四重唱
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第七章
第七章
「御免なさい。そのことで今まで本当に」
「だから。いいんだよ」
当然だが彼も妻のことは知っている。それも知り過ぎるまでに。そのうえで彼女を受け入れていたのである。それと共に愛していたのだ。それも深く。
「そのままの君が。好きなんだから」
「ずっと。思っていたことがあるの」
ハンナは夫に言う。朝のコーヒーはホテルでヒルデガントと共に飲んだココアと同じ苦さがした。不思議なことにココアと同じ味がしたのであった。
「私は。あなたに相応しい女ではないって」
「相応しくない」
「そうではなくて?」
少し目を上げて夫に問う。だがその目は弱々しい光しか出してはいなかった。
「こうして。道を誤っている私だから」
「では聞くよ」
アンドレアスはそんな妻に対して問うてきた。その声は決して咎めるものではなかった。むしろ温かく包み込むものであった。その声はハンナの心にも届いていた。
「元帥夫人。君が次に演じる役だけれど」
「ええ」
言わずと知れた彼女の当たり役である。そしてアンドレアスはオックスを当たり役にしている。これもまた言わずと知れたことである。
「好きかい?彼女は」
「私が?」
「彼女は。好きかな、どうかな」
「好きよ」
それがハンナの答えであった。静かな声で答える。
「あんな素晴らしい女性はいないわ。多くの人がそう思うんじゃないかしら」
「そういうことだよ」
それこそがアンドレアスの望んでいた答えであった。彼はその答えを聞いて満足した笑みを浮かべるのであった。
「そういうことなんだよ。だから僕は君を」
「愛しているの?」
「そうさ。誰もが愛する女性が元帥夫人」
思えば不思議な役である。不貞を働いているというのにその心は清らかでありもう人生の秋を感じてそれを哀しんでいるというのに少女の心をまだ持っている。ただ気品がある大人の女ではないのだ。この役には無限の魅力がある。だからこそ誰もが、多くのドイツ系ソプラノがこの役を愛して歌うことを夢見るのである。
「だから僕は君を愛するんだよ」
「私を」
「そうさ。わかってくれたかな」
やはりそのハンナを、彼女の全てを包み込む優しさで言葉を贈るのだった。それは千の紅の薔薇よりも美しく、千の白い百合よりも純粋な言葉であった。その言葉で彼女の心を包み込むのであった。
「だから僕は君を愛しているんだ。元帥夫人をね」
「私がその愛を裏切っても」
「僕は裏切られたとは思っていない」
夫として答える。
「これは君が女の人を好きになったからじゃないんだ」
「それではないの」
「そうさ」
難しい問題であった。相手が男なら浮気になるが女ならそうは考えない者もいるのだ。だからこそハンナのスキャンダルは議論になっているのだ。しかし彼はそれもまた問題にしていないのだった。それは何故か、より大きな者を見ていたからである。
「僕への愛は。裏切られてはいないから」
「あなたへの愛は」
「裏切ったことはないね」
じっと妻を見て問う。
「いつも僕を愛してくれているね」
「ええ」
図々しいと思いながらも頷くのであった。彼女自身の心に従って。
「だからいいんだ。僕はそれで」
「私は。それでも」
「君の愛は一つじゃない」
アンドレアスはまた妻に言う。彼女を包み込みながら。
「その一つが僕に注がれていればそれでいいんだよ」
「そうなの」
「うん」
にこりと笑ってハムを少し切り。それを口の中に入れた。
「それだけでね。僕は満足だよ」
「どうして」
ハンナは夫の言葉を聞いて呟いた。目は泣いてはいないが心では違っていた。
「私には。とても過ぎた方ばかりが私を愛してくれるの」
「それも違うよ」
アンドレアスはハンナのその言葉も否定した。
「そう思うのは。むしろ君に愛される人達さ」
「私に、なのね」
「僕も彼女も」
ヒルデガントのことはあえて名前は出さないが。それでも言った。
「それで幸せなんだよ」
「とてもそんな」
「自分を受け入れればいいんだよ」
また優しい声で告げた。
「君自身を。君はとても素晴らしい女性だからね」
「またそんな」
「いや、僕は嘘は言わない」
それでもアンドレアスは言う。じっと自分の妻を見ながら。
「君に対しては。絶対に」
「あなたからはそう見えるのね」
「それは多くの人がそうだと思う」
主観だがそれは事実だと考えていた。言い換えるならばそれが事実だとアンドレアスに思わせるものがハンナにはあるのだった。だがハンナはそれを自分で否定しているだけであった。
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