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乱世の確率事象改変

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彼らの黒の想い方

 徐晃殿と共に戦ってみようと決めて駆けた先、不敵に笑う彼にこのまま真っ直ぐに攻め続けるのかと尋ねて、彼はまあ見てろと楽しげに笑った。
 三つの指で合図を送り、突き出された拳と共に幾多の槍が投げられる。
 徐晃隊の特異戦術の一つとして有名な投槍。彼が取った手段はそんなモノだった。

――なるほど……これなら正面を兵列突撃で抑えつつ後ろにも攻撃を仕掛けられる。

 徐晃隊の練度あればこそではあるが、有用性は確かだった。
 指揮系統の攪乱によって強行突破する隙をこじ開けた事になる。徐晃隊ならば……出来るだろう。

「さて……やれる事はやったが、上手く行くかどうか」

 しかし彼は、何も命じずにのんびりと構えていた。今押せば確実に崩せるのに……如何して何もしないんだ。

「あの……徐晃殿。強行突破しないのですか?」
「強行突破? 徐晃隊でか? なんでだ?」
「いえ、敵は少なからず動揺してますし、徐晃隊の練度ならば敵将までの道を切り拓けるのではないかと」

 訝しげに眉を顰めた彼と視線が絡む。
 直ぐに、ああそうか、と納得したように頷いて、彼は苦笑を零した。

「そんなことしてたら人が死に過ぎる。それに、黒麒麟が帰って来てないから、その身体に決死突撃させるわけには行かねぇな」
「しかし……それでは直ぐに敵も立て直しますからただの無駄撃ち――」
「いんや、これでいいのさ。無駄にはならん。俺と黒麒麟の身体が此処で戦ってるってのを意識させれば良かったのさ」

 訳がわからない。ぼかして言う彼はいつも通り答えを教えてはくれない。
 考えてみるも、やはり自分には分からなかった。
 幾瞬、戦場の空気が分かり易く変化した。怯えを孕んだその空気はよく感じたから知っている。遠くに見ていた敵将の位置で、いくつもの血しぶきが宙に上がった。
 仲間割れ……でも起きたのだろうか。さすがに敵将のほん近くでそんな事が起こるはず無いだろう。
 呆気に取られているわたしの横で、彼が頬を吊り上げた。

「俺が此処に来たって事はだ、あいつも一緒に来てるってことなんだが?」
「……あ」
「そういうこと。戦ってるのは俺らだけじゃない。まあ、楽進殿が抑えててくれたから仕込み出来たんだけど」

 気付けば早い。彼はあの時、一人で戦いに向かったわけでは無く、赤い女と二人で駆けた。
 元袁家の紅揚羽と田豊の護衛をしていた張コウ隊を使って、彼は顔良だけを狙っていたのだ。真正面から攻めるでなく、黒麒麟の名を囮に使った搦め手が本当の策。
 よほど相手と信頼し合っていなければ出来ない動きだ。張コウが死ぬ可能性を……彼は考えないんだろうか。

「俺とあいつの遣り方、卑怯だと思うか?」

 彼が笑う。吸い込まれそうな程に昏い瞳が細められ、悪い顔だ、と子供のような感想が浮かんだ。

「……いいえ」

 戦をしている。堂々と戦わずとも、勝てばいいのだ。確かにそれは正しいし、当たり前の事だろう。
 だまし討ち……それが彼の取った選択。曹操軍としては、したことが無い策だ。
 期待していた心が少しばかり落胆していた。これはわたしのわがまま、なんだろう。正々堂々と力をぶつけ合うやり方を求めてしまう自分は、戦に綺麗さを求めてしまう自分は……間違いなんだろうか。
 人の命を考えるのなら最善のはずなのに。

 しばらくして、金属音が幾重も鳴った。見れば顔良の率いていた部隊は戦うのを辞めていた。
 剣を投げ捨てるモノ。槍を地に叩きつけるモノ。力無くするりと武器を零すモノ。急いで手から武器を落とすモノ。口惜しさと寂寥を表情に浮かべている者達と、安堵に包まれている者達が入り混じっている。
 何故こんなに早く……と疑問が湧いた。聞いてみよう。

「敵将を討ち取られても戦えるはずなのに、敵は何故戦うのを辞めたのでしょうか?」

 この戦いが官渡の最後なのだから抗って当然だろうに。わたし達の兵ならきっと戦う事を選ぶ。

「……人質だよ。明から聞いたが、顔良の部隊は優しい奴等が多いんだと。どっちみち抗うなら皆殺しの戦場になっちまってるって紅揚羽と張コウ隊を見てれば理解出来るだろうし、顔良の無事を約束するから戦うのを辞めろと言えば心に迷いが生まれる。
 将の命を優先するか袁家の為を優先するかは賭けだったが……もう兵士達も、袁家が負けるって分かっちまってんだろうな」

 命賭け死して尚、主の為に抗う誇り高さを持つべし……顔良の育てた兵士達はそういう風には考えられないという事か。
 ああ、そうだ。顔良は延津で生きろと声を上げたんだった。兵士達の心にはその姿が深く根付いているはず。
 だからきっとそれも、この状況を作る切片として加えていたのだ。紅揚羽もあの延津に居たのだから、それを確認して計算に含まない彼では無い。
 其処まで考えてブルリと寒気が一つ。

――人心掌握が段違い過ぎる。この人は……将と言うよりも軍師に近いのではないのか?

 人質、だまし討ち、勝ちと効率の為にどんな手段でも用いる。ある程度の線引きは越えそうにないが、きっと彼は軍師としても戦える。善悪ではなく利害にこそ重きを置いて計算する彼は、軍師の思考に近しいのだろう。
 いや……正しくない。元々の彼は華琳様が欲しがる程の逸材。ある意味で劉備軍を影で動かしていたのだ。黒麒麟の身体は“彼の為の軍”だ。なら、彼は華琳様と同じで……。

 思考に潜り続け見つめていると、彼がチラと横目で見てきた。

「で、だ。お前さんにして貰いたい事があるんだが、いいか?」

 ハッとして、何故自分を呼んだのかをこれから話されるのだと気を引き締める。
 強く見据えると、彼はまた苦笑を零した。

「クク、そう固くなりなさんな。せっかく可愛い顔してんのによ。ま、難しい顔も凛としてて絵になるけど」
「……っ。軽い言葉は戦場では不必要です」
「事実だ。お前さんは可愛い。真桜の部隊のバカ共にも見惚れてる奴多いって聞いたぞ?」
「なっ……だ、だから、そ、そういうのは……」

 自分でも気付く程に顔が熱くなった。この人はいつもこうだ。人が真面目にしているのに空気を読まないで崩して来る。読めないのではなく、読まない。
 戦中だから少しでも早く動いた方がいいのに、のんびりと構える姿はわたしを苛立たせる。
 睨むと、彼は残念そうに首を左右に振った。何故そんなに落ち込むんだ、あなたは。戦中くらい集中して欲しい。

「楽進殿にしてほしいことだが……二つから選んで貰う。一つは袁紹軍を追い詰める為に部隊を率いて敵を誘導すること。もう一つは……俺と一緒にちょっくら無茶をする事だ」

 楽しそうに話す彼は何を考えているのか。
 無茶と言った。わたしの身を案じるでなく、この戦場を操る為に共に戦おうと、そう言うのか。

「無茶、とは?」

 聞き返すと、彼はまた悪い笑みを浮かべる。
 悪戯が好きな彼らしい子供のような……でありながら、悪辣だと感じてしまうのは、彼の持つ冷たさを見た故だろう。

「明が気絶した顔良を馬に乗せて文醜の近くまで行くから、敵が引き付けられてる隙に奇襲を仕掛けて文醜を捕まえる。独断専行だし連携なんざ期待出来ん無茶ってわけだ」

 茫然と彼を見つめた。
 この人は最大限に人質を使うつもりなのだ。勝ち戦だとしても……その行いは余りに卑劣ではないか。
 誇りなど欠片も無い。もう落胆の心が抑えられなかった。

「……わたしは反対です。何もそこまでする事は無いでしょう? そのような方法を用いてしまっては……我らも袁家と同類に成り下がってしまう」
「兵士達が付いて来なくなる、風聞が悪くなる、曹操殿の名にキズが付く、お前さんらに嫌われる……不利益はそんなとこかね」
「そうですよ! 華琳様が掲げる誇りを穢してしまっては……」

 自分の言い草に違和感を感じて言葉を止めると、徐晃殿の目が細まった。
 違う。わたしが嫌なんだ。華琳様を理由にしてはならない。

「わたしが……嫌なんです。そんな戦いをしたくない。例え……犠牲になる兵が増えるとしても……」

 胸を張って勝ったと言えるか。そんな勝ち方をして、満足できるか。否、否だ。
 そんな戦を続けてしまうと……この世界は、根本的な所で変わらない気がする。華琳様の所で戦う意味さえ、無くなってしまう。

「一人でも多く救いたいのにか……俺と明を受け入れるならそれくらいの策は使ってみせるべきなんだがなぁ……」

 ガシガシと頭を掻いて、呆れたように彼はまた笑う。その瞳に昏い色は無く、キラキラと輝く子供のような色があった。

「お前らはどう思う?」

 不意に、彼は兵士達に声を投げた。普通は兵士に意見を求める事などしないのに、平然と。
 周りに居た黒の兵士達は、彼をじっと見やって……幾人かがやれやれと首を振って口を開いた。

「人を試すクセ、程々にした方がいいぜ、徐晃殿」
「本気でするつもりが無いなら口にすんなバカ野郎」
「俺らにも止められるって分かってやがる癖に」

 口ぐちに咎める彼らには呆れの雰囲気。全てお見通しだと言わんばかり。

「あー、やっぱお前らにはバレるのか」
「当たり前だ。いっつも御大将は俺らを試してやがったんだからよ」
「部隊所属の初めっから兵士を試すような奴だったんだぜ? もう慣れた」
「クク、そうかいそうかい、お手上げだ……ったく、敵わねぇなぁ」

――試す? 今の策の話は……わたしを試していた?

 目を瞑っている彼は嬉しそうに微笑んでいた。後に、ゆっくりとわたしと目を合わせて、すっと頭を下げる。

「すまんな楽進殿。試させて貰った」
「何故、試したのですか?」

 別に試された事は気にならない。その程度で怒る気にもならない。華琳様もよく人を試すし、何かを見極めるには必要な時もあるだろうから。

「俺から学びたいなんて言うから、何を学びたいのか分からなくてな」

 何かを教えられるほどの人間じゃない、と締めくくって、彼はわたしから目を切って戦場をぐるりと見渡す。
 全ては言ってない。そういう人だ。わたしに考えさせるように発言を選んでいる。

「……自分は強くなりたいんです。あなたとあなたの率いる部隊は強い。記憶を失っていてもあなたは黒麒麟と変わらなかった。自分は……あなたを越えたいんです」

 はっきりと口に出した。
 彼と彼の部隊。“黒麒麟の全て”を越えたい。それがわたしの中にある一番大きな欲だ。
 春蘭様や秋蘭様、霞様に追いつくには、今のままでは足りなさ過ぎる。
 指揮の方法を盗めばいいのか? 経験を積めばいいのか? それとも自分の力を高めればいいのか?
 否、その程度では無いのだ。この人達のような……兵達を引きつけて止まない求心力は。自在に操れる程の信頼を持たせるには。
 少しだけ、今回率いていた奴等は信頼を持ってくれていた。だがまだ足りない。もっと、もっと……わたしは……。

「強さってのはよく分からんもんだ。越えた越えてないは他人の評価でしかない。だから俺はお前さんが学びたい事の答えは持ってない。自分で考えて見つけるしかないと思うが……まあ、気が済むまで好きにすればいい」

 大きなため息を一つ。もうこれ以上は話すつもりも無いようで、彼は月光の馬首を巡らせて戦場を俯瞰し始める。
 同じように戦場を眺めながら、何が違うのかを考えてみようとするも……間の悪い事に赤い髪の女が顔良を背中に背負ってこちらに向かい来た。

「よぉ、ご苦労さん。思ったより早かったな」
「んー、この子と戦わなかったからねー……って、なんで楽進がこんなとこにいんのさ……」

 わたしの方を見て一言。彼女としても予定外だったらしい。目を真ん丸にしていた。

「俺が呼んだ。とりあえず説明は後にして……お前ら、顔良とその部隊の見張りは任せるよ。武器を持った奴とか変な動きした奴らは殺して構わん。同時に、楽進殿の部隊と一緒に此処を纏めといてくれって稟に……郭嘉に伝令を送れ。追加指示があれば従ったらいい」

 言われて直ぐ、彼らは張コウから気絶している顔良を受け取る。
 しかし……なんなのだその指示は……。まるで自分達は此れから別行動をすると言ってるようにしか聞こえない。
 試していたのだからさっき言った事ではない。今から何をするつもりなのか……私には分からなかった。

「ちょ、ちょっと待ってください! まさか部隊を置いて行くんですか!?」
「ん、そうだけど? 戦場の範囲は決まってるから皆が皆戦えるわけじゃなし、顔良の部隊は抑えられたし元譲とか霞とか白馬義従とか居るから、こいつらは先に休ませても問題ない」
「たった三人で何をすると――」
「あははっ♪ 楽しい事に決まってんじゃーん? あたしも秋兄も欲張りだかんねー♪」

 ケタケタと笑う張コウに思わず眉を顰めた。
 彼の考えている事が分かるのか? たった三人で何が出来るんだ。独断専行は他の部隊の邪魔になるだけだろうに。
 自分には分からないのがもどかしい。教えて欲しいが……まだ教えてくれそうにない。道すがら教えてくれるだろうけど、張コウが分かっているというのが少しばかり苛立ちを生んだ。

「秋兄ぃー、乗せて?」
「お前の分の馬も用意させてるから却下だ」
「えー、仕事頑張ったんだからいいじゃん」
「戦は終わってないから仕事中だろ?」
「……ケチ!」
「わがまま全部聞いてやると思ったら大間違いだバーカ」
「この前の夜はあんなに熱く抱きしめてくれたのにぃー! 聞いてよバカ共ー! あたし秋兄に遊ばれたぁ!」

 きゃいきゃいと騒ぐ張コウ。此処が戦場だというのに、緊張感の欠片も無い。
 仲間を裏切り、あまつさえだまし討ちをした後でもケロッとしている。私には……まるで理解出来ない。
 ただ後に、此処に居る輩は全て、私には理解出来ない人間ばかりだったと初めて気付いた。

「おうおう、また無自覚で勘違いさせるような事しやがったのかよ」
「はぁ……記憶失っても女たらしは変わらねぇのか、あんた」
「そろそろぶっ殺してもいいんじゃねぇかな?」
「鳳統様、ゆえゆえ、えーりんだけじゃ飽き足らず……おいぃ? なんでだ……今度は見た目幼女じゃねぇぞ?」
「はぁ!? 徐公明が幼女趣味じゃねぇ、だと!?」
「俺らと熱く語りあった夜を思い出せ徐公明!」
「貧乳は“すてぇたす”なんだろ!? 希少価値なんだろ!?」
「誇りを無くしたか……徐公明っ」
「お前偽物だな!? 楽進様は上手く騙せたようだけど俺は騙されねーぞ!」
「誰か直ぐに幼女連れて来い! 早急に治療が必要だ!」
「この戦終わったらえーりんに告げ口してやるかんな!」

 やんややんやと騒ぐ男達。貶して、責め立てて、記憶を失ったことすら話に上げて、徐晃殿に声を上げていた。
 彼らの言葉を耳に入れたからか、腹を抱えてげらげらと笑う張コウは目に涙を浮かべて彼を指さす。彼らにも、可笑しそうに笑い転げているモノまで居た。
 戦場で日常が出来上がった。ついさっきまで殺し合いのただ中に立っていたというのに……わけが分からない。
 何をしているんだこいつらは……そう思っても、余りの異常さに口を挟めない。自分が……おかしいんだろうか? いや、普通なはずだ。

「こんの……バカが。明、あとで覚えとけよ? お前らも詳細知ってるくせに明に乗っかってちょけてんじゃねぇ!」
「はっ! 幼女侍らせてから出直して来い女たらし!」
「俺らに認めて欲しけりゃ戦を早く終わらせて夜通し語って見せろ!」
「そんときゃしっかりと幼女趣味認定してやるけどな!」
「早く行け“ろりこん”め。お前には待ってる幼女が居るだろう?」

 自分の口からため息が漏れる。
 子供だ。なんでこんなに気楽でいられるんだ。正直な所、少しだけだが、尊敬していた自分が情けなく思えてくる。
 頭が痛い。幼女趣味だなんだと聞き続けて戦の事など忘れてしまいそうだった。
 下らない話をして、兵士達に弄られて泣きそうになっている彼が……月光の上でくるりと前を向く。
 それを見て張コウも、笑いを無理やり押し込めて、連れて来られていた馬にひょいと飛び乗った。

「あー……ふふっ、最っ高♪ んじゃあちょっと行って来るから、あたしのバカ共の事もよろしくね♪ あ、それとさ、その中の一人に暴れてる奴等に対しての伝令に行けって言っといて。内容はー……まだ食べるモノあるから今は我慢……ってね」
「任せてくれ張コウさん。しっかりとやっときやす」

 返答を聞いてからひらひらと手を振って、彼女は徐晃殿と馬を並べた。
 私も急いで馬に飛び乗って並ぶ。馬の扱いはそんなにうまくないけど……頑張ろう。

「おい、徐公明」

 彼の背中に、一人の兵士の声が掛かる。ピクリと身体を跳ねさせた彼は、振り向かずに片手をゆっくりと左右に振って応えた。
 彼らを見るとその表情は、さっきまでの砕けたモノでありながら優しく、労わるような視線を持っていた。

「……あんたは御大将とは違う。ほとんど同じだが絶対に違う。でもよ……俺らは御大将と同じ扱いしかしねぇぞ」
「だからそんな寂しがるなよ。あんたの事も信じてんだ」
「許昌で待ってるバカ共もいんだ。早く帰って酒飲みてぇ。もちろん、ゆえゆえとえーりんと鳳統様も一緒に……だろ?」

 優しい、優しい声だった。
 彼らからの声に、徐晃殿は何も言わずに馬を進めて行った。少しだけ、肩を震わせながら。
 月光の上、彼は天を仰いで大きな声を張り上げた。

「敵わねぇなぁ……ああ、敵わねぇ! 行って来るぜ、バカ野郎共が!」

 初めての戦であるはずなのに、彼が自然過ぎたから、わたしは気付かなかった。
 向ける信頼から、徐晃殿は誰の事も顧みないで笑っていたのか。弱い自分を見せないままで。
 繋がれた絆から、彼らはそんな彼の事を容易く見抜いた。気にするな、と笑いながらおどけて貶して励まして。
 此れが徐晃隊。彼が作った、彼の為だけの兵士達。否……彼の為を想う兵士達。
 将が率いるというよりも、本当の意味で、一人ひとりが肩を並べて戦っている。

「なぁ、楽進殿。きっと前の俺はあいつらが居なきゃ戦えなかったんじゃねぇかな。だからそういうのは、強いってのは多分……あいつらの事を言うんだぜ?」

 羨ましい……心の底からそう感じた。

――そんな事、ないですよ。あなたが居るから、彼らは強く在れる。わたしはそう思います。

 口には出さない。言ってしまっても彼は否定するだろうから。
 辛い事ばかりの戦に於いてせめて気持ちが折れぬようにと、彼と彼らは道化師のように、誰かの為の笑顔を浮かべる。
 それが黒麒麟の本当の強さで、きっと黒麒麟だけが持てる力になっているのだ。

――わたしには、何があるんだろうか。

 考えてみよう。真似しなくてもいい。自分らしい色を見つけてみよう……そう思えただけでも、わたしにとっては何よりの学びの時間だった。




 †




 広く構えた戦場の型は様々に変化を遂げ、それでも変わらない場所がまだ一つ。
 固く構えた中央よりの左翼の陣型、猪々子が居るその場所だけが熱気と気概に溢れている。
 居並ぶ袁紹軍の兵士達は彼女の決死の想いに寄って立ち、決して抜かせはしないと気合を込めて戦う。

「守れ! 手が千切れても守れ! 脚が動かなくなっても守れ! 首だけになっても喰らい付いて守れ!」

 張りのある声がよく響いていた。
 大量の兵を操る様はまさに武将のそれ。
 将の階級は数段あるが、将軍と呼ばれるのは万を超える兵を率いれるモノが呼ばれる。その点で言えば、猪々子はそう呼ばれるに相応しい働きを見せていた。
 バカだと言われ続けて長い。指揮するよりも単純明快に突撃する方が断然得意だ。しかし……今の彼女は軍の屋台骨として動かず。
 鬼気迫るとはこの事か、彼女の発する熱は気炎を本物の炎と幻視させる程の熱さを持ち、振られる大剣は幾ら敵を切り裂こうと些かも衰える事が無い。

「ふん……」

 そんな彼女を遠くに見ながら、春蘭は小さく鼻を鳴らした。
 自分がアレとぶつかるのは正しい。今の猪々子は本気で剣を交えるに値する。しかしながら……春蘭も猪々子と同じくまだ出ない。
 春蘭の目から見ても、猪々子の周りの兵士達が少しばかり異質に過ぎた。彼女が発する熱気に当てられて、兵士達が死兵の如き戦いを繰り広げているのだ。
 似たモノは見たことがある。何度も目にしてきた黒麒麟の身体のソレに似ている。流れるような連携は無いが、その分を気迫と力強さで補っていた。

 ああいうモノと戦うにはそれ相応の覚悟が居る。普段のように戦うだけではダメだろう。猪々子と戦ったとしても場が整わなければ……春蘭が唯の兵士に殺されかねない。そう直感した。
 臆病さは無い。別に今突撃しても構わないのだ。現に春蘭は必死で戦いたい自分を押し殺していた。
 身体の一部を失い、華琳の深い愛情を直に感じた春蘭は、もう二度とあんな事を繰り返したくは無かった。それに……自分が全てを賭けるのは此処では無いとはっきり言い切れたのもある。
 勝ちの空気が軍には漂っている。持っているのは春蘭と真正面から相対している猪々子の守るここだけで、時間を置く毎に袁紹軍は劣勢にしかならない。なら、自分の価値を理解して、兵士を動かした方がいい。春蘭は将としての判断で動かないだけであった。

――大切なモノを守りたい想いがお前をそこまで高めたのだな、文醜。

 内心で一人ごちる。
 例えば春蘭も、華琳を守る為ならば今の猪々子のようになる。そう言い切れた。
 死に物狂いで戦う姿に自分を重ね、満足気に笑みを零す。
 じわじわと軍としての意識が広がりつつある。狂気に堕ちた張コウ隊や、怨嗟の色濃い白馬義従が落とした士気が、猪々子一人の存在だけで持ち直していく。
 ゾクゾクと震える身体は歓喜から。戦いたくて仕方ない。誇り高く戦う彼女を打ち負かす事は、どれほど自分の存在証明を満たすのか。
 まだ、まだまだ……そうして単純なぶつかり合いだけでは無い指揮を取り続けて、春蘭は自分の心を飢えさせ、高めて行った。

 幾分幾刻、戦場の空気が半分、がらりと変わった。
 片目を細めて右側を見ると……旗の数が大きく減っている。

――あちらは凪と沙和の方。黒麒麟の嘶きが聴こえたから……顔良の敗北で間違いないか。これだけ早いのなら徐晃の奴が来ているのだろう。

 無意識の内にほっと胸を撫で下ろした。秋斗が無事であったという事に安堵した自分に気付いた途端、もやもやと苛立ちが込み上げてむすっと口を尖らせた。

――救えたのか救えなかったのか、戻ったのか戻っていないのか……どちらにせよ部隊を率いて戦場に立つのなら何も言ってやらん。お前の好きにやればいいさ、大バカ者め。

 秋斗の事は気に入らないが、実力は知っているし評価もしている。徐晃隊の実力は言うまでも無く、共に戦うのなら黒麒麟だろうと黒麒麟でなくとも、その程度は短い時間でやってのけるだろうと春蘭は信じていた。

――此れで戦場が大きく傾く。さあ、文醜……お前はどうする、どう動く?

 今はあの男の事を考える時間では無いと、春蘭は思考を目の前へと切り替えた。

「春蘭ちゃーん。あっちで何か動きがあったみたいですけど」

 思考に潜り、戦場の動きを見極めんと目を鋭く光らせていた春蘭の背に、のんびりとした声が掛かる。
 振り向けばばさばさと靡く金髪に、勝手に動いて喋る人形を乗せて。眠たそうな半目は戦に於いても変わらないらしい。

「おお、風。多分顔良が負けたぞ」
「へぇ……お兄さんでしょうか?」
「きっとな。これほど早くに崩せるのはあいつくらいだろう。霞と白馬義従は全体の攪乱と妨害で忙しいし、秋蘭達は来ていないのだからな。凪達だけではもう少し時間が掛かるはずだ」

――むむむ……せっかく凪ちゃんを当てたのに……。まあ、お兄さんが曹操軍という認識を強めるには十分ですか。

 表情は変わらずに、風は内心で計算が狂った事に呆れた。
 不可測の手助けは確かに有り難い。しかしながら独自行動は予定を崩す何よりの敵でもあった。

――無事に戻ってきてそうそうに戦をかき乱すなんて……お兄さんは本当に乱世の事ばかり。救出成功の報せを出さなかったのですから、心に傷がついてるはずなのに。

 秋斗の無事は嬉しいが、ゆっくり休息してくれてもいいのに、と風は思う。
 救えなかったのだろうと読み取っていた。秋斗が桂花の心境を考えないはずが無いから、彼が何も知らせずに戦場に立った時点で目的の達成は成らなかったという事。
 落ち込む心を端に寄せて、出来る限り普段通りを装って風は口を開く。

「では、そろそろこちらも動きそうですかねー」

 ふと、春蘭は含んだ言い方に引っ掛かりを覚えた。
 動きそう、と言ったのだ。春蘭に動くべきと言うのでなく。

「……文醜が動き次第私も動くつもりだが……他に何か策があるのか?」

 案があるのなら聞いてみよう。
 尋ねると、風はじー……と春蘭を見つめてから、口に手を翳してにっこりとほほ笑んだ。

「他の将に華を持たせるのも春蘭ちゃんの仕事だと思いますよ?」
「……何?」

 変わる表情はまず驚き。次に不機嫌。
 風の発言に、春蘭は感情を隠そうともしない。あの敵は譲らない、と。

「ですからー……春蘭ちゃんは戦いたいでしょうけども、頑張りすぎるのは良くないのです。白馬での勝利貢献度、張コウちゃんの捕縛、春蘭ちゃんは少し功を上げ過ぎじゃないでしょうかー?」
「それのどこに問題が?」

 ふむ、と顎に手を当てて、風はジト目で見返して来る。
 将として、そして華琳の為にも戦功を取りに行くのは当然のことである……が、風は引き下がらなかった。

「曹操軍に夏候惇ありー、というのは大陸に於いて周知の事実。ただ、光る星は人を惹きつけますが、それよりも弱い光の星を掻き消してしまうのです。なので敵将には……凪ちゃんの試金石となって欲しいかなーと」

 そこで春蘭も難しい顔に変わった。
 そろそろ凪も頭角を現してもいいという頃合いだとは、彼女も考えていたのだ。
 個人の武では上位の三人と秋斗に劣るが、一角の将としての個人部隊を持たせてみたいと感じさせるモノを持っている。
 此れからはこうして全ての将が固まって戦う機会は減るかもしれない。なら、早い内に引き上げ始めた方がいい。
 それをするには実力の証明が必要不可欠。黒麒麟として名が売れている秋斗なら、本人の実力も相応にあるので問題無いかもしれないが、凪はまだ大きな戦功は上げていない為に兵士の求心が足りない。

「……だがな、風。今の文醜は凪よりも上だ。あれと追随する部隊は徐晃隊と変わらん。凪だと死ぬぞ」

 ただ、春蘭の欲を別として純粋に戦人としての判断では、今の猪々子と戦わせるのは危険だと考えている。
 周りの兵士達にしても、将自らが死兵と化しているのなら、無茶をさせるのは不安が残るのだ。

「春蘭ちゃんらしくないですね。戦って勝てと言わないなんて」
「そうか? なら風もらしくないぞ? 軍全体で見ると今の凪を引き上げるよりも被害総数を減らすべきではないか? 軍師の判断としてはどうだ?」

 また風は考える。些か春蘭の事を低く見過ぎていたかもしれない、と。

――この後に袁家大本の征伐を行うなら……勝利を得る以外は無理をしない方がいい、確かにそうですが……いえ、此れは風の欲ですか。少しでも多くの利を得ようとし過ぎました。

「……少し風も気が逸っていたようなのです」
「うむ。勝ちの目が大きいと気が大きくなるからな。仕方ない」
「ありがと、です」
「礼には及ばん。さて……我らが軍師殿はこれからどう動けばいいと指示を出してくれる?」

 ニッと歯を見せて笑う春蘭の心も落ち着いていた。互いに互いが欲を抑え込み、戦を冷静に見極められるように変化した。
 いい将だ。心から風はそう思う。頬を緩ませて笑い返し、思考を回していく。

「……顔良の敗北で大きく状況が変わりますねー。文醜が動くなら敵の選択肢は二つ。一つは自分を囮として袁紹を逃がせるように留まって……けど、もう一つの方が起こす確率としては高いかと。多分――――」

 口から流れる予想絵図を聞いて、春蘭は呆れたように苦笑を零す。

――なるほど確かに、敵が文醜ならその選択をする。あのバカ者のせいで、関わってしまったから、文醜の頭には黒が居座って離れない、か。

「――――と、いう感じなので、春蘭ちゃんが動くなら此処を引いて戦線を下げ、敵の逃走経路を限定するのが良いかとー」
「よし、それで行こう。一対一で戦えないのは残念だが……」
「元はと言えばお兄さんのせいなので、後で文句を言っておけばいいんですよー。風の予定も崩されましたから、きっちりしっかり働いて貰いますし」
「くく……ああ、そうしようか。戦場でもどうせ無茶ばかりするのだ。バカな事を考えついたなら一発殴って止めてみせよう」

 普段は制止される側の春蘭だが、秋斗の方が無茶苦茶をすると分かっているから少し引いてみた。そも、そんな事態にならないように戦場を組み立てるのが役目ではある。

「楽しそうですねー、春蘭ちゃん」
「……ふん、そうでもないさ」

 指摘され、緩んでいる口元に気が付いて引き締める。

――あいつと共に戦うのは……まあ、悪くない。

 しかしながら、弾む心は確かにあった。
 増えた仲間は、気に入らない所が多くとも……彼女が肩を並べてもいいと思える程。
 出て行く時に合わせた掌を思い出して、春蘭はふっと小さく熱い吐息を付き、また自分の仕事へと意識を引き戻していった。




 †



 目の前で戦っていた春蘭の部隊の攻勢が緩やかになり、違和感を覚えたとほぼ同時に猪々子の元には最悪の情報が入っていた。
 兵士の口から伝えられたのは、

「顔良様がっ……ちょ、張コウのだまし討ちに合い捕えられました!」

 斗詩の捕縛報告であった。
 目を見開き、その方を急いで見やるも遠くの旗は既に無い。
 熱気と必死さから、猪々子は通常の戦場嗅覚が鈍り、斗詩への信頼から目の前にだけ集中していた為に気付けなかったのだ。
 確かに黒麒麟の嘶きは聴こえた。相手取るのは大変であろうが、最悪こちらと合流するくらいは出来ると多寡を括っていたのも一つ。
 ギシリ、と歯を噛みしめて悔しさを露わにし、握った拳を自分の太腿に叩きつける。

――斗詩……あたいはどうすりゃいい……?

 瞑目して一寸、彼女は迷った。
 助けに行きたいと心が喚き、焦燥感から脳髄が茹る。
 斗詩を助けた上で勝利を得る。そんなモノは不可能だと分かっている。二人が率いるからこそ軍は軍としてのカタチを為せていたのだから、斗詩を失った時点で敗北は必定なのだ。
 かといって、斗詩の助命を求める為に敗北を認め、武器を置いたとしても麗羽は処断されることとなり、助からない。
 麗羽の命を守りたいのなら……自分が囮となってでも逃がすしかない。
 斗詩の命を守りたいのなら……麗羽を差し出すくらいしかない。
 一方を救う為に一方を切り捨てる、そんな選択しか彼女には残されていなかった。
 楽観思考で安易な判断は出来ず、ぐちゃぐちゃに乱れた思考は決断を鈍らせていく。

 胸を押さえた。ぎゅう、と握りしめた拳からは血が滴る。荒い息は絶望の吐息を吐き出して吐き出して……ぐるり、と辺りを見回す。

――こいつらは何の為に戦ってる?

 考えたのはそんな事。戦っているのは自分だけではないからと、兵士達をよく見てみた。
 感情を丸出しにして戦う兵士達。生きたいモノ、何かを守りたいモノ、野心溢れるモノ、意地があるモノ、さまざまな種類の想いが混じりあってここにあった。
 心折れずに従う兵士達は、この戦場で生きている。
 誰しもに未来があって、誰しもに戦う理由があって、誰しもに宿す想いがあるのだ。
 その彼らの想いは、自分が指し示した勝利に向いている。だからこそ、従ってくれている。

――あたいは……何の為に戦ってる?

 次に確認したかったのは自分の事。
 誰かを守る為か、それとも自分の為か。考えても答えは出ない。
 そんな彼女の目に、幾人かの兵士の表情が映った。
 子供のように純粋で、戦いそのモノを楽しむ男達が幾人も居た。
 顔は覚えているし名前を知っている奴もいる。猪々子直属の兵士である文醜隊。
 なんでそんな楽しそうに戦いやがる……考えて直ぐに思い至った。

――ああ、そうだ。あいつらはバカだった……あたいと同じで。

 戦うのが好きで、力を示すのが好きで、自分は此処に居ると声を大にして叫びたいバカ野郎共。
 それが猪々子の率いる兵士達。思い出して、彼女の心は幾分か落ち着いた。
 自分は頭を使う部類では無い。巡らせる意図など、無くてもいい。ただ純粋に、優先するモノを守るだけに頭と身体を使えばいい。

――あたいは、この戦を楽しめばいいんだ。負け戦を楽しむくらいのほうがあたいらしいし、その方が上手く行く、ずっと上手く行ってきた。絶望なんか、してやるもんかよ。

「……うん、そうだな。そうだよな……ははっ」

 彼女に笑みが戻った。不敵に笑うその姿は、先程まで作っていたモノとは全くの別。猪々子本来の、純粋な子供のような眩しさ。
 訝しげに見つめる兵士と、楽しそうに笑い合う文醜隊。どちらも袁家の兵士であるが、根本的には全く違った。

「おい、伝令だ。姫を守る親衛隊に逃げろって、何を於いても守り切れって伝えろ」
「そんな……ぶ、文醜様は如何なさるのです!?」
「ばっか、あたいはお前の言う通り袁家二枚看板の文醜様だぜ? 曹操軍の名だたる将を一人一人ぶっ潰す! そんでもって勝つ! 当然……付き合ってくれるよなぁ、お前ら!?」

 声を張り上げると、応、と男達が声を上げた。彼女に従う彼女だけの兵士達は、いつもとなんら変わらない戦場に変わった事に安堵し、歓喜する。

――うん、いい声だ。お前らとなら、楽しい戦いが出来そうだ。“あたいの勝ち”は……姫の命を繋がせて、斗詩の命も救うこと。その為には……。

 うんうんと頷きながら思考する彼女は心と覚悟を決める。
 ぽかんと口を開けて、一人の兵士は猪々子を見つめた。

「あとさ……姫に伝えてくれよ。死んだら絶対に許さねぇぞ、泥啜ってでも生き延びてくれ……そのうち絶対探して会いに行くからってな」

 ニカッと歯を見せて笑った彼女は、それ以上兵士に何も言わず。
 苦悶を眉に刻み、兵士は拳を包んで彼女に礼を一つ。

「……ご武運をっ」

 去って行く背中すら見ない。もう猪々子は前だけを見ると決めていた。

「さぁて……あたいさ、良いこと思いついたんだ。ちょっくらかっちょいい戦い方してみねぇか? 強弩部隊にも伝令だ。あたいの部隊と一緒に――――」

 楽しげな声に当てられて、文醜隊は武者震いに震えるモノ多数。
 誰かの為に戦うが、何よりもまずは自分達の力を見せつける為に。それこそが彼らの存在理由であった。




 †



 斗詩を捕えてからの袁紹軍の動きは秋斗の予想の通りであった。
 春蘭が猪々子を引き付けてくれたおかげで逃げるのが遅れ、各部隊全ての動く時間が十分に出来上がり……尚且つ最終の絵図も理想のカタチと為せる。
 徐晃隊が従ってくれると言ったからこそ出来たモノではあるが。

――ホント、良い奴等に恵まれてたんだなぁ、黒麒麟は。

 自分の為に涙を零してくれた彼らと戦場を駆け、溢れ出たのは悲哀の感情。想ってくれるモノが死んでいくのが、只々哀しかった。
 一つ指示するだけで戦いに向かう。まるで手足のように彼らは秋斗の命に従う。最効率だけを求めて命を散らす。まさしく、秋斗が官渡で見てきた他の部隊のどれとも違った。
 死に際に笑みさえ浮かべる彼らの心を想うと、引き裂かれそうな胸の痛みと自責の念が込み上げるが……もう涙は、出なかった。
 そんな彼らが、自分を黒麒麟と同じ扱いしかしないと言った。
 まるで旧知の友のように、家族のように、兄弟のように……彼らは今の秋斗の事を認めていたのだ。
 甘えるなよ、と叱りつけているに等しく、頼れと手を差し伸べているにも等しい。深くは言わず、ただ自分勝手に寄り添ってくれる彼らの想いを受けて、秋斗は泣きそうになった。
 せめて前を向く。自分のしたい事を遣り切る。それが彼に出来る唯一の想いの返し方。
 彼は……もう、“彼らを使わない”。自分が戻ってからしか、彼らの将にならない。今回だけ、彼は戦場で黒麒麟の身体を将として扱おうと決めていたのだった。

 明と凪、二人と馬を並べて駆けた先には……袁紹軍が陣形を組んで守りに入っていた。ぶつかっている箇所がまだ崩れていない所に驚く。
 先端で春蘭の部隊がじわりじわりと攻めているが無理やり突出しない程度で、後背に広がる金色の兵士達の列は間延びして厳かに見える。
 おかしな点は、その間延びした所が曹操軍の手薄な場所で、逃げ出す兵が続いているという所。
 しかしながら、この絵図も既に予測していた。
 猪々子と親しく話していた明に情報を聞き、彼女の変化がこの戦場で昇華する先を思い描けば……どんな行動に出るかは読み取れる。
 たった一人を逃がす為の戦場のカタチ。それを作らせる為には斗詩の捕縛が最優先であったのだ。
 猪々子は素直で染まり易い。それでいて真っ直ぐ歪まずに自分のしたい事が何かを判断して動く。命を賭けるように戦うと決めたのなら……彼女は最も、黒の部隊に近しくなるだろう。

 一度目は幽州で、二度目は徐州で、猪々子は一人を逃がす為の地獄を抜けた。本来持っている性格や好みも合わさって、彼女が選ぶ策はたった一つに限定される。
 すなわち捨て奸。兵士を切り捨てて大切なモノを守り抜く逃げの最終手段。猪々子は、強弩部隊と文醜隊、そして自分を捨て駒と化した。

「やっぱり捨て奸か」
「あはっ♪ 相変わらず単純だねー、猪々子のやつ」
「捨て奸……徐晃隊の最終手段の?」
「ああ、殿の兵を数段に分けて配置し特攻させ、本隊が逃げる時間を稼ぐ策だ。強弩部隊が居るとすれば面倒な事になる」
「かなーりめんどくさいんだよね、アレってさ。猪々子の性格なら部隊と強弩部隊以外の兵はそのまま置いてるから、多分神速とか動かさないと本初は捕まえられないかもー」
「動かしたら相応の兵数が犠牲になるけどな」
「うーん、強弩部隊含みの捨て奸だとすれば……軽く見積もっても大体三千くらいは死ぬかなー? 捕まえようと思うならもっと死ぬかも」
「そんなに……だ、大丈夫なんですか? というより我らが行く意味が……」

 それほどの策か、と凪は息を呑んで尋ねた。
 数は多いが士気は低下しているし、捨て奸に使われる兵数も少なくなっている。しかし未だ袁紹軍は完全には崩れていない。
 追撃にやる部隊は誰になるか……必然、神速か白馬義従になるだろう。
 それなのに三人は……捨て奸の方に向かっていた。凪の疑問は当然。まともな思考の持ち主なら部隊を率いても躊躇うのだから。
 凪の方を一寸だけ見やって、秋斗はふっと笑みを零した。

「問題ない。文醜の捨て奸には穴が出来てんだよ」
「穴……?」
「はいはーい♪ 楽進ちゃんにしつもーん! なーんであたしは斗詩を殺さずに捕縛したでしょうか♪」

 明は斗詩をわざわざ見せつけるように捕縛させ、助けたくば武器を捨てろと兵を脅した。その理由を考えろと二人は言っている。

――捕虜を得る為、確かにあるだろう。無駄に命を散らさない為、当然誰しもが考える。しかし……もう一つ考えられるとすれば……。

「……文醜を、逃がさない為……?」
「せいかーい♪ あいつってさ、斗詩を殺しちゃったら本初を逃がす為だけに全力を使っちゃうんだよねー。生きてるって分かれば猪々子は斗詩を助けたくなる。んで……自分の命を賭けて助けようっていうなら、あいつは出来る限りあたしと話せるような位置に残る」

 結局は人質の話と変わらない。が、無理やり押し付けるでなく相手に勝手に選ばせるという点ではまだ良心的と言えるかもしれない。
 いや……手元に置くカードが相手に見えない事と、相手から求めさせる流れを作っている事で、こちらの方が本来は性質が悪い。
 名が傷つかない。誇りも傷つかない。友を想う猪々子に感銘しさえすれ、曹操軍は捕えただけなので責められる理由にもならない。狙ってやっていると分からなければ、認識の隙間を付いているズルい一手。
 咎めるような視線を受けて、明は片頬を吊り上げ、ペロリと舌を出す。

「綺麗だねぇ……食べちゃいたいくらい♪」
「……わたしはあなたが嫌いだ」

 吐き捨てるように、真っ直ぐに嫌悪を明に向ける凪。目を細めて笑う明は、クイ、と秋斗の方を示した。

「じゃあ秋兄は? 同じこと考えてるし思い付くよ?」
「……っ!」
「そういうもんさね、人間なんて。気付いてるか気付いてないかの違いでしょ? そんでね、気付いても使うか、使わないかの違いでもあるかなー」

 軽く諭す明の言葉は人の本質を突いて。
 無自覚での行いと、自覚ありでの行い。どちらが正しいかなど議論する事こそ無駄……明が言いたいのはそういう事。

「……理解は出来るが納得は出来ないんだ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、止めてもすると知っているし、戦をするにあたって自分もその方がいいと肯定しているから……せめてもの反論として凪は口に出した。
 一寸驚き、直ぐに感嘆の吐息を零した明。秋斗は……緩い笑みを浮かべていた。

「楽進殿はそれでいいよ。そういう人がさ……しっかりと基準線を守れる人が居ないと世界は良くならない。お前さんの言い分は正しい」

 凪のような人物は組織に於けるオブサーバーの役割を果たせる。
 曲がらない矜持を持つ者達は正道にして揺るぎない。嘗ての劉備軍での愛紗や星のようにそれは違うと声を上げて言える人材は希少。彼女らのような人が居ない組織は内側から壊死していくのが大抵である。
 現代社会を生きていた秋斗と、人の昏い部分を見続けてきた明はそれをよく理解していた。

「ちなみにさ、秋兄が徐晃隊を試してばっかりなのもそういう気持ちを持てる人間を育てる為だったんじゃない?」
「……多分な。俺にただ付き従うだけの部隊にしたくなかったんだろ」

 黒麒麟はいつも徐晃隊を試していた。自分が悪事を口に出しても止められるモノを育て上げ、抑えられるように。狂信しながらも反発出来る矛盾を持たせられるように、と。

――従ってこその兵士のはずなのに……矛盾だらけだ、この人は。いや、華琳様も軍師達に咎められるのを良しとしているふしがある……それと同じ、か。

 己が主もそうやって部下を判断していると気付く。
 そのまま考え込もうとした凪ではあったが、彼が剣をすらりと抜いた事で意識を戦場に向けなおした。
 緩やかな下り坂の向こう、曹操軍の兵列の先に見える敵部隊は幾重にも配置され、大剣を構えた薄緑色の髪の女が殿として一人、馬に跨っている。
 幾多の曹操軍の死体がそこかしこに転がっていた。逃げる本隊を追い掛けようとした兵士達は、彼女の大剣の餌食となって行く。
 付かず離れずじわりじわりと追いすがる曹操軍は、袁紹軍を疲弊させるように動いているのだろう。
 二人の言った通りになった。凪は驚愕を隠せず息を呑む。
 まだ遠いはずなのに、敵の目には三人が映ったのか大剣の先を秋斗達に向けた。

「まどろっこしいのは嫌いだ! 来いよ! あたいは此処に居る! 姫の頸が欲しけりゃあたいと戦え! 何人で来ようが抜かせねぇけどな!」

 戦場であれど良く響く少女の声は、三人の耳にしっかりと届いた。
 バカ正直で真っ直ぐで分かり易い。
 苦笑が一つ。凪が隣を見ると秋斗が笑みを深めていた。

「……いいな、あいつ。単純バカは嫌いじゃない」
「ああなったら強いよ? 誰かを守ってる時の猪々子はめんどくさいもん」

 正々堂々と殿を務めている敵将に対して、二人がどういった行動を起こすのか。二人を見つめる凪は口を挟まず。

「夏候惇が居ないって事は……戦場の掌握を優先したかな?」
「クク、元譲も自分を抑えてくれて何よりだ。逃げるなら元譲の方に向かわないから、多分合ってる。これで逃走の方角限定も出来た。後は……文醜を捕まえるだけだ」
「んじゃあ楽進ちゃんはー、秋兄が戦ってる間の部隊指揮、だね」

 話題の先が自分に向いた凪は明と秋斗を交互に見つめ、何の為に連れてこられたかを漸く理解した。

――そうか……張コウだと曹操軍の指揮はまだ出来ない。徐晃殿に言われれば一応は従うがそれでも不安が残る。わたしの仕事は徐晃殿の一騎打ちを邪魔させない事と、敵がなんらかの攻勢に出た場合の対応の為。

 部隊を引き連れて来なかったのは時間の短縮と此処に軍師や将が居た場合の動きを考えて。
 自分が戦ってもいいか、とは凪は聞かない。
 湧き立つ武人としての欲はあるが、彼が戦うというのだからと引き下がる。

「楽進殿、頼んでいいかな?」
「分かりました」
「ホントはあたしが戦って秋兄が指揮するつもりだったんだけどさ」
「バーカ。お前の腕、そろそろ限界だろ? 大人しく待っとけ」
「……むむ、別に大丈夫だし」
「今壊れられたら困るんだよ。お前の為に、そんで俺の為に我慢しろ」
「……はーい」

 無理を推して戦い続けて幾日。
 誤魔化してきたモノの、秋蘭との戦傷は完治しているはずも無く、治療すらする間も無かった。本調子でない時に今の猪々子と戦って無事で済むかと言われれば、否。

――そういえば……彼女は大切なモノを救えたのか?

 戦中である為に忘れていた事柄が凪の頭を掠め、明をじっと見やる。
 彼女は生きている。秋斗も生きている。それほど落ち込むことなく戦に向かい来ている。なら、きっと救えたのだろうと凪は思った。

「なにー、楽進ちゃん? そんなあったかい目で見て、どったの?」
「いえっ……その……大切なモノを救えてよかったな……と」

 瞬間、目を少しだけ見開いた明は、猫のような笑みを浮かべて舌を出した。
 悪気があったわけでは無いと分かっているから、詳細を知らない彼女を責めることなど、したくもなかった。

「……そだね。ぱぱっと戦終わらせて、桂花のとこも行かなきゃ」
「ああ、そうだな。じゃあ楽進殿……後は任せた」
「はい、ご武運を」

 落ち込んで心乱れさせるわけには行かず、二人共が曖昧にぼかしてやり過ごす。
 今話さなくていい。明はにへらと笑って、秋斗の背中を追っていく。

「あたしも猪々子のとこ行って来るねー♪ 別に秋兄の邪魔はしないけど、見届けるくらいはしたいからさー」
「分かりました。くれぐれも無理はなさらず」
「はいよー♪」

 軽い声で、軽い調子で、ひらひらと手を振って前を向く明。
 二人の背を見送った凪は、

「……よし!」

 バチン、と両頬を手でたたき気合を入れて、指揮の為に部隊長の所まで駆けて行った。




 †




 片手に大剣を持ちて、後ろを振り向いたままで進む猪々子の目に赤と黒が映る。
 誰が来てもいいとは思っていたが、誰よりも来てほしかったのはこの二人。
 斗詩の事で思う所はあるも、所詮は戦、負ける事もあるし、捕えられる事もある。彼女がどのような手段を使うかも知っているのだから責めるつもりは無い。それに殺さなかっただけ、猪々子にとってはマシに思えた。

「よぉ、明。あたいの手伝いに来てくれたんだな?」

 にやりと笑って、彼女は剣先を明に向ける。
 裏切ったと知っている。彼女の心を抉りたいのではなく、ただの冗談。猪々子の中では明は敵で、それでも友だと思っていた。
 裏切りを信じたくなどなかった。けれども信じるしかなくなった。ならせめて、前を向いて笑顔で語り合いたい。友達を責め立てる怨嗟の感情を持つ事など、生来素直な猪々子には出来なかった。

「やっほー猪々子。残念だけどそれは無いんだなー、これが」

 割り切れている猪々子にやっぱりかと思いながら、明は軽く話し掛けた。

「ん、分かってた。言ってみただけだ」
「そっか。ってことは情報は入ってるんだね?」
「ああ、お前んとこの兵士が泣きながら話してくれたから」
「そいつちゃんと殺した?」
「いいや、陽武の陣の檻の中」
「相変わらず甘いね」
「お前の方こそ」

 曹操軍の兵士も、袁紹軍の兵士も出る事は無い静かな空間。今が追撃戦である事など嘘のような会話。

「明……お前さ、斗詩を殺したいか?」

 猪々子の声は不安に彩られ、それを受けた明はきょとんとした後に……にへら、と笑った。

「めんどくさいから殺したくないね」
「……ホントに?」
「殺さない理由もある。教えて欲しかったら降参してね♪」
「それは出来ねぇな。あたいもお前と一緒で命賭けて守りたいもんがあるし」

 にやりと笑ったのは二人共。
 明が怨嗟を宿していない事が、猪々子にとっては何よりの救いで。
 猪々子が相変わらず真っ直ぐなだけで、明にとっては安息だった。
 互いの心が読み取れる。もう少し早くこんな関係になりたかったなと、二人共が思っていた。

 秋斗は明の隣で、猪々子の後ろを見つめていた。
 視線が自分に向いてない事に気付いた猪々子が、今度は彼に剣を突き付けた。

「へっ……会いたかったぜ、黒麒麟」
「俺に? なんで?」

――黒麒麟と呼んだからには前の俺になんか言う事でもあるのか。

 キョトンとして問いかける秋斗に向けて、猪々子は懐かしむように目を細めた。

「……“乱世に華を、世に平穏を”」

 何故知ってる、とは言うまい。彼女が徐州で追撃を行ったと彼も聞いている。それなら、徐晃隊最精鋭の最期を看取ったのだと容易に分かる。

「あんたのとこの部隊、かっちょいい死に様だったよ。橋を燃やして、死守して、守り抜いてさ……生きろ、見逃してやるって言っても……意地張って死にやがった」

 ズキリ……と彼の頭と胸が痛んだ。
 彼らの話を聞く度、見る度に、心の中が渦巻いて仕方ない。

「あんたにそれだけは伝えたかったんだ。徐晃隊は遣り切ったんだって、最後に看取ったあたいが、あんたに想いを届けてやりたかったんだ」

 強い輝きを宿す瞳が彼を射抜く。真っ直ぐ、純粋なその光は、彼の知らぬ彼らへの尊敬の念を表して。
 嗚呼、と心の中で深い嘆息を吐き出した。

――哀しいなぁ。俺は……そいつらの事をこれっぽっちも分かってやれない。名前も、思い出も、何もかも思い出せない。

 彼の瞳が昏く暗く濁って行く。
 哀しみから、苦しみから、自分への憎悪から、目を逸らさず自分の心を受け止め……せめて演じてみせようと不敵な笑みを浮かべた。

「クク……伝えてくれてありがとよ」
「気にすんな。あたいがしたくてした事だ」
「そうかい……」

 言いながら白く輝く長剣をゆっくりと上げ、猪々子に突き付ける。

「お? やるかぁ! どうせなら二人がかりでも構わないぜ?」
「いんや……一人でやろう。お前さんとは俺だけで戦わなきゃならん」
「いいねぇ、やっぱり徐晃隊の親玉だけあってちゃんと戦ってくれるんだな!」
「それが誠意ってもんだろ。あと……そうだな、賭けをしないか?」

 急な提案の声に、猪々子は眉を顰めた。

「賭け?」
「ああ、賭けだ。乗ってくれるなら俺が一騎打ちしてる間、曹操軍は袁紹軍を追撃しない。負けた方が勝った方の言う事を一つ聞く。それだけだ。どうだ、おもしろそうだろ?」

 悪戯好きな子供の笑みで笑い掛ける秋斗に、猪々子は少し戸惑う。

――なんか企んでるのか? あたいに利があり過ぎるんだけど……

 当然、直ぐに乗る事など出来ない。追撃の時間を遅らせられるのなら願ったりであるが、曹操軍は麗羽を追いたい事くらい猪々子にも分かっていた。

「さてどうする? お前が敷いた策、捨て奸って言うんだがな……弱点もあるんだ。強弩部隊と文醜隊の混成を街道にばらまくって事は自然と本隊の護衛兵数は減る。神速と白馬義従に回り道させて追い掛けさせたら間に合うし対応のしようが無いだろ。
 何より……官渡のそこかしこにある不審な秘密基地は俺が仕掛けたんだが、情報伝達の兵士を据えてあるから袁紹の現在地の把握は直ぐに出来るぞ? 秘密基地のある道を出来るだけ避けて経路を選んだようだけど……バレるような場所だけに秘密基地作るわけねぇだろ。森の中、林の中、いたる所に仕掛けてあるから、隠れても見つかるんじゃねぇかなぁ」

 彼の説明に猪々子の顔が青ざめた。
 使う策の弱点を熟知されているとは思わなかったのだ。彼が使っていたというのに、である。
 自分達が二度辛酸を舐めさせられたからこそ意識から有用な策なのだと無意識の内に思い込んで自分達も逃げられると判断を下した。もし、斗詩が居たならば警戒を置けただろうが……猪々子だけではそこまで頭は回らない。
 秘密基地は彼のお遊び。不審なモノがあるなら警戒せずにはいられない。抜かりなく見張りの兵士を置いている為に、袁紹軍が警戒を置くのは正しい。
 元より官渡は、得物を逃がすつもりがない蜘蛛の巣に仕上げた戦場。半端な逃げなど、曹操軍が許すわけがない。
 逃げるには、彼の提案を聞くしかない……そうして思考誘導の布石は正しく機能する。

「……ホントに追撃しないのか?」
「しない」
「神速も大剣も?」
「二人はお前が残した弱卒の制圧で忙しい」
「白馬義従も……徐晃隊もか?」
「くどいな。一騎打ちしてる間は手出しさせんよ」

 一歩、月光が大きく踏み出した。早く戦えと急かすように。嘶きは静かで力強く、彼は苦笑を零しながら剣先を突き付ける。
 黒の瞳に射抜かれて、猪々子は大剣を斜めに構えなおした。
 チラ……と明を一寸だけ見やると、彼女は何も言わずに自分の武器を……ひょい、と後ろの兵士に投げ渡した。悪戯っぽい笑みには信頼の光。

――お前は戦うつもりが無いってか。

 あくまで一騎打ちを見届けるつもりなのだ、と受け取って猪々子は秋斗に視線を送り、笑った。

「へへっ、もう考えるのもめんどくさいや。どっちみち誰が来ても、何があっても戦うつもりだったんだ」

 進んでいた馬をピタリと止めた。彼女の部隊もそのまま、彼女をぐるりと囲むように居並んだ。
 倣って、曹操軍も停止する。明が一人の兵士に向けて凪への指示を送り、追撃の部隊も何も来ない。提案する以上は、彼に責が発生する。軍の行動を決定するのは華琳だが、越権行為如何ではなく、この戦場は各人に判断を任せた異端の戦。失態を犯せば相応の罪過が待ち、成功すれば認められる。
 彼を咎めていいのは春蘭くらい。止められるのも、春蘭だけであろう。

「いいよ、黒麒麟。あんたの提案……受けてやる。お互いに欲しいもん賭けてさ、やろうぜ?」
「……お前が勝ったら何を望む?」
「あたいが勝ったら……」

 賭けの景品は叶えられる範囲の願いを一つ。考えるまでも無く、猪々子は秋斗の後ろを剣で差して示した。明に向けて、同情の眼差しを向けながら。

「斗詩を……顔良を殺さないで逃がしてくれ。あたいの、大切な人なんだよ」

 友達は大切なモノを失った。自分の大切なモノはまだ失っていない。救える可能性があるのなら、猪々子はみっともなくても何にでも縋るつもりだった。

「……了解。約束は守ろう。まあ、お前が負けても顔良は殺さないかもな。曹操殿の意向次第だが、人材収集の噂、聞いてるんじゃないか?」

 ほっと吐き出された息は安堵に染まる。勝っても負けても殺されない。一つでも救いがあるのなら十分だ、と。

「……あんたはどうなんだ? 勝ったらあたいに何を望む?」

 当然そう聞き返す。時間を稼ぐというわけではなく、フェアな条件で戦うのなら先に求めるモノを提示すべきなのだから。
 碧水晶の輝きに圧されず、

「そうさな……」

 秋斗は微笑みを返した。

「俺と一緒に、徐州で死んだ徐晃隊の墓参りでも行ってくれ」

 呆然と、猪々子は彼を見つめる。
 幽州を攻めたのも、徐州を攻めたのも自分達で……あまつさえ彼の部隊の大半を殺したのは自分なのに、この男は憎んでいないのかと……思考が乱される。

「話は終わりだ。後は……こいつで語り合おうか」

 しかし楽しそうに笑う彼を見て、猪々子は渦巻く思考を切って捨てた。

「……お前ら、手出し無用だ!」

 部下に指示を出してから、同じように子供のような笑みを浮かべ、彼女はズイと馬を進める。

「あんたバカだろ」
「お前もバカだな」

 互いに嫌いじゃないなと思いながら、長剣と大剣が合わさる程の位置まで近付いて行った。

「……あたいは猪々子」
「……俺は秋斗だ」

 幾瞬、切っ先を合わせ、真名を名乗り合い、存在を戦場に預け切った。

 猪々子はこれまで生きてきた自分を賭けられるように。
 秋斗は、たった一つ嘘ではないモノを賭けられるように。

 大きく息を吸い込んだのも、剣を振りかぶったのも同時。
 裂帛の気合を込めて吐き出される猪々子の声を合図に、やけに高い金属音が一度二度と場に響く。

 そうして彼と彼女は、二人共が子供のような笑みを浮かべながら、互いの願いを賭けた戦いに身を投じて行った。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

申し訳ありません。
麗羽さんも書きたいので分けさせてください。

バカだらけの徐晃隊。
どこぞの燕人並に威圧しながら殿を務める猪々子ちゃん。
次回は一騎打ちと麗羽さんのお話、です。

ではまた 
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