真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第137話 愛紗仕官する
正宗と美羽が襲撃を受けた日から二週間が過ぎた。今、正宗は泉より蔡瑁からの返礼の品を見ながら報告を受けていた。正宗がいる場所は宛城の内壁内側にある太守城館の一室。美羽が正宗のために用意した部屋だ。現在、この部屋には二人以外に冥琳、朱里、桂花、榮奈がいる。
「上絹二百匹か。涼州産駿馬一匹と同じ価値のものを差し出すとは蔡瑁も太っ腹だな」
「それだけ正宗様を恐れているということでしょう」
冥琳が薄い笑みを浮かべ正宗に言った。
「正宗様、少々脅しが効き過ぎたかもしれません。今更ながらですが蔡瑁へ接触なさる前に一度ご相談いただきたかったです」
朱里が正宗のことを少し非難染みた表情で見た。正宗は朱里の態度に笑みを浮かべた。
「いや、これでいい。蔡瑁の奴は劉表へ相談することなく、私と美羽を暗殺しようと今後刺客を送り込んでくるはずだ」
「劉表とは事を構えるつもりはないとお聞きしましたが」
冥琳は正宗を訝しんだ。
「劉表と事を構えるつもりはない。仮に蔡瑁の件を劉表が知っても素知らぬ振りをするのが劉表だ。だから劉表が自ら動くことはない」
「『こちらが劉表に実力行使しない限りは』ということでしょうか?」
朱里が正宗の存念に気づいたような意味深な表情で尋ねてきた。正宗は朱里を見て軽く頷いた。
「私は劉表と手を組みつもりは毛頭ない。こちらかは何もしかけず、将来のために火種だけは残しておく。いずれ荊州征伐のための名分として利用するためにな」
正宗は酷薄な笑みを浮かべ家臣達の顔を順に見ていった。
「正宗様、よろしいでしょうか?」
黙って話を聞いていた桂花が正宗に言った。正宗は彼女に視線を向けた。
「この場に麗羽様をお呼びしなくても良かったのでしょうか? 陪臣である私が主君を差し置き謀議の場に参加するのは僭越でないかと」
「この場に麗羽を参加させた場合、どうなっていた?」
正宗は桂花の質問に質問で返した。桂花は正宗の質問に押し黙った。
「麗羽に謀議はまだ早い。私のやり方を非難することは目に見えている。麗羽も揚州刺史となれば、嫌でも人の闇を見ることになる。さすれば自らに利するために謀を行う重要性も理解できるはず。それまでは桂花。お前が支えてやってほしい。お前に損な役回りさせてしまいすまないな」
「正宗様、存念しかと受けたまりました。麗羽様のために手を汚すこと私の本望にございます。正宗様がお気になさることはございません」
桂花は納得したように、正宗に頭を軽く下げ拱手して言った。
美羽が城館にある高台から内壁の向こうの城下がある方角を恨めしそうに眺めていた。その後ろ姿を高台に来たばかりの正宗が確認した。彼は冥琳達との荊州攻略の謀議を終えた後、気晴らしにこの場に来たのだ。彼は美羽の姿をしばらく様子を遠目から眺めた後、彼女に近づいて行った。
「美羽、どうしたのだ」
「兄様!?」
美羽は声を掛けた正宗に驚いた表情で振り向いた。そして、服装を正して正宗の方を向いた。
「兄様、このような場所にどうして?」
「ここからの眺めは良い眺めだからな」
正宗は美羽の通り抜け、彼女の左横に並び立つようにして城下の景色を堪能していた。
「はい、よい眺めですね」
正宗の感想に美羽も城下を眺めながら呟く。美羽の様子は傍目から見ても、城下に行きたそうに見えた。
「美羽、城下でも行くとしよう」
「無理です。この前の襲撃で家臣は右往左往しています。これ以上、家臣の者達に心配はかけられません」
美羽の家臣達は城下に配置する警備の兵を増やしていた。地方に配備していた兵達を無理のない程度に宛城へ集中させていた。現在の宛城の警備兵は太守襲撃事件以前の十倍であり、城下はかなり物々しい雰囲気に包まれていた。その城下に自分が行けば余計に混乱を招くと美羽は思っているのだろう。
「心配無用だ。この私がいるのだからな。それに少し髪型を変えれば美羽と分からないのでないかな」
正宗は思案した表情で美羽を見つめた。
「髪型ですか? その程度で分からなくなるものでしょうか?」
美羽は自分の手入れの行き届いた美しい金髪を触りながら言った。
「物は試しだ。明命と亜莎を呼んでやってもらおう」
「美羽様、お似合いですよ!」
明命と亜莎の手際の良さで、現在の美羽の髪型はツインテールになった。
「いつものもいいが、これはこれでいいな」
「正宗様もそう思われますか!」
明命と亜莎は正宗の言葉にはしゃいだ。美羽は照れくさそうに頰を染めた。
「ところで何故に髪型を変えようと思われたのですか?」
亜莎が不思議そうな表情で美羽に尋ねてきた。美羽は言いづらそうな表情になる。
「美羽と一緒に城下に出ようと思い、美羽に変装をさせようと考えたのだ」
美羽に代わり正宗が説明した。正宗の言葉に明命と亜莎が驚いた表情になるが、直ぐに困った表情に変わった。二人としては美羽の親友の関係であるため、美羽の心情は痛いほどわかっていた。しかし、親友として家臣として美羽の安全は守ることも二人には重要なことだった。
「髪型だけを変えられても美羽様と普段から接している者達は直ぐわかると思います」
亜莎は気まずそうにおどおどして美羽、正宗と順に顔を見て答えた。
「美羽様、私達の頼みを聞いてくだされば城下に行くことができるように渚様(魯粛)に談判してみます」
明命は亜莎と美羽のやりとりを黙って見ていていたが口を開いた。
「誠か!? でも渚が許可を出すとは思えない」
美羽は喜々とした表情で明命に駆け寄ったが、直ぐに暗い表情に変わった。
「私と亜莎。警備兵を連れて城下の視察と言えば何とかなるかなと」
「明命、それ名案だと思います! あの襲撃の所為で城下に住む多くの民達は美羽様のことを心配しています。美羽様の元気な顔を見れば民達も安心すると思います」
亜莎は笑顔で明命と美羽の顔を順に見て言った。正宗は美羽と明命、亜莎の様子を微笑ましそうに見つめていた。
「いけそうな気がするのじゃ! 明命、亜莎。妾は渚に談判にしにいく」
美羽は明命と亜莎の案に喜色で高台を降りていく。
「兄様! 城下に行けることになりましたら、今度こそ昼餉を食べに行きましょうね!」
美羽は高台と地上を繋ぐ階段の途中で立ち止まると高台に留まる正宗を見て手を振りながら言った。正宗は美羽に優しい笑みを浮かべ手を振って肯定の返事をした。
美羽は渚を説き伏せることに成功した。彼女は今城館の入り口にいた。
「おおっ——————! 妾は戻ってきたのじゃ——————!」
美羽は城館の入り口を超えると元気一杯に背伸びをしながら大きな声で言った。
「本当に久しぶりだな」
「正宗様も城下には出ておられなかったのですか?」
明命が正宗に不思議そうに尋ねてきた。彼女は正宗と賊の戦闘の後処理をしていたため、正宗の戦闘能力が只者でないと推測していた。そんな人物なら現在の警備状況であれば城下に出ても問題ないであろうと思ったのだろう。
「慢心は命取りとなる。と言いたいところだが自分だけ城下を出歩き回るのは美羽に悪いと思ってな」
正宗は頭を掻きながら明命に答えると、彼ははしゃいでいる美羽を見た。
「物々しいな」
「仕方ないです」
正宗は美羽から周囲にいる兵達に視線を送ると、亜莎が苦笑いをしながら口を開いた。現在、周囲にいる兵達二十人、そして侍女二人。全て美羽を警護するために渚と侍女長・七乃(張勲)の差配で着けられた者達だ。
「兵達は分かるが侍女が何故いるのだ?」
「二人は七乃様の配下です」
「なんとなく予想は出来ていたが」
正宗は面倒臭そうな表情になった。
侍女は見なりこそ侍女だが、非正規戦を得意とする手練れで七乃の虎の子だった。腹黒な性格の七乃は侍女長に収まって以来、表舞台にでず影でこそこそと子飼いの暗部構成員を少しずつ増やしていた。組織の性格上、信用の置ける者達で構成する必要があるため人員の増員率は低い。
「ただの侍女ではないのだろうな」
正宗は亜莎にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「はい。七乃様の『虎の子』らしいです」
「虎の子」
正宗と亜莎はひそひそと会話した。
「何時になく七乃様は邪悪な笑みを浮かべ私に連れていくように頼んできましたんで」
それ以上、正宗は亜莎に何も聞かなかった。
正宗達は警備の兵達と侍女達を連れ立って途中寄り道をしながら美羽が贔屓にしている酒家へと向かうことになった。
「兄様もいかがです?」
美羽は食いかけの甜瓜(甘い瓜)を差し出してきた。彼女が食べている甜瓜(甘い瓜)は野菜等を売る露天の店主の親父から貰ったものだ。正宗は美羽から差し出された甜瓜(甘い瓜)を凝視し困った表情をする。明命と亜莎は二人の様子を興味津々で見ている。
「美羽、立ち食いはあまり行儀がよくないぞ」
「あははは。兄様、申し訳ございません。でも、せっかく冷えた甜瓜ですから、美味しいうちに食べたいと思ったのです」
美羽は無邪気に正宗に微笑みかけ、正宗にもう一度甜瓜を差し出してきた。美羽の善意を無碍に出来ず、正宗は甜瓜を手に取ると頬張った。明命と亜莎は顔を赤くして妙な声を上げていた。その様子に正宗は疲れた表情になっていた。
「これは本当に美味しい甜瓜だな」
正宗は驚いた表情で手に持つ甜瓜を見た。美羽は満足げな様子だった。明命と亜莎は正宗と美羽の後ろの方でなにやらこそこそと話し楽しそうにしていた。
先日襲撃を受けた場所を抜け小腹がすき始めた頃、目の前に朽ちた様なボロい家屋が目の前に見えてきた。その家屋を見て美羽は正宗の手を引っ張った。
「兄様、あそこです!」
美羽の言葉に正宗は目を疑う。正宗の目の前にはボロい家屋しかなかった。しかし、美羽の指す指先の方向は間違いなくボロい小屋だった。正宗はもう一度美羽のことを見る。美羽は無邪気な笑みを浮かべながらボロい家屋を見ていた。困惑する正宗は明命と亜莎へ視線を向けた。
「正宗様、あの年季の入った建物が美羽様が贔屓にしておられる酒家です」
「美羽様はあの店で出される『五目あんかけ飯』が大好きでして。よくあの店に出向かれます」
明命と亜莎から説明を受け、あのボロい家屋が美羽の贔屓の店だと理解した正宗は微妙な表情になった。
「兄様、店の外見で判断してはいけませんよ」
いつのまにか美羽が正宗の顔を覗き込むように見上げていた。少々表情をしかめていた。
「美羽、すまない。ぼ、年季の入った店だったのでつい見入ってしまっただけだ」
正宗は苦笑いをしながら美羽に弁解をした。
「仕方ないです。妾も初めてきた時は兄様と同じでしたからね」
美羽は正宗の言葉を聞き機嫌を直したのか、笑顔になり正宗の手を握り酒家の中に案内した。
明命と亜莎と兵士達と侍女達は襲撃を警戒して店の外で待機すると言い店内には入ってこなかった。
「妾じゃ。今日は護衛の者が外で待っているので、その者達にも昼餉を用意してやって欲しいのじゃ!」
美羽は店内に入るなり店の奥の方に向かって大きな声で言った。
「美羽の嬢ちゃんかい!? ちょっと待っておくれ」
店の奥の方から壮年の女の声が聞こえた。美羽は店内を見渡し、常連客のように迷わず奥の席に腰を掛けた。正宗は美羽に倣って、食台を挟んで美羽の向かいの席に座った。
美羽は手持ち無沙汰気に足をブラブラとさせ店内を見ていた。正宗も店内を見渡す。店内は店構えと同じくボロかったが、よく掃除が行き届いていることは店内の様子を見て一目で分かった。
「美羽、客が私達だけのようだが」
「今の時間帯はこんなものです」
「この店は夕方になると賑やかですよ」
美羽は無邪気な笑顔で正宗に答えた。正宗と美羽が話していると木製の盆で顔を覆った店員が近づいてきた。店員の体つきから女性であることは直ぐに分かった。しかし、盆で顔を覆っているので顔を窺いしることはできなかった。面妖な行動を取る店員を正宗と美羽は訝しんだ。
「あい」
「お客様、ご注文をどうぞ!」
美羽が店員に呼びかけようとすると店員は大きな声で美羽が話すのを制すように注文を取り始めた。美羽は店員を「どうしたのじゃ?」というような表情で首を傾げ見ていた。
正宗は店員の声を聞き表情が変わった。正宗の目つきは彼女に心当たりでもあるように凝視していた。
「妾はいつものじゃ。ところで何故そのように声色を変えて喋っておるのじゃ」
「風邪を引きまして。コホン。コホン。美羽様は『五目あんかけ飯』ですね。お客様、ご注文をどうぞ!」
店員は正宗に注文を言うように急かした。店員は注文をとって早くこの場を去りたいように映った。
正宗は盆で顔を隠す目の前の店員の声に聞き覚えがあり、それが確信に変わったのか店員を見る目つきが明らかに変わった。店員は声音を高めにし正宗達に応対しているが彼を騙し通せる程に彼女の演技は卓越していなかった。彼女自身思いも寄らぬ既知の訪問者に動揺したのだろう。
「店員。その盆を下ろせ」
「お客様、ご注文をどうぞ!」
正宗はジト目で店員を凝視した。
「兄様は愛紗とお知り合いなのですか?」
二人のやり取りを傍観していた美羽が無邪気な表情で口を開いた。店員は予想外の伏兵によりあえなく観念したのか顔を覆う盆を下ろした。彼女は愛紗だった。正宗は彼女の顔を確認するなり笑顔になった。
「美羽、愛紗とは冀州で縁があってな。愛紗、久しぶりだな」
正宗は気さくな表情で愛紗に声をかけた。愛紗の方は気まずそうな雰囲気を体中から放っていた。
「正宗様、お久しぶりでございます。冀州での大恩を受けた身でありながら、失礼な態度を取ってしまい申し訳ございませんでした」
愛紗は申し訳なさそうに頭を垂れ正宗に挨拶を返した。美羽は彼女の正宗への態度からだいたいのことを察したのか口を噤んだ。ただ、正宗と愛紗を見比べる美羽の瞳は興味津々だった。
「気にするな。冀州での一件はお前に責ではない。責は全て桃香にある」
「いいえ。最終的に私は北郷を見逃しました。その罪は重いと思っております」
愛紗は重苦しい表情で俯き正宗に言った。
「もう過ぎたことだ。過去を穿り返したところで現在が変わるということではない。お前が私に負い目があるというなら、いずれ私に貸しを返してくればいい」
「正宗様、ご厚情感謝いたします」
「ここで働いている経緯は検討がついている。桃香の元を出奔したのであろう?」
愛紗は正宗の言葉に表情を固くした。明らかに話題に上げて欲しくないという表情をしていた。彼女は額に少し汗をかき目を泳がせていた。
「桃香に仔細は全て聞いている」
正宗の言葉に愛紗は深い溜息をついた。彼女の雰囲気から彼女が桃香の元を出奔したことを正宗には知られたくなかったことが伝わってくる。
「はぁ。全てお知りでしたか。正宗様の仰る通りでございます」
「愛紗、私に仕官しないか? 桃香も紆余曲折はあったが私に仕官した。今は役目を与え幽州へ送った」
愛紗は正宗の話に鳩が豆鉄砲を食らったな表情になった。自分の主人だった人物が何時の間にか正宗に仕官していのだから驚くのは当然のことである。
「桃香様は県令の職はどうされたのですか?」
「辞職した」
「辞職!? 私のせいでしょうか?」
愛紗は桃香の話を聞き途端に表情を暗くした。
「いや。私が辞職するように勧めた。後任が着任するまでのことは太守へ私が直々に依頼しておいたので問題ないだろう」
「そうですか。毎度毎度のことながら正宗様にはご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
愛紗は正宗に恐縮したように言った。
「そう思うなら私に仕官をしてくれないか? 勿論、無理強いはしない。直ぐに返事をくれずともいい。愛紗、お前の腕をここで腐らせるには惜しい」
正宗は愛紗に優しい表情で言った。彼としては愛紗に気持ちよく自分に仕官して欲しいのだろう。それが彼の態度からよく分かった。
愛紗も正宗の気持ちを察し万感の思いのようだった。しかし、彼女は表情が直ぐに暗くなった。
「正宗様のお言葉感謝し尽くしても尽きません。しかし、現実の苦しさ耐えられず主人の元を逃げ出した私のような者が正宗様にお仕えするなど許されようはずがございません」
愛紗は苦悩した表情で正宗に答えた。正宗は愛紗の話を黙って聞いていた。美羽は正宗と愛紗が話す内容を聞いている内に興味津々な表情から真面目な表示に変わっていった。
「この私が許す。お前は私に黙って仕えよ。否は受け付けん。いいな?」
正宗は愛紗の意見を無視して愛紗に命令した。
「しかし!」
「いいな!?」
愛紗は正宗の言葉に異を唱えようしたが、それを正宗は一蹴した。それ以上、愛紗は何も言わなかった。
「店主はいるか?」
正宗は店主を呼んだ。すると店の奥から粋な雰囲気の壮年の女性が現れてきた。彼女の風貌は身長百八十センチ位で緑色の長髪を後ろで纏めていた。また、彼女の歩き方には一分の隙もなく、正宗は彼女が武の心得があることを一瞬で見抜いた。
「お客さん、何か用かい?」
店主は正宗に物怖じせずに堂々と言った。
「店主、悪いが愛紗は私の家臣になることになった。今日で店を止めさせて欲しい。これは迷惑料だ」
正宗は懐から銭の入った布袋を取り出し、それを食台の上に置いた。その布袋はかなり大きく五千銭位は入っていそうだった。
「金は要らないよ。でも困ったね。愛紗がいなくなると人手が足らなくなる。兄さん、迷惑料代わりに一ヶ月間この店で働いておくれ」
正宗は店主の言葉に切れそうな表情に一瞬変わったが理性を総動員して怒りを飲み込んだ。美羽は店主の行動に可笑しそうに口を押さえ笑いを堪えていた。愛紗は店主の正宗への言動に戸惑っていた。
この店は大きくない。店の奥からでも店内で交わされる話し声はよく聞こえるはずだ。店主は話の流れで正宗がかなり高位の官職を持つ人物と分かった上で「迷惑料として店で働け」と言っているのだ。
「店主、何故に私がこの店で働かなければならないか教えてもらえるか?」
正宗は店主のことを値踏みするように見た後、口をおもむろに開いた。
「私の店の店員を勝手に連れて行くんだから当然じゃないか。明日からどうやって店をやっていけばいいんだい」
店主は飄々とした表情で答えた。その表情から悪意は一切感じられなかった。正宗は店主の腹が読めず困惑した表示に変わった。人が足らないというなら正宗の出した金を受け取って使えば幾らでも人が集るはずだ。
「女将さん、私が正宗様に代わって一ヶ月間仕事をします」
正宗と店主との間に愛紗が割って入ってきた。愛紗は正宗に店員などさせることなど滅相もないと慌てた表情だった。対して店主は愛紗の気持ちを組もうという心は持ち合わせていないように正宗に追い打ちをかけた。
「駄目だね。この兄さんに働いてもらわないと」
店主は挑発するような笑みを正宗に送った。正宗は心の中で怒りを覚えるが押し殺した。
「この私が清河王と知っての不敬か?」
正宗は怒りこそ表情に表れていないが、彼の瞳からは感情が如実に滲み出ていた。愛紗も正宗に雰囲気の変化を感じ取り表情に緊張が走った。正宗は前皇帝霊帝より車騎将軍、冀州牧の官職を与えられただけでなく、清河王の王号を許された諸侯でもある。そして、その地位は未だ健在である。店主が正宗の身の上を知らないとしても、正宗の一言で店主を不敬罪で処刑できるのだ。
「女将さん、正宗様への無礼は取り消してください」
愛紗は必死な表情で女将に訴えた。しかし、店主は涼しい表情で正宗のことを見ていた。それどころか侮蔑に満ちた表情を正宗に向けていた。彼女は権威を傘にする人間が嫌いなのかもしれない。
「清河王? だから何なのさ」
正宗は店主の言葉にしばし沈黙した。彼は怒りを抑えた後、口を開いた。
「迷惑料が足らないのか? いくら欲しい」
正宗は憮然とした表情で店主を見ると、店主は正宗の態度に呆れたような表情で見た。
「兄さん、見損なわないでくれるかい。あんたは家族を金で売り買いするのかい?」
店主は正宗を馬鹿を見るような目つきで見た。正宗の表情は先ほどまでと違い、怒りの熱が抜けていた。そして、真面目な表情で店主のことを見つめていた。正宗は誰にも気づかれないように小さい深呼吸をすると立ち上がり、おもむろに店主に頭を下げた。
「店主、あなたを侮辱するような言葉を吐き申し訳なかった。許して欲しい」
「お互い様だし。別に気にしていないよ。で。どうするんだい?」
店主は正宗に尋ねた。
「あなたの店で店員として一ヶ月働こう」
「二言はないね」
店主は正宗の顔を覗きこむように顔を近づけてきた。
「父祖に誓って」
正宗は真剣な表情で店主の両目を見て答えた。
「いい返事だ!」
店主は先ほどと違い愛想の良い雰囲気を出し、正宗の背中を何度も強く叩いた。彼女は視線を愛紗に移し近づいた。そして、愛紗の頭の後ろに腕を回し肩を組むと彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「いい、ご主君じゃないか。励んでお仕えするんだよ」
愛紗は店主の言葉に軽く頷いた。
「店主、貴殿の名をお聞かせ願えるか?」
正宗は店主に声をかけた。
「今日から私のことは『女将さん』といいな」
「名も知らない人物の元では働けないだろ」
「はははっ、それを言うなら兄さんもだろ?」
店主は笑いながら答えた。
「失礼した。私は劉正礼。正礼と読んでくれ」
「私は呂定公。固苦しいのは好きじゃないから、私のことは定公でいいよ。知っての通り、私はこの『海陵酒家』の女将だ。正礼、明日からよろしく頼むよ!」
正宗は『呂定公』という名を力を使って調べ、彼の世界の歴史、三国志の時代において呉の名将と謳われた「呂岱」であることを知り驚愕した。呂岱は呉に四十歳で仕官したが山越討伐で名を挙げ、呉蜀間でもめた荊州三郡を武力掌握する際にも活躍した名将である。
「一ヶ月という短い期間だがよろしく頼む」
結局、愛紗は一ヶ月の間、正宗と一緒に海陵酒家を手伝うことになった。愛紗が頑固に食い下がったために呂岱が折れた形だ。
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