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乱世の確率事象改変

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囚われの姫は何想う

 袁術軍には才豊かな者が少ない。理由としては大きく二つある。

 一つは袁家の権力争いに敗れた者達が寄り集まってくる掃き溜め扱い故に。飛び抜けた人材では無くともそこそこ優秀な者達が集う本拠地南皮では、蠱毒のように競わせ、選りすぐった者だけを登用している為に、負けた者達は黒い感情を携えつつ自分の才を評価してもらいやすいと考え、我欲を持って自然と集まる。

 一つは袁術の家系に所縁のある者達がいるから。家柄に対して忠義を貫く人というのはこの時代には溢れていた。ただ、有力な若者は南皮に行く、もしくは引き抜かれてしまうので年寄りばかりというのが頭を悩ませる問題。

 このように欲と忠義の混ざり合う袁術軍にて、美羽が全く仕事をしない為に、全てを纏める頂点に位置しているのはただ一人。張勲――――真名を七乃という年若い女性である。
 一日中でも美羽を甘やかしている姿が日常茶飯事であるのに、仕事を持って行けばいつの間にか終わっているという異常事態には誰しもが首を傾げていた。
 仕事をいつしてるのかと誰かが聞けば、

「え~? あなたは乙女の秘密を聞いちゃうような人なんですかぁ?」

 と、なんとも間の抜けたニコニコ笑顔ではぐらかされ、一応終わらせているので深くは追及出来ず。
 もう一つ、彼女に深く聞けない事情もあった。
 彼女の部下である紀霊――――真名を利九(りく)は、仕事熱心にして真面目を絵に描いたような人物なのだが、その彼女が七乃には何も言わない。それが余計に、他の者に疑問を持たせつつも納得させる理由であった。
 加えて文官も武官も、美羽の元ではある程度自由に動けるので愚痴を零す事も無い。
 裏を返すと、袁術軍に於いて七乃の真価を知っている者はたった一人、利九だけであった。
 彼女は前述のどちらでも無く、普通に武官として志願した所を七乃が引き上げた唯一の将であり、美羽を除けば七乃に最も近しい存在。
 そんな利九は七乃に全幅の信を置いている。仕事でも、私事にしても、美羽の事にしても、全てに於いて、である。
 何故ならば、彼女は七乃と同じく……業深き女であったが故に。



「さあ、次はこの書簡を終わらせましょう」

 燦々と日輪が輝く日中、ビシリと張りのある声が城の一室によく響く。
 粟色に輝く色素の薄いほぼ茶髪の黒髪を流し、腰に手を当てて目の前の少女をじっと見据える、見た目が二十中頃を過ぎたくらいの女性。きつめの目鼻立ちから発せられる声は教育熱心な年若い母親のよう。
 彼女こそ、袁術軍の最優秀な将にして七乃と同じ業……幼女趣味を背負う紀霊である。
 目の前で泣きそうになりながら、桃色の髪を二つに括った少女は、机の上に差し出された書簡を叩きつけながら堪らず声を上げた。

「朝からずっと机に向かいっぱなしじゃない! いい加減休憩させてよ! 昨日は一刻くらい前には休憩したでしょ!」

 透き通る碧眼をうるうると潤ませる少女の名は孫尚香――――真名を小蓮、姉達が必死になって救い出そうとしている籠の中の姫君。
 彼女は人質、袁家上層部と七乃があらゆる手を使って此処に縛り付けた孫呉に対する首輪の役割。しかし人質と言っても監禁したり、牢に繋いだりしているわけでは無い。
 政治的に身柄を預けられているだけであり、城の中だけ自由に動けるので言うなれば軟禁状態。ただ……逃げようとすれば、城や街に配置された隠密や監視役によって殺されるというオマケが付いている。
 ちなみに七乃や美羽がいる状態であれば、明命や思春等の孫呉勢と、財を接収されて怨みを持った豪族からの暗殺や連れ去りへの警戒を最優先として倍以上の隠密が控えていたりする。
 小蓮の激昂に対して、大きくため息をついた利九はやれやれと首を左右に振った。

「この程度で音を上げるんですか? 昨日は一区切りついたから休憩を挟んだだけです。それにあなたも孫姓に名を連ねているのならば、後々は今日よりも机に噛り付くのは必然なのでいい経験になるかと思いますが?」

 グッと言葉に詰まった小蓮を見て、目を細めた利九はトントンと机の上の書簡を叩き、穏やかな声ながらも焚き付ける。しかし次に続けた言葉は冷たい声であった。

「特にこれはあなたの姉達が行った戦の戦後処理の一端です。血族であるあなたが知って当然のモノ。アレらがもっと真面目に戦っていればこんな膨大な量は無かったんですけどね。どうしてこんな力を出し切らない戦の仕方をしているのかは……あなたも気付いているかと思いますが、美羽様を殺す為です。主力が居ないと言えど孫呉の精兵が、黒麒麟一人の率いる軍勢にここまで無様に負けるわけないですから」

 言われて直ぐ、悲壮に顔を歪めた小蓮はふいと俯く。
 今、小蓮が目を通している書簡は劉表との戦や劉備軍との戦関連のモノ。
 これは七乃の策の一つである。
 自分の血族の戦がどんな事態を引き起こしているか、醜悪な現実をまだ心身共に成熟しきっていない小蓮に叩きつけるという異質な策であった。蓮華達は欺けると思っていたようだが、それよりも前から、欺瞞分裂をさせた時点で……虎の裏切りを看破出来ていない夕では無く、七乃にしてもそれすら理解して目を光らせていた。七乃達が気付けていないのは揚州内の内部工作のみであり、戦場での戦い方は読み筋。
 小蓮とて、頭が悪いわけでは無い。自分が人質であることがどういう状況を生んでいるのか理解出来てしまう。
 何も出来ない自分の為に、どれだけの人を犠牲にして、どれだけの財を浪費し、どれだけ民を苦しめるのか……命の責という重圧をその小さな背に乗せられたのだ。
 効果は上々。小蓮は戦をすればどうなるかを見せつけられて精神を擦り減らし、さらには姉達への不信が大きく育ちつつある。
 七乃は此処を出る前、利九に告げていた。

『夕ちゃんが言うには、今回の戦を機として孫呉の地を取り戻そうとするはずですから、血族に対する離間計を完成させちゃいましょうか♪ 上手く行けば利九ちゃん専用の姫様も手に入りますし一石二鳥ですよぉ♪』

 ゾクリと寒気が一つ。利九は普段通りの声音でニコニコと話す七乃を思い出して恐怖していた。
 本来、小蓮はこのように自由の利く人質になるはずでは無かった。
 七乃よりも上に位置する袁家上層部の決定では、欲望で心が肥え太った豪族への許嫁……と言う名の愛玩人形にされる予定であったのだ。
 七乃は幼女趣味の守備範囲が狭く、拘りも強い。よって小蓮は興味の対象にはならず、上層部の不信を躱す為に止めなかった。しかし……七乃よりも守備範囲の広い利九がそれを止めた、というか少女が大人の男に穢される事が我慢ならなかった。
 それから七乃が行ったのは、小蓮に対する情報開示と心理掌握。利九が豪族に捧げられる所を軟禁に変えたとわざわざ話し、袁家上層部の悪辣さに自分や美羽も従うしかないのだと……嘘と本当の証拠を混ぜて信じ込ませた。
 利九は小蓮に対して孫呉の者達の姿を思い知らせる事には同意だった。例え上層部の決定と七乃の策に嵌って人質に差し出すとしても、子供というのは如何なモノか、次女を出せばよかったのに、と憤っていた為に。
 孫呉側としては、雪蓮の王としての気質から、早急に蓮華を成長させる必要があったいう事情も無きにしも非ず、たが七乃含めた袁家の悪辣さを舐めていたのも一つ。

――政治の駆け引きに子供を巻き込むのなら、自分達の望みの為に若き未来を縛るのなら、それ相応の対価を支払って貰いましょうか。

 利九の心はそんな所。
 彼女は七乃のように世界に一人しかいらないわけでは無い。幼い少女達が好きでありながら穢す事など言語道断という変態淑女。全ての少女が彼女の守る対象なのだ。
 故に、七乃に恐怖を覚えて震えた。暗闇の淵から同じになれと手招きする狂った化け物に。自分も周りも全てが壊れても、たった一人が幸せならそれでいいと願う異端者に。

 小蓮は利九が震えた事に気付かず、ただ自分の姉達が行った戦を頭で整理していた。

――こんな……こんなに人を生贄にして……一言も引き止めてくれなかったのに、手紙にだって簡単な近況しか書いてないのに。

 彼女はまだ幼い。姉のしている事が自分の救出の為と分かっていても、王として、国の絆を強固なモノにする為の必要な犠牲と呑み込むには早すぎた。
 血族を大切にする事はこの時代の大陸の王には最優先事項。そうでなければ……同じ血の流れるモノを助けずして、どうして民を助けようとしてくれるのか、長い安寧を齎せるのかという不信が瞬く間に広がる事になるのだ。
 まだ教育が足りず、人質となってからは意図して七乃や利九がそういった類の教育から引き離してきた為に人質になる前に育まれていた思考が薄くなりはじめていた。まあ、美羽が麗羽と上層部を嫌っているのも理由ではあるが。

 小蓮に思い出せるのは……戦ばかりの長女、それに追い縋ろうと努力ばかりの次女、自分のような年下に頭を垂れる臣下達。
 小蓮には王族であるが故に友達すら居なかった。街の子供の中で同じように遊ぶも出来ず、甘えるべき父も母も無く、頼るべき姉達は国を取り戻す事ばかり。雪蓮と冥琳のように、断金となれる友を得られればよかったのだがそれも無し。
 ここに来て美羽と一緒に、厳しくも優しく世話を焼いてくれる利九に対して悪戯をする時間の方が、自分の短い人生を振り返ってみても小蓮にとっては心癒される時間。
 確かに王族としての誇りを持って、自分の心を偽って彼女は自ら人質になった。その時はそうあれかしと教えられていたから。絶対に助けてくれると信じ、姉達の立場も考えて。
 されどもまだ幼く、甘えたがりな一人の少女は……時間と共に想いがズレていた。

 ストックホルム症候群というモノがある。
 人質に取られた者が犯人に対して肯定的な感情を持つモノ、または犯人が人質に対して肯定的な感情を持つモノ、そして助けようとしてくれるはずのモノに否定的な感情を持つモノという三つの状態。
 小蓮は長い間、籠に閉じ込められた事と、七乃達による思考誘導によって重度の状態に陥っていた。
 決して危害を加えられず、外部の情勢を直接見る事も無く、勉強を教えて貰ったり、鍛錬に付き合わせて貰ったり、城の中だけであっても遊び友達が居たり……そんな人質にしては平穏な時間が長く続いたならば、感覚が麻痺するのは当然であった。
 雪蓮と蓮華が願っても一度たりとて会わせず、手紙すら簡易なモノしか届けず、思春や明命を強制的に使いっぱしりにして、内密の情報交換すら徹底して禁じた七乃の手腕も理由ではある。
 恐るべきは人心操作能力の方。袁術軍による対孫呉用の札は……受け継がれてきた血を脅かす猛毒に育っていた。

「ねぇ、利九」

 昏い……少女の高い声ながらも重い響きを持った声が零れた。
 ハッと気を持ち直した利九はキリと表情を引き締め、咳払いを一つ。

「なんですか?」
「分かり合う事は出来ないの?」
「……袁家の上を一新し、世を平定しなければ無理でしょうね」
「私が説得すれば協力して――――」
「無理です。やってみなければ分からない、というのはあなたが本当の意味で戦を知らないので却下。死んでいった兵、想いを馳せている兵……そこに生きている者達の為に、戦をした者は簡単には妥協出来ません。初めから素直に従ってくれさえすれば、協力した後に孫呉の地をあなた方に返す事も出来ましたけど……疑念猜疑心というのは双方拭い切れないモノです」

 厳しく突きつけられる現実。
 美羽はただ、雪蓮達が生意気だからという理由で嫌い、嫌がらせをしている。
 何故、生意気に思えるのか。
 従っているように見えないから、というのが大きいそれは……上に立つモノとして当然の反応では無かろうか。自身を守る為にしても、諍いを起こさない為にしても、反抗の芽を叩き潰すのは当たり前の手段の一つ。
 子供は素直にして残酷である。確かにわがままは言う。されども意識してか無意識か、真実を見抜く事も多々ある。大人よりも綺麗な目で人を見ている為に。
 七乃は美羽の為に何が一番いいのかを考えた上で、国として足りない武力を補う為に、さらには袁家を引っくり返す為に孫呉を利用して苛め抜いている。七乃と美羽、二人の思考は違えども、求める結果は同じであった。

「お姉さまは……大徳って言われてるのに……」
「アレは偽りの大徳です。幼い美羽様を喰らおうとする虎が、どうして大徳でしょうか。同じ偽モノだとしても黒麒麟の方がまだ大徳に思えます」

 冷たく言うと小蓮は苦々しげに顔を歪めた。

――膨大な他者の為に命を数扱いで殺し続ける狂人の方が大徳に思えるとは……私も歪んできたのか。いや……田豊さんからの指示に迷ってる時点でまだ堕ちてはいないのだろう。

 虎牢関で見た人物、今回は自分の部下を四分の一の兵数で壊滅させた敵を思い出して、利九は深いため息を吐き、己が同志からの手紙を思い出す。
 書かれていたのは小蓮の殺害指示。孫策が戦場に向かった今、使い捨てるつもりなのでもはや人質は用済みだということ。自分の大切なモノ以外何もいらない、七乃と同じ異端者二人は……子供好きな利九に残酷な命を下したのだ。
 同時に七乃の手紙も着いている。

 利九が望むなら小蓮を死んだ事にして軍を動かし、孫権を討ち取れ。その場合、美羽には情報を渡さずに孫家を滅ぼした後に引き合わす……というモノ。

 美羽が悲しむから生かしてもいいのが一つ、そして万が一の時に交渉の道具として使えるというのも一つであった。
 七乃は夕に対しても信頼を置いてはいない。目的が同じだから協力しているだけ。美羽が助かる為になるのなら、同志であろうと、自身の部下である利九であろうと、七乃にとっては駒であった。
 上司と同志から与えられた二つは……利九にとってどちらも絶望の選択肢である。
 仲良くなった少女を自分の手で殺すのか、それとも憎まれるのを承知の上で血族を殺すのかの二択。
 全てを捨てて逃げるというのは彼女の頭に無い。この城に駐屯している二万の兵を見捨てて逃げる事も、七乃が如何に美羽を愛しているか知っている為に逆らう事も……優しい彼女には出来なかった。
 迷い、悩み、渦巻く思考をそのままに目を瞑っている彼女の袖を小蓮がクイと引く。

「黒麒麟で思い出したけど、劉備軍には逃げられたんでしょ? 曹操軍が代わりに出てきたからお姉さま達も向かったっていうし……」
「そう、ですね。袁紹軍二万が黒麒麟捕獲に失敗し壊滅、劉備の領内通行を曹操が受諾、田豊さん率いる本隊は大量の糧食と物資を失い、城を放棄して我らと合流……状況は孫策軍の働き次第にかかっています」
「うっわー、改めて聞いても、ほんっとに不測の事態ばっかりじゃない」

 大仰に驚く小蓮を見て苦笑を零した。
 利九も報告の書簡が届いた時は目を疑った。
 たった二千弱の部隊にやられた袁紹軍……そんなモノは自分達の戦よりも常軌を逸していた。それに続くように、大徳とは名ばかりの土地放棄。そして……天与の才を持つ夕がある程度戦いもせずに城を放棄した事も殊更に異質。
 結果だけが記された書簡は穴が空くほど確認しても何も教えてくれず、両袁家の軍が窮地に立たされた事だけを伝えていた。

「まあ、お姉さま達は曹操なんかよりも強いから負けないと思うけど、美羽は大丈夫なの?」
「美羽様は戦えないので戦闘に巻き込まれる事はありません……が、あなたの姉が裏切れば危ういです」

 再び、彼女は小蓮に現実を告げる。
 自分は信用していない。非常時になれば雪蓮は小蓮ですら切り捨てる可能性もある。どちらにしても裏切るは目に見えている、と。
 裏切らないよ、と小蓮は言えない。どちらもの内部事情を知っている彼女からすれば、むしろ利九の予想の方が正しいと分かっているのだ。雪蓮か、蓮華か、小蓮か……誰が生き残れば孫呉の大望を果たせるのかを考えれば、小蓮が真っ先に外されるのは必至なのだから。
 しゅんと落ち込む小蓮をじっと見つめた後、利九は優しい声音を綴った。

「あなたはどうしたいですか?」

 ふいに、そんな事を問うてみようと思った。心を追い詰め過ぎると今までの思考誘導が綻ぶ可能性も考えて……と同時に、己が本心を理解して欲しくて。

「お姉さま達の所にシャオを逃がそうと思ってる?」

 小蓮は聞き返した。自分が姉を丸め込めると信じて送り出してくれるのか? そういった意味を込めて。
 またため息を一つ、利九は呆れた。

「質問に質問で返すとは……ダメな子ですね、まったく」
「いいじゃない。探り合いなんてまっぴらだもん。正直に答えて。シャオを信じて自由にしてくれる?」

 純粋な眼差しを向けられた利九は言葉に詰まる。彼女にとって、子供の真剣な目ほど怖いモノは無かった。

「あなたの事は信じていますが……向こうを信じられませんね」
「むぅーっ」

 桜色に淡く染まった褐色の頬が膨れる。小蓮は口を尖らせて本気で拗ねた。ただ、暗に対立している血族の中でも自分だけは味方だと信じてくれて、特別扱いされたのが嬉しかったから、言い返す事はしない。

――こんなに愛らしい子を自分は殺せるんでしょうか……

 利九の胸が痛んでいる事に小蓮は気付かない。絶望の淵に立っている事を小蓮は見抜けない。
 どちらも大切になってしまった孫呉の姫は……裏に張り巡らされている糸の鋭さを知らず。
 無理やり感情を抑え付けた利九は、ふるふると首を振ってから厳しい声を続けた。

「……話していたので休憩も十分でしょう。書簡の確認を続けましょう」
「えー、もうちょっとだけお話しようよー」
「夕食のおかずを減らされてもいいな――――」
「さ、さっさと終わらせちゃうね!」

 まだ、まだ待って欲しい。悲鳴を上げる心をも微笑みに仕舞い込む。
 利九は今の穏やかな時間を少しでも続けられるようにと、叶わぬ願いを口には出さず呟いて、小蓮の隣で自分の仕事に取りかかった。



 †



 その夜、小蓮は眠れず、ごろごろと寝台の上で寝返りを繰り返すばかり。
 姉のしている事が自分の為だと分かってはいた。妹を助けようと全てを使って動いてくれているのだと嬉しくもあった。
 ただ……その結末が友達の命とはなんと悍ましい事か。
 民からの評判が地に落ち始めている袁術、大徳と呼ばれて民から希望を向けられている孫策。民が望むのはどちらであるのか明白ではある。
 裏切りという汚名を被って尚、余りある名声から……最後に望まれるのは何か。
 民は正義を望む。それも圧倒的で強大にして確かなモノを。悪辣な旧支配者の頸というのは大きな効果があるのだ。例えそれが少女のモノであっても。
 権力者の責任は重い。どんな裏や理由があろうとも、民からすれば知った事では無く、望む通りにいかなければ糾弾して当然のモノ。見た目幼かろうと、歩くも困難な年寄りであろうと、取らされる責は等しく、成り変わる代替者が与える罰を誤れば明日からの信に不信を混ぜる事となるのだ。
 家族との手紙は一方通行。自分から美羽との仲の良さを伝える事が出来なかった。救出の算段を立てられては困るゆえ、情報の全てをぼかされている。それも利九から教えられた袁家のやり口。七乃とは別に、小蓮を監視する間者が幾人も紛れ込んでいるという。

「……私はどうしたらいいんだろ」

 自分が死ねば……姉のしてきた事も想いも無駄になり、友も恩人も悲しむ。
 生きていても……お互いが憎み合っていがみ合う。
 彼女にはどうしたらいいか分からなかった。
 それに多くの人の命が支払われているのだ。自身が必要ないとは思わない。否、思えない。若くとも王才持つが故に。

「普通の家だったら……こんな辛い思いしなくていいのかな」

 彼女は自身の血を呪った。最近では毎夜の如く、嘗ては誇りに思っていた孫呉の血を呪っていた。
 子供の頃は傍にいる親しい者の方が、生まれついてのしがらみよりも大切に思える事もある。精神の発育に於いて重要な時間を敵の中で過ごした彼女は、血の繋がった家族と同じように利九達を大切に思い始めていた。
 ぎゅっと握った拳は何を思ってか。震える唇は誰を想ってか。
 長い……本当に長い時間悩んできた。それでも答えは出ていない。姉を裏切る事も、友を裏切る事も出来ず、渦巻き続ける思考に解は無い。
 ふいに小さな桜色の唇から零れたため息。重厚な重みを持って宙に消えると同時に……カタリ、と小さな音がした。

「――――!?」

 声を紡ぎ出す暇も無く、彼女の口は押えられる。
 遅れて、隣にある利九の部屋から怒声が聴こえた。
 突然の来訪者に暴れようとするも、間接を抑え込まれて上手く動けない。

「小蓮様、助けに参りました」
「っ!」

 少女特有の甲高いその声音は孫の家に仕える臣下のモノであった。
 救いたかった存在の無事を確認して、充足に満たされた明命の優しい微笑みは暖かい。

 ただ、小蓮の心に湧き上がったのは……希望からくる安堵と、絶望から来る悲哀の二つであった。






 鈴の音が鳴った。リンと小さく、寝室の間に響いた。それは夢の時間の終わりを知らせる呼び鈴。
 この音は知っていた。利九の脳内に呼び起こされるのは……破廉恥な格好を気にせずに跳び回る一人のふんどし女。
 わざと鳴らしたと瞬時に分かり、飛び起きた利九の頭に一本のクナイが襲い掛かる。

「小賢しいっ!」

 癖は知っていた。投げる刃の向きは横。斜め上から来る凶器を手の甲で弾き飛ばし、鈴の音の鳴った方向とは真逆に飛びのく。
 同時に舌打ちを一つ。
 何故、今日に限って自分は気配を読めなかった。いつもなら城の空気が変わった事すら感じ取れるというのに。
 思い至るのは昼間の出来事。少女を殺すかどうかで揺れた心が、思い悩んでいた頭が、知らぬ内に自分の感覚をぶれさせていたのだ。
 暗がりでも利九の目は見える。僅かな月明かりさえあれば、目の前に降り立った、細い目をさらに細めている女の全体を見据える事は容易かった。
 敵が追撃に飛びかかって来ない事も、隣の部屋の気配が増えた事も、誰一人駆けつけて来ない理由も、あらゆる情報が利九の脳内を駆け巡る。
 尖らせた意識は身体と脳髄を強制的に、自身の最高の状態へと導いて行った。

――孫呉の隠密全てを使ってますね。こちらの隠密の絶叫すら上がらないとは……これが孫呉の本気ですか。普段なら、ふんどし女や猫狂いがある程度近くに来ただけで分かるのに……私はそれほど……心乱れていたという事ですか。

 考える間に二つ、小さな気配が隣の部屋から消えた。
 何時かは来ると考えていた別離も、案外呆気ないモノだなと哀しみと落胆のため息を落とした。
 思い出に浸るには些か張りつめすぎている室内にて、楽しい平穏の時間を振り返りそうになるも、蒼い炎のように静かに燃える激情を心に燈し、冬川の冷や水のように冷たい冷静さを頭に広げた。

「甘寧……貴様らはクズだ」

 するりと零した投げやりな挑発は、思春を苛立たせるには十分。敬語が地である利九は相対した敵に対してだけ言葉を崩す癖があった。
 敵と相対したならば冷静さを最大限に掻き乱し、出来る限り長く縛り付け、殺せる隙か後々に響く波紋を作り出せ……との同志である張コウの言に倣って、利九は思考を回していく。
 目の前で殺気が膨れ上がる。されども思春は黙して語らず、じっと利九を見据えていた。

「後は『小蓮』に聞くがいい」

 瞬間、音も無く四本のクナイが利九に投げやられた。
 両腕の振り抜きは最速、狙った個所は全て急所、至近距離という最悪の状況……であるにも関わらず、利九は来ることが分かっていたというように、先に真横に飛んでいた。
 視界に捉えた思春は飛びかかり、逆手持ちで短剣を袈裟に薙ぐも……肉の裂ける音や感触では無く、金属特有の甲高い音と堅い質感が伝えるのは、攻撃が失敗したという結果。
 急ぎ、また距離を取った思春は殺気を溢れさせて忌々しげに顔を歪めた。

「紀霊……誰の許可を得て小蓮様の真名を呼んでいる」
「……交換した真名を呼んで何が悪い。やはり貴様らは自分達の事しか考えてないクズだ。真名関係で偽る事はご法度、我らへの憎しみでそれさえ忘れていたか」

 ギリと歯を噛みしめながら、思春は平坦にして敵意溢れる声に、挑発には乗らずとまた黙した。
 逃げ出すには十分な時間がある。最大人員を動員し、二部屋から二十丈分の人を全て黙らせていたが故に……利九に救援は無い。されども自分では敵わず、逃げるだけな事も理解している。
 その様子に、呆れたようにため息をついた利九は思春を静かに睨みつけた。

「孫呉の地を取り戻す。それは崇高な、本当に素晴らしい目的だろうな。反吐が出る」

 はっ……と吐き捨てるように目を横に切った。刃を向けて来いと作られた隙は、思春の心をさらに苛立たせる。それでも彼女は耳を傾けるだけであった。

「純粋でわがままな子供が太守で何が悪い。貴様らも……小蓮しか居なかったなら、そしてもし彼女がわがままで自分勝手だったとしても、そのまま御旗として掲げていただろうが」

 ゴミを見下ろすように、利九は思春に目を向けた。昏い感情が渦巻く瞳は真黒いタールのような憎しみしか映していない。
 
「言い返せないのか? 言い返せないだろうな。過去の栄光に縋るクズ共め。奪われたとしても負けを認めて今の主を助けようとすれば……小蓮は傷つかずに済んだというのに」
「……どういう事だ?」
「さてな、後は小蓮と話せばいい。もう行け、虎の首輪は外しただろう? 小蓮の為に、甘寧と周泰は暗殺者としてでは無く武人として殺してやる。行かないのなら、手足を引き千切り、薬漬けにして、肥えた変態共の慰み者にして、最後は生きたまま肥溜めで溺れさせて……誇りなど微塵も思い出せない畜生に堕としてから殺してやる」

 目を細めると、思春のそれとは段違いな殺気が部屋に溢れた。突き出す一本の槍の如き鋭いそれは、思春が幾度かしか経験した事の無いモノ。
 利九の武は黒麒麟や関羽と並ぶ。彼女が居たから、明命と思春が二人掛かりでも小蓮を連れ出せずに手を拱いていたのだ。
 今夜にしても、どちらかが命を落とすのを覚悟して作戦を決行していた。劉備軍逃走という不可測から、曹操対策に袁術軍の隠密を多く走らせた事で手薄になった今を置いて、救出の期待が最も高まる時機は無かった。
 利九の誤ちは自身の力の過信と油断。いつもなら、普段ならと慣れてしまったせい。そして小蓮を殺すか否かで迷いが生まれていたせい。
 格上の相手に本気の殺気を向けられ、思春の背を冷や汗がつーっと伝う。悍ましい脅し……では無いのだ。やると言ったら本気でやる。何の感情も感慨も向けずに、下らないゴミとして処理するだけだ、と思春にも伝わった。

「背を追うような事はしないから安心しろ。……それでは戦場で会いましょう」

 相手が動かない様を見て、殺気を収めた利九は何でも無いように思春の前を横切り、扉を開けて……蔑みの瞳を向けながら口を引き裂いた。

「虎の妹……負け猫に伝えてください。無様に負けたばかりか見逃されたようですが、幼い妹を捧げてまで姉と追いかけた夢はまだ楽しいですか、と」
「っ! 貴様っ――――」

 返しの言葉を聞く事も無く、利九は扉を閉めて出て行った。
 思春が追ってこないのは分かっていた。ゆっくりと、今から行う戦に思考を向けて、一歩一歩踏みしめて進んで行く。
 歩きながらため息をまた一つ。心にこみ上げる寂しさを誤魔化すように。

「姉達に絆されたら……小蓮には嫌われるのでしょうね。袁家がこの失態を見逃すはずありませんから私に待つのは死だけでしょう。直接嫌いと言われないだけマシ、ですか。
 最期は……美羽様を脅かす孫呉の虎と負け猫に解けない怨嗟の呪いをくれてやりましょう」

 淡々と語る彼女の瞳は徐々に濁っていく。抗えぬ死の宿命に怯えは無かった。
 殺すよりも残酷なモノを授けよう、生きている限り痛む傷をつけてやろう、絶望の芽を育ててやろう……と、ドロドロと渦巻く負の感情が彼女の全てを支配していた。
 いい環境に恵まれていたなら、彼女はただの幼女趣味な善人で終われた。雪蓮が美羽ともっと話していれば、孫呉側が友好的であったなら、利九は悍ましい程の敵意を向けずに済んだ。
 彼女の不幸は袁家に関わった事。そして孫呉が此処に居た事。
 七乃の幸福は美羽という大切な一人が居た事、対して利九には……幸福は無く、己が身を賭けて二人の少女の絆を守る事しか出来なくなった。

 悪意は止まらず、例え仲良くしていた少女の心を傷つける事になろうとも……血と地に拘る王族を崩壊させようと決め、ただの武人であった利九は他者を呪う異端者に堕ちた。
 夕と明、そして七乃のどれとも違う異端者は、納得したように頷き、昏く嗤った。

「ふふ……美羽様は助けますが、純粋な忠義からとは言えませんね。これはただの……孫呉への嫌がらせですから」



 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

ドロドロです。助けたい側と助けられる側の想いのズレをお楽しみください。

小蓮ちゃんへの人質策略、そして血族特有の悩み。
七乃さんは美羽ちゃん以外には容赦ないです。
紀霊さんはオリキャラです。

敵側にもいろいろと思う所がある物語なので、単純に助けて終わりはあり得ません。


次は蓮華さん達の話です。

ではまた 
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