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四重唱

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第六章


第六章

「それだけなのよ。神の前では」
「神は時としてあまりに無慈悲です」
 その言葉を受けて。ヒルデガントはその整った中性的な顔を鏡が割れたようにさせながら言葉を出した。言葉の一つ一つが血のように辛い。
「こんな苦しみを私達に与えられるとは」
「けれど。それは一人ではないから」
 ハンナは自分の涙をそのままにしてヒルデガントに述べた。
「だから。耐えられるわ」
「でしょうか」
「貴女も私も」
 ヒルデガントに対して告げる。
「だから今日は」
「これで二人の時間を終えて」
「それぞれの場所に。帰りましょう」
 ヒルデガントに顔を向ける。そうして告げたのだった。
「今日は」
「わかりました」
 ヒルデガントも遂に頷いた。彼女が今ここで何をしても時間は進む。それがわかっているからこそ。頷いたのだった。それしかなかったから。
「これで」
「ええ」
 二人は着替えてその部屋を後にした。そうしてそれぞれの家族のところに帰る。ハンナは家に帰る。するとそこには白い髪をした巨人の如き身体の初老の男がいた。身体は巨人の様であったがその顔はギリシア彫刻をそのままゲルマンの雰囲気にしたように細く彫があり、そのうえで端整であった。気品と共に重厚さ、そうして人間味さえ目の奥の光の中にある、不思議な顔をした男だった。
 彼はアンドレアス=リヒター=フォン=ザイフェルトという。ドイツ圏はおろか世界的にも有名なバス歌手の一人でありモーツァルトやワーグナー、このリヒャルト=シュトラウスの作品において第一人者の一人とまで評価されている。とりわけこの薔薇の騎士のオックス男爵を当たり役としており夫婦揃っての共演もまた多い。ハンナと結婚してもう随分経ち互いのことはよいことも悪いことも知っている仲である。
 その彼がハンナを出迎えたのだ。彼は妻が家に入ると一言だけ言うのだった。
「おかえり」
「只今」
「朝食を用意させておいたよ」
 彼はその後で妻にそう告げた。
「若しまだだったら」
「ええ。頂くわ」
 妻は微かに笑って夫の言葉に応えた。夫も彼女の言葉を受けて微かに笑うのであった。
「そう。それなら」
「うん。だったら」
 そのまま妻を家の中に案内する。オーストリア風の落ち着いていながらも華やかさのある家の中である。言うならば白い豪奢さである。それこそがオーストリアの豪奢であった。静かで目立たないようでいて華やかな。ハプスブルク家の遺産とも言うべき豪奢であった。
 その豪奢の中を進んで食堂に着く。そこで出されたのはクロワッサンにスクランブルエッグ、そしてハムとソーセージであった。一見して質素であるが素材が違う。しかも料理法も。これもまたオーストリア風と言うべきであろうか。一見でわからない豪奢であった。
 彼女はその豪奢を一人で静かに味わっていた。だがそれは向かい側にアンドレアスが来たことで終わったのであった。
「あなたもまだだったの」
「待っていたんだ」
 彼は静かな笑みを浮かべて妻に答えた。
「君が帰って来るのをね」
「有り難う。けれど」
 ヒルデガントのことはあえて言わずに夫に問うた。
「帰って来なかったらどうするつもりだったの?」
「その時はその時さ」
 その静かな笑みでこう答えるのであった。
「最後まで待って劇場に行く途中で食べるつもりだったよ」
「そうだったの」
「けれど。これで二人で食べられたね」
「そうね」
 夫の言葉に対して静かに笑う。穏やかだがそれと共に寂しさも漂う笑みであった。
「もう子供達は行っているわよね」
「もうね。家に残っているのは」
 後は二人と使用人達だけである。だがそれで決して寂しくはないのであった。
「家族では私達だけ」
「皆がいるけれどね」
「だから。寂しく思う必要はないのね」
「寂しい朝は。この世で一番辛いものだよ」
 アンドレアスはその穏やかな笑みと共にこう述べた。
「この世で一番ね」
「そうかもね。けれど私はあなたにいつもそれを与えてきたわ」
 辛い顔で告げる。
「そのこの世で最も辛いものを」
「僕は別にそうは思ってはいないよ」
 だが彼は妻に対してこう言葉を返した。
「自分がそう思っていない限りはそうはならないものさ」
「そうなの」
「そうさ。けれど君は違う」
 ハンナを見て述べる。
「この頃。ずっと辛い気持ちでいるようだけれど」
「知っているのね」
 ハンナはクロワッサンを口に入れた後で答えた。アンドレアスはスクランブルエッグを口にしている。その中で話をしていた。
 
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