Trick or treat?
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忘却の花冠
あるところに、女神様に小鹿の姿に変えられた少年と口の利けない女の子がいました。
少年はそれまで才能溢れる猟師でしたが、動物をあまりにも殺しすぎたため、それに怒った女神様に小鹿の姿へと変えられてしまったのです。
少年のその雪で凍てついたような頑な心を少しずつ女の子の優しさが溶かしていく頃には互いに信頼し合い、心を通わせるようになるのは最早必然でした。
……ですが、それすら少年には許されないことでした。
ある日、二人は花畑に遊びに来ていました。
ここは女の子のお気に入りの場所でした。
季節は冬から春に変わり、一面に色とりどりの花が咲いていました。
女の子はその中に座って花を何本か手折ると、花の冠を作りました。
その隣で腰を下ろしていた少年の頭にそれを被せると、とても嬉しそうに笑いました。
二人の間に言葉は要りませんでした。
女の子が笑ってくれるのなら、少年は何も要りませんでした。
……なのに、もう女の子はその微笑みを向けてくれることはありません。
頭が真っ白になり、何も考えられませんでした。
無造作に倒れた女の子の背中からはどくどくと今も尚、溢れる赤がボロボロの洋服にシミを作っていました。
花びらの散った冠。
いきなり飛びついてきた小さな体はもう笑いません。
少年の意識はそこで途切れました。
次に目覚めたのは、よく見慣れた久しぶりの自分の部屋の天井でした。
ベッドの周りには二人の兄が心配そうな顔でこちらを見ていました。
二人の話によると、夜中に家を抜け出した少年に気づき、後を追いかけると道端に倒れていたそうです。
きっと夜目の利かない内に熊か何かに遭遇したのだろう、そう言い二人は涙を流して抱きしめてくれます。
アレは本当に夢だったのでしょうか?
あの女神様のとても哀しげな顔も、小鹿に姿を変えられ命からがらに逃げ回っていたことも、女の子に出会ったことも……そして、あのもう笑わない女の子の姿さえも…。
少年は産まれて始めて己のためではなく、誰かのために泣きました。
アレが夢でなくとも、もうあの笑顔に逢うことは出来ないのだと理解するのはまだこの少年には早すぎました。
部屋には吹き消された蝋燭の白い煙が細く昇っていました。
嵐のように過ぎ去ったホワイトデーから少しずつ春の匂い漂う3月下旬、この名もなき小さな村を行き交う人々の表情も心なしか明るい。
各々の店が次のイベントに動き出している中、ある一店のみがドアノブに『Close』と書かれた木の札をぶら下げたままでいた。
村の早朝は甘い匂いから始まるのが当たり前になっていただけに、最近の井戸場で持ち上がる話題はそれだった。
「ねえ、そう言えばあの子どうしたのかしら?」
「あの子?」
「ほらっ、………………えーっと………………ラ、ラ、……そうそうっ!ラザードさんの娘さんっ」
「ああ、ルヴァーナね」
そうそうっ!と、話し相手を指差すマダムの手は白いシャボンで濡れている。
共同井戸場で主人のシャツの汚れと格闘を繰り返し、そろそろ新しいのを買わないとダメねと、ため息を吐いた後のことだった。
上げた視界にはよくここで喋る人物の横顔が映った。
首元まで真っ直ぐに伸ばされた栗毛には自分と同じ白い髪が酷く目立っている。
彼女とは結婚してからの付き合いで、もう三十年くらい経つであろうか、子育ての悩みも夫への愚痴も嫌な顔など一つも見せずに聞いてくれる。
今はないあの森の奥にあった町から身一つで嫁いで来た自分にとって、地元に残してきた友人よりも親友に近い存在が彼女なのだ。
そう言えば、彼女の家はあの子の家の近くにある。
両親が亡くなってから気丈にも唯一残された洋菓子店を切り盛りしているルヴァーナと言葉を交わすことが限られていても確か、末の息子は同い年だったはず、何か聞いているかもしれない。
そう淡い期待を寄せながら訊ねたのだが、彼女は表情を暗くして左右に首を振った。
「私も噂以上のことは知らないわ。息子もあの子も卒業したし、それにその息子自身、鍛冶師の修行に出掛けていて知る由もないわ」
悪いわねと一言付け加え、再び目線を洗濯物へと戻す。
結婚してから約三十年間、いっぱいに詰め込んでいたはずの洗い桶の中には夫と自分の二人分しかない。
彼女が今の自分を見たらどういうだろうかと考え、再び手元を冷たい水の中へと沈めた。
「お加減はどう?」
「あっ…入ってきちゃダメっ!……風邪がうつっちゃう」
自室のドアを軽くノックして入ってきた人物にそう言うが、本調子ではないからだろうか、お構い無しにベッドのすぐ脇にあるイスに腰掛ける姿にホッとしてしまう。
アレから早一ヶ月、一大イベントが終わる頃には体中が重くなり、ベッドに倒れ込むルヴァーナに風邪は容赦なくその猛威を振るった。
頭の血管がドクドクと煩く脈打ち、目を閉じてもなかなか寝付けない日が続き、目の下にはすっかりクマが出来てしまっている。
ミレイザは優しくその頬に手を添えると盛大なため息を吐いた。
まだ十代後半とは言え、ここ数日何の手入れもしていない肌はとても青白い。
ブラウンのくせっ毛も最近髪を梳かさないお陰で、好き放題にその範囲を拡大しつつある。
「ちゃんと栄養のあるモノを食べてる?」
「うん、それは大丈夫。今朝もお兄ちゃんが作ってくれたポトフとパン食べたし」
食欲は以前と変わらずあるのよねと言い、腹に掌を乗せ同じくため息を吐いた。
通常ならともかく、ベッドに横たわっている今でさえ同じ量を求める胃袋が憎い。
厚手のネグリジェの上から触った手には以前のものより弾力を帯びているように感じる。
「それなら良かったわ」
「良くないよっ!…ごほっごほっ」
「ほら、急に大声出すからよ。私、リンゴを持ってきたからちょっとキッチン借りるわね」
ごめんねと、一言謝り再びベッドの中へ深く潜る。
いつまでこの状態が続くのだろう。
最近その事が不安で、なかなか寝つけられない時はつい考えてしまう。
この症状に襲われてから一ヶ月、個人差はあれど普通風邪ならば長くても一週間くらいで治る。
(何か他に悪い病気にでも罹ったのかな?)
はあと、自然に深いため息が出る。
…コツッ。
「えっ…」
今、何かが軽い音を立てた。
…コツンッ。
今度は先程よりも少し大きい何かが跳ねたような音がした。
「窓の方からだっ」
鈍く疼く頭の痛みに堪えながら赤いガウンに袖を通し、厚いカーテンとそれを気だるそうに開けたその目にまず映ったのは…。
「や、やめて!やめて!それ窓割っちゃうから!!」
3月下旬にしても尚残る雪の上には、アレ以来ぶりである少年がこぶし大ぐらいの氷を今まさに彼女の部屋目掛けて投げつけようとしていた。
「ルヴァーナが早く出てこないのが悪いんだよ」
「あの、知ってます?私、病人なんだけどっ」
「しっ、それ以上大きな声出さないでよ」
丸無視された方は思う所があったが、以前のように向こうのペースに乗るわけにはいかない。
額に軽く指を添え、平常心平常心と念じる。
相手は年下だ、親友や同窓生たちと同じように接しては何だか負けな気がした。
そんなことには無頓着なのか、または端からそれが目的なのか、コンラッドは木の枝で地面に書いた文字を読めとばかりにこちらへと視線を向けてくる。
『話がある。二十二時、あの花畑で待ってる』
『私、病人なんですけどっ!』
勝手に話を進める彼に負けじと幼い頃大切にしていた画用紙を取り出し、ほんの少ししか残っていない赤いクレヨンで大きく文字を書いて見せたがまたもや丸無視され、ブーツの底でそれを消すと何事もなかったかのようにスタスタと歩いて行ってしまった。
その場に残された彼女は一瞬呆気にとられたが、風に煽られると身震いをし、窓を閉めそのままベッドの中に潜り込んだ。
ベッドの中はまだ先程までの温もりが残っていてこのまま瞼を閉じてしまえば寝てしまいそうになるくらいの心地良さがルヴァーナを包んだ。
「……っ」
「……っ……」
(………………何だろう?)
睡魔に襲われながらガウンをハンガーに掛けなきゃという理性と戦う彼女の耳に何かが聞こえてきた。
……それは、部屋の外、廊下から響いているように思えた。
気だるい体を好奇心に駆られてドアの近くまで移動さそ右耳をぺたりとそれに密着させる。
「それで?これからどうするつもりなの」
ミレイザの声だ、……でも何故だろう?幼い頃から聞き慣れているはずなのに、とても冷たい感じがする。
ルヴァーナの知る親友は普段、面倒見がよく、優柔不断な自分とは違って物事をハッキリと言う性格であってもああも険しい態度はとらない筈だ。
相手は誰だろう、と更に耳を澄ませる彼女はここが自分の家だということ忘れていた。
「どうするも何も……」
「ハッキリしないわね」
「…ごめん。……でも、これ以上はルヴァーナを傷つけてしまう」
「だけど、あの子が辛い思いをするのよ?それでも平気なの」
「……」
「私はもう嫌なのっ。ルヴァーナが物言わなくなった時の私の気持ちが貴方に解る?」
「いや…」
「そうよねっ。所詮、アズウェルはあの子とは血は繋がっていないんですものね」
「………………」
「ごめんなさいっ……言い過ぎたわ」
「いや、いいんだ。キミは本当に良くしてくれていると思っているよ。これからも仲良くしてくれると嬉しい」
「言われるまでもないわ。後、貴方とも、ね」
ありがとうと、いつものように上品に笑う声は何故だかとても儚く思えた。
時刻は二十二時一分前、なるべく音を立てないように勝手口から家を飛び出し、指定された花畑に着いた彼女の目の前には先刻までの鋭い目つきとは打って変わり、何かを決心したような真剣な表情でこちらを見るコンラッドがいた。
「時間ピッタリだね」
自宅を飛び出してから増す頭痛はまるで、体中が心臓になってしまったかの如く脈打っている。
「……話っ…て……何?」
遅れないように走って来たのとそれに堪えて言葉を発したのが、今の間を作った。
何だろう?……何か……ある?
「…その顔ってことはまだ思い出せない?」
彼はそう言うと、こちらに向かって歩いてくる。
肩には何故かいつか見たことがある銃を掛けている。
約束の時間まで仕事をしていたのだろうか?
「あげる……と言っても、かなり下手クソだけどっ」
「花のっ……冠?」
手渡されたそれはかなり不恰好だが、形状からしてまず間違いないだろう。
「家にあった造花でそれらしい形にしてみたけど、……結構難しいね」
「……っ」
「ルヴァーナ?ねえ、どうしたの?」
「あ……頭がっ!?」
花の冠を目にした途端、それまでドクドクと脈打っていた痛みが急激に速度を上げた。
赤い頭巾の上から両手で頭を抱き、その場に膝を着いて強く目を閉じる。
彼が呼び掛けているようだが、それが煩くて上手く聞き取ることが出来ない。
次第にそれまでがフェイクだとでも言うのか、痛みがぼやけて代わりに何かが映り始めてくる。
それは………………一人の少女と一人の小鹿の物語だった。
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