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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 後編
  春告ぐ蝶と嵐の行方 2

 時間は少し巻き戻る。

 “明日の打ち合わせ”とやらで部屋を訪ねてきた二人を残し部屋を出た俺は、主街区のはずれまで足を伸ばしていた。街の北門まで続く大通りを門のすぐ手前で左に折れて、裏通りを歩くこと更に数分。

「……ここか」

 俺の眼前には、一軒の小さなバーが両脇の住宅に囲まれて狭苦しそうに建っていた。経年によってベージュの衣をまとったらしい石壁に、まさに取ってつけたというべき雑なニス塗り仕上げの薄いドア。丸ノブに紐で下げられた、OPENと彫りの入った手製のウェルカムボードから、ここが何かの店らしいという事が辛うじて見て取れる。
 ノブに手を掛ける寸前、そのノブに付いた(さび)のような汚れに気づき反射的に手を止めた。が、すぐに思い直すと、そんな自分に苦笑を向けながらノブを回す。
 仮想の世界で衛生を気にすることが滑稽だからではない。今更この手の汚れを気にすることが滑稽だったからだ。

 意外にも、店の中は手入れが行き届いていた。店内には右手に五人掛けカウンターが一つと、そこから狭い通路らしき空間を挟んで左手に四人掛けの丸テーブルが二つ。床や椅子、テーブルに棚の類は全てドアと同じニス塗り仕上げの木製で統一されていて、それらを弱々しいオレンジ色の光が申し訳程度に照らしている。
 「知る人ぞ知る」扱いの店なのか、席は殆どが埋まっていた。客は男性ばかりだったが、その中で一人、派手な赤髪をカールさせた女性プレイヤー――犯罪者(オレンジ)ギルド《タイタンズハンド》リーダー、《ロザリア》――が、カウンターの奥から二番目のスツールに座っていた。入り口側の隣に座った二人の男性プレイヤーに、何やら尋ねているようだ。
 「ロザリアはよくこの店で飲んでいる」というのはアルゴからの情報だが、俺は改めて彼女の情報精度に驚きと賞賛を胸のうちで向けつつ、空いていた一番入り口側のカウンター席に腰掛けた。注文を取りに来た白シャツに黒いベスト姿の店主に赤ワイン――正確にはそれに似た何かだが――を頼みながら隣の話に耳を傾ける。

「ふぅん……《竜使いシリカ》には新しい男のパーティーメンバーがいたのね? どんな男だった?」
「んー……そうだな。歳は多分二十歳前後ってとこだと思う。服も珍しかったな。青っぽいワイシャツみたいなので……」
「おい、おい。今俺の隣に座った奴、見てみろよ」
「あん? ……ったく、何が悲しくて野郎なんざ見つめねーといけねーんだよ……って、ん? ……おい、こいつ……」
「……やっぱそうだよな。(ねえ)ちゃん、今話してた《竜使いシリカ》のパーティーメンバー、こいつだよ」

 俺はこちらを覗いてきた男二人の顔を記憶から漁った。どうやら二人は先ほどシリカを勧誘してきた時の野次馬のようだ。シリカのような「オイシイ」獲物が無事に戻ってきたとあらば、連中がみすみす取り逃がすとは考えにくい。ならば情報を集めた後で再びシリカを襲撃するはずだと推測したのだが、どうやら的中していたらしい。それどころか、この男たちが俺のことまで喋ってくれたおかげで、俺が自分からシリカとパーティーを組んでいると明かす必要がなくなった。予想以上の結果と言っていいだろう。

「……そ。今日はイロイロ話してくれてありがとね」
「こっちこそ、すっかり奢られちまって悪かったな」

 その後すぐに話は終わり、男二人は上機嫌で席を立った。出入り口が開くと同時に、俺はロザリアの顔を気取られぬようにうかがう。彼女は一瞬こちらに視線を向けると、すぐに振り返って、一番奥のスツールに座っていたハリネズミのような髪型の男とアイコンタクトを交わした。あれも一味か……と、俺は素早く男の顔を頭に刻み込む。

「ねえ、ちょっといい?」

 すると左側から、わざとらしく(こび)を売る、鼻にまとわりつくような女性の声が響いてきた。

「……何か?」

 俺が首を捻ってそちらを見ると、ロザリアが下品な笑みを浮かべながら、席を二つ、こちらに詰めてきていた。

「話し相手が帰っちゃってさ。ちょっと奢らせてよ」
「俺でよければ」

 趣味の悪い真紅の口紅を塗りたくった唇を(いや)しく歪めた彼女に、俺は口の端を分かりやすく持ち上げて見せた。俺が社会で学んだ作り笑い(ビジネス・スマイル)SAO(こちら)に来てからはめっきり浮かべることの少なくなった表情だったが、表情筋がレシピを覚えていたようで助かった。

「ありがと。……一つ聞きたいんだけど、アンタ、あの《竜使いシリカ》とパーティー組んだんだって?」
「ああ、まあな。アンタも、広場のときの野次馬か?」
「ま、そんなトコ。でも、よくあの娘と組めたわね。競争率高いんでしょ?」
「……まあ、色々とあってな」

 そう答え、儚げな笑みを意識して浮かべつつ、目の前に置かれたグラスに口をつける。「……何があったの?」と、予想通りの反応が返ってきたのを内心でほくそ笑み、しかしそれを顔には出さず、俺は十秒ほど考える素振りを見せた。そして、

「……誰にも言わないでくれよ」

 と前置きしてから言う。

「……彼女の使い魔が、彼女を庇って死んだんだ。俺は、偶然そこに居合わせた。使い魔にそんなアルゴリズムが入ってるなんて知らなかったから驚いたが……それよりも、泣き崩れる彼女を見てたら、いても立ってもいられなくなってな……。《思い出の丘》のことを話して、一緒に行くことになった」

 何が、「いても立ってもいられなくなった」だ。白々しい。自分の言葉に吐き気を覚えて、それを押さえ込むために、グラスの中身を一気に(あお)る。喉を滑り落ちるアルコール特有の熱さと苦しさが、ちょうどいい具合に俺の気を逸らしてくれた。
 その後も俺は、彼女の口車に乗せられるまま――を装って――情報をペラペラと喋った。一通り話し終えると、俺は残り少なくなっていたグラスの中身を飲み干し、ロザリアに奢られた分のコルをカウンターの上に乗せて席を立った。

「いいよ、別に。奢るって言ったっしょ?」
「いや、いい。毒蛾の羽の模様じみた顔の年増で妥協せざるをえないほど、俺は切羽詰まってるわけじゃないんでね」

 俺は振り返ると、愛想を鱗粉(りんぷん)のように振りまくロザリアに向けて、嘲笑と共にそう言い放った。最後に侮蔑の意味を込めて鼻を鳴らし、店を後にする。
 俺の態度の豹変振りに感情が追いつかなかったのか、それとも理性で押さえつけていたのかは知らないが、ロザリアは表面上、平静を取り繕っていた。しかし、俺が顔を正面に戻す寸前になって、堪え切れなかった憤怒に染まった彼女の顔が視界の端に映った。

 薄っぺらいドアを閉めると、途端に冬の夜風が俺を出迎えた。俺が羽織っている《ブラストウイングコート》には中々の防寒性能が付与されているのだが、あちらこちらで塀や壁にぶつかる度にびゅうびゅうと唸りをあげる木枯らしは、透明なコートの上から俺の仮想の体温を容赦なく奪い去っていく。堪らず俺はスラックスのポケットに両手を突っ込み、元来た道を宿や転移門のある街の中心部に向かって歩き出した。
 これで明日、《タイタンズハンド》は俺とシリカを襲いに来るだろう。タイミングは恐らく、シリカが《プネウマの花》を入手し、ついでにポーションや気力体力も消耗した帰り道。後は俺が奴等を牢獄に叩き込めば、それで全て終わり。最後まで抵抗された場合には、《シルバーフラグス》のリーダーに伝えたように、生命の碑に書かれた奴等の名前に、上から線を引いてやればいい。それだけの、そして、既に経験のあることだ。その過程で俺がオレンジになってしまった場合に懸念が残るが、その辺りは彼女たちが上手くやってくれるだろう。

 ――閃光。絶叫。破砕。咆哮。
 忘れることを忘れてしまった俺の脳みそが、今回もまた律儀に記憶を引っ張り出してきた。目に映る道がグニャグニャと歪み、酷く吐き気がする。俺はまだ現実世界で酒を飲んだ経験も、酒に酔った経験もないが、今の俺はそう形容するのが相応しい恰好だった。前にシャンパンを口にした時は、こんなことにはならなかったのだが。
 そういえば、「酒に酔うと記憶が飛ぶ」というのは、果たして本当のことなのだろうか。もしそうなら、俺はこれから酒を手放せなくなるかもしれない。



 一帯のモンスターを殲滅しつつ丘を下った俺は、(ふもと)の小川付近で目標の反応を捉え、川に掛かった小さな橋の手前で足を止めた。《隠蔽》スキルを解除し、何度か深い呼吸を繰り返しつつ橋の寸前まで進む。そして、

「そこの木陰に隠れてる十一人。出てきたらどうだ」

 と告げた。向こうも驚いたのだろう、暫しの間が空いた後、勝気にニヤニヤと笑みを浮かべる真っ赤な髪と唇をした女性が橋の向こうに現れた。ロザリアだ。
 彼女は携えた細身の十字槍の石突を地面に落とすと、自身が圧倒的優位にいることを誇示するような勝気な笑みを口元に刻みながら言った。

「アタシのハイディングを見破るなんて、なかなか高い索敵スキルね。あなどってたかしら?」
「さあ。どうだろうな?」

 相手と同じ、片方の口元を不自然なまでに持ち上げた、相手を馬鹿にした笑顔を向ける。ロザリアは歪めた唇を戻すことなく鼻を鳴らすと、尚も俺を見下した口調で続けた。

「ま、いいわ。それで? あの娘はどこなの? 《プネウマの花》は取れた? ……まさか、あの娘まで死んじゃったのかしら?」

 ニヤァ、と、ロザリアの口元に結ばれた笑いが、一層卑しさを増す。

「さあな。それをお前が知る必要はない。犯罪者(オレンジ)ギルド、《タイタンズハンド》リーダー、ロザリア……と、言った方がいいか?」

 が、俺がそう返した途端、彼女の眉が一度小さく反応し、同時に口元から笑みが消えた。その分、俺が顔に貼り付けた笑顔の濃度を高める。俺とロザリアの視線が、小さな橋の上で衝突して陰湿な火花を散らす。
 先に目を切ったのはロザリアだった。一瞬伏せた目を彼女が戻した時には、その顔は再び毒々しく歪んでいた。

「なぁーんだ、そこまで知ってたの。なら話は早いわね。せっかく美味しそうなパーティーを見つけて、戦力を評価しながら冒険でお金が貯まるのを待ってたっていうのに、一番楽しみだった獲物のあの娘(シリカ)が抜けちゃったじゃない? で、どうしようかと思ってたら、なんかレアアイテム取りに行くっぽいし。どうせなら、あの娘から先にヤッちゃおうと思ったわけよ。ああそうそう、あんたには感謝してるわよぉ。こっちが知りたかった情報をペラペラ教えてくれちゃって。おかげで情報収集の手間が省けたわ。《プネウマの花》って今が旬だから、とってもいい相場なのよねぇー」

 言っているうちに動揺が抜けたのか、言葉が進むに連れて彼女の口調は饒舌(饒舌)さを増す。そしてロザリアは一度そこで口を閉じると、肩をオーバーにすくめてみせた。

「でもさぁ、あんた、そこまで分かってるくせにノコノコあの娘に付き合うなんて、バカなの? それともまさか、あの娘に体でたらしこまれちゃった?」
「残念ながら、どちらも不正解だ。――何、簡単なことだ。俺も、お前達を探していた」
「――どういうことかしら?」

 鼻を鳴らし、顎を前に突き出して、こちらを見下すような視線を向けるロザリア。俺が挑発に乗ることなく、それまでと変わらぬトーンで返すと、ロザリアは疑問の色を瞳に映して眉をひそめた。口元を平坦に戻し、俺は言う。

「十日前、三十八層でギルド《シルバーフラグス》を襲ったな。リーダーのみが脱出に成功し、残りのメンバー四人が死亡した」
「……ああ、あの貧乏な連中ね」

 自分には関係がない、とでも言わんばかりの適当な相槌。

「そのリーダーだった男は、最前線の転移門広場で泣きながら仇討ちを引き受けてくれる人物を探してた。仇討ちと言っても、「殺害」ではなく「投獄」を引き受けてくれる人物を、な」
「なにそれ、メンドクサ」

 俺が言い終わったか終わらないかのところで、ロザリアは心底馬鹿にしたように吹き出す。心底人を(あざけ)った、どこか対象に対する憐憫さえ感じさせる笑みだった。

「マジんなっちゃって、バカみたい。ここで人を殺したって、本当にそいつが死ぬなんて証拠ないし。そんなんで、現実に戻った時罪になるわけないでしょ? 大体戻れるかどうかも解んないのにさ、正義とか法律とか、笑っちゃうわ。アタシそういう奴が一番嫌い。この世界に妙な理屈持ち込む奴がね」

 そこでロザリアはもう一度、愚弄を最大限に込めたせせら笑いを俺に向けた。その瞳に宿っていたのは、今までよりもずっと明確な殺意だった。

「で、あんた、その死に損ないの言うことを真に受けて、アタシらを探してたわけだ。ヒマな人だねー。ま、あんたの撒いた餌にまんまと釣られちゃったのは認めるけど……でもさあ、たった一人でどうにかなるとでも思ってんの……?」

 ロザリアは右手を肩の上に掲げると、その指先で二度宙を仰いだ。するとそれを合図にロザリアの立つ道を挟んだ左右の木々が激しく揺さぶられ、総勢十人の男性プレイヤーが飛び出してきた。うち九人がオレンジ色のカーソルを頭上に漂わせており、残った一人は昨日バーで見かけた男だった。全員が華美な服装とサブ装備、アクセサリーに身を包み、体の至るところにメーキャップアイテムで禍々しいタトゥーを施している。
 男たちに囲まれ、ロザリアは改めて表情を嗜虐と興奮の笑顔で染め、俺を見下した。

「さ、お喋りはおしまい。サッサとあの娘の居場所を教えて頂戴。大人しく教えてくれれば、命だけは勘弁してあげなくもないけど?」

 俺はその問いに答えることなく、無言で蒼風の鯉口をきる。それを返答と受け取ったらしいロザリアの顔が、興趣と嘲笑に歪む。

「あ、そ。まあいいわ。そっちがそういうつもりなら、望みどおりにいたぶってあげる。――ヤッちまいな!!」

 号令が辺りを駆ける。グリーンの二人を除いた九人の男たちが、暴力に酔いしれながら武器を抜く。口々に何かを喚きながら、ドタドタと粗暴に土を踏み鳴らして走り出す。
 獲物の絶望を愉しみ、足掻きを(あざけ)り、死を嗤う残虐な視線。
 一メートル、また一メートルと、俺と奴等の距離が縮まる。
 やがて先頭を走る男が橋へと差し掛かり、その右手に握られた湾刀(タルワール)の剣先を凶暴な(あか)のライトエフェクトが包み――刹那、俺は地を蹴った。

 持てる敏捷値の全てを両足に注ぎ込み、目まぐるしい速さでそれを回転させる。
 風を切り、土ぼこりを巻き上げ。急激ながらも滑らかなスプリントは、風切り音一つ立てることはない。見ようによっては、俺がその場から忽然と消え失せたようにも見えることだろう。

「……ふっ!」

 相手の数倍以上のスピードで詰め寄った俺は、既に鯉口を切っていた蒼風を一気に抜き放つと、先頭を走っていた男の顔に正面から単発技《春嵐》を叩き付けた。驚愕と混乱に彩られた男の両目をライトブルーのエフェクトで掻き消し、半透明に輝く刀身で男の顔を薙ぐ。同時に振り切った腕の遠心力を利用して、体を回転させつつ左足で踏み切り、数歩後ろを走っていたダガー使いの頬を撃ち抜いた。更に今度は右足を支点に体を捻り、遅れて飛んだ左足の甲で追撃。体術スキル二連撃技、《双旋月》。

「がッ……!?」

 なまじソードスキルを発動させていたがために、ろくな受身を取ることも出来ずに吹き飛ぶダガー使い。俺の蹴りでは筋力メインのプレイヤーが繰り出すそれのような火力は期待できないが、ここまで伸ばしてきた敏捷値補正をフル活用しての一撃は、低レベルの軽戦士程度であれば、十分以上にダメージソースたりえた。
 ここにきてようやく異常を察知したのか、一瞬にして男たちの顔色に緊張が浮かび上がった。各々が向けていた剣先が、どよめきを反映してか微かに泳ぐ。
 が、だからと言って手心を加えてやる義理もなければ情もない。着地直後に技後硬直の解けた俺は、握り直した蒼風を煌かせ、にわかに慌て出した集団の間を駆け巡る。足が巻き上げた僅かな砂埃だけを残し、駆け抜けざまに《疾風》を見舞った。六発全てを一人に当てていては相手の体力が足りないため、一人当たり二発ずつ切り裂いて次の目標へと移っていく。そして、全員のHPを程よく削ったところで足を止めた。

「な……ん……」

 地面に倒れ、頭上のHPバーをレッドゾーン寸前まですり減らした男が、信じられないと言った風に漏らした。無理もない。蹂躙し、嬲り殺すはずだった獲物が突如として牙を剥き、たった十秒足らずの間に、逆に壊滅させられたのだから。
 その男の視線が立ち止まった俺へと向く。足先から、すねを経由して膝へ。そしてその脇に下げられていた蒼風を見――その瞬間、男の顔から攻略組の剣閃もかくやという勢いで血の気が引いた。男は腰を地面につけたままずりずりと距離を取り、震える指で蒼風を指した。

「……お前……その武器……その恰好……穹色の風……? あ、あの、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)を壊滅させたっていう……?」

 その質問に、言葉を返すことはしなかった。代わりに口の端を持ち上げて肯定してやると、男は「ひっ」と小さく呻いてまた十センチほど後ずさった。
 さて、と声には出さず呟いて振り向く。ロザリアが水色の結晶を取り出したのが見える。

「チッ、転移――」
「させると思うか?」

 次の瞬間、ロザリアの手に握られていた結晶は、中心を蒼風に貫かれていた。耐久値が尽き、小さな欠片をちりちりと瞬かせて砕け散る。ロザリアが目を見開くが、何のことはない、ただ走って貫いた、それだけだ。
 蒼風を降ろす。上半身を過剰に反らしたロザリアがバランスを崩して尻餅をついた。俺はそれを尻目に濃紺の結晶を取り出して見せる。依頼人の男が全財産をはたいて購入したという回廊結晶だ。

「これで黒鉄宮の牢屋(ジェイル)に跳んでもらう。後のことは、管理してる《軍》の連中に聞くといい」
「――もし、嫌だと言ったら?」
「全員、殺す」

 間髪入れずに返すと、ロザリアの顔に貼り付いていた笑みが瞬時に凍りついた。当然予想はついていただろうに、よもや見逃してもらえる等と思っていたのだろうか。
 呆れを込めてロザリアを一瞥し、左手の結晶を掲げ、言った。

「コリドー・オープン。……この門が消えるまでが制限時間だ。それまでに選べ」

 何を、とは敢えて言わない。幾らなんでも、そこまで馬鹿ではないだろう。
 男たちは一様に力なく項垂れていたが、やがて長身の斧使いが恨みがましく俺を毒づいて牢獄へと転移していったのを皮切りに、残りのオレンジと針山頭のグリーンが続いた。残すは彼女一人となったロザリアに向き直ると、彼女はガスコンロにこびりついた油汚れのようにどっかりと地面に居座り、ニヤニヤと挑発的な視線と表情で俺を見上げていた。

「……やりたきゃ、やってみなよ。グリーンのアタシに傷を付けたら、今度はあんたがオレンジに……ッ!?」

 強気な言葉は、俺がロザリアの首筋に蒼風を添えた時点でプツリと途切れた。意味を持たない、裏返った息が奥歯のぶつかり合う音と共に口から漏れ、瞳の色が挑発から懇願へと様変わりした。何のジェスチャーなのか、両手をあちらこちらに泳がせて喚く。

「ちょっと、やめて、やめてよ! 許してよ! ねえ! ……そ、そうだ、あんた、アタシと組まない? あんたの腕があれば、どんなギルドだって……」

 耳障りな単語の羅列に嫌気が差した俺は、蒼風の刃をダメージが発生しない程度にロザリアの首へ押し当て、強制的に言葉を終わらせた。半透明の刀身を伝い、彼女の体を構成しているポリゴンの感触がより鮮明に俺の手にのしかかる。他と何も変わらない、水風船みたいな脆い感触が。

「……「ここで人を殺したって、本当にそいつが死ぬなんて証拠ない」んだったな。ならちょうどいい、試してみるか、お前自身で。……もうコリドーも消える。どうやら、腹は決まったらしいな」

 その言葉に、ロザリアの視線が回廊と俺とを何往復かして。

「ひっ……ひ、ひああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 突如、ロザリアは思わず眉をひそめたくなるような甲高い悲鳴を垂れ流しながら蒼風を払いのけると、一目散に回廊へ飛び込んでいった。彼女の姿と悲鳴とが同時に光が渦巻く回廊に呑みこまれ、直後、回廊自身も一際強く発光すると、それまでの存在が嘘だったかのように消え去った。

 静寂。
 頭上を仰ぐ。
 青い天蓋。
 小鳥の群れの影。
 通りがかった風が、草木を(こす)った。

 溜息を一つ。
 ――終わった、か。
 居場所を失い空中を漂っていた刀を鞘に納める。
 鞘と(つば)がぶつかって高い音を鳴らした。戦闘の終わりを告げる小さな旋律が、条件反射のように、直前数分間の記録を記憶として頭の奥深くに植え付ける。

 忌々しい事故のおかげで、俺は絶対の記憶を手に入れた。目覚めてすぐは、見聞きしたこと全てが頭の中でエンドレスに再生され、頭痛と吐き気に悩まされたほどだ。一月もすると延々と続く記憶の繰り返しは治まり、今では逆に当時の記憶は酷く曖昧なものとなっている。だが、それは俺の記憶が元に戻ったことを意味しなかった。
 確かに、俺の意思に反して全ての記憶が動画のように繰り返されることはなくなったが、“忘れる”という行動を俺の頭が思い出すことはついぞなかったのだ。
 それ以来、俺の記憶は全て日付順のタグを付けられた状態で体のあちこちに、自分の意思一つでいつでも再生できる状態で保存されている。
 そしてそれは、今も変わらない。

 ここ数年間の天気。
 書きかけだった論文の、最後の文字。
 二ヶ月と四日前に入ったNPCレストランで食べた夕食のメニューに、そこで食事をしていたプレイヤーの人相。
 二十二の瞳。
 十一の声。
 動物の足とも、植物のツタとも、亜人型Mobの胴体のものとも違う、人を斬ったとき特有の感触。
 その全てが、永遠に色()せない記憶として、一年中溜まり続ける(ほこり)のように、俺の身体に降り積もる。

 帰路に就こうとして、無意味に漂流させていた視線を戻す。歩き始める寸前、右腕に違和感を覚えた。
 何事かと視線を落とす。蒼風の柄を握り締めていた俺の手が、積み上げられた記憶の重みに耐えかねて震えていた。 
 

 
後書き
 元々一話程度で書き終える予定だったものが既に三話まで膨れ上がってしまったという現実。流石に後一話で終わるハズなので、できれば今年中に投稿してしまいたいですが……。まあ、出来るかどうかは未定ということで(オイ)。

 ご意見、ご感想等、ドシドシどうぞ。 
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