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蛭子

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第四章


第四章

「言っても詮無きことだ」
「はい」 
 キヨはそれを聞くとまた俯いた。そして蝋燭の影の中にその顔を沈めた。
「それよりもな。こちらの方を大事にするようにな」
「わかりました」
「そういうことじゃ。では後から飯を持って来るからな。それまでは大人しくしておれ」
「はい」
 そして主は彼を連れて部屋を後にした。その時に蝋燭をキヨの側に置いていった。そして蔵を後にしたのだ。
「のう」
 主は蔵から出ると彼に声をかけてきた。
「驚いたか」
「それは・・・・・・」
 まだ自分の見たものが信じられなかった。今見たものが本当のことなのかすらわからない。この世にあらざるものを見てしまったように思えてならなかった。あの娘の姿が目から離れない。だがそれが本当のことだとはとても思えなかった。何か悪い夢を見ているのではないかとさえ思っていた。
 だから答えようにも言葉がなかった。何と言っていいのかすらわからなかった。言葉も見つからずどうしていいかわからないでいるとまた主が言った。
「あの娘はな、産まれた時からああだったのじゃ」
「産まれた時から」
「そうじゃ。蛭子じゃった」
「蛭子」
「聞いたことはないか。手足の無い者のことじゃが」
「ちょっとそれは」
「知らぬのも無理はないか。こうしたことは表には出ぬからのう」
「はあ」
「あの娘はいないことになってはおる。役所には死産ということで届けておる」
「そうでございましたか」
「じゃが実際にはあそこにおる。これがどういうことかわかるな」
「はあ」
 ここでようやくあの老人の奇妙な態度の理由がわかった。彼はあの娘のことを気付いていたのだ。そして彼にそれを密かに知らせようとしたのだ。それにようやく合点がいった。
「このことはな。村でも噂にはなっておる」
「左様ですか」
 やはり主の方も気付いていた。だがそれは口には出さなかった。彼だけでなく主も村の者も。世の中には決して話されはしないこともあるということだ。
「だがな、あの娘はいないのじゃ。わかったな」
「はい」
 彼はあらためて頷いた。
「じゃから御主にはあの蔵の世話を頼みたい。よいな」
「わかりました」
 呆然としたままであるが頷いた。とりあえずはまだまともであった。彼は自分が狂ったのを確かめながら主に頷いたのであった。狂わないのが不思議であったし、逃げ出したくもあったが金に誘われてそれは何とか踏み止まっていた。ここで帰ってもまた名古屋でしがない工員として生きていかなければならない。それよりも山の様な金を貰って金持ちになりたかった。人間やはり金だと思っていたから何とか狂わずに済んだ。彼はこの時程自分のがめつさに感謝したことはなかった。本来ならけなされても仕様のないことだというのにこれで何とか踏み止まっているのが滑稽ではあったが。
「毎日朝昼晩飯をやってくれ。あとは身体を拭いて服を替えてやる」
「はい」
「麻には歯を磨き夜には布団をしいてくれるようにな。そして時折髪も洗ってくれ」
「わかりました」
「道具はこちらで用意してある。その心配はしないでくれ」
 全て準備は整っているというわけであった。話を聞く限り主は娘としてあの女を見ているようであった。それを知ると少し安心した。
「あれはわしの娘じゃ」
「はい」
「じゃが。不憫な娘じゃ。折角美しく育っておるのに手も足もない」
 主は悲しそうに言った。
「あれは生えては来ぬ。何があってもな」
「はあ」
 彼は応えた。応えはしたが何を言うべきかわからなかった。
「生まれてからずっと蔵の中におる。生まれてからじゃ」
「ずっとですか」
「うむ」
 主は頷いた。
「今まであの姿を見て狂った者もおる」
 これには応えなかった。だがあの老人の言ったことがよくわかった。だから法外な程の金を貰い待遇もいいのだとわかった。わかってはいてもやはり信じられないものがあった。
「それでじゃ」
 主はあらためて彼に顔を向けてきた。そして問う。
「頼めるか。娘の世話を」
 その目は彼を見据えていた。彼がどう言うのかを見守っている目であった。
「どうじゃ」
「折角ですし」
 彼は答えた。
「御受けさせて頂いて宜しいでしょうか。ここまでわざわざ来ましたし」
「受けてくれるか」
 主はそれを聞いて目に微かに喜びの光を含ませた。
「はい」
 彼はまた答えた。
「私で宜しければ。何でも」
 決して慈善などではなかった。あくまで金、そして待遇がよかったから受けたのであった。名古屋に帰るだけどころかそれ以上の金はもう貰っていた。逃げようと思えば逃げられた。しかしここはもっと金が欲しかった。その為ならば手足のない少女の世話なぞ何ともないとも思ってはいた。どれだけ信じられないものを見てしまったとして。狂わなければよいと自分に言い聞かせていたのである。
「わかった」
 主はそこまで聞いて頷いた。
「では宜しく頼むぞ。娘の世話をな」
「はい」
 こうして彼は屋敷の一室を与えられあの蔵の中の娘の世話をすることとなった。そして屋敷に泊り込んで働くこととなったのであった。
 その部屋はかなりいい部屋であった。屋敷の離れにあったがそれでもかりいい部屋であった。彼はここで朝になると起こされ、そして食事を貰った。その食事も朝のものとは思えない程豪勢なものであった。
「凄い食事ですね」
 彼はそれを見てまずこう言った。白米に川魚を焼いたもの、茸の味噌汁、そして漬け物であった。白い飯はこの村ではそうそう食べられない筈であった。この時代軍隊に入るのは羨望の的であったがその理由の一つとして白い飯が好きなだけ食べられるということもあったのである。これが為に軍において脚気がはびこり、多くの死者を出してしまったという話もあるのであるが。
「いえ、うちではこれが普通ですよ」
 飯を運んで来た女中の一人がこう応えた。
「普通ですか」
「はい」
 彼女は当然のように言う。それを見ると真実であることがわかった。
「私共も同じものを食べていますから」
「そうなのですか」
「ええ。それが食べ終わったらお嬢様の御飯をお願いしますね」
「わかりました」
 それに頷いた。そして自分の飯を食べ終わった丁度その頃にその女中がまたやって来た。そして彼に膳を手渡した。
 
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