ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
春告ぐ蝶と嵐の行方
チチチ……チチチ……。
軽やかなさえずりに意識を揺すられ、わたしは目を覚ました。まだ少し重みを感じる瞼をゆっくりと持ち上げて何度かしばたかせると、冬の控えめな朝日に照らされた景色が目に入る。
「んん……」
久々に熟睡できたためか、いつになく軽く感じる体を起こして伸びをする。窓とカーテンを開けながら、いつものように今日の予定を確認しようとして、はたと気付いた。今自分のいる場所が、《はじまりの街》の寂れた自室ではないと。
「あ、そっか……」
記憶を辿ると、その答えはすぐに出た。わたしとマサキ君はシリカちゃんと出会って、昨日はこの《風見鶏亭》に宿泊したのだ。
窓際に立って、まだ少し回転の遅い脳みそに冬の冷たい空気を送り込みつつ、もう一度大きく伸び。確か昨日はその後マサキ君の部屋でシリカちゃんと話をして、マサキ君が帰って来たら途端に眠くなって、そのまま――そのまま?
ピタッ、と身体が硬直。僅かの間を置いた後、全身のバネをフル活用して百八十度回転、首をコマ送りの如き速度で左右に振って部屋の中を確認する。とりあえず部屋に他の――と言うか約一名の――影が無いと分かり、一安心。そのまま今頭に渦巻いている記憶も否定してしまおうとこの部屋がわたしの借りた部屋である証拠を探すが、残念ながら見つけられず。記憶は一秒ごとに鮮明さを取り戻し、わたしが昨晩マサキ君の部屋で眠ってしまったという事実を突きつけてくる。もう顔が茹でダコよりも真っ赤に赤熱しているのが自分でも分かる。
そんな状況のおかげか頭ははっきりと覚醒したようで、不運にも、わたしはもう一つ気付いてしまった。昨晩わたしが眠りについたのは正面にある一人掛けソファのはず。それなのに、今わたしはベッドから起き上がった。つまりは誰か――と言うかマサキ君が――眠ってしまったわたしをベッドまで運んだということに……。
――いつの間にか眠ってしまったわたしに苦笑を浮かべるマサキ君。彼は足音を立てずにわたしに歩み寄ると、わたしの身体をいわゆるお姫様抱っこの恰好で持ち上げる。そしてそのままベッドまで運ぶと、横たえたわたしに毛布を被せ、耳元で、今まで聞いた事務的なそれとは反対の優しげな声で――。
「何だ、起きてたのか」
「――――――――!?!?」
ドアを開ける音に続いて、今まで聞いたのと同じ抑揚の無い声。瞬間、わたしの顔がぼふっと音を立て、同時に意識が途切れた。
十分ほど経って気がついたわたしは、待っていてくれた二人と一緒に朝食を摂り、軽く装備を確認して出発した。朝の冷たい外気に触れ、赤熱していたわたしの頬もようやく平温に戻ったみたいだ。
「シリカちゃん、大丈夫?」
転移門へ向かう途中、わたしはそうシリカちゃんに尋ねた。わたしとマサキ君にとっては低階層のフィールドダンジョンだけど、彼女にとってはレベルの追いつかない高階層で、しかも大事な家族の命が懸かっているのだ。気を遣い過ぎるくらいで丁度いい。
「はいっ。エミさんも、マサキさんも……ピナも一緒にいてくれますから。それに、実は、ちょっと楽しみでもあるんです」
「楽しみ?」
「昨日、エミさんが四十七層にはお花がいっぱいだって教えてくれたじゃないですか。わたし、今まで一度も四十七層なんて行ったことないので、見るのが楽しみなんです。……あ、別に、ピナのことが二の次とかじゃないですよ。でも、そんなに綺麗な景色だったら、きっとまたピナと一緒に見たいって思うはずだから……そうしたら、今日は絶対成功するぞ、って、一層気合いが入ると思うんです。……何か、ちょっと変なこと言ってますね、わたし」
「……ううん」
……この子は、強い。孤独から逃げ回っていたわたしなんかより、ずっと。
照れ笑いを浮かべたシリカちゃんを見て、わたしは素直にそう思った。同時に、どうしたら、彼女のように強くなれるだろうか、とも。
そうしているうちに、三人は転移ゲートの直前までやってきていた。周囲では、攻略に出かける、あるいは帰って来た人たちが、それぞれ正反対の方向へ流れていく。
「……行こうか」
「はいっ!」
わたしはシリカちゃんと一度笑顔を交わし、目的の場所を丁寧に告げた。目の前を真っ白の光が覆い――やがて、ゆっくりと晴れ渡って徐々に世界が色づいていく。第四十七層主街区《フローリア》は、柔い陽光を浴びて誇らしげに咲いた花々でわたしたちを出迎えた。
「うわあ……!」
赤、黄、紫――世界を埋め尽くさんばかりのありとあらゆる色彩に、隣のシリカちゃんから歓声を上がった。そのまま小走りで近寄り、薄青い矢車草に似た花の前にしゃがみこむ。
そんな彼女に連れられるように、わたしも広場の花たちに目を向けた。パンジー、スミレ、シクラメン……色も形も全く違う花がレンガに囲まれた花壇を覆っていて、その色彩や形状の違いがまるで精緻に計算された模様のようにお互いを引き立てあっている。よく、一面に花が咲いている光景を「花の絨毯」と言うけれど、最初にそう呼んだ人の気持ちがよく分かるような景色だった。
――そう言えば、こうやってのんびり景色を眺めたの、いつぶりだったっけ……。
自分の孤独を紛らわすため、景色に目をやる余裕すらなかったこれまでの一年間を思い出し、ちょっぴり感傷に浸る。
一昨日の一件さえなければ、きっとわたしはそれまでと同じ生活を送っていたのだろう。誰かと一緒に居る、だからわたしは独りじゃない。そんな言葉を自分に向けて投げつけるためだけの生活。けれど何の因果か、結局わたしは独りだったと気付いてしまった。……ひょっとしたら、気付いていたのを認めたくなかっただけなのかもしれない。どちらなのかは、自分でも判断が付かなかった。
その後わたしは窮地をマサキ君に助けられ、何故かはよく分からないけど彼のことが気になって。気付いたら、今ここにいた。正直、まだ不安や怖さは残っているし、わたしが今までしてきたことは何だったのかも分かっていない。改めて、分からない尽くしが続く三日だと思う。
でも。マサキ君と一緒にこのまま進んで行けば、その答えの手がかりが見つかりそうな気がしたから。
「そろそろ、行くぞ」
「……うん」
わたしは大きく頷いて、シリカちゃんを呼びに行こうとするマサキ君に続いた――そんな時。ふと、花壇に挟まれた小路を歩く男女の二人組が目に入った。親密そうに腕を絡ませ、笑いながら歩いている。はっと気付いて辺りを見渡せば、同じような組み合わせがちらほらと見受けられる。つまりここはいわゆるデートスポットなのだろう。そしてシリカちゃんがここに来てすぐ離れてしまったため、今までわたしはマサキ君と二人で立っていたことになるわけで、ということはわたしたちもひょっとすると端からはそういう関係に……?
さっきまでの感傷はどこへやら、真っ赤になった自分の頬を隠すように手で覆いながら、距離の離れてしまったマサキ君を小走りで追いかけた。
「あの……マサキさん。一つ、聞いてもいいですか?」
南門からフィールドへ出てすぐ、シリカちゃんがおずおずと尋ねた。マサキ君が視線を向けて応じる。
「昨日、あたしに似た女の子を見たことがある、って言ってたじゃないですか。それで、その人のこと、ちょっと気になっちゃって……。もしよければその子のこと、教えてくれませんか……?」
現実世界の話を持ち出すことは、SAOで最大のタブー。そのためか、質問するシリカちゃんの声は小さく、口調は弱々しい。わたしがシリカちゃんからマサキ君へ視線を移すと、マサキ君は特に気にした風もなく僅かに頭上を仰ぎ、記憶を探るような素振りを見せた。
「……会ったのは確か、四年ほど前だったか。歳は多分、君よりも少し小さかった。何度か会ったはずなんだが……済まない、よく覚えていない」
「そう、なんですか……」
あまり要領を得たとは言い難い返事だったが、シリカちゃんがそれ以上深く聞くことはなかった。
沈黙。三人分の足音だけが、筋雲をうっすらと漂わせた青空と覆い茂った草むらに響く。と、そんな時、《索敵》スキルに一つの反応を捉え、わたしは足を止めた。それを見たシリカちゃんがワンテンポ遅れて振り返りつつ歩みを止め、それと同じタイミングでマサキ君も立ち止まる。
「どうかしましたか?」
「向こうに敵がいるみたい。こっちに来てるから、もう少しでエンカウントすると思う。やりすごすこともできなくはないけど、この辺りの敵はまだ弱いし、数も一体だけみたいだから一度肩ならしをしておくのもいいんじゃないかな」
「……わ、分かりました」
できるだけプレッシャーにならないように言ったつもりだったが、シリカちゃんの表情は険しい。彼女が若干硬い動作で短剣を抜き敵のいる方向に構えた後、わたしは数歩後ろに下がった。
わたしたちは今日の戦闘において、できるだけシリカちゃんにダメージを稼がせる、敵が複数の場合は一体を残してわたしとマサキ君で排除する、ただし危険と判断した場合即座に介入し、もし撤退する場合はわたしとマサキ君でシリカちゃんが緊急転移する時間を稼ぎ、彼女の転移を確認してからわたしたちが脱出する、といったことを今朝のうちに取り決めていた。これはパーティープレイでは敵に与えたダメージ量に比例して与えられる経験値が増加するためで、この層のMobから支払われる経験値程度ではレベリングの足しにもならないわたしたちよりもシリカちゃんが受け取った方が効率的であり、また彼女のレベルが上がれば道中の安全性も増すと考えてのことだった。
シリカちゃんは短剣を身体に引き付け、半身になって敵の出てくるであろう背の高い草むらを睨んでいる。つい先ほども言ったように、街からほど近いこの辺りに湧出する敵はかなり弱く、現在のシリカちゃんのレベルでも単体なら十分安全に倒せる程度。まして昨日装備をかなり強化している彼女なら一撃で敵を屠ることも難しくない。ここは簡単に撃破して、少しでも緊張が解れれば……と、楽観視していたのだが。
「ひ、ひぃっ!?」
シリカちゃんが短剣の切っ先を向けていた草むらがガサリと揺れ、深い緑色をした二本のツタが蛇のような動きで草を掻き分け現れた瞬間、彼女の背中が傍目にも分かるくらいに大きく震えた。その向こうではツタが空けた隙間からツタと同色の、しかしツタよりもずっと太い茎とそれに乗っかった黄色い花が、茎の根元で枝分かれした複数の足を器用に使いのっしのっしとシリカちゃんににじり寄る。そして目の前で怯える彼女を獲物と認定したのか、花の化け物が左右に大きく裂けた口元から無数の牙を覗かせつつ気味の悪いニヤニヤとした笑みをシリカちゃんに向けた瞬間、
「ぎゃ、ぎゃあああああ!? なにこれえぇぇぇぇ!? き、気持ちワルうぅぅぅぅ!?」
と、フィールド中に彼女の絶叫が響き渡った。当然ながら花の怪物がそんなことを気にかけることはなく、口の端からねっとりとした唾液を地面に零しながらシリカちゃんに近付いていく。
「や、やあああ!! 来ないでえぇぇぇ!!」
「だ、大丈夫! その敵は凄く弱くて、花の下の、ちょっと白っぽくなってるところを攻撃すれば簡単に倒せるから!」
「だ、だって、気持ち悪いんですうぅぅぅ!!」
顔を敵から背け、目を瞑りながら目茶苦茶に短剣を振り回すシリカちゃん。わたしは何とか彼女を落ち着かせようと宥めてみるが、シリカちゃんがパニックから回復する兆しはない。ここは助け舟を出すべきか――と考えながら隣のマサキ君に視線をやると、彼も同じことを考えていたのか、腰元に差した刀の柄に手を添えていた。それを見て、わたしも剣を抜こうと柄を握る。
「こ、こんの……っ!!」
するとその時、じりじりと後ずさる一方だったシリカちゃんが、突然ソードスキルを放った。が、碌に狙いの付けられていない攻撃が当たるはずも無く、本人にとっては必死だったのかもしれない一撃はあえなく空を切る。そして何を思ったか、花の化け物は技後硬直中のシリカちゃんの両脚に二本のツタを絡めると、そのまま逆さ吊りに持ち上げてしまった。彼女のツインテールとスカートが重力に引かれてずり下がる。
「わ、わわわっ!?」
「ま、待ってて!」
シリカちゃんが必死にスカートの裾を手で押さえた時、わたしはもう駆け出していた。巨大花との距離を一気に詰め、《ソニックリープ》で花の根元の弱点を貫く。その途端、それまで全身をうねうねと動かしていた巨大花は動きを止め、数秒遅れて粉々に砕け散った。
「うわわっ!?」
「大丈夫!?」
「は、はい、ありがとうございました……」
支えを失って落下してきたシリカちゃんを受け止めると、彼女は心底安心したように微笑んだ。その様子を見て、わたしもシリカちゃんを地面に降ろしながら安堵の息を吐く――と同時に、ふと思う。そしてそれはシリカちゃんも同じだったようで、次の瞬間には二人分の視線がマサキ君に集まっていた。わたしたちは不審そうに眉をひそめる彼に詰め寄るなり問いかけた。
「「見た(ました)!?」」
わたしたちの勢いに若干面食らうようにしながら、マサキ君は一言だけ言った。
「……いや」
その後の道のりはすこぶる好調に進んだ。最初はエンカウントの度敵の姿に怯えていたシリカちゃんも、戦闘を五回ほど行った頃にはすっかり落ち着きを取り戻し、わたしたちは時折談笑を交えながら赤レンガの街道を歩いていた。そうしているうちに小川に架かった小さな橋に差し掛かる。その向こうには周囲のものよりも頭一つ分背の高い丘が見えた。シリカちゃんが感嘆の声と共に立ち止まる。
「あれが……」
「うん、《思い出の丘》。分かれ道はないから道には迷わないけど、モンスターはこれまでよりもずっと多いし強くもなるから、気をつけてね?」
「はい!」
希望に溢れた笑顔で頷いて、シリカちゃんは再び足を踏み出していく。心なしかその歩みは今までよりも速く、力強く感じられた。
そんな彼女と、無愛想な沈黙を守りながら隣を歩くマサキ君。二人の姿を見ていて、ふと思う。この世界に囚われてから初めて、この世界での冒険を楽しんでいる自分がいる。そして同時に、今日この冒険が終わってしまえば、もうシリカちゃんと会うことも無くなる。そして自分は、また独りに戻るのだと……。
足元から這い登ってくる冷たい感触を振り払うように、わたしは二人の後を小走りで追いかける。幸いにも……と言っていいのかは分からないけれど、その後すぐに《思い出の丘》に入ったためにモンスターとのエンカウント回数が飛躍的に多くなった。必然的にわたしが戦闘に参加する回数も激増し、戦闘に集中することにしたわたしは、大して労せずにその思考を忘れ去ることができた。
そうこうしているうちにもかなりの距離を進んでいたようで、丘を巻きながら続く坂道のカーブがいつの間にかかなり急なものに変わっていた。それに伴って急角度になる坂道と激しくなる戦闘にも負けじとずんずん進む。木立が連なってできたトンネルをくぐり抜けると、それまで立ち並ぶ木々に隠されていた視界が急に開け――。
「うわぁ……」
丘の頂上に出た瞬間、シリカちゃんが感嘆の声を漏らした。葉や枝で覆われていた天井にぽっかりと開いた穴から陽光のベールが降りていて、その陽射しを浴びた色鮮やかな花々が丘一面を埋め尽くしている。時折風が丘の表面を撫でる度に花はその身を一斉に踊らせ、零れ落ちた幾つかの花びらが、ベールの中に閉じ込められていた香りと共に風を色づけて飛んで行く。
わたしとマサキ君がその後ろから歩み寄ると、シリカちゃんが振り返って尋ねてきた。
「ここに……その、花が……?」
「うん。真ん中にある岩……あれかな。あの岩の上に――」
花畑の中央にポツンと置かれていた白い岩を指差すと、わたしが言い終わらないうちにシリカちゃんは駆け出した。そのまま彼女の胸ほどもある岩まで大急ぎで走り、身を乗り出すようにしてその頂上を覗き込む。その光景を微笑ましく思いながら、わたしは彼女の後を歩いて追う。
しかし。
「え……」
次に聞こえてきた彼女の声は、予想していたそれとは全く別の感情を孕んでいた。どうしたのだろうと疑問に感じ、彼女を追いかけていた足を僅かに速めようとした刹那、彼女はわたしたちに振り返って涙に震える声と表情で叫んだ。
「ない……ないよ、エミさん! マサキさん!」
「ない、って……ウソ、そんな……?」
「……いや。よく見てみろ」
彼女の言う意味が咄嗟に飲み込めず、しばし呆然と立ち尽くしていたところをマサキ君の声で我に帰る。
その声に従ってわたしとシリカちゃんが岩の上に視線を戻すと、苔のようにも見える短い草の合間から、小さな薄緑の芽が恥ずかしげに顔を出していた。少し触れただけで壊れてしまいそうにさえ思えるほど華奢だった茎もみるみるうちに高く、太く成長し、互い違いに茎から伸びた葉も、糧である日光を少しでも多く浴びようとして逞しく両手を伸ばす。やがて頂上に一つのつぼみを作り、わたしたちが見守る中、それは気の遠くなるような長い一瞬をかけて花開いた。天から伸びた一本の糸のように細く真っ直ぐなシルエットは儚く繊細で、どこか凛とした力強い美しさも兼ね備えて見えた。
ふと、シリカちゃんの顔がこちらを向く。この花を本当に摘んでしまっていいのか――そう言いたげな瞳。
わたしは笑って、大きく頷く。安心したようにシリカちゃんは頷くと、恐る恐る、生まれたての赤ちゃんの肌に触るような手つきで細い茎に触れた。その瞬間、茎はまるで最初から存在していなかったかのように光りながら砕けて消え、周囲の色を寄せ付けない純白の花だけが、シリカちゃんの小さな手にふわりと乗った。彼女は心底大事そうに、人差し指で七枚ある花びらの一つを撫でた。
「これで……ピナを生き返らせられるんですね……」
「うん。でもここだとまだ敵も多いから、それは帰ってからにしよっか」
「はい!」
元気に頷き、満面の笑みで返してくるシリカちゃん。その嬉しそうな顔を見ていると、何故かこっちまで楽しい気持ちになってきて、いつしかわたしも笑っていた。
「それじゃあ、急いで帰っちゃおう」
「……ああ、その件だが」
シリカちゃんが《プネウマの花》をストレージにしまうのを見て、そう言いながら振り返った矢先、マサキ君が口を挟んだ。
「この後少し用事があってな。先に帰らせてもらう」
そう、一言。一方的に業務連絡を通達する、機械音声みたいな声。
「……え、あ、ちょっ……」
寝耳に水の通告に、一瞬わたしの思考が止まる。振り返り、走り去ろうとするマサキ君の背中が視界に入ったところで我に帰り、彼の右袖を掴もうとする。
「……悪いな」
しかし、わたしの手が袖に触れる寸前でマサキ君は腕を引くと、そのまま振り返らずに走り去ってしまった。こうなってしまえば、敏捷値で圧倒的に劣るわたしたちに追いつくことは叶わない。
「……仕方ないね。行こっか」
「は、はいっ」
昨日今日の二日間を一緒に過ごして分かったことだが、マサキ君は決して意味もなく約束を曲げるような人じゃない。そのことはシリカちゃんも分かっていたようで、若干の戸惑いを残しつつも頷いてくれた。わたしも頷き返して、頂上を後にする。
冷たい風が木々を揺らしながらわたしたちを追い抜いた。ふと、クリスマスに見たマサキ君の姿が頭をよぎった。
「……この辺り、か」
高速で後ろに流れていく景色の中、俺は呟いて《隠蔽》スキルを発動させた。今日最初の戦闘時にエミの索敵範囲は確認済み。たった今その範囲外に出た以上、彼女に感付かれることもないだろう。ふう、と吐き出した息を追い抜き、さらに走る。
と、近くにMobの反応が一つ。浮かび上がったカーソルの色は白に限りなく近いペールピンク。ちなみにこの色はプレイヤーと敵モンスターの相対的な強さを表しており、簡単に言えば白っぽいほど弱く、赤黒いほど強い。
つまり今見つけたMobは――現在の層を考えれば当然だが――俺にとってはただの雑魚。屠ったところで貰える経験値も極僅かのため、積極的に狩りに行く意味はない。加えて言えば、長いこと愛用しているこの《ブラストウイングコート》には、入手してから半年以上経った今でもトップクラスの隠蔽効果が付与されており、俺の《隠蔽》スキルと合わせればこの層のMob如きに看破されることはまずあり得ない。よしんば看破されたとして、トップスピードで走る俺に追いつくことはまず不可能。まして、こちらは瞬風で安全圏まで瞬間転移してしまうことだってできる。結論として、ここでこのMobを倒すことによる俺への直接的なメリットは全く存在しない。
だが俺は一本道を左へ外れ、視界に表示されたカーソル向かって駆けつつ蒼風の鯉口を切った。数秒もしないうちに、二枚貝に似た形の葉を幾つも付けた食虫植物型のようなモンスターの姿を林の中に捉える。
俺は柄を握り締めると、鍛え上げた敏捷値をフルに使って一気に距離を詰めた。みるみるうちに敵の姿が膨れ上がり、ついには手を伸ばせば届きそうなほどの彼我距離にまで近付くが、《隠蔽》スキルのおかげで敵がこちらに気付く様子はない。もっとも、今更気付いたところで、どうにもなりはしないのだが。
蒼風を握り締めると同時に、風刀スキル《春嵐》を発動。蒼いエフェクトを纏った刀身を、弱点である枝分かれした茎の根元へ抜刀しざまに叩きつけ、振り返ることもせずそのまま走り去る。一瞬の間をおいて、背後からあのMobが消失したことを示す破砕音が耳に届いた。
息を吐き、蒼風を鞘に収め、首を巡らせる。視界には、新たなペールピンクのカーソルが幾つか浮かんでいた。
俺はカーソルの主どもを殲滅しつつ丘を下る最短ルートを頭の中で構築すると、大きく足を前へと蹴り出す。あの二人は大切な囮。簡単に窮地に陥って転移され、本命を逃すわけにはいかないのだ。
後書き
1/28ご指摘頂いた点を修正すると共に、ごく僅かですが加筆を行いました。
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