消えていくもの
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第五章
第五章
「生意気なことは言うな。もっと謙虚になれ」
「父ちゃんに似たんだよ」
その父の言葉にあえて憎まれ口で返す彼だった。
「父ちゃんにな」
「それでも言うか、全く」
「けれど少しは大人しくするよ。それでいいんだよな」
「少しでいいからな。それだけでな」
末息子にはこれで終わらせた。そして長娘に顔を向けて。
「健三君と仲良くな」
「ええ、ずっとね」
「花子は僕が」
「健三君」
娘の夫に優しい声もかけてきた。
「こんな娘だが宜しく頼むよ」
「はい」
彼のその言葉にしっかりとした声で頷く健三だった。それはまさに父と子のやり取りだった。
次は里子だった。彼女にも優しい声をかけるのだった。父として。
「奈良か」
「ええ、奈良よ」
「あそこの鹿と悪い男には気をつけろよ」
彼女にはこう告げるのだった。
「いいな」
「鹿と悪い男にはなの」
「どっちも同じだ」
その二つを同じだというのである。
「あそこの鹿はタチが悪いからな」
「覚えておくわ」
「それだけだ。御前達はそれぞれの場所でやっていけ」
顔を天井に戻して告げたのだった。
「それではな」
「ええ、じゃあ」
「親父もな」
それから数日後父は世を去った。癌であったが穏やかな顔で死んだ。その葬式が終わると子供達は。
「じゃあな、兄貴もな」
「お袋もな」
「義姉さんもね」
「お元気で」
「文子も」
去る五人が残る四人に告げる。四人はその言葉を受けていた。
「あんた達も元気でね」
「また帰って来てくれよ」
「待ってますから」
「じゃあ」
四人はこう返す。そのうえで見送るのだった。
「それにしても。新しい時代になって」
五人の子供達を見送りながら母は言うのだった。
「テレビなんてものもできたし電灯も明るくなって便利なふうにはなってきたけれど」
「何だい、お袋」
「いえね。皆離れ離れになるもんなんだね」
一郎に応えてこのことを言うのだった。
「何時までも一緒にいられない世の中になったんだね。それが寂しいよ」
「まあそうかもな」
一郎は母のその言葉に顔を少し俯けさせた。
「そういうものかも知れないな」
「寂しい世の中になるのかもね」
「それでも。また会えるよ」
「そうだよ、お袋」
次郎と三郎がその母に対して言う。
「だからそんなに気にするなよ」
「また帰って来るから」
「だからね、お母さん」
「また来ます」
花子と健三も彼女に告げてきた。
「またね」
「待っていて下さい」
「だから。今はこれでになるわね」
里子はまだ家に残るが間も無く出て行く。そのことをわかっているから今は自分は去る方に入れていた。そのうえで話をしていた。
「また会えるから。絶対にね」
立派な家の黒く大きな門も何故か寂しく見えた。残る者達にも去る者達にも。父が死んだこの家では確実に何かが消えていた。誰もがそれを感じながら別れの挨拶の後で手を振り合うのだった。
消えていくもの 完
2009・10・31
ページ上へ戻る