乱世の確率事象改変
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戦場に乗せる対価は等しからず
グビリ、と喉を通した液体の熱さに思わず眉を顰めながらも、黒髪の麗人はゆっくりと一息ついた。
暖めた酒も中々にいいモノだ。腹立たしいあの男が言っていたのでしてみたのだが、中々どうして悪くない、と一人心の中でごちる。
戦場の後、そよそよと風が吹き抜ける宵の刻。春蘭と風は次の戦いの為に部隊を休ませている最中であった。
小さな酒器で、まるで猫のように舌だけで酒を舐めている風を呆れながら見やるも、春蘭は別段何を話そうとも思わなかった。
「春蘭ちゃんは張コウちゃんの事をちゃんと考えてあげてるんですねー」
のんびりと、いつものように話し掛ける風はこちらを見もしない。ゆらゆらと波打つ酒を見つめ、またペロリと酒を舐めた。
「……」
「郭図さんを殺さずに生かしているのはあの子の心を少しでも救う為ではないですかー?」
いつもの半目からは感情が読み取れない。ジトリと見つめて、春蘭はまたグイと酒を呷った。
捕えた郭図は現在、縄で縛って簡易の檻に入れている。捕虜の袁紹軍の兵士達には決して近付けないようにもしていた。
「でも風は反対なのですよ。こちらが監視に置く兵数も減らしたいですし……何より華琳様からは生死問わないと言われていますからねー」
わざわざその為に兵数を割くのは少しばかり勿体ない。郭図が生きている限り、繋がりを使って逃げ出す可能性も考えられる。それなら、郭図を先に殺してしまった方が兵士達の掌握も遣り易く動かしやすいのだ。
この戦の最終に一人でも多く自軍の犠牲を減らして生き残らせるなら、風の意見は尤もであった。
「……例えばだ」
ぽつり、と春蘭が言葉を零す。またグビリと酒を呷って大きくため息を吐いた。
「華琳様ではない主に仕えていたとしよう。その時、秋蘭が殺された場合、もしくは張コウのような事態に陥った場合、私は自分を抑える自信が無い」
つい……視線を虚空に彷徨わせる春蘭の瞳には同情の色。
大切な人を奪われる、失う、殺される状況になってしまった時……自分がどうなるか考えてみた上で、彼女は郭図を殺さなかった。
「憎しみに染まるだろう。そして……己が無力に打ちひしがれる。誰かに八つ当たりせねば壊れてしまう程に、な。華琳様が居るから私は抑えられるが、あいつには誰も居ない。
風ならどうだ? そんな状態で稟を失う事態になった時、お前は平静を保っていられるか?」
問いかけられ、ゆらゆらと揺れるエメラルドの瞳が昏い色を映し出す。
「……さあ、起こってみないと分かりませんよ」
誤魔化すが、自分の中で答えは出ている。
きっと残酷に相手を追い詰め、追い込み、絶望させた上で命を奪う。憎しみを呑み込める程、風は優しくないし、割り切れない。
ただ、春蘭と秋蘭の関係とは、風と稟は違う。
冷静に自分の心を読み解ける風は、例え稟が死んでも自分が壊れてしまう事は無いと言い切れた。
「そうか……」
何を思ってか、春蘭はまた酒をグイと呷った。トクトクと次を注いで、風の杯にも継ぎ足す。
「大切なモノの価値も、割り切り方も、想いの寄せ方も……人それぞれだ。だがあいつの生き方を思うとな……何かはけ口を用意してやらなければ死んでしまうと思う」
「復讐をした後の虚しさ、というのもあるのではー? どちらにしても危険だと思うのです」
「それでも割り切って一歩踏み出せる方に賭けるべきだろう?」
兵士の犠牲よりも、紅揚羽の未来を。それが春蘭の選んだ答えで、華琳の為になる事。
郭図がどうなるかなど二人共が容易に予想出来る。
怨嗟のはけ口としてありとあらゆる拷問を受けるだろう。ソレは誇りなど欠片も無い行いで、華琳の軍としてはやるべきでは無い事だ。
「張コウちゃんは拷問の専門家らしいですけど?」
「ああ、分かっているとも。吐き気がする。そんな気の紛らわせ方など認められない。しかしやはり……なぁ」
人の命を猛獣に与える餌のように扱うのだ。気持ちのいいモノでは無い。生来真っ直ぐな春蘭にすれば有り得ない事態だ。
――春蘭ちゃんはなんだかんだで皆の事考えてるんですよねー。さすがは秋蘭ちゃんのお姉さんといったところでしょうか。
風はそう思う。皆の繋ぎ役を買って出るのは秋蘭がほとんどだが、それに隠れて春蘭も皆に気を回して居たりする。空回りしたり気付いて貰えない事が多いのだが。
バカ正直故の性分。そこがまた、華琳が寵愛を注ぐ部分でもあった。
言いよどむ春蘭の前、風はコトリと杯を置いてぼんやりと見つめた。
「……季衣ちゃんと流琉ちゃん、大丈夫でしょうか」
言い分は分かった。春蘭はきっとその意見を曲げない。ならこれ以上話してもしょうがない。せめて、と風は話を変える。
「む……秋蘭が居るからあちらは大丈夫だろう。徐晃も手を打っているし」
「お兄さんが? 真桜ちゃんと作ったモノのことでしょうか?」
「いいや、違う」
急に出た名前にキョトンと目を丸めて。そんな話は聞いていない。また軍師達に何も言わずに何かをしたのかと少し驚いた。
「あいつ本来の遣り方だ」
「お兄さん本来の……?」
はっきりとしない物言いに眉を寄せる。彼がする事はいつも掴み処が無く、風を以ってしても分からない。
「黒麒麟と唯一共通している部分……アレは兵士達を狂わせる。それが自分の受け持つ部隊以外であっても」
ほんの些細な、憐みを含んだ瞳の色で告げた。
前の彼と今の彼、共通している部分はあれどもやはり違う。春蘭はそう感じていた。
ただし同じところが一つ。男にして異質な武力を持つ存在。英雄として謳われる彼は意地とプライドに溢れる男達の指標にして絶対の指針。男の在り方に発破を掛けるそのやり口は、いつでも兵士達を駆り立て狂わせる。
張コウ隊を使うにしても、親衛隊の異常な士気にしても、である。
ああそうか、と納得がいった風は冷たい色を瞳に広げた。
「季衣ちゃん達には少し酷かと」
「部隊を率いる将になりたいのなら乗り越えねばならん壁があるからな。あの二人はまだ伸びるぞ」
「その為の犠牲、ですか」
「ああ、私達の手は……」
掌を広げて、自分の前に翳してじっと見つめた。
憐憫か、寂寥か……ゆらゆらと揺れる黒に含まれる感情は幾多。風も倣って、自分の掌を開いて見つめる。
「掴めないモノがあって、切り捨てなければならない時もあるのだ」
何一つ取りこぼしたくない。それは傲慢で、欲深い願望。
兵士達にとっての隣の兵士は季衣にとっての流琉、春蘭にとっての秋蘭、風にとっての稟。
自分達が生きる為に他人の命を捧げて、そうして望む世界を掴みとる。誰彼かまわず守れるモノなどいやしない。
「例え誰であろうと……それが乱世の哀しい理」
思い浮かべるのは覇王の王佐。桂花は嘗ての親友を策の一環として用いて主の為に捧げてみせた。それはどれほど、苦悩の選択であったのだろうか。
自分達が組み立てた戦絵図であるのに、桂花は風や稟を怨みもしない。痛みを伴いながらも前に進む彼女を想って、風はすっと目を瞑って懺悔を示す。
「そんな事態にしないのが我らの仕事だ」
「……そですねー」
これから将を目指すのなら、本当の意味で自分達がどうやって戦っているかを知ってほしいと、春蘭は戦っているであろう妹分に想いを馳せてギュッと掌を握りしめ、またグビリと酒を流し込んだ。
†
予定通りに烏巣に曹操軍が部隊を分けて進軍を開始した。その報告が入るや否や、麗羽の行動は迅速であった。
距離と時間を計算した上で、引き返して戻って来るころには官渡を落とせるように、陽武の守りを最低限に抑えて進軍を開始していた。
数は力だ。軍に動揺は無く、勝利を信じてただ戦う。二枚看板が士気を上げ、大将自らの出陣という事もそれに拍車を掛けている。
先の戦いによって主力兵器の数を減らしているし、袁紹軍の方にはバリスタの数はまだあった。潤滑な資金援助と事前準備の賜物であろう。
確かに投石器や投槍器の威力は脅威だが、対策法が確立され、数さえ減らしてしまえば通常の攻城戦に持ち込める。奇策である落とし穴も、使われた後では兵列さえめんどうだが、矢避けに使えるのだ。
袁紹軍に対して、曹操軍の防衛は兵数が少なく、どうにか持っているといったモノ。土嚢を積み上げて城門を塞ぎ、少ない兵器と矢での対応を強いられている。
火は使われる事が無かった。あれほど盛大に使っていたのだから、もう燃やせる油も無いのだろう。麗羽達はそう予測を立てた。
機を見て敏なり、此処が正念場であると意識を置いた袁紹軍の攻勢は凄まじく、幾刻後には遂に一つの壁が破られた。
雪崩れ込む人の群れに、曹操軍の兵士達は脱兎のごとく逃げ始める。東西南北の城門を全て塞いでいるというからには、逃げる場所など何処にもない……と、思われた。
まず、袁紹軍は入ってから唖然とする。官渡内部に余りに異質なモノがあった為に。
「な、なんだこれ?」
猪々子が素っ頓狂な声を上げる。はたはたと脚を止める兵士達の頭にも疑問ばかりが浮かんでいた。
土の壁が幾多、そびえているのだ。人の身長よりも大きな壁と、入って来いと言わんばかりの入り口。
あからさまな誘い。これに突っ込むバカは居ない。後で調べてみようと切って捨て、どうにか逃げ惑う敵を追おうとするも……
「へへっ、こっちだよいっちー!」
連合の檄文を届けに行った際に真名を交換した少女が、ひらひらと手を振り、あっかんべーと舌を出して誘っていた。
「きょっちー! 官渡に居たのか!?」
「ボクが守ってるんだもん。当然じゃん! 戦うんならこっちにおいでよ!」
兵達からは苦笑が漏れる。
本当にあからさまな、子供のような誘いであるのだ。
土の壁はそこそこ長い距離に渡って広がり、四方を囲まれて上るか打ち壊さなければ入り込めない。しかし土の上には兵が居座り、矢を構えてもいる。
見れば内部の建物の上にも弓兵が構えており、対応するのに時間が掛かる。
秋斗と真桜が作り上げた官渡は攻城戦にして攻城戦に非ず。例え内部に踏み込んだとしても軍としての動きを白紙にしてしまう『街の中での戦闘』を想定されていた。
見つけた敵を殺すだけ。しかし区切られた空間では兵個人の練度が高い方が勝るのは必然で、野戦用の大きな部隊指揮などなんの意味も持たない。数の差で体力的な問題はあるモノの、兵達だけの純粋な力量勝負に持ち込まれたのだ。
狭い通路では二人、ないしは三人での連携。質によって黄巾を乗り越えて、尚且つ厳しい訓練を積んできた曹操軍の兵士達にとっては慣れた戦い。
極め付けは……漸く広い場所に出たと思っても、備えられている小型投槍器による面制圧が待っていた。秋蘭の弓部隊も列を為して配置され、纏まって動こうモノならいい的になる。
木板を斜めに立てかけて、覗き穴から放たれる矢は、自分達は射られる事が無い安心感から絶対の精度を誇り。
はたまた、纏まって突撃して来ようとも建物の内に配置された槍兵が飛び出して意表を突いたりと、その戦い方は多種多様。
戦ではなんでも利用するモノだ。古今東西、世界各国であった戦争は野戦だけでは無い。それを良く知る秋斗は、官渡に入り込まれる事を策の一つとして準備していた。そうして、ただ一人でも多く殺す為の、無慈悲な戦場を作り上げた。
袁紹軍の練度は其処まで高くない。猪々子や斗詩の部隊、そして麗羽を守る虎の子の強弩部隊くらいが曹操軍と渡り合える。
こんな状況で戦い続けては被害総数がどれだけ出るか分からない。曹操軍の数すらぼかされ、何処にどれだけの敵が居るのかも判断出来ないのだから。
その場合、どうすれば兵士達を抑えられる? 考えれば、思い至るのは一つ。
旗である将を捕まえるか殺す。そうして兵士に敗北を思い知らせて投降を呼びかけるのが普通の遣り方。だからこそ、季衣が誘っているのだと気付いて、猪々子は舌打ちを一つ。
――くっそ……あたいと斗詩が誰か捕まえないと時間が掛かり過ぎちまう。
油断は無い。自分の方が上だとは思うが、季衣は間違いなく兵とは画一された力を持っている。
それに……前はただの子供だと感じていたが、今の季衣は猪々子にとって本気を出すべき敵だと認識出来た。
「ねぇ、知ってるいっちー? 張コウって人、泣いてたよ?」
トン、と背中を土壁にもたれ掛け、語りかける声は悲哀の色。顰めた眉で、流し目を一つ。
一寸だけ、猪々子の思考は止まる。
――あの明が、泣いてた? ウソだろ……
自分が知っている彼女は決して泣かない。取り乱さないし焦りもしない。夕以外の命などなんとも思っていない女で、彼女が泣く姿など想像も出来なかった。
ああ、そうかと気付くのは計画から。嘘泣きくらいなら、彼女は出来るのだろうと。
揺さぶりだ、と思う。しかしながら、季衣の声にも瞳にも、そんな駆け引きなど全く見当たらない。
「それで?」
故に話を促した。だからなんだと、強気を込めて。
「……初めはね、ボク達を騙す為に嘘泣きしてたみたい。でも……」
あれは間違いなく本気で泣いていたと、季衣は思う。秋蘭を戦場で追い詰めた紅揚羽の姿は其処には無く、ただ一人の少女が居たのだ。
絶望の涙は前に見た。秋斗が追い詰められたあの日、季衣もあの場所に居た。純粋な子供の眼差しは騙されやすい時はあっても、真実を見抜く時もある。
――ボクも流琉が殺されそうなら、あんな風に助けてって縋り付くもん。
魏の重鎮達に於いて、片割れの消失を恐れるモノは多い。なればこそ、明の気持ちはおおまかながら理解出来た。
ぐ、と唇を噛んだ季衣は……続きを紡ぐ。
「田豊って人が殺されるって聞いて、兄ちゃんに泣き縋って、二人で助けに行ったんだ」
「……え」
口から零れたのは無意識。聞き返したわけではない。思考が追いつかずに、猪々子は茫然と季衣を見つめた。
戦場という事など、忘れてしまう程に。
「に、兄ちゃんって誰だ?」
訳が分からないから、とりあえず分からないモノから尋ねてみよう。猪々子の考えはそんな所。
「あ、兄ちゃんは黒麒麟って呼ばれてるよ」
「こくっ、はぁ!? なんで黒麒麟と明が仲良こよしで夕の奴を助けに行くんだよ! 嘘つくな!」
有り得ない。仮にも敵だ。裏切って直ぐに背中を預けるような事、誰もするわけが無いのだ。
たった二人でという所もおかしい。あの明が何故、張コウ隊を動かさない? 烏巣に向かったと言う事は、やはりこちらの策が成功した証だ……そう、猪々子は思う。
ただ、嫌な予感がした。目の前のこの少女は単純で真っ直ぐだ。嘘を付くなら、もっと分かり易くなるだろうとも思う。
「ホントの事だもん!」
「いいや、嘘だね!」
むっと不機嫌に表情を曇らせた季衣が大きな声を上げるも、信じてやらないと突き放す。もやもやする心の気持ち悪さを拭えずに。
自分が信じられない事を否定するその行いが、袁紹軍の策をばらしているとも、気付かずに。
「大切な人が殺されそうなら誰だって助けたいでしょ!?」
「それでもあたいが知ってる明は――――」
「田豊の言った事を信じて、曹操軍に嘘を付き通して烏巣におびき出し壊滅させるのを遣り切る、か?」
嘲りを含んだ声が上から響く。
バッと土壁を見上げれば、弩を構えた蒼髪の麗人が見下ろしていた。空いた手を静かに上げると、立ち上がる兵士が一人、二人……幾人も増えて、猪々子に狙いを定める。
直ぐに口を閉じても、もう遅い。季衣が示していたのは明が曹操軍に寝返った事。それを否定するという事は、初めから寝返る気など無かったとバラすに等しい。
単純な思考誘導だ。季衣が行うからこそ意味があって、猪々子だからこそ引っ掛かった。
「これでイロイロと確信が持てた。教えてくれてありがとう、文醜」
「……何がだよ」
「ふふ……お前の事はあまり嫌いになれそうにない。代わりと言ってはなんだが、いい事を教えてやろう」
長い髪が掛かって片方しか見えない目が、楽しげに細められた。
猪々子の真っ直ぐさが、純粋さが、自身の敬愛する姉とダブって見える。
気分よく、秋蘭は軽い声音で続けて行った。
「烏巣第五の陣、と言えば分かるな?」
自分達しか知らないはずの情報を耳に入れて、あんぐりと、猪々子の口が開け放たれる。
鈍器で殴られたような衝撃。思考の空白は隙を作る一番の敵。こと戦場に限っては、それこそが命取りと成り得る。
しかしながら、秋蘭も季衣も、彼女達に対して攻撃を加えようとしなかった。
「なん……で……」
信じたくない。自分達は明の事を信じているのだ。だから、秋蘭が言った事を、信じたくなかった。
「紅揚羽達を救いたいならお前が動けばいい。生憎、我らはお前達袁紹軍と戦う事で忙しい」
「なんで、だよ……明……」
もはや秋蘭の言葉は耳に入っていなかった。それほど、猪々子は明と夕の事を信じたのだ。いや、明が夕を信じなかった事が、信じられなかったのかもしれない。
絶望に揺れる眼。慄く唇と震える肩。兵達を鼓舞するはずのその大剣でさえ、するりと落としてしまいそう。
――そうか……お前は張コウの事をそれほどまでに……。
憐みの視線を向けた秋蘭は、小さくため息を吐いて弩を兵に投げ渡す。
「おせっかいは此処までだ。後は自分達で決めればいい。華琳様の望むまま、我らは我らの仕事をするのみ……。
それでも向かってくるなら……容赦はせん」
コクリ、と季衣に一つ頷いて合図を送った後、片手で矢を取り出して口に咥え、同じく片手で構えた弓に器用に番えた。
その矢の形は通常のモノでは無い。先端は人を殺すためには出来ていないモノ。
雲一つ浮かばない晴天の空に向けて、キリキリと弦を引く。
――私がこの道具の産声を上げるに相応しいと言っていたが……まあ、悪い気はしない。
彼の配慮に、少しだけ頬が緩まった。コレは大陸で使われる初めての道具。
黒麒麟の嘶きと同じく、彼がこの乱世に齎そうと決めていたモノ。
弾けた音が一つ。掻き消すように、高らかな音が戦場を引き裂いた。
鏑矢……彼が使用を考えていた伝達道具。
天に上る矢は高く鳴く。鳥が高く高くと昇るように。日輪に向けて。
意識を引きつけられた敵は空を見上げ、反して曹操軍はすぐさま、誰しもが戦闘を止めて走り去る。
「なぁ……明……なんで、だよ……あたいたちは……」
――信じてたのに……お前は……。
追撃を命じることも出来ず。
その美しい音に引きつけられることなく……薄緑の髪を揺らす少女は、裏切りの絶望に打ちひしがれていた。
†
「おぉっ……やっぱりめっちゃええ音やなぁ。さすがウチ」
高らかに響く合図に真桜はにししと笑いを一つ。
鏑矢は彼が考案して、彼女が作ったモノだ。自分の腕の良さに自画自賛するのは良くないが、完成品が使われるのは例え戦場であろうと嬉しくもあった。
黒麒麟の嘶きは既に敵軍に使われている。指揮系統の混乱を避ける為には、何かしら別の道具を使うべきとは誰もが考えていた。銅鑼や太鼓など、官渡全てに指示を響き渡らせるモノは多々あるが、敵が使わなくて敵の意識を引きつけられる派手なモノの方がいいに決まっている。
如何な曹操軍であれど、万単位の兵力差は覆しようが無い為に、躊躇いなく使う事を決めた。
「で? 顔良はん。あんたはどないするん?」
笑みを浮かべたままで言い放つ。
目の前に居る将は間違いなく自分よりも上の実力を有している。本来なら相対することなく逃げを選ぶが、今回は逃げずともよかった。
「まだ、戦いますか?」
ペパーミントグリーンの髪が揺れる。少女の声音は甘く、されども厳しく、真桜の前で震えている斗詩に突き刺さった。
真っ青な顔色は疲れからか、滴る汗は焦りからか……否、彼女はまだそれほど長く戦闘をしてはいない。
では恐怖か。それもまた、否。
目尻に浮かぶ涙の意味も、膝を付きそうな程震える脚も、違う理由からであった。
「もう一回確認しよか? 紅揚羽は裏切った。でも、裏切るに足る理由が袁紹軍にはあった……ちゃうか?」
ズバリと言い当てられる。それほど分かり易く、斗詩は動揺を隠せないでいた。
自分と主が良かれと思ってやった事が、絶望で足掻いていた少女をさらに追い詰めたのだ。胸に来る虚脱感は……それでも笑顔で涙を零し、自分達を憎まなかった少女への懺悔に埋まる。
斗詩の心には恐怖も湧いている。血と絶望を餌に育った狂犬を縛り付けていた鎖が解けるのがどれだけ恐ろしい事か、自分の命も、親友の命も、主の命も……希望が持てない。
もう少し、もう少しだったのだ。新しい友達で、蟠りが解けたから仲良く笑い合えるはずだったのに……斗詩は初めて、夕と明の絶望の一端を実感する。
――あの二人は……こんな事を繰り返して、それでも諦めなかったっていうの?
希望を持っても叩き潰される。味方だと思っても信じられない。足の引っ張り合いで全てが台無しになっていく。
否、斗詩の感じているモノはほんの些細なモノに過ぎない。
長い長い年月を掛けて積み上げたモノが一瞬で崩されるのは、正しく絶望するに相応しい。
――夕ちゃん、どうしてあなたは……私を責めなかったの?
最後の笑みが哀しいモノだったのだと気付いてしまえば、懺悔を感じずにいられない。
彼女は何を望んで自分の口を噤ませた? 頭を回せば答えが見つかる。
――自分が殺されると分かっていても、私がしている事が原因だと分かっていても、夕ちゃんは何も責めずに受け入れた。麗羽様の、邪魔をしないように。
何故、どうしてと考えた先で見つかったのは、漸く一人で奮い立てた主の姿。
自分を支えている臣下に、そして必死で抗っている友達にナニカを返したい。そう思ったからこそ麗羽は、仮面を脱ぎ捨てられた。最初の一歩を踏み出せた。
他者の心を踏み躙らずに、自分を犠牲にしてまで麗羽の成長を選んだ。
嗚呼、と甚大な悲哀が込み上げる。沸々と湧き立つ不甲斐無さは、斗詩に力を与えていた。
二対一。奇しくも延津と同じ状況。しかし、心情は全く別。
――だからっ……私は……せめて彼女の望んだ勝利の為に。
真桜からの問いかけには応えず、斗詩は心を落ち着けて行った。
「……勝たないと、救われない、ですからね」
生来、心優しい斗詩は戦には向いていない。
生きたいし、死にたくないし、殺したくない。自分でも自覚していた。
それでも尚、戦う事を選んだならば、せめて自分達の描く世界を掴まなければ意味が無い。これまで犠牲にしてきた命に報いる為にも。
雰囲気が僅かに変わったと、流琉も真桜も感じ取る。
「まだ、戦いますか?」
戦場は膠着。隔絶した武の持ち主の戦闘には、兵士が立ち入るは無粋というより足手まとい。あの延津のような乱戦にするなら別であるが。
故に、この問いかけは正常。武人同士の戦いを続けるか、それとも血みどろの戦場を繰り広げるか、どちらか選べと言っているのだから。
流琉の放つ気迫に隣で螺旋槍を構える真桜の頬が緩む。
――こーんなちっこいくせに、あの人らみたいに思えるんやから……不思議やなぁ。
白馬の戦場を経験した自信からだろう。そこまで実力も高くない真桜は、自分よりも年下ではあるが流琉に背中を任せる事にためらいは無かった。
まるで春蘭達のような頼れる姿。幼いからこそ、彼女は日々年々成長していく。
二対一では確実に分が悪い……斗詩が回す思考は幾重にも及んでいた。
こちらの策がばれている以上、深追いして兵数を減らすのは拙い。どちらか一人でも捕えられればなんらかの手も打てるが……官渡の内部では曹操軍が有利過ぎて戦い難かった。
「……一旦立て直します。この場は捨て置いてください。同時に袁紹様に伝令。烏巣は失敗、とだけ」
周りに居る兵士達に指示を出し、斗詩は大槌をすっと下げた。警戒する流琉と真桜はじりじりと後退していく。
――どっちにしろ官渡に居る曹操軍は袋のネズミ。出入り口は完全封鎖してあるから……逃げられないし逃がさない。
戦の通常思考で下した判断から、彼女は味方兵士の生存優先を選んだ。
「ふっふー、此処で逃がしてええのん?」
悪戯っぽく真桜が笑う。挑発か、はたまた嘲りか。真意のほどは見えず、もやもやと心に不快さが湧く。
「あなた達は勝ったら麗羽様を殺すでしょう? なら、私達は勝たないとダメなんです」
大切な人を失わない為にも、夕が選んだ選択を無駄にしない為にも、ただ勝利を……希う心はもうブレない。どんな手段を使おうとも勝とうと決めた。
「……さいで。ほな流琉、ウチらが最後やろうし行くで」
「……一つだけ」
寂しげな色を浮かべて、流琉が口を開いた。じ……と見つめる視線は真っ直ぐに斗詩の胸を射抜く。
「あなたは、きっと悪くないです」
ぽつり。小さな小さな少女が口にした言葉は、涼やかに流れて消えた。
しかして耳に響いた音の優しさに、斗詩は思考の空白を余儀なくされる。
真桜と流琉は、一寸だけ驚いた顔に変わった後、何も言わずに走り去って行った。
未だそこかしこで戦闘の音が聴こえる。
自分がしっかりしなくては、猪々子に任せるだけでは不安が大きい。
だから、と。斗詩は生唾を呑み込んで目を瞑った。何か大きなモノを、自分の中に呑み込めるように。
「が、顔良様……?」
「どうしました?」
「そ、その……」
言いよどむ隣の兵士を不思議に思った。振り返ってみると、皆が一様に驚いた顔をしていた。
なんで……と思った矢先、自分の頬にナニカが伝った。
指をそっと辿って、彼女は自分が泣いている事に漸く気付く。
「あ、あれ……? なんで……私……」
ゆっくり溢れてくる雫は暖かい。哀しいのか、嬉しいのか、斗詩は自分の心の中身が全く分からなかった。
ただ、先程小さな少女に言われた一言を思い出して、ビシリ……と来る、大きな胸の痛みを抑えられなかった。
†
兵士の数が増えれば指示の伝達も容易にはならない。元より袁紹軍は二枚看板が全てを指揮しているわけではない。
地方からかき集めたそこそこの将も多々居るのだ。
故に、斗詩と猪々子の指示を待たずして、逃げる弱者を追い掛けたくなるのは人の性としても、戦功を得たいモノ達にしても、当然であった。
空に鳴り響いた甲高い音を合図に、曹操軍の攻勢は全くなくなった。追い駆けて殺せばいいだけになったのだからと、袁紹軍は部隊を散開させて追撃にあたる。
城の出入口を塞いでいるのだから、敵は纏まって無理やり逃げるしかないだろう。誰であろうとも、そんな考えが浮かぶ。
予想通りに、曹操軍は一か所に集まっていった。ただし、その場所は入り口などない城壁の角。自分から追い詰められて何をしようというのか……油断と慢心は広がって行く。
辿り着いた其処で、袁紹軍の兵士達は唖然とする。
「お、おい、曹操軍は何処に消えやがった!?」
「皆こっちに走って行ったってのに……なんでこんなに少ねぇんだよ!」
見やれば、余りにも敵の数が少なすぎた。一つの物置を守るようにして、曹操軍は陣形を組んでいた。それも徐々に小さくなって行く。
しかも区切られた空間であるが故に攻め切れても居ない。何より、煙のように消えた大量の兵士の行方が気になって集中力すら削られる。
浮足立った敵に対して、その少数の士気は格段に高かった。
さもありなん。彼らには御旗が居る。見た目はただの少女ではあるが、重量武器を軽々と振るい放たれる暴力は格が違う。
ある者は白馬で見た。突撃が得意な猪々子の部隊に臆することなく戦った少女を。
ある者は延津で見た。味方ですら恐怖する張コウ隊相手に生きぬいた少女を。
その二人が、阿吽の呼吸と言うに相応しい連携を繰り広げれば、一介の兵士達では近付く事さえ出来ない。
そして厄介なのはもう一つ。ただの兵士と侮って近づこうモノなら、その二人に合わせるように動く曹操軍の兵士達によって惨殺される。
今、彼女達二人を守っているのは他の部隊とはかけ離れた経験を持つモノなのだ。
彼らは曹操直属の親衛隊。この乱世の初めから生き抜いてきた歴戦の古強者。そして華琳自らがあの化け物部隊と同じに仕上げた、曹操軍で最高水準を誇る英雄たち。
功に逸る心も、彼らの美しい舞の如き連携連撃で崩される。
刷り込まれた恐怖が、袁紹軍の兵士達に甦った。たかだか兵士がこれほどまでに強い。少しばかり武に秀でていようとも、多種多様な動きを即時対応してみせる彼らには通用しない。
“アレを追い詰めては、ダメなのだ”
赤い華が、記憶にちらついて離れない。腕に巻かれた黒い布が、命をゴミクズのように投げ捨てる黒の部隊を思い出させる。よく見れば、彼らは笑っているのだ……アレと同じように。
刻まれた恐怖は情報によって助長され、瞬く間に袁紹軍の全てにためらいを生ませた。
そうして、誰も近づけなかった……いや、近づかずに殺そうと考えた。
其処まで、誰かの読み筋であるとは知らずに。
「おー……朔にゃんの言った通りになったね」
「凄い……これなら大丈夫かも」
人の心を読むに長ける狼は、黒の為の戦場をただ読み解き敷くだけでいい。故に、この状況は必然として作られた。
楽しげな声を上げる二人は疲れも不安も感じさせず、周りを確認して子供のように喜ぶ。
戦場の匂いが支配するこの場では異質に過ぎるが……親衛隊にとっては通常のこと。彼女達の無邪気さを見れる事で、彼が打ち建てさせた証の証明となった。
「では、先にお逃げください」
親衛隊で一番のモノが言うと、季衣は不思議そうに首を傾げた。
「ん? 何言ってるのさ。ボク達が殿で皆が逃げるんだよ?」
「そうですよ。しっかり守りの仕事を遣り切りますから」
彼女達が殿を務める方が確実に多くを助けられる。当然だ、と誰もが思う。彼女達が守る側で、彼らは守られるべき。
けれども、彼らにとって……それが一番認められないという事を季衣達は知らない。
「はは……」
ああなんだ、と彼らは思う。所詮この少女達にとって、自分達は脆弱な守るべきモノでしかないのだ、と。
――認められねぇ。認めて、たまるもんかよ。
たった二人で戦に向かう黒が、彼らに残した仕事がある。
名も語られぬ彼らが、より確実にこの二人を救うためにと授けた……黒の本質。
心が渇く。まだ認められていない。ならば、自分達は守る側なのだと、命を張って証明するしかない。
「敵に大目玉食らわせてやるんで、俺らだけで十分です。あなた方は強いが、大量の矢でも来たらどうすんです? 万が一があったら、俺らはどうすりゃいいんですか?」
「それは……」
流琉が慌てて反論しようとするも、口を噤んだ。兵士達が浮かべている笑みに圧されて。
「ど、どういうことさ」
「この戦場の後始末は俺らに任せて次の仕事に行ってくれって事です」
「そんなの――――」
「将になるなら!」
まだ言い返そうとした季衣を、大きな声で遮った。
切り捨てられる命として呑み込めと、彼らはそう言っているのだ。
「一定の成果を得るのに部下の命を躊躇っちゃいけねぇ。何より……お二人が目指してるあの方たちは……俺らみたいなのに任せてくれますぜ?」
春蘭と秋蘭ならば、部隊のモノに背中を預ける事を躊躇わない。非情な命令を下す事も躊躇わない。それが戦における兵の正統な扱いだ。
だからこそ、此れから乱世を越えて行くにあたって華琳だけを守る彼女達に足りない部分は、兵士に守られていると自覚すること。自分達の命を、彼らの命よりも重いと見る事であった。
言い方は悪いが、彼らからすれば季衣や流琉は重荷。自分達で守れるはずの主を、この小さな少女に守らせてどうする、と。
自分達だけで守り切れなければ親衛隊には足りえない。此れは華琳が窮地に陥った場合の、季衣と流琉を華琳に見立てての実践演習とも言えた。
敬愛する二人の事を話しに出されては何も言えない。二人に追い縋りたいからこそ、その論理はよく分かった。分かってしまった。
戦場に立ち、乱世を駆けると決めた以上は、彼女達はこれからもこんな選択が増えて行く。だから、今この時に、自分が一人でも多くを生かしたいという願いを飼い慣らさなければならない。
「季衣……」
「うん、流琉」
此れはただの一戦場。ただの一戦闘。残酷に、理不尽に、命が咲き誇る乱世の常。
彼らは命を賭ける。彼女達は命を賭けてはならない。誰もが死ぬ可能性があるとしても、彼女達は生かされなければならない。
ぎゅう、と眉根を寄せた二人は……せめて、と笑顔を見せた。
「先に行って待ってるから」
「先に行って待ってますよ」
振り返らずに、彼女達は駆けて行く。残ると決められた者以外も、その背を守る為に駆けて行く。
ふ……と誇らしく笑ったのは全員。此処からが彼らの仕事で、彼らの選んだ生き様だった。
「ははっ、掛かって来い、袁紹軍! お前ら死ぬ覚悟は出来てるかぁ!? お前らは何を守りたい!?」
「ただ戦うだけなんざ真っ平だ! 誇りはあるか? 意地はあるか? 願いはあるかよ!」
「聞けよクズ共、恐怖を刻め! 我ら曹操親衛隊の精兵なり! 上げろ、俺達だけの指標を!」
喉も張り裂けんばかりに声を上げ、彼らの唱和は一矢乱れず。
『華々に光あれっ』
数十人の怒号に、百や千を越える袁紹軍は圧された。軍として、兵として、男としての在り方が違い過ぎた。
各隊の長が纏めようとするも、その堂々たる姿は武人のそれに等しく、近づこうとするモノは居なかった。
故に……彼らは嘲笑う。
腰抜けめ、生きたいなら、守られたいなら兵士になんざなるんじゃねぇよ……と。
小屋の中、掘られた穴から笛が鳴り、幾十人だけが持ち場を離れる。
残った者達はただ笑い。キリキリと構えられる矢の音を聞いていた。
――ああ、いいもんだな。これは
胸を透くような感覚。満たされる達成感。戦わずとも、殺されるだけであろうと、守れたという事実がただ嬉しい。
彼らに悔いは無く、漸く自分達の存在意義を示せるのだと歓喜していた。
射られる大量の矢によってハリネズミになる寸前、彼らは確信して笑みを深めた。
これで覇王は、俺達こそが親衛隊に相応しいと認めてくれるだろう、と。
彼女達は、残る奴等を守るでなく、主の為に戦う将になれるだろう、と。
官渡での第三戦闘は呆気なく終わりを告げた。袁紹軍の被害は相応のモノで、曹操軍は寡兵であったというのに大した損害は受けていない。
事前に物資を他に移送し、作り上げた兵器も全て壊し、官渡の砦の井戸も汚物を放り込んで潰していた。籠城に使う事は出来ない。
秋蘭、真桜、季衣、流琉、朔夜の五人は兵を率いて官渡からの脱出に成功した。
種は単純。真桜の掘った穴は脱出の為にも用意されていたというだけ。迅速にして適格な避難誘導を行える曹操軍であるからこそ、此処まで上手く抜けられた。
強力な兵器は目と意識を引きつける。落とし穴が使われた後だからと大地への認識は意識から外される。緻密に計算された奇手奇策の限りを使って、曹操軍の被害は想定以上に抑えられたのだ。
さらには、抜け穴の内部の暗闇を利用しての伏兵によって、探索にやって来た兵の大半が生き埋めになった。伏兵達自らが命を賭して道連れにして。
個人の命を使った策の数々に、袁紹軍は恐怖の底に堕ちた。
猪々子と斗詩の二人の士気はどん底と言ってもよく、明の裏切りの報せを聞いた麗羽は……官渡に兵を移さずに野戦で曹操軍との決戦の準備を進めるとだけ指示を出した。
着々と近付く官渡の戦いの終末。もはや妥協は、どちらの軍にもない。
そんな中、袁紹軍には二つの伝令が来る。
一つは、烏巣が落ちたという絶望の報せ。
そしてもう一つは……黒が齎す最悪の報せであった。
傷だらけで、絶望に堕ちて濁り切った瞳を携えた伝令は……紅揚羽の部隊の一人。憎しみすら籠る視線で伝えたのは……袁の王佐の死亡報告であった。
パチ……パチ……と定期的に爆ぜる音。ゆらゆらと燃える朱色の炎。煙は高く、赤く映える天に上る。
黒と赤が並んでいた。幾多の感情が渦巻く視線を携えて。
赤は炎を眺め、黒は煙を追っていた。
紅揚羽は此処にはいない。最愛の少女、その命を喰らって生きると約束した少女が居るだけ。
小さな後姿に、不敵さの欠片も感じ取れないその背中に、兵士達は懺悔と無力を噛みしめて視線を向ける。
「……これでお前らの大事な軍師は、ただの肉袋として腐らず、天に帰る」
赤が望んだ。彼女の身体を腐らせたくないと。崩れるのも許せないと。土くれになど還したくないと。
儒教社会で受け入れられない行い。しかれども、張コウ隊は気にしない。
夕暮れ、朱色の空は美しい。彼女はソレになるのだと思えるが故に。
「だが……あの子の想いはお前らの胸の内に。
……黙祷と共に繋ぐことを誓え」
皆、誰も目を開くモノはいない。彼女の姿を胸に刻み込み、思い出と共に心に仕舞う。
胸に宿すは平穏への渇望。そして……この弱くて哀しい赤の少女を救う為。
つ……と彼女が彼の服の袖を握った。震える手は、大きな手に包み込まれて安堵する。
親を殺した。そして今度は、大切なモノをも殺した。
本当の意味で全てを失い、空っぽだった自分だけが残った。彼女が縋れるモノは、残された想いを共に宿す彼だけ。
中身は与えられた。もう、彼女は人形では無い。
昔から願ったモノはカタチを変えて心にあった。
“彼女の為に、自分の為に”
幸せになれと、願われたから。
幸せになりたいと、願ったから。
彼女のように、もがいて足掻いて、掴み取ろうと決めた。
ゆらゆらと燃える炎と、夕暮れの朱色が世界の全て。赤の少女は漸くこの世界に生まれ出た。
コクリ……彼に小さく微笑んで、頷いて見せた彼女は手を離し、つま先立ちで、道化のように腕を回して振り返る。
赤く腫れた目と、涙の跡。されどもそこには、笑みがあった。
彼ら張コウ隊の見慣れた、戦場を住処とする紅揚羽の残虐な笑みが。
「あはっ♪ んじゃあバカ共、命を食い荒らしに向かおっかね♪」
悲哀など無く、食べたいモノを食べる彼女が其処にいる。
彼らは目を開き、同じような笑みを浮かべた。心の内に、彼女を絶望させた相手への憎しみを込めて。
応……という重苦しい声を聞きながら、彼だけは其処から離れて歩みを進めた。
一歩、また一歩と進んで行く先、ピタリと脚を止める。
大きなため息は呆れているようで、黒の眼光は昏い暗い光を放つ。緩く引き裂かれた口は楽しげであって渇いていた。
「きっと俺は、“いつも通り俺に付いて来い”とか言ってたんだろうなぁ」
嘗ての自分に向けての言葉は、確信を持って口から零れる。
部隊を使うならそう言って先頭を駆けるだろう。そうして一人でも多く救いたいのだと分かっていた。
「んなこたぁ俺には言えないね。だって俺は、黒麒麟じゃない」
どれだけ戻りたいと願っても、彼は“彼”に戻れない。
皆が望んだ英雄には、黒い道化師は成りきれない。
「だけど俺は……黒麒麟になりてぇんだ。たった一人の女の子の心を救うために……そんで、世に平穏を与えたいから」
その為ならば、例え何であろうと生贄に捧げよう。自分という存在さえ、消えてくれても構わない。誰の命も、厭わない。
ズシリ、と音が鳴った。彼の前で、幾重もの音が収束されて鳴った。
大地に突き刺さるは剣と槍。
怒りか、悲哀か、絶望か……否、否。突き刺したのは誓いゆえ。今の彼が、自分達と同じだと認めたが故に。
黙して語らず。傷だらけの男達が並んで彼をじっと見据えた。彼ら全ての頬には涙の跡。噛みしめる歯は、叫んでしまいそうな喉を押し込めるようにと。
「だからよ、お前ら……いや、黒麒麟になりてぇ大バカ野郎共」
自然と、彼は笑った。より不敵に、楽しげに。自分と同じモノ達に向けて。
眼前に並ぶ男達は……その数、三千弱。
袁家を絶望に落とし続けてきた、黒の為の兵士達であった。
我らはなんぞや。彼が“彼”でなくとも――
――我らは違わず、“黒麒麟の身体”なり。
「俺と……並び立って戦ってくれ」
弾ける声など無い。怒りの声も、怨嗟の声も、悲哀の声も、上げなかった。
彼らはただ、応……と短く重く返事を口にした。
官渡の戦いの最後に赤と黒が動く。
袁紹軍の絶望は、より色濃く染まっていた。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
遅れて申し訳ありません。
袋のネズミと見せかけて抜け道。
官渡の砦は蜘蛛の巣の中心な感じです。
明はまだ立ち直ってませんが、とりあえず戦うようです。
官渡の戦は次でおしまいです。
ただ、官渡での話はまだ終わりません。
ではまた
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