トワノクウ
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トワノクウ
第二十二夜 禁断の知恵の実、ひとつ(三)
前書き
寺子屋修行
菖蒲は平八をふり向く。
「平八さん、そろそろ講義の時間ですので」
「あっ。すいやせん。すぐ」
平八は(上着に隠れていた)腰の厳ついデザインの振鈴を取ると、掲げて鳴らした。
「おーい。勉強の時間だぞー」
からんからん、と鳴り響く音に学童がいっせいにこちらを向き、ちらほらとやって来始める。何人かは元気よく駆けてきて平八に飛びつき、校舎に一緒に入ろうとねだっている。平八は子供に人気らしい。
「ご覧の通りこれからお勤めですので、お話は少し待っていただけますか」
「――間が悪ぃ」
小さく毒づいた露草の声を、しかし、菖蒲は聞き逃さなかった。
「間の悪い時刻にいらしたのはそちらでしょう。さっさと用事をすませたいなら梵天に割り当て時間を先に聞いてから来ればよかったんですよ。それともまだ寝ぼけてらっしゃいます?」
露草の反駁を待たず、菖蒲は残る学童(最後に来た異人の娘含む)を引き連れて校舎の中に入って行った。
「この時間にここに行くようにっておっしゃったの、梵天さんですよね」
「あんにゃろ……謀りやがったなっ」
「そうでしょうか」
怪訝さを呈する露草。軽く怖じたが、くうは考えを披露する。
「時刻という概念がまだ浸透していないこの時代、授業の時間割を正確に覚えるには身体で覚える、つまりそれなりに学舎に通う必要があります。梵天は菖蒲先生の授業時間を覚える程度にはひんぱんに菖蒲先生を訪ねてらしたんじゃありませんか」
「まあ……確かにな」
「その上であえて授業にかぶる時間を梵天さんが指定したのですから、何か意図があると思うんです。菖蒲先生と話す以外の意図が――」
くうははっとし、ドレスを持ち上げて、菖蒲を追って三和土へ踏み込む。
「菖蒲先生!」
学童を連れて教室に入ろうとしていた菖蒲がふり返る。
「あの、私、その、えと、菖蒲先生の授業、見学させていただいてよろしいですか!?」
きょとん。まさにそんな擬態語がぴったりな様子で、菖蒲がくうを見つめる。
しまった。その想いが切々と湧き上がる。
(間違ったことを言ってたらどうしよう。そもそも今日初めて会ったばかりで、生徒でもなく授業料も払っていないくうがこんなことを言い出して、菖蒲先生がくうをおかしな子だと思ったら。せっかくの梵天さんの紹介が台無し! あ~~!)
「いいですよ」
「ふぇ!? ほ、ほんとですか!?」
菖蒲は笑顔を作る。いかにも腹に一物抱えているそれだが、安心したくうには気にならないくらいだった。
「どうぞ上がっていらっしゃい」
「はひっ。上がらせていただきますっ」
くうは一度玄関に腰を下ろしてブーツを脱ぐ。
「平八さん、今日は補助はいりませんから、露草さんのお相手をしてさしあげてくださいな。一人待たせるのもおかわいそうだ」
「あ、ありがとうごぜえやす!」
「相変わらずな奴……」
頭上で行き交った言葉に、くすり、笑った。
ブーツを脱ぎ終えたくうはドレスをたぐりながら菖蒲のもとへ向かう。途中で嬉々として露草のもとへ向かう平八に、すれ違いざま、会釈をして。
実は江戸時代の寺子屋では、生徒が一堂に会して教師の話を聞くスタイルはまだ主流でなかった。老師の個別カリキュラムによってレベルも年齢も異なる子供たちがバラバラに勉強する。一斉授業は素読(音読)くらいだったのだ。
『二二が四、二三が六、二四が八――』
声を揃えて九九を暗唱する学童を眺めながら、今も昔も変わらない日本の数学に不思議を感じるくうであった。
九九の暗唱に次いで除算と単位の暗唱も行ってから、菖蒲は学童に教科書を開くよう言った。何頁の何題と指定されるや、学童たちは問題に取り組み始める。
問題が解けた学童から速い者順で菖蒲のもとに紙を持っていく。菖蒲は朱筆で採点し、間違っていれば解説する。
(ていねいな教え方。言葉の端々から、教養のある人なんだって分かる)
教室の隅に座ってその光景を眺めながら分析する。
(問題の微妙なえげつなさにちょっと気が滅入りますけど。とりあえず狼と羊のパズル系はやめてほしいです。情操教育によろしくないです)
何人かが、菖蒲の採点を終えて席に戻ってから、ちらちらくうをふり返った。髪と目の色は元より、服もドレスで奇異に映るだろう。
「せんせー。この人はいっしょに勉強しないの?」
学童の一人が口にした。自分は見学しているだけだと言う前に、菖蒲が悪戯を思いついた表情をした。
「そうですね……せっかくいらっしゃるんですから一緒にお勉強しましょうか。――篠ノ女さん、次の問題を解いてみてください」
「ひゃい!?」
噛んだ。はずかしさに頬を熱くする間にも、学童の好奇の目が突き刺さる。
そもそもくうはただ菖蒲がどんな教師なのか知りたくているだけなのに。これでは公開処刑だ。
学童の一人から筆と紙を借りる。問題自体はそう難しくない。むしろチュートリアルレベルだ。
筆を紙に走らせ、次々と公式を書いていく。
「図より外接半径と線分OBの比はcos(π/n)。内接半径は線分OBに等しい。このことから外接半径と内接半径の比はcos(π/n)となり面接比はcos2(π/n)。よってこの場合の面積比は4倍」
どーだ、と胸を張ろうとすると、学童のうろんな視線がくうに集中砲火を浴びせている。おかしい。Eラーニングの高等教育課程・数学Bで習ったとおりに解いたのに。
「菖蒲先生! くうは何か間違ったことを言ったでしょうか!?」
面白いものを見たとばかりの菖蒲に助けを求める。
「おやまあ、複雑な解き方があるんですね。ですが、その和算ならもっと簡単に解けますよ」
「なんと!?」
これ以上に効率的な解法があるというだけで、くうにはびっくり仰天だ。
「ねーちゃん変なのー」「むつかしー」「わかんなーい」
「え、え、えええ!?」
学童の一人がくうから筆を奪って図形を描き足す。
「円の中のちっこい三角ひっくり返せばいーんだよ。な、先生!」
「よくできました」
菖蒲はその子の答案に朱筆で〇をつけた。すると本当は自分も分かっていたぞ、と学童たちが我先に菖蒲に〇を貰いに殺到する。
(こんな解き方、学校でもウェブでも習ってない。数学のテキストにも載ってなかったのに)
――この解法を〝かしこさ〟だと今日まで信じてきたくうは何だったのだろう。ここの学童のほうが本当の意味で〝かしこい〟。
(やっぱり私が知ってることなんて本当にすごいことでも何でもなかった。それを一番だと思ってた私って、ほんとつまんない人間だ)
採点を終えた菖蒲が手を二つ叩いた。
「はいはい。全員が解けましたから、次の問題を出しますよ。席に戻りなさい」
はーい、と学童が卓に戻る。
「篠ノ女さんも、めげる暇はあげませんよ。次の問題です」
「は、はひっ」
新しく出された問題を、次こそは、と勇んで考える。
いつのまにやら〝見学〟から〝参加〟へと題目が変わっていたが、当世風の効率的かつシンプルな和算の解き方を修得するのに夢中だったくうは、全く気づかなかった。
後書き
菖蒲万を持してようやく登場です! しかし暗い。理由は前回と人物紹介でお分かりいただけるでしょう。菖蒲って近くに明るくしてくれる人がいないととことん落ち込むタチだと思うんですよね。吉次といた頃なんかは自分で面白くする術を知っていたけど、鶸や鶴梅に会ってそれができなくなったって感じです。
簡単な問題にすごい方程式当てはめる融通の利かない子ってたまにいますよね。持て囃されるか茶化されるかのどっちかしかありませんが。
ここの学童は基本いい子たちです。強いて言うなら差別的扱いの身分に生まれた、人生で一度は必ずいやな目に遭った子たちを優先して集めてるイメージです。だから異人娘がいても、菖蒲が憑き物筋かも?でも平気。菖蒲もそこんとこ計算ずくで通ってくる子を選別してるってことで。
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