……」
「うわ……やっぱり秋兄って女たらしなんだ」

 霞が茶化す目で言うと、秋斗の言葉を遮って、椅子に逆座りしてゆらゆらと船を漕いでいた明がぽつりと呟く。

「そうなのー! 無茶しに行った日のお昼にも詠ちゃんと手を繋いでるの見たって沙和のとこのクソ虫も言ってたから間違いないの!」
「へぇ、そういえば猪々子にも俺のもんになれとか言ってたかー。ねー、楽進ちゃん?」
「ほんまか凪!?」
「はい。確かに言ってました」
「しかも泣かせた上に秋兄のもんになるって言わせてたしー」
「うっわぁ……秋斗、さすがのウチも引くで」
「……確かに言ったけどさぁ」
「むむむ……風達の心配を余所に敵の女の子を口説いていたわけですか。張コウちゃんとお熱い夜を過ごしたにも関わらず」
「熱い夜っ!? 戦場の狂気に当てられて湧き立つ情欲を鎮める為に一夜だけの切ない関係をっ!? ま、まあ華琳様も火照りを鎮める事があるそうですしそういうのも――」
「待て! 俺は無実だ!」
「ぎゅーっ! て、してくれたのに、やっぱりあたしの事は遊びなの? そうやって他の子の事も弄んでるんでしょ!」
「誤解させる事言うなバカ明!」
「おい徐晃。ちょっと面を貸せ。天幕の裏まで来い」
「行くか! 殴るんだろ!? 絶対行かねぇ!」
「……お前の性根を叩きのめすだけだ!」
「叩きのめしてどうする! 言うなら叩きなおすだろ!? それじゃ殴るつもり満々じゃねぇか! 文醜の事も明の事も深い訳があってだなぁ――――」

 わいわいと騒ぐ皆は戦も終わり、陣幕の中で華琳達の到着を待っている最中である。
 彼が無茶をした事を心配しない彼女達では無く……秋斗が帰って来たのを見つけた沙和が治療しようと言い、凪と明が天幕に引き摺って行き、兵に場所を聞いた風と稟が直ぐ詰りに向かい来て、戦場で合流していた霞と春蘭が一発ぶん殴ってやる為に来た……といった状況であった。
 ちなみに、猪々子と斗詩は現在軟禁してある。武器を取り上げて兵士に監視を命じただけで、全く身動きが取れない状態にしたわけでは無い。さすがに二人を同じ場所に置いてはいないが。

 皆がこうして暖かく迎えてくれた事に感謝が湧き、彼は弄られながらも少しばかり安息を感じていた。
 ただ、ケタケタと笑う赤の少女に皆が違和感を覚えているのも読み取っていた。自然に混ざり込めるように明自身も合わせているが、他の者達が何を聞きたいかなど分かり切っている。
 幾分話が一段落した所で、彼が明に目を向ける。

「……話すか?」
「んにゃ? あー……桂花が来てからでいいや」

 緩く笑う明の瞳に寂寥が宿る。失った痛みを共有出来るのは彼女が一番だ。
 二人の会話に耳をそばだてていたモノは多い。陣幕の何処を探しても明が救出に向かった少女が居ないのだ。連れていた張コウ隊も戦場に立っていたのだから、どういう事かは皆も大体は想像出来ていた。

「あ、そや秋斗」
「なんだ?」

 不意に霞が思い出したかのように声を掛けた。

「詠から、あんたに話あるから怪我の手当て終わったら陣内の北東にある物見櫓まで一人で来いって伝言預かっとるで」
「えーりんが? なんで?」

 そう言えばまだ来てないなと思い至って問いかける。
 バツが悪そうに顔を顰め、霞は盛大にため息を吐いた。

「まだあんたが話したことあらへん軍師……居るやろ?」
「……そういう事か」

 “彼女”を知っているモノ達の意識が彼に向く。曹操軍の皆が知っている話……一人の少女の恋物語。せめて彼女に幸せを、と彼女達は願っている。
 黒麒麟の始まりからずっと傍に居た少女が、ずっと彼との再会を拒んでいた“彼女”が……此処に居るのだ。

「月が此処に居らん事とか、他にもいろいろ話さなあかんっちゅうてな、詠は先に会いに行ったんや。なんで物見櫓なんかは分からんけど」

 霞は知らない。彼と彼女と詠と月が、藍橙の空を見上げていた事を知らない。
 戦が終わる度に彼が何をしていたか知っているのはあの三人だけで、その行いの意味を理解しているのは三人以外では華琳だけ。

「そっか……じゃあ行って来るかね」

 出来る限り気楽な声を繕って、彼はどっこいせと立ち上がる。途中で明と視線を合わせた。

「……明」
「だぁいじょうぶ♪ 秋兄は秋兄のしたい事してきたらいいよ。あたしはその間にー……」

 周りを見回し、明は普通に笑った。それは昏さも無い、一人の人間の笑顔だった。

「ちゃんと此処の人達に曹操軍の新入りとしての自己紹介を済ませておくからさ」

 呆気に取られたのは数人。こんな顔も出来るのか、と。敵であったモノが仲間になるのは霞で経験済みであるが、明の代わり様に彼女達は付いて行けず。

「元譲、あんまり明の挑発に乗るなよ?」
「こいつの安い挑発になど乗るかバカモノ」

 動じなかった春蘭に話し掛け、相変わらずだ、と苦笑を零した彼は陣幕の出口をバサリと開いた。

「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃいなの」
「お気をつけて」
「ゆっくりしてきぃやー」

 彼の背中に皆から声が掛かった。背中越しにひらひらと手を振って彼はソレに応えた。ああいいな、と彼は笑った。彼女達との時間も、深く聞かずに見送ってくれるところも、今の彼にとっては大切な時間。
 割り切れない部分もあるかもしれないが、きっと彼女達とも上手く行くだろう……明についてはこれでいい、と彼は思考を次に向ける。
 ふいと見上げた空には薄い橙色。綺麗な夕日が地平線に浮かんでいた。

――夕も一緒なら……よかったんだがな。

 救えなかった少女に想いを馳せそうになるが、もう煙と共に見送ったのだと、割り切る為にふるふると首を振った。

 歩みを進めて、櫓から少し遠い所で、彼は一つの人影を見つけた。
 腕を腰に当てて、ジト目でこちらを見ている人物は見慣れた少女。

「お疲れさま、“えーりん”」
「……ばか」

 労いに返される短い言葉。たった二文字にどれだけの想いが込められていることか。
 戻らなかったのか、とは聞かなかった。彼がどれだけ苦悩しているか知っている。だから聞かない。
 ぐ、と唇を噛んだ詠は彼に駆け寄りそうになるもどうにか抑え込む。

 本当は……抱きついてしまいたかった。心配かけて、と怒って。無事だったのが嬉しい、と涙を零して素直に伝えられたら……それはどれだけ満たされるだろうか。
 しかし、彼女にはそう出来ない理由がある。誰よりも彼を想っている“彼女”を差し置いてそんな事は出来なかった。

「街に帰ったら月と一緒に説教するから覚悟しときなさい」
「うん。心配かけてごめんな」
「……っ……謝るくらいならちゃんと先に言いなさいよ」
「……いつもありがと」
「……ホントに、ばか、なんだから」

 本当に言いたい事を読み取れぬ彼でもなく、それを知らぬ詠でもない。互いに踏み込み過ぎない距離を保ち、具体的な言葉にせず、詠と秋斗は互いの想いを確かめる。
 もっと続けていたいと詠は思う。だが、それをしてはならない。特に今だけは。
 無言の時が幾瞬だけ流れた。普段なら心地いいはずの時間も、今の詠の心を落ち込ませる。
 少しだけ脚が震えていた。心配そうに眉を寄せて見つめるだけで、秋斗は何も尋ねなかった。

「……ボクじゃないの」

 ぽつりと零された一言は悲哀の響き。
 大きく一度、詠は息を吸い込んで吐き出す。心を落ち着かせるように、そして……割り切る為に。

「ねぇ……“秋斗”」

 呼ぶのは彼が記憶を失ってから決して口から出さなかった真名。彼が彼である為の存在証明。
 一寸だけ目を見開いた彼は、直ぐに目を伏せた。

「ボクじゃ雛里を“戻せない”」

 さっきまで話していた少女を思い出して、尚も彼女の声は震えを強くした。

「黒麒麟だった時の“秋斗”みたいになっちゃった雛里を戻せないの」

 絶望の日に、月と詠が叱りつけて越えさせなかった線引きを雛里は越えた。
 内に持つ愛情故に、彼女は真っ直ぐのままで歪んでしまった。それが詠には哀しくて仕方なかった。

「あんたしか、“秋斗”しか……あの子の殻を破ってあげられないのよっ」

 支えると言ったのに……懺悔に彩られる心は落ち込んで行く。
 ポタリ、と雫が大地に落ちた。一歩、二歩と彼が近付き、詠の頭に優しく片手を置く。

「……おねが、い」

 撫でてくれる片手が暖かくて、耐えきれずに彼の服の裾を握った。震える肩は誰かへの悲哀。彼女が想うのは、大切になった彼と彼女のこと。

「……やっぱり黒麒麟のマガイモノになっちまったのか、あの子」

 自分と同じく、と彼は言わず。
 きっと自分の知らない黒の切片を彼女が持っているのだろう。そして彼女の知らない黒の欠片を彼も持っている。
 寂しげに笑う秋斗を見つめて、詠の涙が止まった。合わせられた黒瞳は濁りなく、そっと涙を拭いてくれる手が温かい。優しさが詠の心を僅かに満たす。

「……徐晃隊のバカ共に誘われたんだ。街に帰ったらゆえゆえとえーりん、そんであの子と一緒に楽しい時間を過ごそうってな」
「あのバカ達から?」
「うん、メシ食って酒飲んではしゃいで騒いで……きっと楽しいぜ?」
「……はぁ、まったく」

 真面目な話を下らない話に。誤魔化す彼が示しているのは、任せておけ、という事だ。昔あった時間を取り戻すのなら、彼女の殻を破るしかないのだから。
 呆れと嬉しさに、詠の頬が緩んだ。変わらない秋斗の在り方に、なんとかしてくれると思えた。

「ボクも楽しみにしとくわ」
「ん、それでいい。じゃあ……行って来る、えーりん」
「うん、行ってらっしゃい、秋斗」

 二人の想いは一つだけ。どうか彼女の心が少しでも救われるように、と。
 背を向ける詠の足取りは少しだけ軽く見えた。振り返って確認した秋斗は、ほっと安堵の吐息を一つ。後に空を見上げて、またゆっくりと歩みを進めていった。



 漸く見えてきた物見櫓の上には人影が一つ。落ちる夕日でその後ろ姿が良く見えた。
 風に揺れる二房の髪。とんがり帽子が印象的で、一度だけの邂逅でもしっかりと覚えている。
 彼はゆっくり、ゆっくりと階段を上った。

 そうしてついた一番上で、陣の外を見やる小さな少女に声を一つ……掛ける前に、彼女が振り向き、ペコリと頭を下げた……決して視線を合わせることなく。

「こんなところまでお呼び出しして申し訳ありません。そして……あの時に名乗り返しもせず逃げてしまってごめんなさい。姓は鳳、名は統、字を士元といいます」

 気にしないでくれ、と伝える暇も持たせずに、彼女は顔を上げて彼を見つめた。
 何を言おうか、何を話そうかと考えていた事も、彼女と視線を合わせただけで秋斗の頭から消えていく。
 ドクンと跳ねる心臓。脳髄に思い出されるは彼女の満面の笑顔と絶望の泣き顔。
 引き裂かれるような痛みから反射的に抑えた胸を握りしめて、苦笑さえ浮かべる事も出来ずに、彼は苦しげに眉を顰めた。

 雛里は儚げな微笑みを浮かべて、桜色の唇から続きを流した。

「お久しぶりです……“徐晃さん”」

 一陣の風に運ばれて届いた言葉は、今の彼を受け入れる為だけに紡がれた。
 大切な思い出を全て殻に包んで、今の彼と此れから、決して深入りしない新しい関係を築く為に。

 夕暮れは美しく、彼女の背には藍色の空が、彼の背には橙色の空がよく映えていた。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

遅れて申し訳ありません。

猪々子ちゃん捕縛。彼が何を囁いたかは後々に。
麗羽さん捕縛。自分の命を対価に兵の命を失わせない選択を選びました。原作の雪蓮さんとほぼ同じ決断になります。
原作とは違い、袁家三人組は逃げられませんでした。所属人物、乱世のカタチが変わります。
戦は終わりですが、まだやる事が残っています。


次は彼と彼女のお話です。

ではまた 
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