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【短編集】現実だってファンタジー

作者:海戦型
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俺馴? 外伝2ー1 [R-15?]

 
前書き
今回はちょっと閲覧注意です。正直これは、読者的にはアリなんだろうかと頭を悩ませてます。オチはちゃんとつけたんですが、オチに至るまでの過程で「こんなもの読んでいられるか!」って怒られそうな気が・・・ 

 
 
人は、想像する生き物である。
身体に占める脳の割合が地球上の生物で最も大きいとされるホモ・サピエンスは、合理的で分析的な思考や言語機能を司るとされる大脳新皮質が生物種としては異様なまでに発達した。そのような発達が人間の想像力を育んでいる、いや意識の際限を押し広げているとも言える。

だが想像は時に現実との境目に軋みを上げる。それは妄想と呼ばれたり、思い込みと呼ばれたり、名前かたちは様々あれどもそれらは得てして望むものと大きくかけ離れているものだ。そして、際限なき人の想像はいつか妄執や愛といった形で暴走することもある。

例えば、とある町の高校に通う「田楽(でんがく)入子(いりこ)」という少女の想像が暴走すれば――果たしてどうなるのか?






その日、延年(のぶとし)冴鮫(さざめ)は自室のベッドで目を覚ました。

「……ふぁあ」

乱れた後ろ髪を手ぐしでなだめながら欠伸をする寝ぼけ眼が、時計を捉えた。別段いつもの目覚めと変わらない時間帯だ。別段目覚ましの類が鳴ったわけではないが、窓のカーテンから漏れる明かりによって自分が起きるべき時間帯になったことを察したのだ。

起き上がった彼は、ふと自分が身を横たえていた布団に違和感を覚えた。妙に湿気が籠っているような気がする。まさかいい年をしてお漏らしか?と疑った彼は布団をはねのけてパジャマを確認するが、時に汚れも無い清潔なパジャマがあるだけだった。ただ単に布団が湿気を吸っているだけかもしれない。

「そうか、最近天気が悪かったから乾してないなぁ」

そんなことを思いながらベッドから足を降ろす。少々シーツが乱れたが、後で正せばいいかと気に留めずに着替えをしようとすると――

「……これは」

クローゼットの前にある自分の机の上に、シャツ・靴下・学校の制服などの着替え一式がすべて綺麗に畳んで置いてあった。はて、と首を傾げる。彼は前日に予め着替えを用意しておくほど几帳面な人間ではない。それは彼自身が良く知っている。かといって自分の家族、父か母がそれをやったかと言えば違うだろう。二人とも思春期の息子の部屋に黙って入りこむほど無遠慮な人間ではないし、昨日も――

昨日、両親と何か言葉を交わしたか?
何をしたんだったか?何か引っかかりを覚えて咄嗟に思い出せなくなる。

だが直ぐにそれほど時間に余裕が無いことを思い出して着替える。パジャマを脱ぎ捨てて制服に着替えたさざめは学校へと持って行く鞄を拾って家のリビングに直行しようとし――そこで部屋の扉が勢いよく開かれた。

「おっはよぅ、さざめくん!ご飯出来てるよぉ!!」
「うわぁ吃驚した!?急に出てくるんじゃねえよ馬鹿!」

突如現れたその人影が何者か確認しないうちから罵倒言語を語尾に装着するさざめは、やや間をおいて部屋に着た声の主が誰かを把握して、その後困惑の表情を浮かべる。何故ならばその相手は自分の目の前にいる筈のない人物だったからだ。

「……い、いりこ?お前なんでウチにいるんだよ?」

田楽入子。彼の隣の家に住む、さざめにとっては謎多き乙女である。
彼女は昔から隣の家に住み、学校でも常に一緒なくらいの付き合いがある幼馴染、だと周囲は言う。だがさざめの記憶にはそんな女の子は存在していない。家族までもが彼女の事を知っているのにさざめだけがその事実を確認できずにいるのだ。彼女自身はまるで幼馴染であるかのような言動を取るが、それが嘘か真かは彼女の存在を知覚してから数か月たっても未だに分かっていない。

そんないりこだが、さざめの経験則で言うと彼女がこの早朝に家に乗り込んできたことなど一度も無かった。決まって彼女は家の玄関である摩り硝子の引き戸の向こうに立っていて、さざめが顔を見せるといつでも癖のある快活な声で朝の挨拶をぶつけてくる。
決してどこぞのラブコメにあるように家の中まで上がり込んで起こしに来るなどという現実的に考えづらい行動を取るほど他人の迷惑を弁えない人間ではない筈だ。ふざける事はあるが、度を過ぎないようにという心遣いは出来る人間だと思っていただけに、このような事態を予想だにしていなかったさざめは面食らっていた。

しかも、服装を見てみるといつもの制服の上から可愛らしいフリルの付いたエプロンを装備し、何故かその手にはおたままで握られている。金属表面が微かに濡れていることから、使用後に一度洗ってわざわざここまで持ってきたのだろう。そのような事をしてまで何故お玉を握ることに執着したのかは彼には理解できなかった。
さざめの混乱はさらに深まる。彼女の方もまるでこれが日常であるかのように屈託のない笑みを浮かべているためにどう言葉をぶつければ分からない。そんな動揺を知ってか知らずか、いりこはさざめの手を勢いよく掴んで引っ張った。

「もう、寝ぼけてないでご飯だよぅ!早く歯磨きして顔を洗って来るの!時間にもそんなに余裕ないんだから!」
「うわっ!わ、分かったから引っ張るな馬鹿たれ!」

確かに、時計を盗み見るとそれほど時間に余裕はない。余裕がある様に早起きすれば良いと思うかもしれないが、自分の欲望に忠実なさざめは人より少し遅くまで寝る方を選んでいた。結局その違和感や異変に対してきちんと問いただす暇もないまま、彼は部屋の外に引きずり出された。仕方なく俺はいりこに従って洗面台へと足を運ぶ。

「……ふふっ♪」
「?」

不意に笑い声が聞こえて後ろを振り向くと、いりこが俺の部屋を見つめながら下腹部を緩やかに撫でていた。その行動に何の意味があるのかは理解できなかった。



 = =



――いったい何だというんだ。

何一つ自分の疑問が解消されないままにさざめは朝食を食べていた。どういうわけか、いりこと2人きりでだ。いるべき両親もそこにはおらず、それどころか気配すら感じられない。もくもくと目の前の白ご飯と味噌汁、そしていくつかのおかずを減らしながら、さざめは料理の味を楽しむことも出来ずに周囲に目を走らせた。

食器棚。家族3人分と予備の食器が入っている筈の食器たちは、見覚えのないペア食器に統一されている。インテリアはさほど変わっていないが、父がいつも散らかしている新聞の広告や、母の買った怪しげな健康器具類が消滅し、家族を思わせるアイテムが見当たらない。飾ってある写真も全てさざめといりこが2人で写っているツーショットのものになっていて、写真立ても変わっている。

背筋にうすら寒いものが過る。この感覚は、いりこが突然現れたあの日に感じたそれに少し似ているようで、しかしあの時のそれより数段冷たく大きい。頭の中で錯綜する思考が、許容しがたい仮説を組み立てつつあるからだった。少しずつ、手足にかく汗が四肢の末端を冷やしていくような感覚が体を包んでいた。

昨日までこうじゃなかった、筈、なのだが。
その昨日が頭の中で曖昧で、不確かで、それが本当に昨日なのかそれとも1週間前なのか、1年前なのかは分からない。

この仮説の是非を確かめるのは、いりこに確認するしか方法が無い。そう思い、自分の向かい側に座ってこちらを見ているいりこの方に目をやる。

(まばた)き一つせずにこちらを見つめるいりこと、目があった。

「――っ」
「……あれ、ご飯美味しくなかった?」
「いや、そうじゃない、んだが……」
「ならよかった!今日も腕によりをかけて作っちゃったんだから!」

振り向いた時には、既にいりこがこちらの顔を凝視して微笑みを浮かべていた。さざめの反応から少々顔に不安のようなものが過っていたが、すぐに顔色の訳が食事ではない事を知って破顔している。
さざめにはそれよりも気になることがあった。いま、「今日も」と言ったか?それはどういう意味だ。そのことを問いただそうとして、しかし上手く言い出せなかったさざめは別の質問に変えた。

「その、おまえは朝飯食べないのか……?」
「もう食べたの。だからさざめくんも遠慮なく食べて?」
「なんでだ?お前……いつもは俺と一緒に食べたがってたろう」
「うん!でもそれはお昼と夕方にも出来るでしょ?だから朝はこうしてさざめ君の顔を眺めてるって決めたの。あれ、これ言ってなかったっけ?……まぁいっか。ささ、たぁくさん食べていいんだよ?」

そう答えたいりこの表情に、さざめはまた悪寒を覚えた。
彼女は美人だ。そしてその笑顔は見ているこっちが鬱陶しくなるほどのエネルギーに溢れている。故の彼女のファンも多い。だが今の彼女が見せているそれは、いつものそれと決定的に違う。
陶酔。あるいは恍惚。それに類する顔に見えるのは、気のせいか。
リップグロスでも塗っているのか光沢のある桜色に染まった唇は小さく開き、頬はほんのりと朱に染まっている。眼はまるで蕩けるように目尻が下がり、だがどこか熱を帯びた眼光がこちらの行動の一挙手一投足すら逃すまいと見据えている。時折もぞもぞと足を動かしたり、湿った吐息を小さく漏らしている。
そこには扇情的なまでの色気と、触れれば手を傷付けそうな危うさを纏った女がいた。いつも馬鹿みたいに明るいあの田楽入子と、決定的に価値観や世界観の異なった何かが。

――いったい俺の食事風景の何がそこまで彼女を”こう”している?
分からない。その理由は全く以て理解できない。どうして、なぜ、その言葉ばかりが所在もなく心中を駆け巡る。その疑問の答えをただの一つも確認できていないという事実が、さざめの心を不安にさせた。元々彼女はこちらとの接触に積極的であったが、こんな態度を取る人間でも、こんな表情を見せる女でもなかった筈だ。

かつて、さざめの心は彼女の出現によって大きく揺るがされた。事実や認識という事柄について寝る魔も削るほどに考え、思い悩んでいた時期もある。その際に彼女に何度も抱いた様々な疑惑があった。それでも、さざめはいりこという一人の少女を受け入れて来た。

それまでさざめはいりこを鬱陶しがることはあっても、拒絶したりすることはなかった。
だが、事実を確認したその時に――明確かつ明白に、自分が彼女を拒絶する予感がした。
いや、それよりも――俺はいりこを恐れているのか?

なあ、いりこ。お願いだから、臆病な俺に耳触りのいい真実を聞かせてくれないか。
お前がそこまで俺を見つめ、理解できない何かに歓喜している理由。
お前がまるで当たり前のように俺の目の前にいる事。
家族の痕跡が無くなっている事の理由。

まさか。まさかとは思うが。
あの時、おまえが玄関先で俺を幼馴染だと呼んだあの日から味わっている「世界と俺の認識のズレ」と同じような、俺の認識した過去の事象変更とでも呼べる事態が起こっているなんて、言わないよな。

その疑惑をぶつけることが出来ないまま、さざめは食事を終えた。その姿をうっとりと眺めていたいりこが、思い出したようにテーブルの隅に置いてあった紙袋を漁り、その中身と水の入ったコップを差し出す。

「あ、そうだ……はい、お薬」
「は?薬?なんのだ?」

さも当然のように突き出されたそれに、俺はまたしても理解が追い付かない。俺は薬を日常的に服用などしていない。だがそんな俺こそ不思議だとでも言うように、いりこは薬――透明な袋に入った粉薬とカプセル剤だ――のふちを破りながら首を傾げる。

「だから、後遺症を抑えるための薬でしょ?忘れちゃったの?」
「後遺……症?」
「そうだよ。さざめくんの心を安定させる薬。ずっと飲んでたでしょ?」

知らない。事故など知らないし覚えがない。怪しげな薬を飲ませようとするな。そう言おうとした俺の顔を、いりこが見つめる。

「飲んでたよね?うん、飲んでたよ」
「いや――」
「違うの?全然、覚えがない?」

何の事だ、と言いかけたところで、俺はうすぼんやりとした既視感のようなものを覚えた。そうだ、俺は、この薬を知っている――気がする。もやがかかってハッキリしないが、このやり取りも何度かしたような気がする。いりこが幼馴染ではないと思っていた主な理由は、俺が思い出せなかったから。ならば、俺が思い出せるという事は……俺の経験していないことなど記憶にある筈が無いのだから、これは真実、か。

「……いや、粉薬は苦手なんだ」
「そぉ?錠剤の方が飲みこみにくい気がするけど」

手渡された袋を見つめる。何所で貰った何の効用がある薬なのか知りたい不安に駆られるが、俺は「これは必要な薬だ」と言い聞かせるようにそれを呑み込み、水で押し流した。

――この不安は、言い様の無い不安は何だ?

薬を飲みこんだときに、いりこの顔が微笑んだように見えたのは、目の錯覚か?



 = =



隣のさざめくんが落ち着きなく歩いている。
ポーカーフェイスだけど、指の動きとか匂いでさざめくんの事は大体分かっちゃう。いまのさざめくんはどこか緊張していて、落ち着かないみたいだ。鞄を握る手にもちょっと力が籠っている。

緊張しているさざめくんもかわいい。だってこんなに強がってるのに本当は不安でいっぱいなんて、守ってあげたくなっちゃうもの。もう少しそんなさざめくんを見ていたいけど、可愛いからって意地悪はいけないよね。
さざめくんが困っているなら、それを助けるのは私の役目なんだ。私はさざめくんの幼馴染だもん。意地っ張りで本音を隠しちゃうさざめくんを助けてあげられるのか彼の友達でも家族でもない、私だけだから。

「ねえ」
「なんだ」

そっけない振りをしているさざめくんの左のてのひらに、私の右手を滑り込ませる。指と指の間に私の指をすべり込ませて、戸惑う様に硬直するその掌を優しく包んだ。恋人繋ぎというやつだ。ちょっと大胆かな、とも思うけれど、これが一番好きだ。一瞬硬直したさざめくんの指はその場を逃れようと少しもがくが、逃げられない事を悟ると一転して強く握り返してきた。

指の血管が圧迫されて紫色になる位に強い締め付けだ。なんだかさざめくんが私を必死に求めているみたいでちょっと微笑ましくなって笑った。そしたら、照れ臭くなったのか指の力は弱まった。もう少しだけ握っていて欲しかったな、と思ってさざめくんの顔を見る。こっちを横目ですら見ずに正面を向いて、硬い表情をしていた。さざめくんは優しいから、迷惑になると思って遠慮しちゃったんだろう。

「――今日は、変だ」
「何が変なの?」
「……とにかく、変だ」
「さざめくんもちょっと変だよ?でも、そんなさざめくんもあんまり見れないよね」
「………」

黙ってしまった。怒らせてしまったろうかと急激に不安になるが、手を握ればそうでないことが直ぐに分かった。さざめくんは、いつだって体に嘘をつけない。こうして肌と肌を合わせれば直ぐに分かっちゃうから。

こうしているとさざめくんの汗の感触、肌の感触、体温、指紋を感じ、共有している気がする。普通の握手では満足できない、最低でもこれくらいは密着しないとさざめくんを感じられない。本当なら抱きしめて、心音をたしかめて、血管の脈動を感じて、吐息まで全部感じるほどに絡み合いたいけれど……それは今は駄目。

そう、今は駄目。皆に見せつけてさざめくんの隣にいるべきなのが誰かを知らせて、自慢したくもある。きっと堪らなく恥ずかしくて、でも堪らなくうれしい気分になれる。もうさざめくんが他の人達と話をしなくなるくらい濃密にすれば、変な虫も二度と寄って来なくなる。

でも、それをやると私に変な虫が寄ってくるかもしれない。私の身体を自由にしていいのも、心を縛り付けて良いのも、さざめくんだけなのに。駄目だよそんなの。2人きりの世界が本当はいいの。あれもこれも魅力的だけど、一番はいつだって変わらない。

――さざめくんは奥手で照れ屋だから、私がリードしてあげるの。朝も昼も、夜だってずっと。ずうっとずうっと、一緒だよ。好きだって言ってもさざめくんは意地悪だから、きっと素直に答えてくれないよね。でも私は分かってるよ。

いつだって、わかってるもん。

何も言わなくても嘘をついても、私にはわかってるの。



 = =



学校に着くまで、さざめは結局本心をいりこに何も言うことが出来なかった。
あの薬が何の薬で、俺は何の事故に遭った所為でそれを服用しているのか。家族のことだって俺の家にいた理由だって聞きたい。聞きたいが、俺には頭のどこかでそれに覚えがあるような気がする。ならば聞かなくともいい。

いい、筈なのだが――何故俺はそんな曖昧な感覚に恐怖を覚えているのだろう。

家を出てからも異常は続いている。父と母の靴がない。車も無い。そして、隣のいりこの家は空き家になっている。そこにいりことその両親が住んでいた筈の家は、まるで何年も放置されたように汚れている。時間の感覚さえおかしくなってしまいそうだった。自分が15歳ではなくなっているんじゃないかとさえ考えた。

――だが、段々とそれが間違いかどうかが頭の中で曖昧になる。父と母のいない我が家。その痕跡さえ消された我が家。豹変したいりこ。それは前とは違う異常なのだろうか。それとも俺が思い出せないでいるだけで、本当はこれが正しいのだろうか。どこかで何かが途切れているかのような感覚。
その中でも、俺はこの女に対して疑いと不信感を拭いきれないでいる。

――果たしてこいつは本当にいりこなのか?

俺がいりこをいりこという個体として知覚している理由は、五感によって感じ取られる彼女の特徴を総合して経験則から導き出しているのだ。彼女の外見が記憶と同じで声が同じならば、例え中身が違っても俺は最初それをいりこだと知覚するだろう。
ならばもしも今のいりこが双子の姉か妹と入れ替わっていたとしたら、どうだろう。いまのいりこは俺の知るいりこと違い過ぎる。

さっき、馴れ馴れしくも絡んでくるその手を鬱陶しく思って、思い切り手を握りしめた。俺の知る彼女ならば「痛い」と抗議したはずだ。だが彼女は心底嬉しそうに、満たされているとでも言うように笑っていた。その笑顔が、目が、俺の記憶にあるいりこのそれと違うようで、でも本当に違うのかがはっきりとしない。

その笑顔は余りにも異端で、理解が追い付かない。理解することが恐ろしく感じるほどに屈託のない、それが不自然であることを微塵も感じさせない笑み。彼女の元の人格からは考えられないものだった。
或いは、考え難いがクローン人間。双子もそうだが、遺伝子レベルで差異がなくて、長い付き合いもないのでは、すり替わってもそれを知る術など俺にはないだろう。それとも、このいりここそが彼女の本性だとでもいうのか。或いは、彼女の精神は何らかの原因で変調をきたしているのか。――いや、そんなことがそもそも起こりうるのかという疑問も湧いてくる。

よもや、おかしいのは俺なのか。その事故とやらに遭った俺は精神もしくは記憶に変調をきたし、ありもしない世界を心の中に作り出しているとでも言うのか。俺には家族など最初からいなくて、俺を蠱惑的(こわくてき)な目で見つめるいりこは、前からずっとこうだったというのか。ともすれば、本当にいりこがそんな目でこちらを見ているのかすら怪しいとさえ考えてしまう。
俺があやふやになっているのは記憶だけではないというのか。昔、事故で頭を強く打ったせいで通常の人間と違う世界の認識を抱くという物語を見たことがある。それと薬と、関係があるのか?


不意に、視界に悪友の達田(たつだ)が歩いているのを見つけた。
同級生で、俺以上に不真面目で、いつも下らない事ばかり言ってけらけら笑っているくせに悪知恵は働く。そんな合永触れた悪餓鬼で、だからこそ友達だ。その男が、日常と同じように歩いている。俺の知っている記憶の中での日常と相違なく。

朝起きてから、いりこ以外で初めて俺に近しいと言える人間を発見したことに、不思議と安心感を覚える。冷えていた末端の血管に血液が送り込まれた気がした。
ああ、記憶にある。ハッキリとどんな奴だったか思い出せる。自分の記憶に疑いはないのだ、と抱くのもおかしい疑惑が晴れるのを感じた。普段は碌に挨拶もせずに隣に並ぶのだが、今日は声をかける。

「達田、おはようさん」

俺の言葉に反応して、前をちんたら歩いていた達田が振り返り、いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。普段は鬱陶しいとだけ思うそれが、とても好ましい事に感じる。

「んー?おう、さざめじゃん!おはよう!」

変わっていない。いつも通りだ。これほどにも変わらないということが嬉しく感じるのは初めての感覚だった。下らない事ばかり言う男だが、そんな男も自分の世界認識に一役買っている重要人物なのだと安どのため息が漏れた。
だが、それも幻想だったのかもしれない。次に続く言葉が、俺の安堵を打ち砕く。

「今日も奥さん連れて登校か?羨ましいね~!」
「……お…前、何を――」
「おっと、俺に構ってると奥さんが不機嫌になっちまうぜ?じゃ、お邪魔虫は退散と行きますか!」
「あ、待っ――」
「ちゃんと体を労わるんだぜ~!!」

咄嗟につき出そうとした左手がいりこの手と繋がっていることを自覚した時には、達田は足早に俺の目の前を去ってしまった。続くはずだった言葉が喉元で止まり、霧散する。
いつもならばあいつは場所も時間も弁えずに人をからかってくるはずなのに。いつもならばあいつはうんざりするくらいに無駄話を聞かせて困らせる奴なのに。何故だ、達田。お前も俺の知っている達田とは違うとでもいうのか。確信を持った筈の俺の記憶が、再び霧中に沈む。

――俺の記憶は正しくないのか?お前の今が正しくないのか?

達田唐丸の姿形を持ったお前は――それとも、俺の記憶の中にいる達田唐丸は――正しくあるのは、どちらだ?お前は――誰だ?いりこと繋がれていた手が引かれた。見ると、彼女の屈託のない笑みが俺の網膜に映し出される。くすり、と小さな笑い声が不可思議なまでに耳にこびり付く。ただの笑い声が、ひどく頭の裏に響く。

「気を使わせちゃったね。でもそのぶん二人きりでいれるって思うのは贅沢かなぁ?」
「・・・・・・お前は元々図々しいだろ」

さっきから、一言一言ことばを発するのがもどかしくて、脳裏に走る緊張と警鐘がいちいち躊躇いを生じさせる。いつも言っている筈の軽口が、今だけはいつもと違う結果を齎す予感に縛られる。その一言と、俺意外の人間の知覚している世界が決定的にずれていることを思い知らされるかのような道への恐怖が心を竦ませているのか。

そんな中で、繋がれたいりこの細く柔らかい掌だけが、いやに暖かく感じられた。
  
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