イリス ~罪火に朽ちる花と虹~
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Interview12 オトギノヒブン -Historia of “Tales”-
「残された希望を破壊しないでくれ」
道なりに進んだルドガーたちは、ついに最奥の部屋に辿り着いた。
立方体を敷き詰めたステージのような高台。それをぐるりと四方から囲んでいる小さなキューブは、まるでオペラハウスの観客席を思わせた。
『やはり、忠告は聞き入れてもらえぬか』
身構えた。いつのまにか、左手にヤギの骸骨、右手に炎の剣を持った、異形の巨人が現れたのだ。
「あなたがオーディーン?」
レイアの冷静な確認の声に対し、巨人もまた静かに首肯した。
『お前たちの単位で9万5212年前、一つの文明が滅びた。最後に残った住人たちは、自分たちの体を生体データに換え、封印したのだ。遙か未来、データを見つけた何者かが復活させてくれるのを信じて。このトールには、一つの文明と、42万7086名の生体データが保存されている』
「42万超の生体データ、ねえ……」
イリスは唇に指を当て、小首を傾げて何かを考え込んでいる。
『私の願いは、彼らの想いを未来へ繋ぐことだけなのだ。頼む、クルスニクの末裔よ。残された希望を破壊しないでくれ』
「ルドガー……」
エルが不安げにルドガーを仰いだ。
ルドガーとてエルの言わんとする所は分かる。一度、分史世界に進入した以上、時歪の因子を破壊しなければ帰れない。
誰にとってどんな希望であれ、ルドガーの仕事は壊すことだ。
ルドガーの手はポケットの懐中時計に伸びる。
しかし、その手を横ざまに止めた者がいた。イリスだ。
「箱舟守護者よ。生体データさえ無事ならば、この世界を破壊しても構わない?」
『何をする気だ』
「イリスは精霊を吸収し、栄養にする体をしている。それと同じ要領で、トールにある生体データをイリスが吸収して持ち帰る。電気信号なんて消化できないから、トールの民のデータが損なわれることはないわ。2000年前のテクノロジーであれば、それが可能なことも知っているでしょう? 箱舟守護者」
オーディーンは探るようにイリスを見下ろしている。
イリスは悠然と笑んでまっすぐ立っている。
『……トールの民に危険だと判断したら、私はすぐにでもお前をデータ化する』
オーディーンの答えは、遠回しながらも肯定だった。
「構わなくてよ。そんなことにはならないのだから」
浮かび上がったイリスの外見が精霊態に変わる。
イリスがアームに変じた両腕を広げ上げるや、髪から、背中から、指から、脛から、何千と細い触手が射出された。
触手はキューブのあちこちに突き刺さった。
「――コネクト・オールクリア。ドレイン、スタート」
触手の中を光る液体らしきものが通り、イリス一人に吸い上げられていく。
分かる。これがイリスの言った「データを持ち帰る」ために必要な儀式。
「重いわね……さすがに全員分を抱え込むのは無理そう。――箱舟守護者よ。生体データ量が少ない順にサルベージしていいかしら」
『……それでトールの人々が一人でも多く救われるならば』
「賢明な譲歩に感謝するわ。続けましょう」
その後、イリスは、触手をキューブに刺してはデータを吸い上げ、また別のキューブに触手を刺すという行為をくり返した。
「どうして……」
「? エリーゼ、どしたの?」
「あんなに不気味な見た目なのに、人助けして……反則です」
エリーゼの目尻にはうっすらと水滴が滲んでいた。エリーゼ自身も気づいて目尻を拭うが、我慢しているのか唇が震えている。
何となくエリーゼの気持ちが読めた。
ルドガーはせめて、エリーゼの肩に手を置いた。
「俺も、最初はイリスの精霊態、えぐいって思ったよ。いや、今でもたまに思う。イリスが強くなって、手がつけらんないくらい蝕の精霊らしくなってくたびに、思うよ。『バケモノみたいだ』って」
「っ!! ルドガー…も?」
「イリスはそれでいいって言ってくれた。気持ち悪いって感じるのは、身を守る本能だから、むしろそう思わないと駄目だって。そう感じないなら生存本能が壊れてるって。だからさ、エリーゼが今までエルを遠ざけようと思って色々してくれたのだって、正しいことだ」
「知って…たん、ですか」
結構露骨だったから、とは、ルドガーは言わないでおいた。
「俺のイリスへの気持ちは、俺の中のクルスニクの血から来るものだ。エリーゼが無理だと思うなら、イリスを好きでいる必要はない。好き嫌いの気持ちなんて、誰にも左右できないんだから」
大食い大会などのチャレンジャーには、胃袋を広げるため逆にトライ前に食べるという方法が伝わっている。イリス自身の精霊喰らいとそれは似ていた。一度目は微精霊でも吐いてしまうほどだったが、二度、三度と重ねる内に強い大精霊をも平らげることができるようになった。現代ではセルシウスの「食事」から特にそれが顕著だ。
トール文明の民のデータを吸収するのも、イリスにとっては自己容量を増やすための絶好のチャンスに他ならない。
もっとも電気信号などイリスには栄養にもならないので、いずれデータを吐き出してジュードあたりにくれてやる腹積もりである。彼なら立場上、有効活用できるだろう。
(……ぐらいの収穫しか予想しなかったのだけど。思った以上にイイモノを見つけられたわね。10万年以上前の文明、その成立と発展と存続。やっぱりイリスの考えは間違ってなかった)
知らず口が弧を描く。
もしイリスがルドガーたちに背を向けていなければ、彼らはイリスの笑みを目撃し、その邪悪さにイリスへの心証を変えていただろう。
イリスがサルベージ作業を終えると、オーディーンは戦うことなく投降した。
ルドガーはイリスの肯きを受け、骸殻の槍でオーディーンを貫き、『箱舟守護者の心臓』をエルに持たせて持ち帰った。
正史世界のウプサーラ湖跡に戻ったルドガーは、真っ先にイリスに歩み寄った。
「ありがとう。イリスのおかげで、無駄にみんなが傷つくこともなかった」
「ルドガーにとって幸いならイリスにも幸いよ」
――“ルドガーがおいしいなら、お母さんもお腹一杯”――
もはやなじみとなった母クラウディアの思い出も含め、ルドガーはイリスに笑いかけた。
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