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乱世の確率事象改変

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夜明けと夕暮れ、秋色に

 
前書き
若干の百合描写あり、です
史実の官渡とはいろいろと内容が違いますので、脳内補完を。 

 
 木目の盤上には白と黒が彩りを与え、鳴り響く乾いた音は部屋の静寂に張りを加える。
 圧倒的多さであったのは黒。パチリ、と慎ましやかに置かれた一つは、長いロングヘアーの黒髪をワンサイドアップに括った少女の一手。
 むむむ……と眉を顰め、わざわざ声に出す赤い髪をした女は……投了の為か、じゃらじゃらと手に持っていた白を盤上に降らせた。

「あー、負けちゃった。やっぱりあたしなんかじゃ夕の相手にはならないかー」

 悔しさが欠片も感じ取れない飄々とした声音。負けるのは当然だ、と言わんばかりであった。
 仕事も終わり、寝る前に気まぐれに打った碁での一局。ぽりぽりと頭を掻いて天井を見上げる明と、盤上を見つめ続ける夕。二人は対照的に過ぎた。

「どったの?」
「……次の戦は官渡。周辺で重要な拠点は三つ。延津と烏巣、白馬。侵攻する側だけど、どう防衛するかが私達の問題となる。二つ取られたら敗色が濃い……けど、二つ取られても官渡を落とせたら私達の勝ちは大きくなる」

 急に話されたのは次の戦の事。まるで未来を見て来たかのような話しぶりには、明はもう慣れていた。
 夕の頭脳は袁家でも飛び抜けている。且授の教育の成果もあるが、地頭というのは人として生まれた時点で逃れられぬモノ。
 桂花を簡単に抑えられるように見える彼女。しかしながら、実は地頭の差はほとんど無い……と二人を隣で見ていた明は知っている。
 あるのは一つ。“悪意”の差である。
 策に嵌める。それは誰かが得をして誰かが損をするという事だ。自分達が得をする為に人を使い、陥れ、落とし、堕とす。悪意が大きければ大きい程にその知略の幅は広がり、味方だけに非ず、敵の策をも読み取る思考と為せる。
 自分がされて嫌な事を相手にするな、と誰もが言う。それを翻し、策と為せるモノ達もまた、軍師なのだ。

「でもさ、兵糧の問題はどうするの? 変わらずに長期戦略を取るって言ってたけど、また十万を超える兵数を動かすわけだから、確実に足りないよ?」

 寝る前の一局は夕が思考を研ぎ澄ませる為のスイッチとしての役割を果たし、それも終わった。
 盤をそのまま、明はすたすたと歩み寄り、夕を抱き上げた。為されるがままの彼女を寝台に連れて行く。

「黒山賊の頭領を曹操に滅ぼさせたのが生きてくる。頭領を失ったあいつらの備蓄がもうすぐ奪える。糧食は言わずもがな、溜め込んだ金品の接収で他国からの食糧買い取りも予定通りに。
 曹操は黄祖の件があって龍が動くから私達が攻めるまで動けない。その間に曹操の領内の糧食を多少の無理をしてでも買い取る。民に回る食糧が減れば、自然と兵に回す分を動かすしかない。だから、相手の兵数は当初の予定よりは減る。烏丸を追い払って幽州の掌握も落ち着いた。そこから捻出すれば私達の食糧も十分足りる」

 ぞっとした。
 徐州で勝っていたら、この策がそのまま曹操軍に降りかかっていたのだ。相手の兵数をより少なくして確実に勝ちを取りに行く、それが夕のやり口。敵を減らす事が出来るのは、何も戦場だけでは無い。
 恐ろしいと震えるも、気にしていない振りをして、明は夕の上着を脱がせた。バンザイをした夕はされるがまま、小さい身体ながらも自己主張のある胸が揺れる。下着だけになって寝台にコロリと寝ころんだ。

「……秋兄が手に入らなかったのだけが不満」

 むすっと口を尖らせて零した彼女に背を向けられた。たゆん、と揺れた胸が僅かに明の心の欲を掻きたてる。ふるふると首を振って追い遣った明は灯りを消して、服を着たまま寝台に上がりその背を抱きしめた。

「んー……無理だったモノは無理で仕方ないよ。郭図の言ってた事は多分、嘘じゃないし」
「……秋兄が……ホントに一人で八千の兵を殺したの?」
「逃げた兵とか、その時其処にいた生き残りとかに話聞いたけど、化け物がいたってさ」
「おかしい。だって明と同じくらいのはず。呂布相手に死にかけるあの人が、そんな武力を持ってるわけがない」
「居たのは居たで仕方ない。ただね、秋兄が……一つでも多くの命を先の世に残したいあの人が、その力を常に使わないわけがない。だからきっとね……ナニカを捧げて燃やして、大切なモノを守ろうとしたんだよ」

 明の言葉に、夕の肩は小刻みに震えだした。ため息を一つ。優しく、彼女の髪を撫でた。

「全部、負けちゃったねー……」
「……っ」

 一寸跳ねる彼女の身体を抑え付け、明は耳元で冷たい声を流していく。

「復習しなきゃ。負けた事。ちゃーんと反省しないと。こうやって落ち着いてる時にこそ。次の戦の為にも、さ」

 敗北の原因を探れば、研鑽を積み上げて次の勝機の礎となる。
 まだ、彼女達は完全には負けてはいない。苦しくなったとは言っても、捕らわれても、殺されてもいないのだ。

「……祭りは、完全に抑えた、と驕ってた。あれは鳳統の策。民への不干渉と内部残留文官に管理を一任させて、私は軍の事を動かした。でも……その隙に劉備は逃げた。同盟での軍議の間も与えない日数の短縮を行い、私達が情報収集と戦の準備で忙しくしている間に“曹操軍の神速に攻めさせる”……そこまでが、多分鳳統の策」

 同盟では足並みを揃える為に日数を掛けなければならない。それが当然、と考えていた夕の失態。減った糧食計算、兵数の確認、どのようにして敵を攻略するか……そのように全てを煮詰めて決断するはずの軍議の時間を秋斗と雛里は短縮したのだ。覇王という、希代の天才の能力を信頼して。
 しかしながら雛里は、秋斗が対価として差し出され、直ぐに神速と共に徐晃隊の連携を指揮できるとして。秋斗は自分だけが曹操軍に移籍して、という違いはあったが。
 ただ、二人にとって最も恐ろしかったのは、その後であった。

「明が郭図と猪々子の状況把握と張遼への対応に向かった隙を見て、残りの兵のほとんどが部隊長と城壁外に練兵にいった間に……祭りの警備兵に化けていた徐晃隊の数百人が街では無く私が居た城を占拠した。笛の音が鳴った。文官は一斉に城で自室に引き籠ったから、計画されてたんだと思う。街の人々も笛の音に反応して警戒を強めるように日常から刷り込まれてるから、区画警備隊との連携上、被害はまず出ない。対応する間も無くて、逃げ出すしかなかった。街にどれだけ潜んでいるかも分からなかったから、護衛の兵だけで逃げるしか、無かった」
「逃がしてくれたのは秋兄が内緒で命じてたから、だろうね。鳳統と煮詰めてたなら多分……」
「うん。私を捕まえるか殺せたはず。なのに逃がしたのは、私に宣言する為。袁家を変える気があるなら直ぐにでも変えろ、出来ないなら敵として叩き潰す……多分、それだけ」

 鳳凰と黒麒麟によって二重に織り込まれた策。それが彼女達を徐州での敗北に追い詰めた。
 逃げた後も道中で追撃の伏兵として徐晃隊が現れ、神速との挟撃によって兵糧を置いて逃げ出すほど。
 夕は震えた。自分が後手に回った事で、全てが崩壊してしまったその時を思い出して。
 何より秋斗が、外部にいるのに自分を手駒のように扱っている事に……喜びを覚えて。

「……ズルい。秋兄はズルい。敵なのに、殺そうとしたのに、従えようとしたのに、揺さぶったのに、策に嵌めようとしたのに、どうしてあの人は私を信じてるの? 効率を優先するくせに、これだと非効率でしかない。私を殺せば袁家の指揮系統は揺れるはず。人の命も多く救えたはず。戦も楽になったはず。なのに……どうして私を殺さなかったの?」

 疑問ばかりが宙に溶ける。責めているような声音には甘い色が浮かんでいた。軍師ならば有り得ない選択をする彼の思考が、只々、夕の興味を惹きたて、心を一色に染めて行く。

「さあね。わかんないよ。あの人の考えることなんかさ。矛盾だらけだもん」
「ズルい……ズルいズルいズルいズルいズルいズルいっ。鳳統ばかりズルいっ。私が隣に居たら、あの人は劉備を食い散らかせた。曹操と大陸を二分するほどの王に押し上げれたのに」

 わがままを言う子供のよう。そんな嫉妬の漏らし方と、変わらずに自分が上だと示したから、幼さを垣間見て明は苦笑が漏れ出た。

「ふふっ、嫉妬は醜いよー?」
「だって……あの人が化け物に身を落としてまで守ろうとしたんだよ? ズルい。ズルい、もん……」

 消え入る声の後、グイと身体を己に向けさせた明は、じっと彼女の顔を見つめた。
 口を尖らせて、目尻には悔しさの涙。ここまで感情を表に出した夕の事を、明は初めてみた。

「鳳統が許せないくらい、そんなに好きになっちゃったんだ?」
「……うん。秋兄が欲しい」

 眉根を寄せてコクリと頷く夕。
 明に嫉妬心は無く、ただ純粋な愛おしさが溢れて耐えられず、明は彼女に口づけた。

「ん……」

 数瞬の間重なり合った二人は、顔を離して目を合わせる。

「じゃあさ、次は負けずに奪い取っちゃおう」
「……ん」
「まあ、敵は元から曹操だし、全部ひっくるめて頂いちゃおう」
「……ふふ、当然。だから明、その為に、私と一緒に戦って」
「いいよ。あたしは夕の為だけに戦うもん。だからさ――――」
「ん、手に入れよう。私の為に、あなたの為に」

 目を細めてにやりと笑う夕の瞳に、昏い影が揺れる。
 妖艶に笑い返した明は、両頬と額の三点に口づけを落とした。
 するすると、細い手が明の背中に回される。明の手は夕の背筋をつつっとなぞる。

「……ぁぅ」

 仄かに熱い吐息と声が漏れ、モノ欲しそうに見つめる夕に、また口付けを落とす。
 二人は、自分達に足りないモノを確かめ合うかのように求め合い、夜を深めて行く。





 †





 夢を見ていた。
 遥か昔の出来事から今に至るまでを断片的に思い出す……自分の存在を確かめるような夢。
 文官である親と一緒に街で暮らしていた。
 親とは違った才能があるかを確かめる為に、と一つの道場に入門したのが転機だった。そのまま城に連れて行かれて、軍に入った。
 何故、と聞いたら、武の才があるから武官になるべきという親。それからは上司に言われるがままに鍛錬に励んだ。
 大人にも相手が居なさすぎて目を付けられたのはいつだったか。ああ、そうだ。七つになる時だ。
 今までとは違う技術と、違う戦闘方法を教えられた。あの時のあたしはバカだったから、疑問も持たずにそれを身に着けて行った。
 そうこうしている内に、一人の人を内密に殺せ、と命じられた。一緒に呼び出された親の目の前で。
 命を奪うという行いに、倫理的なモノか、それとも理性的なモノか分からないけど怯えた……が、拒否できるはず無かった。親の後ろでは刃を煌かせるモノが居たのだから。
 殺した。呆気なかった。こんなに簡単に人は死ぬのかと、驚愕さえした。
 血の匂いと湯気の上がるハラワタ。虚ろな目をして動かなくなったそれは、ただの肉袋なのだと感じた。
 日に日に増えるヒトゴロシの要請。武官のはずなのに、どうしてあたしは戦場で戦わないんだろうと疑問に思っていた。
 でも、殺した。ずっと、ずっと、ずっと……殺し続けた。赤い髪が仕事の度に真紅に染まっても、血の匂いが大好きになっても、恐怖に引き攣る顔を見るのが快感になっても。
 いつからだろう。楽しかった。ホントに楽しかったんだ。あたしはその行いが大好きになってた。もっと、もっと……と、空腹を満たすように。
 親には大きなお金が沢山入って、生活は全然苦しくなくて、親が文官として昇進までしたから屋敷まで買って、最高の毎日だった。

 ただ……ふとした時にあたしを見る親の目が、エモノと同じに変わっていった。日常で交わす言葉も、少なくなった。
 家にいるはずなのにたった一人で生きているような感覚。
 だからだろうか。上層部のジジイ共と相対してるババア達に慰み者としてたまに呼ばれても、すんなり受け入れられたのは。

 十三になった頃、隣町の隠れ屋で会合をしている者達を皆殺しにしろ、と……親から仕事を依頼された。

 自分の中で何かが変わった気がした。目的も理由も理解出来た。頭の中に風の音が吹いて、ナニカを崩した。
 当然、給金は無かった。血の匂いもハラワタも絶叫も、何も変わらない。ヒトゴロシと他者の苦悩や絶望に対する快感だけが、何も変わらないただ一つ確かなモノだった。
 そのくらいの時機から、上層部のババア達の慰み者になる回数が増えた。袁家の女達は見た目がいい女子に目が無い。不幸な事に、あたしは見た目が良かったらしい。
 派閥争いは激化するばかり。女ばかりの派閥で初めっからお抱えになれたのは幸せだったのだろうか。

 十四の頃、表では下級武官として、裏では昏い部分を任されていた自分に、一つの仕事が来た。
 親を殺せ、と。
 ああ来たか、と思った。
 あの人達は目立ち過ぎた、欲を出し過ぎたのがバレたのだ。袁家の邪魔になったら、もうお払い箱でしかない。ゴミを捨てるように切り捨てられる。否、後も残らないから、ゴミ以下だ。
 親殺しは禁忌の行いで、それを行えば獣以下に堕ちると理解していた。人として僅かに残っていたナニカが、あたしを動かした。
 逃げよう、と言った。あたしが守るから、と言った。逃げようとしたんだ。
 そうして走って、走って、走って……背中を刺された。疑心暗鬼に苛まれた両親は、逃げる道中であたしを……




 †




「ぅ……ん」

 目が覚めた。こんな闇も開け遣らぬ丑三つ過ぎに。寝苦しいというほどは暑く無い。いつものように異質な気配や敵意を感じたわけでもない。寒さは、感じるはずも無い。
 この両の腕で抱きしめている人がいるのだから。
 きっと夢のせい。自分が見ていた夢のせいで、目が覚めてしまった。ほら、口元が吊り上ってる。
 眠る前の情事の気だるさが脳髄に甘い痺れを齎す。身体を動かす事すら億劫だったが、抱きしめたい心が優先された。
 肌と肌が合わさる。温もりはいつでも変わらずに、心と身体を暖めてくれる。すべすべとした白磁の肌は磨き抜かれていて、明けへと落ち行く月光に淡く照らされて美しい。
 その柔肌に、首筋に……一つ、一つと口付けを落として行った。ぶるり、と彼女が震えた。だが起きる事は無い。安心と安息に支配され、自分達二人を闇が覆う夜だけは泥のように眠り、脳髄に休息を与えている。
 丹念に、丹念に、片方の鎖骨をなぞるように舌を這わせた。ぬらぬらと光る唾液は、扇情的な艶を白き肌に齎していた。
 空腹だった。腹が減った。食い散らかしたかった。目の前の少女では無い、誰かを。命を丸ごと、悲鳴を前菜に、絶望に堕ちる瞳を彩りに……嗜虐の快楽を貪り尽くしたい。
 もう片方の鎖骨には唇を付けるだけに留めた。自身の劣情と嗜虐の衝動をどうにか抑え切れるように。されども、欲する手は止められそうにない。耳元、首筋、背中、腰……ゆるりと滑って行く己が掌は、彼女の肌に吸いつけられてしまいそう。

「ぁ……」

 甘い吐息と共に、小さな嬌声が上がる。途端に自分の理性が本能を制止した。飼いならすのは、大変だというのに。
 やはり、これ以上は進めない。寝ている間に食べてしまうのは約定違反。抑え切れそうにない情欲の渦は、解放を許されなかった。
 代わりに優しくぎゅうと抱きしめて耐えていると、遠くから近付いてくる人の気配と共に、カタカタ、と二回音が鳴った。

――合図っ……ご飯の合図だ!

 雨季の子供が晴れの日にはしゃぐのと変わらないような歓喜が心に押し寄せた。なんたる時機。自身が狂ってしまいそうな今この時を見計らったかのような……。
 頬に二つ、額に一つ。彼女の三点に口付けを落として笑みを浮かべる。

「ふふっ♪ 行ってくるねお姫様。お腹へっちゃったんだー♪」

 起きるはずが無いのは分かっているから、耳元で囁いた。
 寝台から身体を起こし、手早く着替えるのもいつも通り。目を閉じて、辺りに何も危険は無いかと探る。天井に、隣室に、床下に、幾つかの見知ったモノの気配。自分の下僕ばかりが護衛の任に付いている事が確認出来る。
 音も立てずに扉を出て、扉の前の護衛兵二人に目を向けた。

「腹が減った」

 口から出た音は乾きと空虚を乗せて。それだけで伝わるように躾けてあるから、頷いた彼らにもう用は無い。そろそろ慣れてもいいだろうに、服従を示しながらも畏れ慄く視線は、何故に無くならないのか。
 抜き足で廊下を走ること幾分。一つの床板を翻し、暗い地下への階段を抜けた先、重苦しい扉を開けて……“あたしの食事場”に着いた。

「―――――っ!」

 目の前の餌は縛られて猿轡をされているから、動けない、話せない、死ねない。怒りを伝えようとしているようだが、くぐもった無様な音を奏でるだけ。
 自然と口元が引き裂かれていた。身体が熱い。息が弾む。歓喜と情欲が沸き立って頭の中が沸騰しそう。快楽を……ただ快楽を。

「ようこそ袁家へ♪ 何処の人かなー?」

 問いかけに答えられるはずも無く、睨みつけて来ただけ。残念だった。そんな芯の通ってない瞳ではあたしの腹は満腹にはならない。曹操軍の斥候なら、鼻で笑ってくれただろう。褐色猫狂いの手下なら、捕まる時に自ら死んでいただろう。何よりも……

――“あの人の身体”ならば、もっと胸の底から切なくなるような満足感をくれたのに。

 ほんの二月ほど前の事、大切なあの子が慕うあの人――――黒麒麟徐晃の部下を戦場で幾人か捕えて、拷問で死なせた。
 涙を零しても、悲鳴を上げても、死ぬその時まで折れない心。どれほど残虐な拷問を行おうとも、彼らは決して口を割らなかった。
 聞きたかった内容は一つ。黒麒麟の“全てを話せ”。
 恐怖と苦痛と絶望にも屈さずに、彼らから返ってきた言葉は、死の間際の笑みと共にただ一つだけ。

『乱世に華を、世に平穏を』

 嗚呼、やっぱり……と、理解が深まるだけである。あの人は異常者だ。この地獄のような世界を変える、たった一人の異常者だ。 
 泣きそうだった。嬉しくて、嬉しくて。

――ただの兵如きを、あたしの空腹を満たせる位置まで狂わせるなんて、この世界であの人以外には誰もいない。

 家族が居て友も居るような一介の兵士を、肥溜めを蠢くクソ虫のような汚いモノ達とは違う綺麗な人々を、あの人は綺麗なままで狂わせる。
 初めから闇夜を生きる影のモノならば、あたしの拷問に耐えるモノの方が多い。しかし……ただの一般人ではそんな事態にはならないはずだ。
 あたしと同じように堕ちているはずなのに、彼らはあたしと違って綺麗過ぎる。
 あの人の全てを知りたい。夕も……あたしも……。
 夕は……もうあの人から逃げられない。今日の情事の最中に、淡い色を瞳に浮かべて彼の名を一度だけ呼んだのがその証拠。
 あたしは……どうなんだろう。
 あの人に支配されて、綺麗になりたいのかもしれない。汚れは落ちないって分かってるのに。所詮クソ袋の戯言だ。

――違うか……多分、夕とあたしを重ねて、幸せな“自分”を共有したいだけ。あたしはやっぱり、夕が居ないとダメらしい。

「話す気が無いって? じゃああたしとイイコトしよっかー♪」

 思考を回しながら、目の前の男に幾本かの針を見せつけると、男は自分の指先を見た。
 爪に? 甘い。そんな場所はありきたり過ぎる。
 とりあえず耳を片方、掻き回そう。じっくりと、じっくりと。その後は背骨の髄を弄ろうか。ゆっくりと、ゆっくりと。
 舌なめずりをすると、平然を装いながらも焦りと恐怖を混ぜ込まれた瞳が向けられた。ゾクゾクと背筋を快感が駆け巡る。

「朝まで時間無いからさー、ちっとばかし急ぐけど……ある程度は耐えてね♪」

 さあ、この男はどれだけ耐えるだろうか。
 情報を得る為なのは当たり前だけど、せめて小腹くらいは満たして欲しい。





 †





 夢を見ていた。
 自分の半身とも言える少女と過ごしてきた日々を。

 母が連れてきた彼女――――明は狂っていた。
 普通に話をして、普通に生活をする。泣きはしないけど、笑うし、怒る。でも、やっぱり狂っていた。
 小さな頃から袁家の汚い部分を任せられ、戦闘技術を教え込まれ、血に狂うまでヒトゴロシに身を置いて来た彼女。
 汚い部分を見れば見る程に、そういうモノだと現実を認識し始め、倫理観も曖昧になった彼女は快楽の虜になっていた、らしい。

 母はそんな彼女を私と引き合わせた。好きに使え、と。今思えば、袁家に残ると言って聞かなかった私の護衛を事前に命じてあったんだろう。
 普通に頭がいい彼女は、私の手伝いとして事務仕事をある程度こなせた。もちろん、上層部の命に逆らえるはずも無く、暗殺等の汚い仕事も任せた。
 ただ、おかえり、と言うと……いつも彼女は一寸面喰った後にはにかんで、ただいま、と返してくれた。
 親に殺されかけた彼女は、平穏な日常にいつまでも慣れなかった。
 親を殺した彼女は、平穏がどんなモノかを見失ってしまっていた。

 そんな日々が続いていく内に、彼女は私に依存していった。母では無く、私に。
 きっと私の願いを聞いたから、だと思う。

 袁家を壊して母を救いたい。

 命令を聞くだけの彼女に零したのは……誰か共犯者が欲しかったからだ。
 昔の私はバカだった。もし、彼女が上層部の監視役だったら大変な事になっていただろう。
 しかしその選択が、私に大切な人を作るきっかけになったのだ。きっと彼女は、私に自分の望む姿を重ねたのだろう。私が母を救えたら、自分も救われる、と無意識で感じていたのかもしれない。
 桂花とも知り合った。始めは利用するつもりだったけど……いつの間にか二人の妹みたいな感覚で秘密の付き合いをするようになっていた。
 狂っていた彼女は、その時も狂った部分は治ってなかったけど、何処か人間らしさも取り戻し始めていたように見えた。
 明を助けたい、と思っていたのは、多分初めに出会った頃からあったのかもしれない。
 充足感に満たされ、私の計画通りに進んでいき、何もなかった私にとって一番楽しい時間だった。

 あの時お母さんが倒れるまでは……全て上手く行くと思っていたのに……





 †





 大切な友との思い出を夢に見た少女は、起きてすぐに涙を流している事に気付いた。
 起き抜けでまだ昨夜の気だるささえ抜けておらず、夕はコシコシと瞼を擦りつつ寝返りを打つ。
 窓から差す光は直線でなくとも眩しい。目を開けるのはまだ。瞼越しに光を受けて、手を握ったり開いたりと、全身に早く血を巡らせようと小さな抵抗を試みる。
 ふと、隣に居たはずの友の体温が感じられない事に気付いた。

「明……?」
「いるよー」

 間延びした声は背後から。くるりと身体を向けて彼女を見ると、既に衣服を着ており、椅子に座って何やら書簡に綴っていた。
 僅かに漂うのは洗い流しても取れぬ血の香り。死の匂い。
 聡く気付いた夕は、寝台に寝そべったままで言葉を向ける。

「入った情報は何?」

 筆が止まる。空気が冷たく凍った。夕の脳髄がヒヤリと冷えて行く。

「……上層部にも内緒で飼ってるあたしの下僕が張った網に掛かったのが……“新しい袁家のねずみだった”。本初にあたし達の認識外の目が付き始めてる」

 驚愕に目を見開き、バッと身体を起こした。
 告げられた内容は間違いなく……自分達が追い詰められたという事だから。疑心暗鬼が、遂に頂点にまで達したのだ。

「で、でも、私も本初も次の戦には必須なはず。上層部は……もしかして曹操に降伏する事も……」
「かもしれない。下手したら本初を切り捨てるかも」

 思考が巡る。寝起きの脳髄が、既に一番最高の状態にまで持って行かれていた。ある程度のレベルで受け答えをしてくれる明の存在が、夕には何より有り難かった。
 上層部の者達は恐れているのだ。田豊と張コウ、それに袁紹達三人が叛意を見せる事を。敗北した場合に矛先を向けられる事を。
 まだ使えるまで使おうとしているから直接言ってこない。バッサリと決断しないあたりが意地汚さを存分に表現している。そしてこの諜報に隠された意味は、情報が得られれば御の字、捕まって零した場合は夕達に警告を与えられる、という事だ。
 飼い殺しのギリギリのライン。人質が居るから夕と明は逃げ出せず、加えて麗羽をも助けるなら抜け出せるわけがない。
 否……違った。夕は気付く。麗羽すら、人質に取られたようなモノだった。
 ギリ、と歯を鳴らした夕は、このような手を使う者を知っている。保身に長けているあの男らしい手であった。

「これは郭図の案。勝てれば最善、負けても袁の血は結構分家があるから、存続は望める」
「……どれだけ曹操を舐めてるんだか」

 話の内容が跳んだにも関わらず、長い時間共にいるから思考を読み取り合わせた明の、憎らしげに舌打ちをついてからの一言。しかし、夕はふるふると首を横に振った。

「違う。曹操の厳しさを知っているからこそ、負けた場合に“上層部を縮小させる為”の一手」
「なっ! さすがにおかしいよ!」
「あいつは自分の地位が大事。でも、他人を蹴落とすのも好きでたまらない。予想でしかないし、私の方がこの前の戦の件もあって信用が低くなってるから上に何も言えないことが問題。
 郭図は前の件で上層部を見限ったからこう来た。本初が曹操に負けて殺された後に、分家の跡継ぎを立てて一時降伏を呼びかけ、上層部に従っている振りをしながら後見人として自分のある程度の地位も守る……そんな鬱陶しいやり方。袁家も守れるし、私も追い遣れるし、地位も安泰。そうなればあいつは尻尾を出しはしない。曹操の掲げる信賞必罰は、証拠がなければ効果がない。あのクズは詰めが甘くても、下拵えは念入りにする方だからバレないと思う」

 あんぐりと口を開く明に、夕は漸く寝台から起き上がり、するすると服を着て行く。
 全ての衣服を身に纏い、ワンサイドアップにリボンを括った所で、ビシリ、と明に指を立てて示した。

「お母さんが此処にいる限り私は逃げられない。だからきっと、負けた場合、私は背中からの刃で死ぬ。私が捕えられてもお母さんが死ぬ。勝った場合も早急になんとかしないと私もお母さんも死の淵に陥る。背水の陣とか四面楚歌とか、そんな美しく呼んでいい状況では無い。これは、一つ一つの全てに勝てなければ私の世界が終わる……そういう泥沼だらけの状況」

 決意の籠った黒い瞳が冷たく輝いていた。凛と響く声は芯が通り、自信に溢れていた。明はその姿に見惚れる。
 ああ、やはりこの子は美しい、と。諦めて依存しているだけの自分とは違って抗う事が出来るのだ、と。

「戦の状態で何もかもがあらゆる方面に動く。その時その時で最善の選択肢を取らないと台無しになる。絡まった意図から先手は打てない。でも、後の先というモノもある。最善から最悪まで全て読み解くから、明はその都度、私の言う通りに動いて。本初を必ず……大陸の勝者にして、全てを手に入れて、世界を変えてみせる」

 言葉を聞いて幾分、いつもの不敵な笑みでは無く、明は優しい笑みを浮かべて夕を抱きしめた。

「うん♪ 任せてよ、あたしの大切なお姫様♪ あなたの為に、あたしの為に」
「ん、いつもありがと、明」

 静かに、温もりに包まれたままで目を瞑る夕は……回した思考の中で立った一つの絶望の予測から、内心で想いを乱す。

――明……いつもあなたを救いたいと願うのは、どうしてなんだろう。“あの事”があったとしても、お母さんの為に人を使い捨てにする私が、此処まで心を入れ込んでしまったのはなんでなんだろう。私と同じように秋兄なら、あなたを変えて、救えるのかな?

 同時に、壊れている彼の事が思い浮かんで、別の想いも湧いてきた。

――秋兄が居たら、私達に救いはあったのかな。秋兄の頭脳で私は追い詰められたけど、そんな事考える私は、変なのかな。どうしてこんなにも、あの人の事、求めてしまうんだろう。どうして……あの人さえいれば、救われたのにって……世界をこんなにも憎んで……しまうんだろう。

 心の内だけで彼女は……弱音を零した。自身の微細な変化の意味が、何かも分からずに。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

ふしだら百合描写と拷問描写カット。
やはり恋姫はエロゲです。しかし、サイト的な事情でふしだら描写等は最大でもここまでかなと。
練習できたらそのうち、です。

鳳凰と黒麒麟の策は実はこんな感じでした。
積み上げてきた警備隊の笛への認識、徐晃隊の統率あってこその一手。夕ちゃんが逃げる中、町では子供達が嬉々として竹で出来た警笛を鳴らしていたそうな。

郭図くんの保身大作戦。先読みしても逃げられないよ!
敵味方に関わらず恋姫達は皆ハードモードな外史です。
袁家って正史でも内部対立が面白いので好きですが、そんな感じを少しでも恋姫風味に描けていたら幸いです。

明と夕の生い立ちはこんな感じです。
明ちゃんはふしだらな子ですが女限定。袁家は原作でも百合っ子ばっかりですし。麗羽さんしかり、斗詩と猪々子しかり。


次は生きている徐晃隊の徐州での様子とか、です。

ではまた 
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