イリス ~罪火に朽ちる花と虹~
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Interview10 イリス――共食いの名
「分かってても……付いてけないんだよ!」
若いディラックが倒れ、腕の中から赤ん坊が転がり落ちた。赤ん坊もまた、胸の中心を貫かれている。もはや息はあるまい。
「ミラ…ミラ、が…僕を、…ぼく、を…」
「ジュード、しっかりしろ! あれは俺らのミラじゃねえ!」
アルヴィンが威嚇射撃するが、「ミラ」は壁を走ってそれらを躱した。
「ミラがお前を殺すわけねえだろ! 今のはこの世界だけの出来事だ! 夢だ! 幻だ!」
「そんなの分かってるよ!!」
走っていた壁を蹴って「ミラ」がミサイルのごとく飛んできた。ルドガーはハーフ骸殻にレベルを引き上げ、槍で「ミラ」の突進を受けた。一気に壁際まで追いやられた。背中を壁にぶつけて一瞬だけ息を吐かされる。6歳の幼女の推力とは思えない衝撃だった。
「分かってる…あれが僕らのミラじゃないって分かってる、分かってても……付いてけないんだよ!」
ジュードの恐慌が激しい。このままではトラウマになりかねない。
(長引かせるとマズイ)
ルドガーは目の前の「ミラ」の腹を蹴った。怯んだ「ミラ」を槍で弾き返す。
「イリス、頼む!!」
いらえはなく、イリスが石畳に手を突く。すると触手が床を割って無尽に生え、「ミラ」をがんじがらめに捕えた。
「な、何よこれ!」
「行きなさい、ルドガー!」
「うおおおおおおおおお!」
「ミラ」が拘束を解く前に――!
ルドガーは槍を突き出し、「ミラ」の胸を的確に貫いた。一際大きく打った心音が槍越しに伝わり、二の腕がぞわっとした。
ルドガーはすぐさま槍を「ミラ」から引き抜いた。
同時に触手の拘束も解け、「ミラ」は金蘭の髪束を振り乱して地に伏した。
槍の先で黒い歯車が割れた。
ガラスに亀裂が入るように。一つの世界が砕けて、落ちて行った――
気づけば、ルドガーたちはクランスピア社玄関前に立っていた。
「戻った、の?」
「ええ。時歪の因子は無事破壊できたわ。2回目にしては上出来よ。よくやったわね、ルドガー」
たったさっきまでの血なまぐささが嘘のように、イリスはふんわりとルドガーに笑いかけた。
「じゃあ、ジュードのお母さんも……消えちゃったんですか?」『あんなにがんばって治そうとしたのにー』
「消えたの。あの世界の消失と同時にね。それが分史世界の理。世界を壊すとはこういうことよ」
沈鬱な空気が、場にいる全員の間に流れた。
中でも一人――ジュードが背中を向け、首を下に直角にするほど俯いて動こうとしなかった。
(目の前で親と、自分自身が殺されたんだ。混乱するなってのが無理だよな)
どうにか励まそうと悩んでいると、レイアが横を通り抜けてジュードの前に回り込んだ。レイアは無言でジュードの頭を小さく叩いた。
「…っ…ミラ…」
呟き、ジュードはレイアの肩に額を押しつけた。
レイアは拒まず、ジュードの頭を腕の中に引き寄せた。ジュードはレイアのジャケットにシワが寄るほどきつく縋って、嗚咽を上げた。
(ジュードにとっての「ミラ」はそんなに特別な存在なんだ。そんなジュードなのに、レイアはジュードを)
初仕事を無事終えたルドガーの胸には、達成感は欠片もなかった。代わりに沈殿した泥のような思いが腹の底で渦巻いていた。
ジュードを慰めるレイアと、そのレイアを食い入るように見つめるルドガー。彼らを見ながらも、イリスは別の事案に思いを致した。
(『ミラ』ね。まさかその名を、マクスウェルの使命とやらを遂行する人間に与えたなんて。よりによって、ミラさまの名を)
イリスは遠くの天を仰いだ。
2000年を経てなお鎮火しない心の炎が、より強く燃え上がっていた。
エルはエリーゼと共に、仮住まいであるカラハ・シャールのシャール邸に帰り、宛がわれた部屋に入った。
リュックサックを下ろし、帽子をサイドテーブルに置いて、ベッドにぽふんと横になった。
「今日は色々あってタイヘンだったね」
「ナァ~」
ルルはルドガーの飼い猫なのに、何故かエルに付いて来ていた。ルドガーが「連れてていいよ」と言ったのでそうしているが。
ベッドの上で起き上がる。窓から星を見上げた。まるで夜空の中に、星とは異なる天体を見つめるように。
「約束…いっしょに…カナンの地に…ルドガーと…いっしょに…」
エルは両手の平を強く、胸にある祈りを抱くように押し当てた。
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