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箱舟

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第一章


第一章

                     箱舟 
 ノアがその言葉を受けたのは。彼の徳からだった。
「ノアよ」
 厳かな声だった。その声の主が誰か、ノアはすぐにわかった。
「私は決めたのだ」
「決めたといいますと」
「最早世界は救われぬ」
 あまりにも断定的な言葉だった。誰も逆らえない程の。
「世には悪徳が満ち誰も神を。私を信仰せぬ」
「誰もが」
「しかし御前とその家族だけは違う」
 またしてもあまりにも断定的な言葉だった。そこには何の無謬性もない。そこまで徹底して無謬した言葉だった。まさに神の言葉だった。
「御前達だけは生きよ」
「私達だけは」
「そうだ。人で生きてよいのは御前達だけ」
 神そのものの。過ちすら認めないような言葉だった。
「全ての動物はつがいだけ残す。全ての動物もまた」
「それ以外の動物は」
「滅びる」
 一言だった。判断が揺らぐことがないのがすぐにわかる言葉だった。
「つがいだけ残ればいいのだ」
「他の動物もですか」
「人は滅びねばならぬ」
 最早動物のことは頭にはない返答だった。
「人が滅びるからこそ。動物もまた滅ぶ」
「動物達も」
「奴等には心がない」
 神はそう決め付けた。自分だけで。
「心がないのなら当然だ。滅びてもよい」
「そうなるのですか」
「そうだ。今の人もまた同じ」
 同じと言い切る。
「心が汚れている。我を崇めぬ」
「貴方を」
「悪徳がはびこり我を崇めぬ。ならば滅びてもよいのだ」
「私達以外は」
「してノアよ」
 神はまたノアに対して声をかけてきたのだった。
「御前は御前の家族とつがいの動物達を入れる舟を作れ」
「舟をですか」
「我は世界に洪水を起こす」
 やはりこの言葉もまた。何の過ちもないと確信する言葉だった。その根拠は何か。やはり彼が神である、そのことに尽きる言葉であった。
「それにより滅ぼすからだ。よいな」
「全ての人も動物も」
「左様、全てのものを」
 滅ぼすというのだった。
「滅ぼす。よいな」
 ここまで言うと神の声は消えた。後に残ったのはノアだけだった。彼は呆然とその場に立ち尽くし天を仰ぎ見るだけだった。それしかなかった。
「全ての人も動物も滅びる」
 彼はそのことを呟く。
「どうすればいいんだ。神が滅ぼすとは」
 呆然としたまま呟き続ける。しかしそれでも。彼は一旦家に戻り妻にこのことを話した。妻はそれを聞いてまずは暗澹たる顔になったのだった。
「私達以外というと」
「そうだ。周りの人達もだ」
 ノアは沈痛な顔で答えた。
「この街の人達も皆。犬も猫も」
「そんな。それじゃあ」
「あの優しいシモンさんもヤコブさんもだ」
 彼等はシモンの親友だ。彼が幼い頃からよくしてもらっている年上の親友なのだ。ノアは彼等が悪人とはとても思っていないのだ。
「わし等を守って下さる王様や兵隊さんもな」
「私達以外の全ての人が」
「滅ぼされる。神によってな」
 神、絶対の言葉が出た。
「それはいいのか。あの人達は神を敬っていないか?」
「いいえ」
 妻はすぐにその言葉に対して首を横に振った。彼女の目からは全くそうは見えなかった。これはあくまで彼女の主観であってもだ。
「皆それぞれ神を敬っているわ。これは本当よ」
「そうだよな。それはな」
 ノアは妻の今の言葉にこくりと頷いた。彼から見てもそうとしか見えない。妻の言葉でそれが間違っていないことを確認することになった。
「確かなことだな。それに」
「それに?」
「わし等だけ助かっていいのか」
 彼が次に問題としたのはこのことだった。
「わし等が神を正しく敬っているというだけでわし等だけ助かっていいのだろうか」
「それは」
「わしは。よくないと思う」
 ノアは言った。
「わし等だけ助かっては。ならない」
「皆助かるべきね」
「そうだ。セムもハムもヤペテも」
 ノアの息子達だ。三人共結婚しそれぞれ妻をもうけている。三組の夫婦もまたノアの家族である。つまりノアの家は八人家族なのである。
「他の皆も助かるべきだ。洪水の前に」
「けれど神は」
「そうだ」
 沈痛な声で述べた。
「それもある。しかしわしは」
「私も」
 ノアと妻の言葉が完全に重なり合った。その心も。
「皆を見捨てて私達だけで助かることはできないわ」
「そうだ。それに」
 ノアはさらに言葉を続けた。
「動物達もつがいだけだ」
「動物達も」
「その他の動物達も滅ぼすと申されている」
「そんな、人が神を敬っているかどうかさえわからないというのに」
 これは妻から見た目である。しかし神から見ればそうではない。神の目は絶対なのだ。絶対であるからこそが神なのだからだ。
「動物達まで。人とは何の関係もないというのに」
「動物に心はないというのだ」
 ノアは神の言った言葉をそのまま妻に告げた。俯きつつ。
「だからつがいだけ残して滅ぼしてもいいと仰るのだ」
「つがいだけを舟に乗せるのね」
「洪水により滅ぼし」
 ノアはこのことも言う。
「わし等だけが残るのだ。正しい心を持つわし等だけが」
「それは違うわ」
 妻はノアの言葉にまた首を横に振った。
「決して。違うわ」
「そうだな。違う」
 ノアの声が変わった。表情はそのままだが強い声になって妻の言葉に頷くのだった。
「わし等だけ助かっていいものじゃない」
「ええ、その通りよ」
「神は仰った。箱舟を作れと」
「箱舟ね」
「そうだ。それに乗り洪水を避けよと」
「じゃあその箱舟を作り変えましょう」
 妻は言った。
「私達だけでなく皆が入られる程の大きな箱舟を作りましょう」
「作るのだな」
「ええ、作りましょう」
 またそれを言うのだった。ノアに対して。
「そうじゃないと意味がないわ。皆が助からないと」
「そうだな。それしかない」
 決意した声だった。もう迷いはない。
「それが正しい筈だ」
「そうよね。ただ」
「ただ?」
「正しいのは神だけ」
 これはへブライの者達の考えだった。ヘブライの者達にとって神は絶対である。だからこそここで正しいかどうかという問題になるのであった。
 
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