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闇物語

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コヨミフェイル
  001

 
前書き
手に取っていただきありがとうございます。
一話目、二話目はお気に召さないと思いますが、三話目以降を楽しんでいただければと思います。
何卒お願いします。
 

 
 間違えるということは何を意味するのだろうか。
 そう問われれば、僕は返答に窮することだろう。
 辞書みたく誤りを犯すことと答えられたらどれほど楽だろうか。
 しかし、誤りとはなんだ、犯すことはどういう意味かと僕は考えてしまう。
 捻くれていると思われるかもしれない。
 実際そうなのだろう。
 誤りという言葉の意味がわからず、調べてみたのだが、間違い、失敗と書かれているではないか。
 すると、間違いは間違いをすることという堂々巡りが展開されることになるのだが、こういうことは辞書では珍しくない。意味なんて当然過ぎて調べることもない単語ほど調べてみると、堂々巡りをしていたりする。当然であるからこそ、説明する段になると、それを説明できない。それを説明するにはその言葉を用いるしか手だてがなくなる。しかし、人は説明ができなくとも使うことができるという理由で、説明できるように努力することから意識を無意識に追いやる。安易な方に流れる。
 これは人間の性と言ってもいい。
 僕にも勿論ある。げんに僕は間違いの意味がわからないにも拘わらず、今まで放置していのだから。
 辞書というのは自分ではどうにもできないそんな無意識に牙を向いて、爪を立てて書かれた書物なのではないだろうか。
 当然のこととして、周知の事実として、意味が深く理解されずに放置された言葉を掘り下げ、適切な言葉を当て嵌めて定義していく。そこには並々ならぬ努力があるように思う。参考となる夥しい数の由緒正しい辞書がある現代ならいざ知らず、一番最初の辞書にどれほどの年月が費やされたのか不見識な僕には見当もつかない。そんな気が遠くなるような努力の上に辞書は成り立っているが、やはりそれでも意味の堂々巡りは存在する。
 こんな紛い物、紛い物語もいいところの読み物と言っていいのか甚だ疑問であるような読み物語を書いているような僕が口を出していいような代物ではないのだけれど、僕も含めて皆にも意味の堂々巡りに行き遭うという経験があると思う。ない人もいると思うが、ある人にはあるだろう。
 ある人にはあるのは当たり前のことだが。
 それはさておき、そんなとき、意味の堂々巡りに遭遇したとき何をするべきか。参考にできるものがないときどうすればいいのかと言えば、自分で考えのも一つの手ではないかと思う。辞書が一から考えたように、自分も一から考えるのもいいだろう。勿論辞書の製作者ができなかったことが、自分が果たせるとは思っていない、思い上がっていない。ただしてみるのも一興ではないかと思うだけだ。
 だから、愚考してみる、愚かにも考えてみる。
 先ず一つ目に間違いは不利益なことをするということだろうか。
 否だろう。間違えた結果不利益が生じて、不利益なことをしたということになるのであって、それ自体ではないように思える。因果関係にあるというだけだろう。まあ、間違ったからと言って不利益になるというわけでもない。失敗は成功のもと、失敗は成功の母とも言うように。
 では、しなければならなかったことと異なることをしたということか。
 これもまた違う。
 なぜならこの時こうしておけばよかったと思うことなんて行動に移した後に気付くものであって、その時に気付くものでないし、実際こうしておけばよかったと思う選択をしていて間違えていない保証もない。更に言えば、これは人生の岐路が数学の問題宜しく、これは正解、これは間違いと白黒はっきりしている限りにおいてのみ成立する話であって、その選択が正しかったなんて明確にわかることなんてほとんどない。だから、それは本当に間違っているのかという疑問も抱かざるを得ない。もしかしたらこうしておけばよかったと思ったことを実行に移したことでより不利益なことが生じていたかもしれない。
 では他の候補を――と言いたいところだが、僕は間違いという言葉にこれくらいのことしか僕には思い浮かばない。
 他の人ならもっと尤もらしい解答を述べられるのだろうが、これが僕の精一杯だ。偏差値四十五――十の位で四捨五入されれば偏差値0の男子高校生の実力で全力だ。
 だからと言って、ここで手法を変えて図書館に行って虱潰しに調べても面白くなかろう。僕が図書館へ行き、どれだけの辞書をどれだけの時間調べて、どのような結論に至ったかについてなど誰も聞きたくないだろうし、ぶっちゃければ僕もしたくない。ただの怠慢だと言われれば、なろほどそうかもしれないが、辞書を虱潰しに調べるのと、自分の頭で考えるのとでは必要とされる忍耐や努力が比べるまでもなく違うと僕は思うのだ。
 勿論自分の頭で考えることの方が大変だということだ。
 調べることも、要領よくしたいのならば、精神労働を多少含むが、もっぱら肉体労働だろう。辞書を引っ張り出してきて、一心不乱にページをめくって、書いてあることを書き上げるだけのことだ。しかし、考えることは徹頭徹尾精神労働なのだ。二つの間にある差異はじっとしているか、否かという点である。運動をしていれば気を紛らわせることはできるが、じっと考えることには遊びがない。つまり、真の忍耐を試されるのだ。これ以上に苦しいことはない――と、理路整然と、真しやかに、詭弁を弄したところで、僕の数少ない知り合い、友達に訊けばどのような返答がなされるのか想像して参考にしてみる。これも自分で考えていることに含まれるだろう。
 ある軽薄なアロハの中年に訊けば、
 「自分で考えたら、阿良々木くん」
 と、言うだろうし、異形の翼を持った生徒会長の同級生に訊けば、
 「正解への道」
 と、真面目に答えそうだ。
 元無表情毒舌暴虐無人の現デレデレ彼女に訊けば、
 「こよこよはそんなことは考えなくてもいい」
 と、甘言を述べてくれそうだし、地縛霊から浮遊霊に二階級特進した迷い牛に訊けば、
 「あなたの存在ですよ、阿良々木さん」
 と、なぜか罵倒されるだろうし、学校のスターであり、百合っ子であり、BL本愛読者であり、露出趣味があり、僕の恋敵であるスポーツ少女の後輩に訊けば、
 「人気のない廃墟に連れ込まれたあの夜に阿良々木先輩と犯した禁断の恋ならぬ行為のことだと思うぞ」
 と、身に覚えのないことを真しやかに言ってくれるだろうし、でっかい方の妹に訊けば、
 「マチガイ?はにゃ?強いのか?」
 と、馬鹿丸出しにほざくだろうし、小さい方に訊けば
 「それは悪の蔓延る世界だよ、お兄ちゃん」
 と、正義ぶってぬかすだろうし、ある不吉な喪服の中年に訊けば、
 「知りたいか。教えてやる。金を払え」
 の三段論法だろうし(言ったとしても出任せを尤もらしく言うだけだろう)、無表情の憑喪神であり、暴力陰陽師の式神である童女に訊けば、
 「僕が訊きたいぐらいだよ、鬼いちゃん。この世の中何が正しくて何が間違いなんだい」
 と、質問に質問を返すというタブーを無視して訊いてくるだろうし、不死身の怪異専門の暴力陰陽師に訊けば、
 「そんなもん知らんわ。知らんでも怪異は倒せる」
 と、身も蓋も無いことを言い放つだろうし、何考えているかわからない吸い込まれそうなほどに漆黒の瞳の後輩に訊けば、
 「そんなこともわからないのですか、阿良々木先輩。本当に馬鹿ですねえ。間違いの動詞形ですよ」
 と、嘯くだろうし、なんでも知ってるお姉さんに訊けば、
 「したことないからわからない」
 と、言ってのけるだろう。
 これを言えば、それこそ身も蓋も無いが、結局は十人十色なのだろう。
 それぞれにそれぞれの解釈(?)もしくは思いがあって、それがその人の考え方、価値観、世界観というものを表しているのではないのだろうか。
 そう考えると、言葉の意味なんて考えるだけ無駄なのかもしれない。辞書は結局参考でしかなく、言葉の意味は自分で決めるしかないのだろう。
 この結論はただ出発点に立ち返った、というかわかりきっていたのことのように思えるが、まあ、それはさておき、ならば僕は十人の内の一人として、十色の内の一色として沈黙を選ぶ。
 沈黙。
 すなわち、間違いという言葉の存在否定。
 間違いなんてあってほしくない。
 間違いがどういう意味であれあってほしくない。
 僕が選んだ道に『間違い』もしくはそれに類する言葉などで他人にラベリングされたくないし、したくない。浅慮だと罵られようと、現実逃避と罵られようと甘んじてそれを受け入れよう。
 ただ見栄を張っているだけなのだ。
 僕は何でも知ってるお姉さんとは違う。あの人は間違いも失敗もしていないのだろう。それに比べて僕は間違いをしていないと思っているだけで目的を果たせなかったことは山のようにあるだろう。比べものにならないほどにあるだろう。
 だけど、忍を助けたことを間違っていると思ってない。
 戦場ヶ原と付き合い始めたことも間違いだと思ってない。
 八九寺に関わったことも間違いだと思っていない。
 神原に殺されかけたことも間違いだと思ってない。
 千石を呪った人を救おうとしたことも間違いだと思ってない。
 人間兵器のような火憐と喧嘩したことも間違いだと思ってないない。
 忍と和解したことも間違いだと思っていない。
 月火をのために暴力陰陽師と大立ち回りしたことも間違いだと思っていない。
 妹のファーストキスを奪ったことも間違いだと思っていない。
 八九寺を成仏させたことも概ね間違いだと思っていない。
 忍とペアリングを回復させたことを間違いだと思っていない。
 千石を振って殺されかけてことも間違いだと思ってない。
 初代怪異殺しの自殺を成就させたことも間違いだと思ってない。
 羽川を振ったことも間違いだと思っていない。
 成仏した八九寺を地獄から連れ戻したことも間違いだと思ってない。
 忍野扇を助けたことも間違いだとは思ってない。
 失敗を重ねてきたけど、間違えたとは思ったことはない。
 僕は自信を持ってそう言うことができる。
 だから、僕は間違いは何かという問いに自信を持って沈黙を選択し、人生の岐路では迷わず道を決める。
 そうして今の僕がある。誇れるものではないけれど、少なくとも胸を張っていられる、薄っぺらな見栄を張っていられる。誰にどう言われようとも自分は自分で道を選んできたと堂々と薄い見栄と胸を張れる。
 僕は僕でいられる。
 唐突だが、この物語はそういう物語だ。
 この物語はルートAでは決して語られることはないだろうとあるルートαの物語。
 阿良々木暦が失敗する物語だ。
 この物語を語るに当たって、予め言っておきたいがある。外題に記されている通り、この物語は今まで語られてきた物語から離れ、語る物語―「別物語」―である。俗に言うところの番外編と言ったところだろうか。だからと言って、設定が無茶苦茶のぐちゃぐちゃな物語を語るというわけではなく、他の物語に可能な限り即して語るつもりではいる。
 しかし、語彙も甚だ欠き、言い回しもろくにできないこの阿良々木暦(仮)がこれから語る物語に違和感、不満、反感を抱く者は多々いるだろうと思う。
 いや、そう確信する。
 だけれど、僕はこの物語を(自己満足のために)語らずにはいられない。 
 

 
後書き
ここまでだけでも読んでいただきありがとうございます。 
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