渦巻く滄海 紅き空 【上】
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七十七 結末
彼女は暫し、目の前の光景が信じられなかった。
アマルを見て、トントンを見る。交互に往復した青い瞳は動揺のため大きく揺れていた。
「な、何やってんだってばよ、アマル…?」
身体中のあちこちに巻かれた痛々しい包帯。白い帯をつたって流れるアマルの血が、彼女の正気を取り戻す。城跡で見た壁の惨劇がナルの脳裏に浮かび上がった。
強張った唇を無理に動かし、声を張り上げる。
「ばかっ!なに勝手に脱け出してんだってばよ!?病院に戻れって…ッ」
「ごめんな、ナル」
ナルの悲痛な声は他でもないアマル自身が遮った。傷が痛むのか息も絶え絶えに、だがきっぱりと答える。
「オレは戻らない」
しかしながら、返答に反してアマルの顔は憂いに満ちていた。
「…ッ、なんで…!?」
戸惑いのあまり口ごもる。狼狽するナルの隣で、ようやく我に返った綱手が一喝した。
「馬鹿御言いじゃないよ!!いい加減にしな、アマルっ!さっさと其処から離れるんだよ!!」
「しつこい女は嫌われるわよ、綱手。たとえ師弟関係でもね」
綱手の怒号が終わるや否や、大蛇丸は嘲笑を口許に湛えた。アマルの後ろでのんびりと野次る彼を、綱手がギッと睨みつける。
「大蛇丸…お前の仕業か?アマルを誑かしでもしたか!!」
頭に血が上った綱手に詰られ、大蛇丸は軽く肩を竦めてみせた。眼を細め、アマルの頭をねっとりと見下ろす。燃えるような赤い髪に視線を這わせ、彼はようやく綱手に返事を返した。
「誑かすだなんて人聞きの悪い…説得しただけよ。そして彼女はそれに応じた……ただ、それだけの事よ」
「…ッ、嘘だ!!」
ぴくりと眉を顰める。自身の主張を真っ向から否定され、大蛇丸は軽く片眉を上げた。
その場の面々の視線がナルに集中する。大蛇丸に反論した彼女は顔を俯かせ、わなわなと拳を震わせた。現状を信じられず、必死に言い募る。
「だって…ッ、だって…アマルは…っ、アマルは…っ」
動転しつつも、アマルの無実を訴える。ガンガンと痛みが奔る頭の奥で、何処からか祭囃子の音が聞こえてきた。
思い出すのは、アマルとの出会い。
一緒に祭りを堪能し、互いの師について愚痴り合った。同じ屋根の下で共に語り合い、そして約束した。新術を見せてやる、と。
耳朶を打つ、太鼓と笛の音。立ち並ぶ屋台に賑わう人々。子どもの笑い声。
脳裏に再現される映像は、ナルに酷い頭痛を齎す。
止まぬ祭囃子。
頭痛が酷くなるにつれ、鳴り響く囃子は視界を潤ませる。
貼りつく涙を振り払い、アマルに向かってナルは声の限りに叫んだ。
「大蛇丸の部下だなんて……嘘だってばよね!?」
答えを聞くのが怖い。でも否定の言葉が欲しい。矛盾する思いを抱きながら、ナルは震える唇で友の名を呼ぶ。荒れ地に吹き荒れる風が一時、止んだ。
「嘘だって言ってくれってばよ…―――なぁ!アマル!!」
アマルは答えない。応えてくれない。
再度口を開こうとしたナルを、大きな手がさっと制した。邪魔をされ、咄嗟に咎める視線を向けたナルは、相手の毅然とした顔を見ると、次第に落ち着きを取り戻した。
手の持ち主はナルの隣で黙していた自来也。縋るようなナルの目から顔を背け、自来也はわざと大蛇丸を挑発した。
「大蛇丸…お前が何を企んでおるのか知らんが、無事に此処から逃げおおせるとでも思っとるのか?」
ふざけた物言いでありながら的確な判断。師の冷静な指摘で、ナルはハッとした。
仮にアマルが大蛇丸の部下だったとしても、今この場で大蛇丸を倒せば主人を失う。そうすればアマルは……――――。
動揺に揺れていた青い瞳が光を取り戻す。急にやる気を出したナルと自来也に視線をやって、「何を言うかと思えば…」と大蛇丸は鼻で笑った。
「自来也、お前こそ今此処で死ぬかもしれなくてよ。過信も大概にすることね」
「過信ではなく、確信だのぅ……。まだ気づいておらんようだな、大蛇丸」
「なに、を……っ!?」
突然、ガクリと膝が落ちる。
いきなり体勢を崩した大蛇丸を、慌ててカブトが支えた。
両腕の激痛だけではない。身体全体から来る震えに、大蛇丸は眉根を寄せた。痺れる足を叱咤して、なんとか踏み止まる。脂汗を額に滲ませ、声を振り絞る。
「…何をした、自来也ァ……ッ!!」
「まさか、ただの不意打ちだとでも思っとったのか?」
自来也の言葉に大蛇丸はハッと顔を強張らせた。
綱手との交渉時。其処で大蛇丸は綱手の影に潜んでいた自来也から奇襲を受けた。その際掴まれた足が原因だと思い当る。
「綱手手製の痺れ薬だ。肌からじわじわ効くタイプでな」
その一例がシズネの現状だ。身の安全とは言え、綱手に痺れ薬を盛られた彼女は現在支えてもらってやっと立っていられる状態である。
もっともシズネに用いられた薬の効果は弱め。大蛇丸が盛られた痺れ薬はその十倍もの効果を持つ。大蛇丸と会う寸前、綱手が自来也に薬を手渡したのだ。
「ぐ…ッ」
力が抜けてゆく。とても立っていられなくなり、大蛇丸はずるずると地に膝をついた。
当初狼狽えたものの、カブトが冷静に大蛇丸の症状を診る。眉を顰め、眼鏡をくいっと押し上げた彼はちらりとアマルとトントンに視線を投げた。そしてやにわに自身が傷つけた腕の血を拭い、続けて大蛇丸の服袖を捲し上げる。
腕を這うようにして刻まれた蛇の紋様。其処に自らの血を一筋ひく。
「【口寄せの術】!!」
途端、二体の巨大な蛇がナル達の前に現れた。
鎌首をもたげ、巨大な口を開く。今にも呑み込まんとするそれらの猛攻をよけ、自来也は綱手とシズネを目の端に捉えた。
綱手が単独で闘えば、身体の自由が利かぬシズネなどあっという間に蛇に押し潰されるだろう。故にシズネを支えている綱手は蛇の攻撃を避けるのに精一杯。
ワシが相手するしかないか、と自来也は大蛇の頭上にいる大蛇丸とカブトを睨み据えた。印を結ぶ。
「【土遁・黄泉沼】!!」
刹那、蛇達の真下の地面がぬるりと沼へ変わった。
ずぶずぶ沈みゆく底無し沼で蛇ニ体がのたうち回る。その光景に自来也はホッと息をついた。これで蛇達は動けまいと、一瞬気が緩んだその瞬間、背後に巨大な影が落ちる。
衝撃。
「エロ仙人!」
「自来也!」
ナルと綱手の声が響く。彼女達の叫びを自来也が耳にしたのは薄闇の中だった。
陰気な空気が漂う仄暗い場所。背後から大蛇に呑み込まれたのだ。
「チィッ」
瞬時にこれ以上呑まれまいと、【忍法・針地蔵】の印を結ぶ自来也。針金の如き鋭い髪で蛇の喉元を押さえる。
だが逆に口内の激痛で蛇が暴れ、足場が悪くなる。なんとか踏み止まりつつ、自来也は眉間に皺を寄せた。思案する。
(一体、地面にでも潜んでいたか…)
カブトが口寄せした蛇はニ体ではなく、三体だったのだろうと結論づける。とにかくさっさとこの蛇から脱け出そうと考えを巡らせていた自来也は気づかなかった。
戦場と化したこの場に、敵が一人増えている事実に。
「エロ仙人…!!」
蛇に呑み込まれた自来也。師を助けようと駆け出したナルは何気なく底無し沼に目線をやった。嵌った蛇を見る。
沼に沈みゆく一体の大蛇。
足を止める。奇妙な現象にナルは瞳を瞬かせた。大蛇丸とカブトは既に蛇の頭から地上へ飛び移っている。沈みゆく蛇からとうに脱している彼らを目の端に捉え、ナルは改めて沼に目をやった。
沈下したのは大蛇丸とカブトが乗っていた大蛇だったのか。ならば、もう一体は何処へ行ったのか。【黄泉沼】に嵌った蛇はニ体だったはずだ。
不可解な光景に足を止める。その一瞬の隙を狙って、アマルが動いた。ナルと綱手の間に割り込む。ナルを追い駆けていたパックンが咄嗟に飛退いた。
「…ッ、アマル!?」
「―――【忍法・毒霧】!!」
頬を膨らませたアマルが綱手とシズネに向かって何かを吐き出す。見るからに毒々しい色を帯びた霧。それを見た瞬間、シズネが必死の形相で叫んだ。
「…ッ!?ナルちゃん、ソレを吸い込んじゃダメ!!」
シズネの警告に、ナルとパックンは身体を強張らせた。咄嗟に口を手で押さえ、息を止める。
【忍法・毒霧】――…一吸いでもすれば猛毒が全身に廻る、危険な毒物。シズネがアマルに教えた術である。
だが毒の霧は警戒するナル達ではなく、綱手とシズネのみを包み込む。後ろを振り返ったナルの視界に飛び込んだのは、朦々と立ち込める霧とアマルの背中。瞬く間に綱手とシズネは毒霧に覆われ、姿すら全く見えない。
「綱手のばあちゃん、シズネ姉ちゃん!!」
「おっと。君の相手は俺だよ」
急ぎ二人の許へ戻ろうとしたナルの足を、聞き覚えの無い声が呼び止めた。
慌てて周囲を見渡す。見知らぬ人間の姿を認め、ナルは目を瞬かせた。
視界に入ったのは空の色。薄い藍色の髪を肩まで持つその青年は、何の前触れもなく突如現れた。
いきなり目に留まった存在に驚いたナルが無遠慮に指差す。
「ど、どっから湧いて出てきたんだってばよ!?」
「失礼だな。最初からいたよ」
ビシッと指を差された青年は軽く肩を竦ませた。浅葱の髪をさらりと靡かせ、苦笑する。
突然現れた青年を前に、ナルは怯んだ。今までこの場にいなかった人間が、いきなり出現したのだ。警戒するなというほうが無理だろう。
ちらりと背後に視線をやる。眼の端にアマルを捉え、彼女は頭をぷるぷると振った。気を奮い立たせ、眼に力を込める。
ナルの挑戦的な強い眼差しに、一瞬青年は眩しげに瞳を細めた。次いで、ナルの傍らの忍犬に眼をやる。唸り声を上げるパックンに、少々感嘆めいた声を彼は口にした。
「睡眠薬を嗅がせたのに此処まで来るとは…流石、忍犬だね」
〈やはり、お前……〉
じろりと青年を睨むパックンに「どういうことだってばよ!?」とナルが説明を求める。
「…っていうか、睡眠薬って……」
「百聞は一見に如かず…。聞くより見るほうが早いな」
訳が分からず当惑するナルの問いに答えたのは、パックンではなく青年のほうだった。
印を結ぶ。悪戯っぽく微笑んで、青年はナルの目の前で実践してみせた。
立ち上った白煙が消えた途端、ナルの瞳が大きく見開く。あんぐりと開いた口からは何も出て来ない。
驚きで言葉を失ったナルの代わりに、パックンが苦々しげに吐き捨てた。
〈やはり…あの宿の猫か〉
「正確には、その猫に化けていたんだけどね」
ナルと自来也が滞在していた宿。
宿の主人にシュウと呼ばれていた猫は、自来也不在時にナルの許へやって来た。そこで彼女は猫の行動によって、行き詰っていた【螺旋丸】を次段階に進める事が出来たのだ。
その切っ掛けとなった猫が、今、目の前にいる。
「どういう、こと、だってばよ…?」
混乱する頭。ナルの困惑顔に、猫から人の姿に戻った青年が微かに口角を吊り上げた。再び印を結ぶ。朦々と立ち込める白煙に目を凝らしたナルは、今一度唖然とした。
細長くにょろにょろとした胴体。裂けた舌。全身を覆う鱗。今現在、黄泉沼に沈む蛇と同じ巨体。
何処からどう見ても、大蛇丸の蛇にしか見えない。
思わずナルは、自来也を呑み込み、体内の激痛に暴れる大蛇に視線をやった。だが青年の変化した蛇は本物の蛇と何等変わりはない。
完全なる蛇。見事な変化だった。
〈……最初からカブトが口寄せした蛇はニ体。その内の一体は地面に潜り、代わりにお前が蛇に変化。自来也の気を引きつけた隙に背後から本物の蛇が襲い掛かった…ということじゃな〉
冷静に判断したパックンがナルにも解るよう噛み砕いて説明する。完全な蛇そのものに成り代わった青年がパックンに同意するように、しゅうしゅうと舌を鳴らした。
「…まだわからないのかい?」
青年とナルの会話を聞いていたカブトが口を挟む。横合いから割り込んできたカブトを一瞬青年が煩わしそうに睨んだ。術を解く。
寸前まで蛇の巨体がいた場所で、人の姿形に戻りし彼は、何事もなかったかのように最後の変化を行った。
再度捲き上がる白煙。霞の中、見覚えのある姿がナルの瞳に飛び込む。思いがけない光景に彼女は思わず「え、」と声を上げた。
ナルの目の前にいるのは…―――アマルと共にこの場へやって来た、子豚のトントン。
本物なのか偽物なのか。あまりにも酷似し過ぎて、区別がつかないほどの変化に、ナルは暫し呆けた。ややあって、鋭く問い質す。
「え、あ……じゃ、じゃあ、トントンは…?本物のトントンは何処にいるんだってばよ!?」
アマルが大怪我を負って以来、トントンはナルが預かっていた。綱手もシズネもアマルの治療で手が離せなかったからだ。昨晩も、泊まっていた宿の一室で一緒に寝ていたはずなのだが、まさか……。
「安心しなよ。子豚くんなら、宿でぐっすりだから」
戸惑うナルに対し、青年は落ち着いた風情で答えた。
トントンが無事だと解ってホッとするのも束の間、ナルは青年を改めて睨み据えた。余裕綽々な態度が気に触る。
そして何よりも、自分が接した動物達が彼だったなどと信じたくはなかった。
「……お、まえ…一体、誰なんだってばよ…」
何が本物で何が嘘か。どれが偽物でどれが本当か。
青年の変化はナルを混乱に陥らせる。彼の変化を見破る事が出来るのは、現状では嗅覚が鋭い忍犬のパックンくらいだろう。
ナルとて変化の術はよく用いる。しかし青年の変化はその比ではない。変化対象に完璧に成り切っている。
現に、三忍である自来也や綱手も見破れなかった。かなり高度な技術である。
「そういえば、自己紹介がまだだったね」
宿の猫・子豚のトントン・大蛇丸の蛇…次から次へと変化し、ナル達の眼を欺いてきた。
その正体である当の本人は、今気づいたとばかりに朗らかな笑顔で、ナルの質疑に応じた。
「俺の名はシン―――大蛇丸様の部下だよ」
穏やかな物腰で青年は名乗った。その笑みはカブト同様、人好きのする優しげなものである一方、ナルに寒気をもたらした。
「よろしくね?波風ナルくん」
何故なら彼の笑顔は…――本心を偽る事に長けた忍び、そのものだったのだから。
一方、思いもよらぬ弟子の行動に、戸惑いを隠し切れない綱手とシズネ。
二人は毒霧を挟んで、アマルと対峙していた。
「…アマル…どうして…、」
綱手の痺れ薬がまだ効いているシズネが無理に身を乗り出した。悲痛な声で問う。
彼女は初めて出来た妹弟子に一番喜んでいたのだ。だからこそ自身を『シズネ先輩』と慕ってくれたアマルに、【忍法・毒霧】を始めとする己の知る限りの術や知識を教えた。
綱手の許で共に過ごした日々は嘘偽りなどではない。それなのに何故こんなことをするのかと、シズネは悲愴感を漂わせた。
シズネを支える綱手もまた、弟子の裏切り行為に心を痛める。だがその反面、内心では(戦力を分断されたか…)と三忍の名に恥じぬ冷静さで、状況を把握していた。
大蛇丸の大蛇に呑み込まれた、自来也。ナルとパックン。そして綱手とシズネ。
綱手一人ならこの不利な情勢でもどうにか出来るが、薬で身動き出来ぬシズネを抱えたままでは難しいだろう。
毒霧を吹き飛ばすにしても、風下にナルがいるので風遁の術は使えない。口寄せの術で蛞蝓を呼び出したところで、大蛇丸の蛇の口内に自来也がいる現状では迂闊に手を出せない。闘った拍子に大蛇が自来也を呑み込みかねないからだ。
つまり現段階では、毒霧が晴れるのを待つのが得策。
瞬時にそう判断した綱手は、シズネを支え直すとアマルに眼を向けた。しかしながら弟子の…アマルの顔を見た途端、寸前までの平静を保てなくなる。
シズネと同じく綱手もまた、アマルを可愛がっていたのだ。激情に駆られる。
「アマル!今ならまだげんこつ十発で許してやる!!だからさっさとこっちに帰ってきな!!」
「つ、綱手様…。貴女のげんこつ十発はちょっと……」
青筋を立てる綱手の言い分に、冷や汗を掻いたシズネが思わず口を挟んだ。綱手の怪力で十発も殴られたら、ただでは済まない。
憤る綱手を宥めるシズネ。二人のやり取りをアマルは懐かしげに見つめる。けれどそれはほんの一瞬のことで、直後顔を引き締めた彼女は綱手とシズネに向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい…先生、シズネ先輩」
唐突な謝罪に、自らの行いが間違っていると気づいたのだろうと、シズネが表情を明るくさせる。しかしながらその考えは早合点であった。
「お別れです。今まで……ありがとうございました」
告別。
だしぬけに言い渡された決別は、綱手とシズネの身体を硬直させる。絶句するシズネに対し、綱手はすぐさま問うた。平静を装うも震えた声が、辛うじてアマルの耳に届く。
「……本気、なのかい?」
師の最終確認を聞いてアマルは顔を伏せた。
「先生…オレは、一度死んだんだ」
過去の記憶を掘り起こす。ぽつぽつ語る彼女の心の内を、綱手とシズネは神妙に聞き入った。
「病気で死にかけたあの時。本当に辛くて苦しくて……どうして自分だけがこんな目に、って腹が立って。でもどんなに周りを憎んでもこの世を恨んでも…。誰も助けてくれなかった。誰もオレに手を差し伸べてくれなかった。だからもう、自分は死ぬんだって諦めてた。生きる気さえ無くなっていた………そうしたら、」
苦々しげに語る声が不意に途切れる。
やにわに顔を上げたアマルはどこか遠くを見ていた。綱手ではなくシズネではなく、遥か彼方にいる誰かを。
そうして口に出した声音は、切ないほどの思慕に満ち溢れていた。
「『神サマ』が来てくれた」
自らが生き返ったその瞬間をアマルは忘れない。忘れることが出来ない。
病魔に魘され、死を覚悟した自分を。
死の淵に溺れ、もがき苦しんでいた自分を。
彼は助け出してくれた。救いあげてくれた。
手を、差し伸べてくれた。
「だからこの命は、『神サマ』のものなんだ」
アマルが『神サマ』について知っているのは『ナルト』という名と、眩いばかりに輝く金の髪のみ。
だから波風ナルと初めて会った時に、彼女をまじまじと見たのだ。どことなく『神サマ』に似ている気がして。
けれどどれだけ似ていても、本能が違うと叫ぶ。
彼とは似て非なる存在だと、直感が囁く。
朦朧とする意識の中で垣間見た、穏やかな眼差し。耳朶に残る、優しき声。
自分に生きる希望を与えてくれた、アマルの『神サマ』。
だからこそ…―――――。
「『神サマ』に会えるならオレはなんだってする。たとえ…――」
そこで一度アマルは言葉を切る。口を噤んだ彼女を前にして、綱手は察した。
言葉の端々からひしひしと感じる彼女のひたむきな想いを。
『神サマ』に会う為ならば、何でもする。
何を引き換えにしても、何を犠牲にしても、『神サマ』に会おうとする。
誠実な者は心のままに行動する。
一途な想いは時として他をかえりみない。
それこそ…――悪魔に魂を売ってでも。
「先生…オレにとっては『神サマ』だけなんだ。『神サマ』だけがオレの唯一の居場所なんだ」
アマルの本音。
本心からの弟子の言葉は、師である綱手の心に多大な衝撃を与える。特に『唯一の居場所』という語は鋭い響きを以って、いつまでも綱手の耳に残っていた。
捨て子だったアマルは病に倒れた一件以来、『神サマ』以外を信じられなくなった。
だからこそ『神サマ』を捜す旅に出た彼女だが、一向に会える気配が無い事に日々焦燥感を募らせてゆく。
それがピークに達したのは、二度目に死にかけた瞬間。
再び覗いた死の淵に、アマルは内心期待していた。
次に生き返った時、瞳に映るのは、あのキラキラと輝く黄金の髪じゃないかと。
また自分を死から救いあげてくれるのは、他でもない『神サマ』じゃないかと。
だが、その期待は裏切られる。
息を吹き返した刹那、アマルは死にたくなった。
自分の危機には来てくれるのではないか、と心の片隅で願っていたのに。
命が消えかける寸前に現れてくれるのではないか、と待望していたのに。
やはり待っていても駄目なのだ。自分から会いに行かないと。
ベットで安静にしている間、そう決意を固めていたアマルの考えに拍車をかけたのは皮肉にも綱手の言葉だった。
アマルが寝ているものと思い、彼女の病室前で話していた綱手とシズネ。
彼女達の会話に耳を澄ませていたアマルは、最後に綱手が呟いた一言に心を動かされた。
『…―――私以上の医療忍者がいなければの話だけどね』
アマルの知る限り、そのような要件に該当する者はただ一人しかいない。
己の病を治し、そして今現在、待ち焦がれるヒト。
腕を治そうと躍起になっているらしい大蛇丸という人物が綱手に断られた場合、遅かれ早かれ、『神サマ』を捜すかもしれない。その時、自分が大蛇丸の近くにいれば、『神サマ』に会えるかもしれない。
綱手とシズネの話を聞いてアマルが抱いた感想は、自分を殺そうとした大蛇丸への恐怖ではなく、如何にして彼に近づくか、であった。
以上の思考に陥ったアマルの許へ来たのが、大蛇丸の部下であるシン。ある意味絶好のタイミングで現れた彼に、千載一遇のチャンスだとアマルは飛び付いた。
彼女がシンの口車に乗ったのには、こういった事情があったのである。
アマルは師を、姉弟子を、友を捨て。
……―――――蛇の手を取ったのだ。
ひとえに、『神サマ』に会いたいが為に。
「忍犬くん。君の存在は実に厄介だったよ。さっさと飼い主の許へ帰ればよかったものを…」
〈残念だったな。ワシが受けた命は『自来也もしくは綱手を里へ急ぎ連れ帰る事』。ただの伝達役ではないんだよ〉
シンと名乗った青年の挑発には乗らず、パックンがふんと鼻を小さく鳴らす。
不穏な空気を醸し出すシンとパックンを、はらはらとナルは交互に見やった。
主人である畑カカシが忍犬パックンに命じた内容。
それは志村ダンゾウが火影に就くという危急を知らせる事ではない。その凶報故に、自来也か綱手を木ノ葉の里へ連れ戻すよう説得する事がパックンの受けた任務だったのだ。
おかげで自来也にはあらぬ疑いを掛けられたが、忍犬にとって主人の命令は絶対。
パックンは己に課せられた使命を成し遂げようとしていただけだったのである。
またパックン自身、カカシの教え子である波風ナルを気に掛けていたので、無茶な修行ばかりする彼女の傍になるべくいたのだ。
それが思いがけぬ結果を生むとも知らず。
刹那、ズシンッと地鳴りが轟く。
朦々と立ち込める砂煙を、大蛇丸は振り仰いだ。己の大蛇を倒した自来也を視界に入れ、ふっと口角を吊り上げる。
「カブト」
名を呼ばれたカブトがシンに目配せする。地に叩きつけられた蛇の尾を見て、シンもまた大蛇丸の意思を酌んで、軽く頷きを返した。
大蛇の口を抉じ開けて出て来た自来也。蛇を内側から倒した師の姿を見て、ナルが顔を輝かせた。急ぎ自来也の許へ向かう。
その様子をアマルはじっと見つめていた。シンが傍に来る直前までナルに目線を投げていた彼女は、一瞬戸惑う素振りを見せる。
けれどシンに促された彼女は、己の名を呼ぶ綱手とシズネの声を振り切って、踵を返した。
ねっとりとした視線を受けながらも、大蛇丸の傍らに佇むアマルの姿にナルが息を呑む。
驚きのあまり何も言えず、口をぱくぱく開閉するナルの隣で、自来也は顔を顰めた。
大蛇が地面に倒れた衝撃で肋骨が何本か折れたらしい。激痛を押し殺し、思うように動かぬ身体を無理に立たせる。
倒れた大蛇が白煙と化すのを尻目に、自来也はナル達を庇うように大蛇丸と対峙した。
しかしながら自来也の不調を大蛇丸は即座に見抜いた。痺れ薬で思うように動かぬ己の身を顧みる。
元々動かぬ両腕の件を考えてもこちらの状況のほうが不利だ。綱手が交渉に乗らないとわかった今や、この場に留まっても何の意味もない。
瞬時にそう判断し、大蛇丸は口許に弧を描いた。余裕を装い、切れ長の瞳を細める。
そして綱手と顔を合わせると、どこか含みのある物言いで彼は嗤ってみせた。
「綱手…お前に治してもらわなくとも私には一つだけ方法があるのよ」
そう伝えるや否や、地面にずぶずぶ沈みゆく大蛇丸。主人の隣にいたカブトもまた、その場の面々の顔触れを見渡すと口許に不敵な笑みを浮かべた。
大蛇丸の『方法』という語にぴくりと反応したアマルに気づかないふりをして。
「…またいずれ――――」
俯き様にちらりと一瞥を投げる。
眼鏡の奥にて垣間見えるカブトの瞳は確かに、アマルの行動に狼狽するナルを捉えていた。
掻き消えたカブトに続こうとするシンとアマル。
愕然としていたナルの足が無意識に動く。自身と変わらぬ背丈。揺れる赤い髪が酷く遠くに見え、手を伸ばす。
「…ッ、待ってってば…っ!」
カラカラに渇いた唇から声を振り絞って、友の名を叫ぶ。視界を踊る赤い髪を掴もうと、必死に手を伸ばす。
「アマル………ッ!!」
だがアマルの髪は無情にもナルの手をすり抜けた。燃えるような赤がナルの指先を一瞬掠める。
肩越しに振り返ったアマルが最後に見せた顔。泣いているのか笑っているのか。
それは霞がかかったように曇るナルの眼では判断出来なかった。
「…――ごめんな、ナル」
申し訳なさそうに眉を下げるアマル。今にも泣くのを堪えるように、しかしながら彼女は無慈悲に言い渡した。
「でもオレは…『神サマ』に会う為なら、」
毒の霧が完全に晴れる。
その頃にはとうに、大蛇丸もカブトもシンも、そしてアマルもその身を消していた。
彼らがいた場所を呆然と見つめていたナルは、未だ伸ばしていた手をゆっくりと下ろす。
荒野に吹き荒ぶ乾いた風が彼女の震える指先を撫でていった。
かつて一緒に祭りを楽しみ、仲良く語り合った友はもういない。
去り際にアマルが告げた一言は、ナルの心に酷い傷を残していった。
未だ聞こえる祭囃子。
アマルと初めて出会った楽しい記憶であるはずのそれは、最後のアマルの一言で一変した。
ガンガンと鳴り響く耳鳴りは、アマルの声を何度も何度も繰り返す。
荒れ狂う風の中、ナルは声なき慟哭をあげた。
耳にこだまする友の、いっそ残酷なまでの宣告に。
「ナルの…敵になるよ」
以前大蛇丸とカブトが秘かに交わしたやり取り。
その際、大蛇丸が口にした「あの子が来るまでの辛抱よ」の『あの子』とは、シンを示している。
そして彼こそが、アマルを大蛇丸の下に引き摺りこんだ張本人。
まずは宿の猫。シュウと呼ばれた飼い猫そっくりに化けたシンはナル及び自来也を見張っていた。その際、大蛇丸が捜し求める綱手に気づき、彼に報告。
結果、シンの密告を受けた大蛇丸はすぐさまカブトを引き連れてこの街に向かったのである。
一方、猫に扮し、波風ナルに近づいたシンだが、忍犬であるパックンが介入することで容易に近づけなくなっていた。匂いでバレる可能性があるからだ。
猫は総じて犬に弱い生き物である。故に、猫に化けていたシンは波風ナルの許で情報収集が出来なくなった。
そこで宿の猫に変化したまま遠目で隙を窺い、大蛇丸と綱手の交渉前夜に、子豚のトントンとパックンに睡眠薬を嗅がせる。
そしてシン本人はトントンに化けると、アマルの病室に忍び込み、大蛇丸の下へ引き込んだのである。
ちなみに、病院でナルがシズネと会った後、医者と看護師が慌ただしかったのは、アマルの不在によるものだ。
パックンの存在はナル達に良い結果をもたらした。大蛇丸の部下に情報漏洩する危機を救ったのである。
だが一方で、その好結果がアマルに裏切り行為を導いたのだ。
同じ屋根の下で共に語り合ったアマルとナル。
あの時、アマルがナルに『神サマ』の名を告げていれば、このような結末ではなかっただろう。
ナルがアマルの前で『うずまきナルト』の名を挙げていれば、こんな未来など迎えなかっただろう。
些細な差異はナルとアマルの間に溝を築き、次第に両者を遠く切り離す。
運命の歯車は残酷にも擦れ違ったまま、廻り始めてしまった。
噛み合わぬ歯車はこれから先、どうなるのか。
それはまだ、誰にもわからない。
後書き
大変お疲れ様でした!!これにて「綱手捜索編」は終わりです。
この展開にご不満な方は多いと思われます。申し訳ありませんでした!不快にさせてしまったのでしたら、本当にすみません。
どんどん原作からかけ離れていく…しかもこんなに映画のキャラが出張る話、他にあるだろうか。
アマル知らない方には大変申し訳ありませんが、NARUTO映画「絆」をご覧になってくださいね!(←今更)
長々とありがとうございました!!次回もよろしくお願い致します!
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