渦巻く滄海 紅き空 【上】
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三十四 病棟密会
ガラガラガラと掠れた音を立てて開けられる店のシャッター。文句なしの快晴に、いのはう~んと伸びをした。
「良い天気ね~」
くっきりとした純白の雲が流れる、澄み切った青空。遙かな雲海の頂きには光環を抱く太陽が光り輝いている。その眩しさに一瞬目眩を覚えた彼女は慌てて目線を下げた。
途端、「あ」と声を呑み込む。店前の通りに佇む彼に、今しがた呟いた独り言が聞かれたのでは、といのは気まずげに視線を泳がせた。見知った顔というのも戸惑った原因である。
だがすぐに商売人としての最初の言葉が自然と口を衝いて出た。
「いらっしゃいませ!!」
空の青以上に深い青の双眸。瞳を細めて微笑むナルトを、いのは真っ直ぐに見つめた。
「何に致しますか~?」
失礼のないように、それでも探るような視線で、いのは店内を見渡すナルトを見た。
中忍試験での彼の実力は、同期の者など足下にも及ばないほど高い。それがわかっているからこそ迂闊な事を言えないものの、幼い頃から店を手伝わされていた彼女は口が非常に上手かった。営業スマイルを浮かべ、さりげなく話し掛ける。
「うずまきナルト…さんですよね?私のこと、憶えてますか?同じ中忍試験を受けてた…」
「ああ。山中いのさんだよね。同い年だから普通に話してくれないかな」
意外とすんなり自身をナルトだと認めた彼は、気さくな物言いでそう頼んだ。本当ならいくら客にそう言われても営業用の口調を止めないのだが、目の前の少年の言葉にはなぜか頷いてしまう。
どこか面影が幼馴染と似ているからだろうか。
ふとナルの姿が頭を過り、いのは呟いた。
「ナルの見舞いの花、用意しないと…」
何気ない独り言を耳にして、ナルトの目に初めて微かな動揺が走った。だが彼は、そうとは覚られぬ表情で「君もお見舞いに行くの?」といのに訊ねる。
「ええ。なんでも昨日、木ノ葉病院の前で倒れていたそうで…。でもあの子のことだから、たぶん修行のし過ぎだと思うけど…」
自然な問いに疑問すら浮かばず、いのは素直に答える。
昨晩遅く耳に入ったその情報に、彼女は一瞬顔色を失った。もっともすぐに大した事ではないと知って事無きを得たが、もし大層なものなら病院へ素っ飛んで行っただろう。面倒臭がりの幼馴染と共に。
まったく昔から加減と言うものを知らないのよね~、と思わず愚痴ってから、ようやく彼女はナルトに向き合った。
「もしかして貴方もお見舞い用の花を?」
「……………」
「ナルト、さん?」
「…あ、ごめん…。そうだね。見舞い、みたいなものかな?」
暫し物思いに沈んでいたナルトがはたと顔を上げる。苦笑を交えた彼の笑顔に、いのの心臓がドキリと跳ね上がった。しかしながらその笑みが物悲しく感じ、彼女は心持ち声を張り上げる。
「じゃ、じゃあ、この花とかどうかしら~」
口籠りながらもしっかり商売魂を燃やす。いのが勧める花を視界に捉えながら、ナルトは申し訳なさげに頭を振った。
「すまない。どの花を買うかは、もう決めてあるんだ」
何の迷いもなく二輪の花を手にとる。見舞いには不向きなそれらに、いのの眉が秘かに顰められた。しかしながら否定する想いを抑え、彼女はナルトの顔をまじまじと見る。
どこか謎めいた印象を受けるこの少年は、この花の花言葉を知らないのだろうか。
しかしながら既に代金を受け取ったため(まあいいか…)と自分を納得させ、いのはその花を一輪ずつ包んだ。綺麗に包み終えたそれを手渡すと、その花の香りにナルトの頬が微かに緩む。
それがあまりにも。あまりにも透明で儚い微笑だったので、いのは一瞬言葉を失った。
「ありがとう。それから俺のことはナルトでいいよ」
穏やかな笑顔でお礼を述べられる。気づいた時には、ぽつんと一人でいのは立ち竦んでいた。店内にも前の通りにも彼の姿はどこにもない。
(夢、じゃないわよね~)
店中で花々が咲き誇る中。咽返るほど強い芳香が漂っているにも拘らず、先ほどナルトが持ち帰った花の甘い香りが仄かに残っていた。
「まさか頭が口寄せされるとはのォ…」
木ノ葉病院の屋上。壁に背を預け、腕組みをしていた自来也は、傍らの手摺をちらりと見遣った。彼の視線の先には、手摺上にちょこんと乗っている一匹の蛙。
自来也に頭と呼ばれたその蛙―フカサクは、どこか楽しげに目を細めた。
「いきなり妙な所に呼び出すもんやからてっきりまた自来也ちゃんかと思うたが…。まさか九尾の人柱力やとはのう」
自来也の師であり、二大仙蝦蟇の一人であるフカサク。あの崖からの墜落など物ともしない実力者なのだが、流石に突然の落下には反応出来なかった。また俄かには信じ難いが、自身を口寄せしたらしい少女の必死さに、咄嗟の判断が遅れたというのもある。
だが彼女が己を庇おうとしていたのはよく理解していた。
「しかし四代目の娘が今や自来也ちゃんの弟子か…。これも運命かのう」
しみじみと感慨深げに呟くフカサクの言葉に、こつこつと腕を叩いていた自来也の人差指が動きを止めた。腕組みをしたままフカサクを横目で見る。
「よもや頭はあの子が、よげ…」
「そこまでは言っとらん。だが、面白い子じゃ」
自来也の言いたい事を即座に推し量り、言葉を遮る。そしてフカサクは唐突に重大な一言を告げた。
「というわけで、自来也ちゃん。ナルちゃんの修行は暫くワシが見る」
「………はぁあ?」
師の突拍子も無い一言に、自来也の目が点になる。愕然とした表情を浮かべる弟子を尻目に、フカサクは言葉を続けた。
「あの子には恩がある。崖から落ちるワシを助けようとした恩がの。蛙たるとも一度受けた借りは必ず返すのが礼儀じゃ」
「…しっかし、ガマブン太の奴も一応契約を結んだじゃないですか」
フカサクに脅されるような形で、渋々ナルが口寄せをした事実を認めたガマブン太。しかし自来也は解っていた。
自身でさえ手に負えないガマブン太の事だ。おとなしく引き下がったのは頭の前だけで、実際ナルに従うつもりは更々無いだろう。性格からしておとなしく従う輩ではないため、そこは仕方ない。問題はやけにナルの事を気に入ったらしい己の師のほうだ。
ガマブン太を口寄せした直後、ナルは気絶した。チャクラの使い過ぎである。フカサクの命令で木ノ葉病院にナルを連れて行ったガマブン太は、その後すぐ妙木山へ帰った。しかしながらフカサクは未だ消えずにいるのだ。
「…あの子に仙術でも教える気ですか?いくらなんでも早過ぎる…っ」
「中忍本試験とやらがあるのは残り二週間くらいしかないけん。時間が足りんからそれは無しじゃ」
時間があったら教えたのか…と内心ツッコミを入れつつ、自来也は虚を突かれた思いで師を見返した。もしやと問い掛ける。
「…ナルを孫のように考えとるんではないですかのォ」
「煩いわい!せいぜい娘じゃ!!」
ワシらには子どもがおらんのじゃぞ!と半ば逆切れのように言い返され、自来也はがっくりと肩を落とした。
どうやら必死になって自身を庇おうとしたナルの行動に、師は甚く心を打たれたらしい。気を失ったナルに向ける眼差しがどう見ても子どもを通り越してまるで孫娘を見守る祖父のような穏やかなものだったからだ。
(ミナトよ。ナルは頭と姐さんの…、蛙夫婦の養子になってしまうかもしれんぞ)
そう心中で告げて自来也は思わず天を仰いだ。折しもナルの瞳とそっくりな、突き抜けるほどの真っ青な空だった。
白一色で占められた空間。装飾の少ない、どこか殺風景な病室で、男は重い瞼を押し上げた。
首をめぐらす。薄く開かれた窓に掛かる白いカーテン。陽射しを遮るそれは、寄せては返す波のようにふわりと大きく揺れている。カーテンの波がゆっくりと引いてゆくにつれ、太陽の光と似通った金が顔を覗かせた。
「そろそろ目覚める頃だと思っていたよ」
先ほどまで誰もいなかったはずの窓辺。薄い白を透かす陰影は、外界の木々だけではなく確かに人影を映している。静かに笑みを象るその影につられるように、男は笑った。
目が覚める前から感じていた予感はやはりあたったようだ。
「お久しぶり、ですね」
五日振りに発した声は予想以上に掠れている。ごほっと咳を吐き出した男を、呆れを孕んだ声音で「この間、会ったばかりだと思うが?」とナルトは答えた。
血色の悪い顔色に、幾重にも刻まれた隈。青白い面立ちで傍らの机から水差しを手にした男は、視界の端に入った黄色に瞳を瞬かせた。
何時の間に活けられたのだろうか。水差し横で凛と咲き誇る一輪の百合。一輪挿しにされた百合を一瞬まじまじと見た男は、ふっと皮肉げに苦笑する。
「君に隠し事は出来ませんね」
男の言葉を聞き取れなかったのか、ナルトは窓枠に腰掛けたまま、懐から取り出したモノを無造作に投げる。
波打つ白のシーツ上にころころと転がった紺色の巻物が、その中身を曝け出した。
「まさか前回の中忍試験で使われた『地の書』を使うとは思わなかったよ」
催眠の術式が施されていたはずの巻物。今や白紙であるソレをベッド上に広げ、ナルトは嘆息を漏らした。
「俺が木ノ葉の里に帰って来た…いや、砂と音が密会していた夜。自分で自分にその巻物の術を掛けたんだろう?」
確認の言葉を投げつけられ、男は沈黙を持ってそれに答えた。
巻物の術式によって五日間眠り続けたのがなによりの証拠だ。余談だが今回の中忍試験で使われた巻物が足りないのは、七班を襲い、『天の書』を燃やした大蛇丸が原因である。
「あの夜の事は他言するな。もっとも、したくても出来ないだろうが」
「勿論。こちらとしても都合が悪いですしね」
有無を言わさぬ強い口調に圧され、男はこくこくと頷きを返した。反応を確かめるかの如く、青い瞳がじっと男の顔を覗き込む。ややあっておもむろにナルトは口を開いた。
「それで…彼本人はどうした?」
やや声を落として、問われる。嘘を吐く事など許さぬ、氷の如き冷やかな視線が男の身を貫いた。
重苦しい沈黙が病室に満たされる。病院傍の演習場から聞こえてくる子どもの笑い声が、同じ子どもであるはずのナルトの存在を一層不気味にさせていた。
「彼は既に、」
「本当だな」
子どもらしからぬ抑揚の無い声が病棟の白い壁に吸い込まれてゆく。男は唾を呑み込もうとしたが、咽喉は渇きに渇いていたため痛みを訴えただけだった。
再び訪れた静寂の中、ボッと軽い音が響き渡る。五日間眠っていた故に気怠かった男の全身が弾かれるように跳び上がった。
男の眼前に広がっていた巻物が突然発火している。青より濃い紺にも拘らず炎の青に巻かれ、燃え尽くされる『地の書』。青い炎は空で燃え上がり、巻物だけを消失させた。シーツは以前同様白いままで、焦げ跡一つ見当たらない。
次いで男の前に、数枚の書類が投げて寄越された。直前の出来事に呆然としている彼に構わず、ナルトが淡々と話す。
「それらの中身を全部頭に叩き込め。全て憶えたら燃やせ」
「………これはッ!?」
書類に目を通した男の顔が引き締められる。改めてナルトを振り仰いだ彼は「想定済みだったという事ですか…?」と讃嘆の眼差しで訊ねた。
「まさか。『地の書』を見て初めて確信したよ」
だがその情報は必要だろう?と暗に告げられ、男は有難そうに書類を手元に掻き集める。
窓際に佇みその所作を眺めていたナルトが「恋人がいたよな?それも暗部……」と何気なく訊ねた。今一度手元を覗き込んだ男が頷いたのを確認して、矢継ぎ早に問いかける。
「表か?裏か?」
「表ですよ」
男の返答にナルトは聊か思案をめぐらせた。考えを纏めている彼の前で、男がゴホッと咳を漏らす。
「どうした?」
「ちょっと風邪気味でしてね…ゴホッ」
「それだけじゃないだろう?」
口元に不敵な笑みを浮かべる。同様に男もまた口角を吊り上げた。
尽く白に囲まれた病棟の一室で、同じような面構えをした二人は互いに笑い合う。決して病院には似つかわしくない、ふてぶてしいほどの表情を彼らは浮かべていた。
やがて開け放たれた窓から入って来た風がカーテンを大きく揺るがせる。白い波が引く頃には、ナルトの姿はとうに無かった。
訪問者がいた事など微塵も感じさせない窓辺を男は静かに見遣る。ナルトがいた痕跡を探すように暫し視線を泳がせた彼は、ついと目についた一輪の百合に笑みを浮かべた。
「敵わないな…」
瞳を閉じる。花の黄色と、それ以上に輝く金の髪が瞼の裏にいつまでも焼け付いていた。
月光ハヤテの病室で一際鮮やかに咲き誇る百合の花言葉は――――――『あなたは私を騙せない』。
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