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第一章


第一章

                      壁
 壁がなければ。二人はどれだけそのことを思ったか。
 西ベルリンと東ベルリン、ドイツの首都だったベルリンは二つに分断されていた。それはそのまま祖国の姿でもあった。それが当時のドイツであった。
 そのベルリンを分断しているのが壁であった。ベルリンの壁。それがそのまま二人を分けていたのであった。
 二人が出会ったきっかけは仕事であった。エヴァゼリン=ブラウリッターが仕事で西ベルリンに入った。彼女は東ベルリンで事務員をしていた。時々仕事で西に出入りしていたのだ。それでその時もそうであった。
 だから最初は何も思うところはなかった。西ベルリンは華やかなのは確かだが落ち着かないと思っていた。時々その華やかさが羨ましくなるがそれでも今いる東ベルリンののどかさが好きだった。それはイデオロギーではなく彼女の嗜好であった。しかし嗜好というものは変わるものでこの時の彼女がそうであった。
「ねえ君」
 西ベルリンを歩いていると声が聴こえてきた。若い男の声だった。
「ねえ君って」
「!?」
 その声におかしなものを感じた。それで辺りを見回すと癖のある蜂蜜色の髪に灰色の目をした背の高い若者がいた。洒落たジャンパーにジーンズを着こなしている。その明るい顔立ちと格好から彼が西側の人間だとわかる。
「何処に行くの?」
「帰るだけですけれど」
 仕事が終わったのでこう答えるだけであった。エヴァゼリンにとってみればただ仕事でこの街に来ただけである。それも終わったので後は帰るだけであったのだ。
「それが何か」
「時間あるかな」
「時間!?」
「そうだよ。暇?」
 彼はエヴァゼリンに時間を尋ねてきている。彼女は最初そう思った。
「時間でしたら今は」
 古い腕時計を見る。黒い古びたものでもう何年も使っている。東ドイツではそれが普通だった。見ればエヴァゼリンの格好も黒く長いロングヘアに黒い目。奇麗だが釣り上がった東洋人を思わせる切れ長の目である。鼻が高く卵に似た形の顔をしている。肌は程よく白い。長身でスラリとした身体もありはっきりとした美人である。だがその服装も化粧も街中ではかなり地味だった。野暮ったいスカートが少し長い黒っぽい事務服を着ていて化粧も薄い。今目の前にいる彼の方がずっと華やかな格好をしている程であった。
「時間なら僕がわかってるよ」
「それでしたら何故」
「だからさ。時間があるっていうのはね」
 彼は笑ってエヴァゼリンに言うのだった。
「どう、デートでも」
「デート!?」
「それが嫌だったら一緒に喫茶店でも」
「お茶を飲むのですか」
「駄目かな」
「いえ」
 それを断らなかったのは運命か。断ってもよかったのだが丁度喉が渇いていた。それで普通に受けたのであった。仕事の中で休んでお茶でも飲む感覚だった。彼女は実は紅茶派である。ドイツでは珍しいと言われている。
「コーヒーじゃないんだね」
 彼もそれを言ってきた。東側にはないモダンと言うべきかアメリカナイズドと言うべきかエヴァゼリンから見れば無意味なまでに派手な店の中で彼は言うのだ。白いテーブルに向かい合って座っている。彼が飲んでいるのはドイツ人らしくコーヒーであった。
「好きじゃないの」
 それが彼女の返事であった。
「コーヒーはね」
「またそれはどうして?」
「こっちじゃコーヒーは普通に飲めるわよね」
「まあね」
 彼は何を言っているのかと言わんばかりの素っ気無い調子で答えてきた。
「僕が今飲んでいるみたいにね。ああ、そうか」
「わかってくれたみたいね」
「簡単には手に入らないんだったね」
「そうよ、コーヒー豆がね」
 少し憮然として彼に答えた。
「あの大豆の。まずいのよ」
「らしいね。僕は飲んだことないけれど」
 彼は代用コーヒーの話を聞いてエヴァゼリンにまた答えた。
「話には聞いているよ」
「それで紅茶なの。美味しいコーヒーなんてあるのかしら」
「代用コーヒーばかりなんだね、そっちは」
「多いわよ」
 少し憮然として答える。
「というかそればかりね。美味しくなくて、本当に」
「じゃあ本当のコーヒーは知らないんだ」
 彼はそこまで聞いたうえで述べてきた。
「あのコーヒー豆のコーヒーは」
「今は特にないわね」
 それは本当のことだった。どういうわけか最近店に行っても品不足が目立つ。それに対してこちら側は見事なものだ。ないものはないと言っていい。
「そう。じゃあ僕がその本物のコーヒーを御馳走してあげるよ」
「ここで?」
「だから君を誘ったんだよ」
 これは嘘だった。エヴァゼリンもそれはわかる。
「本当かしら」
「疑うの?」
「イタリア人ってね。東側にもよく来るのよ」
 ここで彼女は欧州きっての女たらしを出してきた。イタリア人と言えば女たらしであるというのはどうやら東側でも同じようである。だがそれで嫌悪感を受けないのがイタリアの愛嬌であろうか。
「それでいつも女の子を誘うから」
「彼等とは違うよ」
 彼は笑ってそれを否定する。
「僕は生粋のドイツ人だよ。そんなことはしないさ」
「じゃあどうして私を誘ったのかしら」
 何時の間にか口調が砕けていることには気付いていない。
「美人だからだよ」
 彼は笑って言う。
「じゃあイタリア人と同じじゃない」
「だから違うんだって。美人に美味しいコーヒーを御馳走したいんだ」
 話を言い繕ってきた。
「そう考えて声をかけたんだよ」
「そう捉えていいのね」
「是非ね」
 屈託のない笑顔で述べる。東ベルリンではあまり見ない笑顔であった。
「頼むよ、だからここは」
「ええ。それじゃあ飲ませてもらうわ」
 エヴァゼリンもそれを受けた。本音を言うとあまり飲みたくはないのだがそれでもその場の雰囲気でそうした流れになってしまったのであった。
 
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