乱世の確率事象改変
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風吹く朔の夜、月は昇らず
その少女――風は一人、執務室の椅子に座りながらコックリコックリと船を漕いでいた。
机の前に積まれた膨大な書簡の数々は重要な案件ばかり。しかして、その全てには裁量済みとの判が圧されていた。
夕の斜陽は窓から差し込み、彼女の背を優しく照らす。仕事を終えて一休みのこの時間、食事に行きますよと起こしてくれるはずの親友はまだ帰っていない。
ただ……ここ半月前から起こしてくれるモノが現れた。
乾いた音が二つ。リズミカルに来客を知らせてくれるそれの名を風は始め知らなかった。呼び名を教えて貰い、答えを返さなければどうするのかと聞けば、
「風、起きてるかー?」
このように声を掛けてくれるらしい。本来は居るかどうかを聞くものらしいのだが。
それでも返さなければどうするのか、と気になって試した事もしばしば。今回も同様に返さなかった。
答えは急ぎの用があれば扉を開けて確かめ、急ぎでなければ帰っていく。その二つを行うようにしているらしい。
ただ、彼と風の場合は少し違った。扉が開かれ、彼はさもそうするのが決まり事であるかのようにツカツカと彼女の眠りこける椅子に歩み寄る。そして――
「起きろ、ねぼすけ」
「おおっ」
軽く、目を瞑ったままの彼女のおでこが指で弾かれた。
条件反射的に手で摩るも、彼のデコピンは絶妙な力加減で痛みは無い。
「おはよう、良く眠れたか?」
「お兄さんがあまりに遅いので、ついうとうとしてしまったのです」
「クク、遅くなくても同じだろうに。今日の警邏で気付いた点の報告。区画毎のゴミ収集がバラバラだったから日取りを決めて一気に出させた方がいいと思う。させるなら日による分別も出来たら尚いい」
「ふむ、中々いい案かと。他には何かありますかー?」
「うーん……あ、食事街のネズミが目立つ。民に募集を掛けて定期的に駆除させるとかどうかな。各店の食事割引札なんてのを配ったら国庫から資金を出す必要もないし、客足も増えるかなーと思うんだが……」
「おお、娘娘の店長さんが料理人達に顔が効くので華琳様の裁量を頂いてから話しましょうか。割引札、というのは店ごとに独自で出しても効果があると思いますし」
何気ないやり取りのように、彼と彼女は話を進めて行く。秋斗に警邏をさせる、というのは華琳が治める街にとって思わぬ収穫を齎していた。
初めは武力が高く、名も売れているのだから治安維持の役に立つだろう程度の認識だったが、歩かせてみると帰ってくる度に気付いた事を次々に提案してくるのだ。
全てが、とは行かずともほとんどが街の改善に繋がるものであり、さしもの風も思わず舌を巻いていた。
――お兄さんはこれまでどんな街を見てきたんでしょうか……
風は訝しんでいた。
街の改善案はまるで何処かの街を元にしているかのように思えていたのだ。独自の発想、というモノでは無く経験や知識と言うべきモノと判断していた。
ただ、記憶を失っているので詳しく聞いてみるのも億劫に感じて、有益である為にそのまま己が頭脳に彼の献策を記憶しつつ、手の回る範囲で進めて行くだけであった。
「ではそろそろ娘娘に向かいましょうか」
昨日約束を取り付けておいた案件をのんびりと話し、立ち上がってからとてとてと歩みを進めようとして――
「なぁ、ゆえゆえも連れて行っていいか?」
彼が気まずそうに零し、身長差から顔を上げた風は彼の瞳を半目で見据えた。
目は口程にモノを言う。聡い人物が見れば、感情や思惑がある程度透けて見える。彼女は……秋斗の感情を軽く読み取れる程に聡い方であった。
其処にあったのは優しい色と申し訳なさを宿した瞳。一応、なんとも思っていないが彼女はむっと眉を顰めて咎めておく事にした。
「風が二人で逢い引きに誘ったというのに他の女の子を呼びたいなんて……お兄さんは女心が分かってないのです」
キョトンとした表情になった彼は、後に意地悪い笑みを浮かべてくつくつと喉を鳴らし、
「マジか、風と二人っきりの逢い引きを宝譿が許してくれるとは意外だな」
風の頭に乗っている宝譿を見据えて零した。すると、宝譿はビシリと、手に持つ飴を秋斗に突き付けた。
「おうおう、オレを使って誤魔化そうなんざやり口が汚ねぇぜ兄ちゃん」
「あー……俺、宝譿語とか分からねぇんだわ。風、通訳してくれ」
おどけて言う彼は楽しそうに目を向ける。期待の色が濃い眼差しはどんな答えを返してくれるのかと悪戯心が真っ直ぐに出ていた。
「そですねー、簡単に言うと風だけでなく月ちゃんも侍らせたいなんてケダモノめ、と言っているのです」
「ちょっと待て! 全く違うじゃねぇか!」
さすがの秋斗もそこまで言われては突っ込まざるを得ず、クスクスと風は悪戯っぽく笑った。そして彼女と宝譿がこのまま手を緩めるはずが無い。
「風を誤魔化せるわけないだろうが、幼女趣味のケダモノめ」
「宝譿、てめぇ……そのペロキャン引っこ抜くぞ」
追い打ちを掛けられて、頭の上でやれやれと首を振る宝譿に、頬をひくつかせる彼は手を伸ばそうとするも、
「きゃー、襲われるのですー」
「……棒読みで言っても緊迫感とか皆無だぞ」
風にわたわたと手を振って示され、苦笑してため息を一つ。戯れは此処で終わりだというように。
だが、先に戯れを向けられた彼女は彼が降参するまで終わらせるはずも無かった。
「こんな可愛い女の子を前にして襲わないとは……お兄さんはもしかして不の――」
「はい止め、俺の負けだ! 女心が分かって無かったです! 可愛い女の子なら簡単にそんな発言するなバカ!」
「まだ言ってませんけどねー。ふふ、でも風に勝とうなんて十年早いのですよ」
「はぁ、お前さんは俺がそういうの止めるの分かってるから性質悪い」
口に手を当てて柔らかく笑う風。がっくりと肩を落とした彼も楽しそうに微笑んでいた。
毎日のように行われる他愛ない彼とのやり取りは風を楽しませている。彼女にとっていじめがいがあった、とも言えるのだが。
「月ちゃんと一緒に行きたいのは記憶の事でしょうし、今回は特別に許可してあげましょうか」
「……ありがと。半刻後に門の前で落ち合おうか。じゃあゆえゆえ呼びに行ってくる」
「いってらっしゃーい」
ふりふりと小さく手を振った彼女は、扉が閉まるのをぼんやりと見ていた。
彼女とて、月が来たからといって困るはずもなく、むしろ記憶の回復の為に呼ぶつもりであった。彼が先に言ってきたから、からかいがてら女として咎めただけ。
――お兄さんは鈍感さんですから、月ちゃんたちが苦労していたのが目に見えますね。
直接対峙した場合、人物の観察眼という点に於いて、曹操軍で風の右に出るモノは居ない。
彼女はのんびりとしたように見えるがやはり軍師であり、冷徹に全てを見やる事が出来る。華琳は風のそういう面を誰よりも評価して居て、桂花や稟には無い持ち味だとして重宝している。
のらりくらりとした会話には散りばめられた思考誘導と探りが隠され、かの白馬の片腕はそれにまんまと嵌められた事は言うまでも無い。
ただ、彼と行われる戯れのやり取りにはそういった駆け引きはしない。緩く吹き抜ける風を涼しく受けて、何故か手でそれよりも大きな風を起こそうと必死になる子供のような彼との、そんなやり取りが気に入っている為に。
「うーん、満ち欠けする月のような人、といった所でしょうか」
見る時によって決まったカタチの無い彼の在り方をそう評価した。
風は秋斗との対面を、星の友達という事で心待ちにしていた部分が大きく、実際会ってみると……なるほど星の友になれるだろうと納得していた。初めて出会った当初から、風独特の会話テンポにゆるゆると入り込んで自分から巻き込まれていく彼が居たから。
優しい面も、臆病な面も、分かりすぎる程に将としての情報とはかけ離れていて、月から平穏に過ごす時の彼は前から変わってないと聞いて、そして何より余り他人と噛み合わない自分に合わせてくれるのが面白いと感じた彼女は、友達となる事で真名を許した。
真名の通りに、誰にも掴めない風のような彼女と、曖昧に姿が定まらない彼。なんとなく波長が合って面白い時間が増えているが、風にすればそれは嬉しいこと。ましてやそれが、星の悪戯心に稟の素直ないじり易さを足したような面白さなら尚更。
自分の待ち人は中々に待った甲斐のある人物だった、と思考を打ち切った彼女は、とてとてと扉に歩み寄り……
「今のお兄さんで朔夜ちゃんのお眼鏡に敵ってくれますかねー」
ふと、『彼』を待っていたもう一人の待ち人が自分の思い通りの反応をしてくれるのだろうか、と考えて一人ごちた。
†
騒がしい。否、姦しい。
まるで人気グループのライブ開演前のように店の中は声に溢れていた。
その中で際立っているのが、背後に燃える火のようなモノを幻視してしまうほど気合の入っている店長の存在。
店長は昼過ぎから店を貸切にすると皆に申し付けており、
「私は夕方から『くっきんぐふぁいたぁ』になりますので話しかけないでください」
昼過ぎの言を残されてそれっきり、誰一人として声を掛けるモノは居ない。
コトコトと煮込まれる鍋、窯は轟々と燃え、強火の炎が焚かれ、熱気は最大限。給仕たちは期待に胸を膨らませて彼の事を見やる。店長がここまで精神を統一する姿など、誰も見た事が無かったのだ。
腕を組み、額に巻いた紅いバンダナをはためかせ、目を瞑って佇む店長の姿は凛々しく、給仕たちのほぼ全てが胸をときめかせた。この日の給仕たちは、一人を除いて店長に惚れてしまったモノだけが出勤していたのも原因である。
騒がしい元はキャーキャーと声を上げる給仕たち。料理人として尊敬する男の真剣な姿は、彼女達を恋する乙女に落としていた。
店長に話しかけるでなく給仕たちだけで、開かれている厨房の周りで……何が作られるのか、では無く、自分達が料理されたいうんぬんと発言を繰り返す。話しかけるなと言われただけなので、静かにしない彼女達はある意味で逞しいと言えるだろう。
しかして一人、その輪から外れて少女が椅子に座っていた。
悩ましげに眉を顰めては蕩けた表情に変わり、ハッと気づいて引き締めては口を尖らせてうんうんと唸る。
彼女の名は司馬仲達。今日この時を随分前から待っていた。覇王に対して内密に歌姫三姉妹の手札を気付かせてからずっとである。
――これで、私が隣に立てる。あとは城に引き籠って、一緒に先読みして献策し続ければいいだけです。どうやって荀彧を抑え込むかが大きな課題。
仲達は暴走していた。
外の乱世の事は覇王に任せ、彼と共に引き籠る事しか考えていない。哀しいかな、外に出て才を振るってほしい親の望みとは違い、彼女は何処まで行っても引き籠りだった。
先読みが強すぎる彼女は外に出る事を無駄と断じ、世界を変えるのは筆を使ってだけでいいと考えている。
安穏と暮らしてきた彼女は卓上の論理しか持っておらず。されども、それは遥か彼方まで予測出来る明晰な頭脳から、万を超える道筋を読み、正解を刺し貫く刃でもあるのが問題点。
実の所、風はこの半月の内、何時でも此処に秋斗を連れてくる事が出来たのだ。しかし記憶を失ってしまった秋斗と暴走している仲達を直ぐに会わせていいものかと悩みに悩んでこの時になった。
そして仲達は彼が記憶を無くしている事を知らない。
店長は知っている。教えていないのは彼女が働かなくなる事を危惧してであり、彼ならば記憶を失っていても仲達を惹きつけられると信頼してであった。
一刻ほど過ぎた頃、混沌とした状態の店内に大きな鈴の音が鳴り響く。ビシリと、店内の空気は張りつめた。
給仕たちは声を止め、店長は目を見開き、仲達は立ち上がった。
「程昱様御一行、ご来店です!」
外でその客が来るまで見張りをしていた給仕の声が響き渡り、仲達含めた全ての給仕のモノ達は無言で持ち場へと動き始めた。
カツン、と乾いた音が厨房に響く。中華鍋を取り上げて特製のお玉で一つ叩き、店長は獰猛な笑みを浮かべてそれらを胸の前に掲げた。
「此れよりは戦場、娘娘より極上のお食事を! 料理は愛情、皆に笑顔を!」
『我らが主人は食事を楽しむ全てのお方! 料理は愛情、皆に笑顔を!』
髪を二つに括った彼女達は営業スマイルを浮かべて入り口から二列に並び、店長の言葉を合図に乱れの無い返答を静かに、慎ましやかに、されども元気溢れる声で返した。
娘娘で行われる開店時の掛け声は、店長を厨房の戦場で戦う戦士に変え、彼女達を接客場の戦場を駆ける舞姫へと変える。彼の部隊が行う口上に憧れて、彼に呆れたように笑って貰う為に考え出したモノであり、いつしか給仕たちが勝手に付け足したモノ。
店長は余分な感情を振り払い、全ての神経を己が料理に集中させていった。
彼に挨拶を行うつもりは無い。もしかしたら自分の料理で記憶が戻るかもしれない、ならば全身全霊を注ぐのみである、と考えて。
『おかえりなさいませ! ご主人様、お嬢様!』
鈴の音が鳴り響く。同時に彼女達は最高の笑顔で客人を出迎えた。
料理を開始しながら、二人の少女を侍らせた大きな黒い男が呆気にとられる姿が見えるようで、店長は悪戯が成功した子供のように笑みを深めた。
†
一言で言うなら異常な空間。私は今までこんな店に来たことは無い。
入るなり、自分達の事を主人だと言い放つ給仕さん達。何故かその全てが侍女服を纏って髪を二つに結っている。
ポカンと口を開け放つ事数瞬、彼を見やると……やはり呆気にとられていた。後に、彼は小さく苦笑と言葉を零した。
「クク、高級料理店がツインテメイド喫茶……だと……?」
「冥土喫茶?」
店の名にある『ついんて』を外して聞き返すと、彼はふるふると首を振って違うと示す。自分でそう言ったのに。
首を傾げて見つめるも彼は何も言ってくれず、ごく自然な様子でただいまと給仕さん達に笑いかけた。風ちゃんは既に一人の給仕さんと何か話していた。
「本日は『徐晃様すぺしゃるこぉす』でお持て成し致します。奥のお部屋にどうぞ!」
柔らかい言葉と微笑み、一人の給仕さんが前に出てきて、そのままゆっくりと私達を奥の部屋に先導してくれる。
進むこと幾分、如何にも特別な雰囲気の部屋に辿り着いた。
窓から見える中庭は斜陽に映されて綺麗に彩られ、部屋は綺麗な装飾で飾られていた。
「ねぇ、風ちゃん。この部屋って凄く身分の高い人とか一握りのお金持ちさんしか入れないんじゃ……」
「そですねー。風も華琳様と来る時しか入れない『夜天の間』に案内されるとは思いませんでしたよー」
――し、秋斗さんって……そんなにこの店の店長さんに気に入られてるんだ……
有り得ない程の厚待遇に疑問をそのまま、私達三人はそれぞれ席に座る。
「月ちゃんが聞いてましたが、お兄さんは『めいど』の意味を知ってるんですか?」
「うん、殺伐としたモノじゃなくて……遠く離れた国の侍女の事だ。それと喫茶というのは茶屋だな。侍女の服を纏った給仕が持て成す茶屋、それがメイド喫茶だ。ってか月の服もメイド服なんだが……」
「そうなんですか? 新作の侍女服だと思って着てましたけど……大陸の外の服とは思いませんでした」
言うと彼は頭に手を当てて押し黙った。理由を尋ねようとするも、先に風ちゃんが口を開く。
「もう一つ聞かせて欲しいのですよ。『ついんて』というのもこの店の名とは違う意味があるのではー?」
「……それはな、これも遠くの国で髪を二つに結う事をツインテ……いや、ツインテールというんだ。二号店ってことだから二つ結びに掛けたんだろう。給仕の髪型を統一してツインテの意味を押し出してるみたいだ。しかし……危ういな」
何故かすっと目を細めて、空気を張りつめさせる秋斗さんに、私と風ちゃんは少し圧される。でも疑問の方が大きくて、私はどうにか言葉を繋げた。
「その……何が危ういんでしょうか?」
「……さっき案内してくれたメイド長らしき人物だがな、三つ編みおさげはツインテか微妙なとこだ。俺は賛同しかねる」
私も風ちゃんも呆気にとられた。まさか、そんな事で彼はこんな張りつめた空気に変えてしまったのかと。
「二つに括っているのですからいいと思いますが」
「確かにそうなんだけど……もやもやするんだ。そのあたりはこの店の店長さんと論議を交わす必要があるな」
熱い眼差しはこれだけは譲れないと語りかけてくる。どうして彼が髪型一つでここまで熱くなっているのか、私には分からなかった。
「ふむ、お兄さんは『ついんて』の女の子がお好みということですか」
「まあそういう……いや、どうしてそうなる。俺の好みの問題じゃなくてだな――――」
「し、しししし失礼、致します」
風ちゃんの発言で、私も二つに結ってみようかなと自分の姿を想像してみた。直ぐに彼が呆れたように返答をしようとすると、部屋の引き戸の向こうから声が掛けられた。
数瞬の間を置いて現れたのは先程風ちゃんと話していた給仕さん。私と同じような身長、紺碧の瞳、白い髪に少しだけ藍色が混じっていた。彼女はふるふると震えながら歩みよってきて、照れている時の雛里ちゃんのように噛み噛みで続きを紡いでいった。
「きょ、今日の、おと、お通しは、ごびょ、ゴボウと人参の、きんぺ、金平です。ど、どぞー」
訂正しよう。雛里ちゃんよりも噛み噛みだった。女の子と知り合いなのか風ちゃんはクスクスと可笑しそうに笑っていた。
顔を真っ赤に染めて、私達の前に小鉢を並べる彼女の手は震えている。小動物のようなその姿に、雛里ちゃんの時みたく抱きしめたい欲求が沸々と湧いてしまう。その時――
「きゃうっ」
「おっと」
最後に秋斗さんの前に小鉢を置く寸前で、するりと手から落としてしまった。しかし彼が直ぐに反応した事でどうにか食べ物も零れずに済んだ。
「も、もも、申し訳、あり、ありません」
「いや、気にしないでいいよ。誰にでもちょっとした失敗はあるもんだ」
優しく微笑んだ彼はその給仕さんの頭を撫でた。彼女は一瞬ビクリと身体を跳ねさせたが、蕩けた表情で幸せそうに撫でられるに任せている。きっと彼は小さい子の頭は撫でとくもんだ、なんて考えてるんだろう。嫉妬はしなかったけど、私も撫でたい、ともさすがに言えなかった。
風ちゃんはじとっと彼を見据えていつも通りの声を紡いだ。
「ところ構わず小さい女の子を誑かすとはー……お兄さんはやはり幼女しゅ――――」
「晃兄様っ」
「うおっ」
突然、跳ねるように響いた甘い少女の声。風ちゃんの言葉が途中で止まる。私も思考が止まる。
目の前で、私達の前で、小さな給仕さんが……彼に抱きついたから。
「しし、司馬仲達と、申します。わた、私を、いも、妹にしてください」
「え……?」
私も風ちゃんも、幾分後に次の料理が運ばれてくるまで何も思考を回せず、ただ二人を見やるだけだった。
†
べったりと、甘えるように身体を預ける少女は見目美しく。されども見た目相応の行動は誰が見ても自然に思われる。
少女を膝の上に乗せた秋斗は、どうしてこうなったと内心で頭を抱えながら、司馬仲達と名乗ったその子の頭を撫で続けて、どう答えを返そうかと思考を回す。
仲達はご機嫌だった。やっと出会えた彼とこれからどんな話を重ねようかと思考を回しながら。見た目も姿も、彼女にとっては二の次。彼が自身の求めた人であればそれでよかった。思わず抱きついたのは暴走から、しかし妹発言は彼女の引き籠り計画の一環だった。
今日の彼女は給仕では無く、店長にも休みを貰っていて、お通しだけ運ぶ係りを買って出ていただけ……では無く、今日の昼を以って彼女は娘娘を辞めていた。彼の隣にずっと居る為にと、店長に許可を貰って。自然に近づく為に娘娘の給仕の格好のままでお通しを運んできたのだ。
「失礼しま……す」
普段見慣れていた筈の仲達の有り得ない姿に、料理を運んできた給仕の思考が一瞬だけ止まる。しかし彼女も接客のプロ。直ぐに切り替えて料理を並べてから部屋を後にした。
前菜のサラダが四つ。彩りは申し分なく、好みで変えられるドレッシング付き。
ほうと感嘆の息を漏らした秋斗は、仲達をひょいと抱えて膝から降ろした。
「仲達ちゃん、でいいかな? 妹がどうのは後にしよう。君の分もあるみたいだからとりあえず一緒に食べようか」
「……はい」
渋々、といった様子で席に着いた仲達。
じとりと、風は仲達を見据えた。何を考えているのですかという様に。
それを受けて、仲達は冷たい瞳を返す。分からないんですかという様に。
月は眉を寄せ、彼に抱きついた少女を訝しげに見やって何者なのかと思考を向け始めた。
「いただきます」
そんな三人に構うことなく、秋斗は嬉しそうに手を合わせて食事に取り掛かり始める。目の前の少女達が何をしていようと、彼の興味はそそられない。運ばれてきた料理を食べる方が先決である。
ゴマドレッシングのようなモノをサラダにかけて、シャクシャクと小さく音を鳴らして野菜を咀嚼。綻んだ表情はどれだけおいしいのかと、見ていた三人にも伝えていた。
急ぎ、三人も手を合わせてから食事を始めた。
驚愕に目を見開いたのは月のみ。彼女はまだ娘娘の料理を知らなかったから当然。現代で言えばただのサラダ、しかしてその味は洛陽の都で食べていた最上級のモノにも匹敵した。店長の料理は元々の腕も去る事ながら、秋斗の知識を取り入れた事によってこの時代では有り得ない、現代に近いクオリティに到達しているが故に。
「相変わらず店長さんの料理はおいしいですねー。しかしいつもよりおいしく感じるのはどうしてでしょう?」
「どんなお客様にも、平等に作っているようですが……今回ばかりは、情という最高の調味料が多分に含まれてると思います」
「おお、お兄さんへの愛情ですか」
「一応……薔薇の華が咲いた訳では無いです」
「風は親愛の意味で行ったのですがー」
「……百合の華を、愛でる覇王よりはマシでしょう」
「普通の趣味を持つ風からすれば、二つの華はどっちもどっちなのですよー」
「知ってて、聞いた風ちゃんもこれから妄想してしまうんじゃないですか?」
「……ぐぅ」
「ふふふ、引き分け続きでも、今日こそ私の勝ちです、風ちゃん。負けを認めて、今日のでざぁとを――」
「いくら柔らかく意味を隠しても、お兄さんは分かってて聞かない振りをしてるだけですよー」
「っ! また引き分けで、手を打ちましょう」
「それがよいかと。痛み分けとも言えますが」
駆け引きの応酬ながら、会話を続ける二人は出された食事の空間を目一杯に楽しんでいた。
月は耳に挟んだ内容に顔を赤らめさせて、ほんの少し妄想してしまう。元より劉備軍でソレ関連の知識を“イロイロな本”が大好きな見た目幼い竜から聞いていたが故に。
対して彼は口を挟む事も無く、もくもくと料理を味わい、小皿にサラダを取って様々なドレッシングを楽しんでいた。聞こえているが聞こえない振り。自分が話にあがろうと他人の趣味を否定する事は無く、それを分からずにそんな話をする風では無いのも理解していたので怒る事もしない。
「仲達ちゃんは秋斗さんを知ってるんですか?」
ふいと、月から零れた疑問の声に振り向き、仲達はじっと見やった。深く渦巻く紺碧色。夜の闇の訪れを想わせる色は、月を引き込むように吸い込み、無意識の内にゴクリと生唾を呑み込ませた。
「晃兄様は私の天命です。先を見通せる慧眼、世界を切り拓く意思、己が身を滅しかねない程の想い……この下らない、奪って壊される繰り返しの、ガラクタの世界を変えられる存在。私はきっと、この人と出会い世界を変える為に生まれてきたんです」
荒唐無稽なその論に、確信を持たせるような空気を纏って、彼女は冷たく言い放つ。先程の少女の姿が切り替わった事に驚くよりも、月は一つの言葉に思考が持って行かれた。
奪って壊される繰り返し。
『彼』が自分に語っていた事柄を彼女は思い出した。『彼』と同じように仲達もそれを変えようとしているのだと理解し、冷たい瞳に黒麒麟の幻影を重ねてしまう。
――この子は……徐晃隊と同じ狂信者だ。でも……誰よりも彼に近く、徐晃隊とはある意味かけ離れてる。
何を理由にそうなった、とは聞かず。月は彼女の放つ圧力を受け止めた。
仲達は黒麒麟の事を店長から聞いている。しかも、覇王から戯れに語られる情報まで余すところ無く。徐晃隊の在り方がどうなるかなど、仲達にとっては予測に容易いモノであったのだ。
独自に積み上げた思考が行き着いた先は徐晃隊のような滅私の想い……では無く、自分とその人が生きて平穏な世界を作り出すという、言うなれば鳳凰に近しいモノ。
不思議そうに仲達は眉を顰めた。何故、月は動じないんだろう、ただの侍女のはずなのに、そう考えて。言葉を投げようとした仲達だったが、穏やかな声に遮られた。
「仲達ちゃん、一つ言っておく。世界が奪って壊される繰り返しなのは間違いないが、その時々に生きている人がいるから今の世界も案外ガラクタじゃあないよ」
いつの間に淹れたのか、彼はお茶を飲みながら目を細めて彼女を見やった。真っ直ぐな黒い瞳に射抜かれて、仲達の身にゾクゾクと快感が来るも、薄く笑って彼を見返した。
「いいえ、ガラクタです。権力も、財も、想いも、全てが一重の瞬刻。流れゆく歴史の中の一つまみでしかありません。どうせ死んだら全てが終わるのですから、全てが徒労でしかないんです。だから……壊されない平穏を作って世界を変え、名などと曖昧で不明瞭な形では無く、本当に失われないモノを確立するのではないですか」
言い返そうとしたのは月。彼はそれを手で制した。風はぼんやりと眺めながら、二人のやり取りの行く末を読み始めた。
秋斗は……普段の彼とは似ても似つかない笑みを浮かべ、口の端を歪めていく。
「面白いなぁ。お前さんは全てを分かった気でいるのか」
ゾクリと寒気が一つ。仲達は彼から目を逸らす事が出来なかった。次に返される言葉が全く予測出来ない。自分よりも先を読めるのか、自分よりも有力な論があるのか、感情論なら切り捨ててくれよう……彼女の中で思考は積み上げられ続ける。
彼女は知らない。彼がどれほど膨大に積み上げられてきた歴史を知っているのかも、そして……一度世界の外の理に触れている事も。黒麒麟の記憶が無くともそれだけあれば、籠から出た事の無い鳥に語りかけるは十分であった。
「狭いぞ仲達。お前は俺よりも少ないほんの一部しか知らないんだ。世界は理不尽で、残酷で、例え悠久の平穏を作り出そうと動いても、作り出せたとしても、一人の人間が行うたった一つの選択で全てが壊れてしまうモノだ。そこには慈悲も無く、救いも無く、虫けらを殺すかのように行われるだけだ」
それは彼女にとって謎かけのような言葉だった。しかし……彼の真剣な瞳は何か強いモノを携えていた。
彼は、たった一つのスイッチを押すだけで万を超える虐殺が行われる世界を知っている。たった一度引き金を引くだけで人を殺せる世界を知っている。殺意など無く、保身でも無く、利のみで莫大な人を簡単に殺せてしまう世界を知っている。
だから彼にとって自分が世界の為に動かないという事は、核兵器のスイッチを押す事に等しく、自身がそれの被害に含まれる為に以上でもあった。
引き籠っていた仲達に理解出来るはずも無く、この世界の誰も理解出来るわけが無い。人が信じられるはずの無い、世迷い事と切り捨てられる真実を一人知っているゆえに、不測の不和を齎さないように誰にも話す事など出来ずにいるのだから。
天の御使いは民にとって希望でも、敵対する有力者やその恩恵を受ける人々にとっては抗って当然の存在。異物は嫌悪を齎し、世界を手にしようとする異界からの侵略者が怨嗟を全く向けられずに居られるなど甘い認識。だから、嘗ての『彼』は嘘を付き続け、その世界の枠ギリギリの皮を被る事を選んだ――――――今の秋斗も同様に。
「さぞ、今まではつまらん世界だったろう。頭の中の現実しか、与えられた箱庭の中でしか全てを知らないんだから」
「……では聞きましょう。あなたは私の思考を上回れると、そう言うのですか?」
自分の知らない事を知っているのか、とは仲達は返さない。そんなモノの差はお互いに理解していて当然。事実確認が終わった事を話すような無駄はしない。
飛び越えた論点は思考能力の高い軍師、もしくは即時対応の出来るモノでしか着いて行けない話。彼を試したのだ。同じ知識を持てば辿り着ける程度があなたの言うモノなのか、と。
仲達の仕掛けた罠に気付いたのは風だけであったが……彼は駆け引きを理解せずとも、純粋に投げかけられた質問に答える事で……彼女の枠を壊しに掛かった。
「いいや、お前さんの思考能力には絶対に敵わんよ。俺はお前さんがガラクタと言う世界の中で、面白いモノや恐ろしいモノを沢山知ってるだけだな。ただ、それを扱う術も、楽しむ術も、作り出す術も知ってる。クク……ガラクタでも繋ぎ合わせれば自分の欲しいモノに出来るって知らないのは哀しいなぁ?」
にやりと不敵に笑い、秋斗はその先を繋げない。俺が知ってるモノを自分で考えてみろ、予測を立てて見ろと、そう言うように。
切り捨てられる人に自分を置き換えて考えられないのか、などと感情論の高説を垂れる事も無く、大きな一つだけを見ずにガラクタの中から自分が欲しいと思えるモノを幾つも作ってみたらどうだと、彼は仲達に発破を掛けた。
物事の結論を他人に委ね、事柄の全てを曖昧にぼかし尽くす彼の本質を示しつつ、『箱はいらないから別のモノが欲しい』の裏を、『箱をやるから欲しいモノをどうにか自分で手に入れろ』を仲達に放り投げた。コインは表と裏で一つのカタチであり、彼の全てが滲み出ていた答え。
上から目線の物言いをする秋斗は、怒っているというよりは彼女を誘っているように見えて、風はほんの少しだけ彼に覇王を重ねて目を見開き、月は懐かしい黒き大徳の片鱗を感じて目を伏せた。
「……ふふ、傲慢な人」
「あはは! その通りだから言い返せないな」
月は静かに笑いあう二人を見つめ、心で涙を零した。彼が根本的に全く変わらない事に理解を深めた。今の人も救える限り救いたくて、変えたい世界でも楽しい事があると言っていた姿を思い出して……切り捨ててきた命の想いを繋ぐと言った彼に、今の秋斗も向かうのだと予測に容易かった。
次第に甘い色を深めて行く仲達の瞳。目線を切った秋斗がお茶を啜るのを見て、風は覇王と初めて相対した時のような震えを抑え付け、横からのんびりと声を掛けた。
「どうですか朔夜ちゃん。お兄さんは」
「……予想通り、楽しい人です。面白い人です。興味深い人です」
蕩けた表情で言う彼女に、口に手を当てて愛らしく、風は勝利の笑みを漏らした。
「黒麒麟だった時の記憶を失ってますけどねー」
バッと振り向いた彼女は風の顔を見やり、感情の読めなかったはずの半目を見て、何故教えてくれなかったのか、それを直ぐに理解した。
後に、苦悶の表情を浮かべ、歯をギリと噛みしめた彼女は、悔しさに落ち込む声を引き絞った。
「それなら……私の負け、です。風ちゃん」
「いえいえー、結局風は何もしてませんから、引き分けという事で」
仲達の行方を探しても見つけられなかった華琳であったが、風だけは偶然彼女を見つけていた。
士官を求めるでもなく、ただの友達として店に来るたびに論を交わし、仲達の人となりを判断した上で、風は彼女がしっかりと働けるような引き込み方を考えていたのだ。
秋斗と話をさせ、最後の最後で彼女の求めていた黒麒麟とは違うと示し、世界が自分の予測通りに行くわけが無いと思い知らせること。それが風なりに箱庭に籠ろうとする仲達へ送った外の世界への誘いの手紙。
初めは同等程度だと感じていた友達にやり込められて、仲達は初めて湧き上がる燃えるような悔しさを感じた……彼女にとって、それが同時に面白い。
自分に足りないモノを喰らって勝て、と内に秘める獣が大きく吠えた。
次の料理が運ばれても、仲達はそれ以降何も自分から話さなかった。ただ次々と、自身の内部に渦巻き始めた幾つもの感情を見つめて、急速に色づいていく世界に嬉しさを感じていた。
異常な存在を目にして興味が膨れ上がり、人の心を動かす巡風に靡かれて扉は開かれた。
此処に、引き籠っていたはずの、大陸の全てを喰らう賢狼が歩み始めた。
†
出される料理の話や街の事、他愛ない話を繰り返し、最後の料理が運ばれてきた時、秋斗と月は愕然としていた。
「まさか……ミルクアイスまであるのかよ」
目の前に並べられたのは冷気を放つ甘味。冬でも無いこの時期にそんなモノがあるなんて、誰が考えられようか。
その正体は牛乳に砂糖を溶かして煮詰め、凍らせただけの簡単に作れるアイスだった。
仲達と風は既においしそうに小さな特別製の銀のスプーンで食べ始めていた。
「さて、お兄さん。気付いていると思いますが娘娘で出てくる料理の真実を教えましょう。此処はお兄さんが教えた料理を取り扱うお店なのですよー。それに店長さんとお兄さんは友達だったとのこと」
「……通りで……俺の好きなもんしか出て来ないわけだ」
「ふむふむ、今日の料理がお兄さんの好みだったのですか」
「まあな。オムライスにハンバーグ、チキンドリアにミートソースパスタ……洋食だけってのは次の来店を考えて……だろ、店長さんよ?」
言いながら彼が振り返ると、そこには年齢の読み取りにくい男が立っていた。微笑む瞳には歓喜と悲哀を、しかし涙を一筋流しながら。
月はいきなり現れたかのような店長の存在に驚いて、食べようとしていた一口目を落としてしまった。
「ふふ……徐晃様を驚かそうと思ってもダメですね。その通りです。一品一品を味わって頂く事が大切ですから。気に入って頂けましたか?」
「ああ、おいしかった! あんたの腕は最っ高だな! でも……ごめん」
飛び切りの笑顔を店長に向けて、だが直ぐに彼はしゅんと肩を落とした。理由は店長も分かっていた。
「やはりダメ、でしたか。私の腕もまだまだですね」
「いや、そんなことは無いぞ。俺が食った事のある同じ名の料理の中でも最高のおいしさだった。俺が教えたのなら、うろ覚えの作り方や材料だっただろ? それなのにここまで見事に出来るなんて、店長さんの腕と才能と情熱でしか為し得ないだろうよ」
さらに悲哀を色濃く浮かべた店長は、もう涙を抑えられず、手を口に当てて嗚咽を漏らした。
「……っ……さん、などと……あなたは呼ばなかったのに……本当に、あなたは、本当に記憶を、失ってしまったのです、ね」
性質の悪い悪戯だと思っていたかった。しかし彼から“さん付け”される事で、現実をまざまざと突きつけられた。
自分の料理が多くの人に幸せを与えられるきっかけを作ってくれた恩人の消失は店長の心をかき乱す。さらには、自分の料理でも記憶が戻らない事も彼にとっては絶望だった。
落ち込む空気の部屋の中、仲達はそっと立ち上がり近付いて、店長の瞳を見上げた。
「てんちょーは、料理を作り続けないとダメです。今のこの人も、幸せにしないとダメです」
厳しい言葉、されども真理。自分に出来る最善の選択を取るべきと説いている。
店長は小さくすみませんと謝って涙を拭った。秋斗は何も言えず、どうしようもない自分を呪うしかなかった。
仲達の言葉に心臓が跳ねたのは月だった。
雛里が言った事と同一の意味を持っているのだから当然。俯きながらグッと拳を握って、きっと戻して見せると心に再び誓う。
じっと、店長から視線を切った仲達は月を見ていた。
「お兄さんの記憶が戻るかどうかは置いといて、風はとりあえず言いたい事があるのですよ」
いつものように風はのんびりと語る。一口だけアイスを口に入れて、優しいその味を堪能してから彼女はその場の全員を見回した。
「皆は食べないのですからこのおいしい『でざぁと』は風の独り占めでいいですねー」
何を話すのかと気を張っていた皆は、あまりにズレた発言に力が抜ける。ただ、哀しい空気は一気に吹き飛んだ。
「食事ってのはシメが大事なんだから譲るわけないだろうが」
「引き分け、だったんですから私も食べます」
「わ、私もあげませんよ」
急ぎ、三人がアイスに口をつけて行く中で、くつくつと喉を鳴らして店長は笑った。なんとまあ、自分の望んだ幸せな食事場だけは変わらないモノですね、と心の内で呟きながら。
月が蕩けた表情を浮かべて幸せに浸り始めたのを確認してから風の方を向いて、店長は感謝を込めコクリと頷く。ビシリと指を立てた風に、貸し一つだと示された事でため息も零す。後に、彼に向かって優しく話しかけた。
「徐晃様、これからは店長と呼んで下さい。お代金は……此処に無い料理を思い出すか、改善点の提案で割引いたしましょう」
「……前までは無料だった、なんて言いたげだな。じゃあ先に一つ、ミルクアイスを作れるなら生クリームも作れるだろ」
冷たく懐かしい味を楽しんでいた秋斗は、店長の言葉に現代ではポピュラーなお菓子の素材を提案した。店長は昔の彼が言わなかったモノを聞いて首を捻る。
「生、くりぃむですか? 聞いた事がありません。冷却の仕方が分からずアイスは封印されていたので……派生した料理は教えて頂いてませんね」
「甘味の世界が変わるモノだ。生クリームを使った料理も結構あるから教えようか?」
驚愕。ふるふると震えだした店長は歓喜を抑える事が出来ない。結局どこまで行っても彼は料理バカだった。
「お、おお……まだ『れしぴ』に無いモノがあると! なら思い出せる限り書いて来て頂けますか!?」
「じゃあ試作する時は教えてくれ。それと割引はいらん。これだけ美味い料理なら自分の働いた金で食いたいんだ」
「ダメです。これは等価交換なのですから。それと覇王様は料理の腕前も高いのですが、あなたの知っている料理は一切教えないで頂きたい」
訝しげに見やる秋斗は未だ出会った事の無い覇王の情報を与えられ、店長が厳しく言う事に疑問を覚えて聞き返した。
「なんでだよ?」
「味で負ける事は万に一つも有りません。しかし……私より先に完成させられたら悔しいじゃないですか」
拗ねた子供のような口振りに吹き出したのは仲達以外の全員。仲達は店長が子供っぽい事を知っている為に、小さく呆れてアイスを食べ続けていた。
「……っ……はは! 楽しそうだな店長。それが追加の条件なら約束しよう」
「では割引きと引き換えに新規の『れしぴ』を頼みます。これからよろしくお願いします。多くの人に笑顔を作れる料理の為に、そして私の大陸制覇の野望の為に」
一瞬、目を丸くした秋斗は笑顔で差し出された片手を握り、
「ああ、人を幸せにする一番の方法は料理だし、俺も店長の野望を手伝わせて貰えるのは嬉しい。よろしく頼む」
ニッと歯を見せて笑い返した。
この方は変わらないのだ、と店長は嬉しさと寂寥が綯い交ぜになった心のまま、仲達に優しい目を向ける。
「仲達さん、どうする事にしましたか?」
既に食べ終わり、店長特製の紅茶を入れ始めていた彼女はゆっくりと顔を上げる。
紺碧の瞳にはほんの少しの寂しさと、大きな決意の色。
「私は――――」
答えが紡がれ、店長は彼女の頭を撫でて、またいつでも来てくださいと微笑みながら言った。一緒に働けて楽しかったですよと付け足して。
彼が黒麒麟では無くとも、仲達は娘娘から出て行く事になった。
三人は店長においしかったと告げて、たくさんの給仕に笑顔で見送られて娘娘を後にした。仲達だけは、送別会の為にその日の遅くまで給仕たちと別れを惜しんでいた。
娘娘での出来事から数日。彼の部屋に一人の客人が訪れた。
ひらひらと可愛らしい服を着た、白い髪を頭の上でちょろっと括った少女は慎ましやかに一礼をして、秋斗と月に微笑んだ。
「改めて、名乗らせていただきます。姓は司馬、名を懿、字を仲達……真名を朔夜と申します。まだ外を、知らぬ身なれど、真月を空に上げる為に尽力させてください」
「姓は徐、名は晃、字は公明……真名は秋斗だ。客分の身だが、これから世界を変える為にその頭脳を貸してくれ、朔夜」
「はいっ、秋兄様っ!」
賢狼は覇王に着かず、彼と共にある事を選んだ。
許したのは風。覇王ならば二人共御しきれると信頼を置いて。
そして月は……
「月姉様も、これからよろしくお願いします」
「うん、よろしくね。朔夜ちゃん」
賢狼の姉になった。
~月と狼~
風ちゃんからの呼び出しがあって来客用の部屋に向かっていた。
私個人に用がある人とは誰だろうと考えながら扉を開いて……少し驚いた。
「……仲達ちゃん」
「お久しぶり、と言っても二日ほどでしょうか」
侍女服では無い彼女は凄く愛らしくて、うずうずとなでなでしたい衝動が湧いて出たがどうにか抑え込んだ。
お互いに椅子に座って向かい合うと視線が結ばれる。その色は私の事を見定めようとしているモノだ。
「風ちゃんから、聞きました。あなたが嘗てどのような人物だったのかを」
静かに紡がれるも、私の心は波立たない。曹操軍に関わるのなら彼女も私の事を知って当たり前なのだから。
「覇王があなたに提示した事も、悩んだ末のあなたの解答も聞きました」
「……そっか」
曹操軍では劉備軍のような中途半端は許されない。だから私は『彼女』と一つの賭けを……雛里ちゃんには内緒でしている。
「黒麒麟が帰って来なければあなたは名も無き侍女のまま。黒麒麟が無事帰ってきた暁には……覇王の妹になる、と」
冷たい視線は何を思ってか。ずっと見つめ続けると、彼女は怯えの色を浮かべた。
「何故、やっと王の重圧から解放されたというのに、また生贄になろうとするのですか。覇王はあなたを体の良い道具にする可能性さえあるというのに」
この子は何を怖がってるんだろう。私はただ、私に出来る事をするだけなのに。『彼女』が秋斗さんと同じなら、誰だって切り捨てられるかもしれないのは当然のはずなのに。
「私は一人の女の子を助けたい。それと……彼に預けていた重荷をもう一度背負いたい。……あともう一つ」
仲達ちゃんは目を見開いた。
彼女はやっぱり頭がいい。私が言う事を簡単に予測してる。
「絶望の底にいる優しい人を助けられるのは私だけ。例え支える子が傍に居たとしても……居るからこそ救われない。
でも、まだ助ける時じゃない。……今だと誰も救われなくて、帰って来たら殺しちゃうと思う」
私は欲張りだ。大切な人を皆救いたくて、『彼女』を利用して、最後にあの優しい人の価値観を捻じ曲げるのだから。
彼の重荷を背負いなおしたら、私は胸を張って雛里ちゃんの隣に並べる……なんて甘い考えもあるのだから。
「どれだけ……あなたは欲深いんですか」
「うん、私は誰よりも欲深い。幸せな世界をただ見せて貰うつもりでいたし……」
言葉を区切ると、今は違うのですかと、彼女は無言で訴えてきた。
私は目を瞑り、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。私の短い人生を振り返りながら。
「私は私の好きな人達に幸せになって欲しい。だから、可能性があるのなら、私は私に出来る事をして、その人たちに幸せを与えたい。それが私の幸せの一番大きなカタチなんだよ」
多くの人の幸せを奪って。彼のように、昔の私のように。
仲達ちゃんは少しだけ目を瞑って、私に言葉を流した。
「私の真名は朔夜です、月姉様。あなたの思惑、見届けさせて下さい」
見届けるのは私に一人でやれと言っている。
誰かに頼るよりも、私は一人でやり遂げたい思う。一つ一つ紐解いて行こう。
「ありがとう、朔夜ちゃん」
「……少し、抱きついていいですか?」
小さく笑うと、彼女は照れくさそうに私に言ってきた。まだ甘えたい年頃なのかもしれない。
おいで、と腕を開くと彼女は飛び込んできた。
甘い匂いに満たされて、私は彼女の頭を撫で続けた。冷たい世界しか見えなかったこの子にも、暖かい世界をこれからたくさん見せてあげよう。
そんな願いを込めた、私に妹が出来た日の暖かい午後。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
仲達ちゃんの真名を明らかに。光の無い新月の夜が彼女の真名です。
ロリです。ひんぬーです。世間知らずな子です。
風ちゃんが思い上がった引きこもりをやり込めました。
店長は記憶を失った彼ともうまくやっていこうと決意。
朔夜ちゃんは……妹になりました。
月ちゃんは何やら考えてますが、覇王様とは手紙のやり取りで交渉済みです。
月ちゃんと詠ちゃんが華琳様に会った時の事も後々書きます。
覇王の妹になるかどうかは彼次第ですが、もしなるなら、どんな名前になるか想像して頂けたら幸いです。
孫呉の話は詳しく書く事になりました。
次は華琳様の話か、劉備軍のその後です。
ではまた
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