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乱世の確率事象改変

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彼女は雛に非ず

 私のせいだ。私が慢心していたから、簡単に考えていたからこんな事になってしまった。

 こんなに苦しむなんて思わなかった。ここまで壊れるなんて思わなかった。『私』さえ見てくれないなんて思わなかった。

 優しいはずの瞳は『私』を映していなかった。濁り切った瞳は何も映していなかった。あるのは絶望だけだった。

 涙が溢れて止まらなかった。自責と後悔と心配と不安と悲哀と絶望と嫌悪と憎悪と苦悩と憐憫と焦燥と……抑える事もしなくなった膨大な愛情が混ぜ込まれた心は渦巻き続けるだけだった。

 でも……ここで私が取り乱しちゃダメだ。この先のこの人を助けられるのは私だけだ。

 このままここに居たらこの人は壊れて行くしか無くなる。人である事を辞めるしかなくなってしまう。

 この人が今までしてきた事は無駄だった。桃香様には真の平穏は作れない。

 もういい。この人さえ幸せならそれでいい。

 どれだけこの人が耐えてきたのか

 どれだけこの人が信じて来たのか

 どれだけこの人が苦しんできたのか。

 この人の優しさを失わせたくない。

 もう傷ついてほしくない。

 もう心を砕いてほしくない。

 私の大好きな人。

 私の愛しい人。

 今後、私が当たられてもいい。

 憎んでくれていい。

 苛立ちをぶつけて軽くしてくれたらいい。

 好きなように弄んでくれてもいい。

 気が紛れるならそれでいい。

 少しでも楽になってほしい。

 だからもう何も、他の王の代わりに背負わないでほしい。

 この人のために今出来る事を。この人の為だけの鳳凰に――



 †



 秋斗は耐える事が出来なかった。怒りに身を任せて桃香を責めるか、愚かしく自身を偽り続けて……自分に敵対を示すかもしれない、と華琳は考えていたのだ。
 しかし……彼は自責の鎖がその身に食い込んで壊れて行った。隣に侍る彼自身を支える王佐、同時に愛しい存在であるモノの声にすら心が救われないままで。
 美しく、愚かしい……華琳の心に来るのはそんな想い。

――その在り方、その心……他者の為に己を砕く存在は誇り高い。我欲よりも優先するべきモノを選ぼうとして、自分が壊れていくなど並大抵の人間に出来る事では無い。全てが無駄になるとは、どれほどの痛みを齎したのか。
 目が覚めた時に癒してみせよう。包み込んでみせよう。そうすればお前は救われる。私がお前の代わりに全てを背負ってあげる。

 華琳の目に映るのは、哀しくとも目を惹きつけられる光景。
 一人の少女の泣き叫ぶ声が天幕内に響いていた。身体を重ねて、強く抱きしめて、たった一人の名を呼び続けていた。
 桃香と愛紗が近づいても、彼女は睨みつけてその手を跳ね除けた。誰にも触らせないというように。己の敵だと示すように。
 時が経つにつれて静かに、嗚咽へと変わっていく声。その少女は大きく息を付いて自身を落ち着けて行く。十数回の呼吸の後、彼女は一つ目を瞑って華琳の方を向いた。
 開かれた瞳に見据えられて華琳はゾクリと震えが走る。冷たく、極寒の冬を思わせる冷徹な瞳に吸い込まれそうになった。気圧されたわけでは無く、ただその者が欲しいと思った。

「曹操様。私は劉備軍の軍師です。交渉の場に間に合わなかった身で厚かましく思います。しかし私の見解から個別に案を出したいのですがよろしいでしょうか?」

 愛らしい少女の声ながらも有無を言わさぬ響きを感じて、桃香も愛紗も朱里も……三者三様に顔を絶望に染めて行く。華琳が提案した通りになったのだから当然でもあった。もはや雛里は桃香の臣では無いのだ。愛する者を救いたいと願うただ一人の少女……でありながら、敵に対して冷酷にして残忍、他者を利用して己が掲げる王の為に動く本物の軍師であった。

「……既に終わった話だけれど、聞くだけ聞いてあげましょう」

 劉備軍、と言い切ったのだから華琳は桃香達に何も言わせない。覇気溢れさせ、鋭く三人を見回す事によって言葉を挟ませないと暗に示す。

――この交渉は鳳統と私だけのモノ。出来るなら徐晃と対等な立場で交渉がしたかったが、あれだけあの男を想っている彼女ならば問題は無いか。

 悲痛な叫び声、慕う男に縋りつく姿を思い出して、華琳の心には一寸だけ羨望が湧いた。自身の心に気付かぬはずも無く、これは弱さだと切り捨てるように小さな自嘲の笑みを零した。

「私が曹操軍に入ります。忠誠も誓いましょう。劉備軍が通行する為の対価に足りますか?」

 華琳はにやけそうになる口元をどうにか気力で抑え込む。雛里まで手に入るとは思っていなかったのだ。少なからず秋斗の影響を受けていようとも、理想の妄信から冷めているはずが無いと思っていた。だから彼女本人から直接示されて歓喜が込み上げるのも詮無きこと。
 桃香と愛紗が何か言おうとしたが、華琳が再び睨みつけると二人は口を噤む。朱里はその隣で力無くへたり込んだ。

「……残念だけれど我が軍は最近有能な軍師が増えた。あなたの活躍する機会はもうあまりないわ。早期で忠誠を証明するのは不可能ね。それに今、最も私が欲しいのは優秀な将。あなたの身柄一つではこの乱世での対価に足りえない。それに、元から私は徐公明と公孫賛を欲していたのだから一人というのも割に合わない」

 それは探り。華琳にとって、劉備軍通行の対価が雛里で足りないわけがない。
 差し出されるモノを出来る限り吊り上げる為に少しだけ彼女の事を貶めた。強く言い切ると雛里は一瞬だけ斜め上に目を向け、直ぐに華琳と目を合わせた。その一瞬で華琳の思惑と次の提案を計算し、望む答えへの道筋を弾きだしていた。

「ならば徐公明の身柄の一時預けも追加、ではいかがでしょう。曹操様がこの方の忠誠をも手に入れる絶好の機会となるでしょう。劉備軍に戻るかどうかは曹操様とこの方次第となります。それでも足りない分は結果で示してみせましょう。黒麒麟の角と鳳凰の羽を以って」
「雛里!? そんな――」
「桃香様も愛紗さんも、これからの劉備軍にとって大きな不利益となるのでしたら私を斬って下さって構いません。それが出来ないのなら口を挟まないでください。朱里ちゃんは……分かってるよね?」

 思わず口を挟み、しかし雛里が割り込むと愛紗と桃香は俯いてしまった。
 彼女が劉備軍の為を思ってしている事。己が身を切る事によって、現在の莫大な借りを無くして正々堂々と華琳に歯向えるようにしているのだから責められる言われも無い。ましてや、華琳がそれに口を出す事を封じたのだからそれを止める事も、破棄する事も出来ない。大徳という民の期待による鎖は劉備軍にとって何よりも重かった。

――気に入らないなら斬ればいいと私に有利に働く逃げ道を残したのも見事。彼女は間違いなく徐晃の影響を一番に受けた軍師、覇王の元にいるべき存在に育っている。

 雛里が華琳に対して最後に示したモノは、秋斗が個別で用意した対価を彼女も使えると言う事であり、それを間違わずに受け取った華琳は何も責めようとはしなかった。

「……一時預けの解ける条件は?」
「そればかりは曹操様とこの方の判断に任せます」

 雛里は華琳の性格さえ見抜き、秋斗自体の逃げ場も残していた。
 秋斗が目覚めた時に劉備軍に戻ると言えば彼女は何も言わずにそれの手助けをするつもりであった。そして……華琳と共に劉備軍を滅ぼして秋斗を手に入れる。しがらみを全て破壊して、本当の自由を手に入れさせる為にそれを行うと暗に示していた。

――これで後は一つを確認するだけで全てが終わる。彼女は私が持っている線を見抜けるのかどうか……。

「徐晃の意思は関係ないのかしら?」

 少しだけ、雛里は哀しげに眼を伏せた。彼が何を考えているのか雛里にも分からず、その意思を自分のわがままで捻じ曲げる事になると理解して。

「この方の意思は……出過ぎた発言失礼致しますがもしやあなたも知っていて聞いているのでは? そうですね……城壁の上、とか」

 無感情な瞳は華琳を計っていた。少し貶めた意趣返しを込めて覇王を試しにいった。
 全てに気付いているのは朱里と桂花。彼女達の抱いているであろう感情は多く、しかし一つとして同一のモノは無かった。
 片や、知っているモノが知らないモノへと移り変わり、自身よりも一歩先を言っているやもしれないと思う悔しさに、半身に近い存在と想い人が離れて行く事への懺悔と寂寥と絶望。
 片や、自身の立場を脅かす程の存在が輩になる事への歓喜と焦燥に、自分も負けてられないという意思の炎。
 覇王をも試す胆力を確認した華琳は大きな存在が手に入る事にゾクゾクと快感が込み上げて来るも、普段通りの不敵な笑みを浮かべて彼女を見据えた。

「ふふ、あなたはもう雛では無いのね」
「……天駆ける羽を与えて貰いましたから」

 雛里は小さく、華琳にだけ聞こえる声で答えを呟いた。秋斗に出会えたから、自分が前に出る自信や強い意思の翼を手に入れられた、と思い出して。

――愛する男がいるのは構わない。でも私にだけ忠誠を捧げて貰う。鳳凰はこの私の配下にこそ相応しい。そして麒麟と鳳凰は対等に揃えてこそ意味がある。

「いいでしょう。劉備軍が軍師、鳳統の交渉対価……私は受ける。ただし劉備軍の通行料にしては少し貰いすぎね。我が領内を移動中の糧食支援もある程度追加する。……それと徐晃を早急に医者に見せることも約束しましょうか」
「お心遣い感謝します。曹操様」

 ほっと安堵の息をついた雛里は秋斗の元に近付いて行く……事は無く、華琳の足元に跪いた。
 茫然と眺めるのは劉備軍の三人。彼女達の心に来るのは、こんなに呆気なく関係が崩れ去ってしまうのかという空虚な感覚だった。
 朱里は一人、ぽっかりと空いた胸の穴を埋める事が出来ず、親友が自分とは違う主の元に跪くその姿を見て、ギシギシと心が軋みを上げていた。

「鳳統、私の事は華琳でいいわ。我が軍はあなたを心から歓迎する。黒麒麟と並び立ち、私の為にその力を存分に振るうがよい」
「……私は真名を雛里と申します。華琳様、これからよろしくお願いします」

 華琳が椅子から立ち上がり軽く頬を撫でると、雛里は冷たい瞳……では無く、懇願の色を溢れさせた瞳を向けた。

――人を愛するというのはこれほどまでに苦しい事。大切な人を救いたいと願うのはこれほどまでに美しい事。それを穢す事は誰であろうと出来はしない。

 愛おしさが込み上げて抱きしめたくなるも、公式の場である為に彼女が耐えているのだから華琳がそれを崩すわけにはいかなかった。
 故に……小さく、されども力強く頷いて、あなたの望みを叶えてあげると無言で示す。
 数瞬だけ視線を交差させ、華琳は自身の敵対者に向き直り、悲哀と絶望に落ち込んでいる桃香に対して口を引き裂いて言葉を放った。

「劉備、これで貸しは無しよ。鳳統の最後の働きに感謝なさい。心置きなく何処へなりとも行くがいい。そして私よりも自分が正しいと証明することね。
 春蘭は徐晃を我が陣に運びなさい。劉備軍の兵に止められても高度な治療を施せる軍医に見せる為だと言っておくこと。季衣と桂花は私と共に本陣に帰りましょう。雛里に道すがらこれからの戦の予測を聞かせて貰いながら、ね」

 皆まで言うのも待たず、春蘭は秋斗を背負って天幕を出始めていた。その身体に縋るように……畏れと後悔と悲哀が混ぜ合わされた悲痛な表情で朱里が駆け寄って行く。しかし――

「近付かないで」

 雛里がその前に立ちふさがった。それでも、朱里は秋斗に縋ろうとして、雛里に身体で止められる。

「や、やだ。やだよ雛里ちゃん! 秋斗さんは桃香様が作る世界を望んでるんでしょ!? 曹操さんの所へ行ったら――」
「そうだよ。あの人は桃香様が作る優しい世界を何時でも望んでた。だから! だから信じてあげればよかったのに!」

 雛里が睨むと朱里は目を見開いた。自分が何を出来ていなかったのか示されて、その瞳から再度涙を溢れさせた。
 最初から信じていればよかった。離れたくない気持ちよりも、離れても繋がっているのだと信じてやればよかった。
 対価として差し出すのも呑み込めと己が主に示し、利害を計算し尽くして大局を見れば良かった。桃香と愛紗に納得させればよかった。
 例え、秋斗がこの先で使い捨てられようと、そうはならずに必ず帰ってくるのだと信頼してやればよかった。
 彼女は軍師。時には冷徹に味方も駒として見なければならない。されども信を置いたままで、それさえも計算に組み込まなければならない。
 この事態は王が『人』のままである劉備軍が徐公明を有し、曹操という覇道に救いを求めたからこそ起こり得た事であった。

――これで諸葛亮は本物の軍師になる。怪物が乱世に産声を上げるでしょう。しかし……こちらは対抗する存在を手に入れた。

 朱里は雛里に抱かれたまま、力無く崩れ落ちた。小さく、ほんの小さく、華琳の耳にもどうにか聞き取れるような声の大きさで呟きを零した。

「行かないで……雛里ちゃん……秋斗さん……」

 既に春蘭は天幕から出て行っている。聞こえてはいても、雛里はゆっくりとその身体を離して地に座らせ、軍師たる姿のままで桃香と目を合わせた。

「桃香様」
「雛里ちゃん……」
「私は今よりあなたと袂を分かちます。今までありがとうございました。あなたの優しさは民の標であり、きっと……大陸を救う事が出来るでしょう。ただ、私はあなたとは飛べません。あなたの作る世界を否定します」

 冷たい瞳に圧されないようグッと力を込めて、桃香は雛里の話を聞き続けていた。喚くことも無く、怒る事も無く、静かに嘗ての臣下の言葉を聞く姿は成長途中。これを経験としてさらなる成長が出来るだろうと華琳の目には映っていた。

「もう……私にはあなたが世に平穏を齎す事が出来ると信じられないんです。嘗て切り捨てた人だろうと諦観出来なかった、自分で選ぶ事が出来なかったあなたに覇の道は歩めない。……っ……私の中であなたの理想はもはや幻想となりました。薄暗がりの中を誰かと手を繋いで進んで行ってください桃香様……いえ……“劉備さん”」
「雛里っ!」

 瞬間、愛紗が怒気を張り上げた。しかし……桃香に手で制される。
 雛里が深く言わずに示した事は真名の返還。一度預け合った真名を返還することなど、どれほどの侮辱行為であるのか分からぬはずもない。それほどまでに彼女は桃香を憎んでしまったということ。そして此処で斬られるかどうかの最終線を強引に確認して、敵であるかどうかを明確に認識し合う為に行った。最後に、これからの秋斗の為を考えて己が身を捨ててみせたのだ。
 この大陸に生きる誰しもが衝撃を受けるであろう雛里の侮辱行為に眉一つ顰めなかったのは華琳。雛里の狙いと、その心中を察してであった。誇り無きモノの侮辱……では無く、誇り持つモノの敵対示唆だと判断して。
 桃香の顔は蒼白に色が抜け落ちていた。慄く唇からは屈辱の吐息。されども……全てを抑え込んで雛里に目を向ける。

「“鳳統ちゃん”私の理想は否定させないよ。私は曹操さんが間違ってると思う。誰かの幸せを願う優しい人だから一緒に協力すれば多くの人を助けられるのに……今を生きたいって願ってる人を一人でも多く助けようとしないなんておかしいよ。一人ずつが世界を良くしようって動けばそれだけで平和が作れるから……足元の人を助けられないなら世界は何時までも平和にならないと思う」

 ギリと歯を噛みしめて、雛里は桃香を睨んだ。昏い色は誰からの怨嗟を含んだ瞳であるのか。その言葉は、彼が作り出した全てのモノを否定しているのと同義であった。
――徐晃隊がどんな想いで戦ってきたのか、月ちゃんと詠さんがどんな想いで共に居てくれるのか、彼が……どれだけのモノを切り捨ててきたのか。この人はそれを全部否定した。なんて傲慢。矛盾を貫くなら貫き通せばいいのに、あなたはそこで妥協するんですか。

「私は最初から助けられる人を一人でも多く助ける為に戦ってる。だから……私は曹操さんと鳳統ちゃんの敵、なんだと思う。誰かと誰かが手を取り合う世界を作る邪魔をするなら、最後に力を使ってでも止めさせて貰うよ。今まで死なせてきちゃった人達と、私に着いて来てくれる人達の為に……ううん、私が私として理想の世界を作り出す為にこれだけは曲げられない」

 傲慢な言葉に聞こえるだろう。今回秋斗を信じ抜かずにそれを目指したと言われればそこまで。これまでも曖昧にぼかして来たと言われてもそこで終わる。
 ただ、桃香はこの交渉の初めから最後まで……否、義勇軍を作る初めからずっと民の為の王であった。
 一人でも多く、今の命が救われる選択を続けてきた。時には必要な犠牲も無意識の内に呑んできた。秋斗と話して、自身の責を自覚してから無意識から意識的に変わったが。
 そしてこの交渉では華琳が脅しを掛けたから、自分の力が足りない事も理解して、最後に一人でも自身の国の民を救うために選択した。
 目の前で死に行く人の多くを見捨てて、先の世の人が救えるとは桃香には思えなかった。力は使える範囲でしか使えない。だから彼女は人に説いているのだ。先の世を良くする為に皆で今を大切にしましょう、守り抜きましょう、良くし合っていきましょう、と。
 手を繋ぐ事が出来れば平和になる。それは民主主義の根幹にあるモノと似ていた。上に立つ多くのモノが手を取り合って世界を良くしていくその姿は、この時代では異質にして異常。
 だから華琳は釘を刺したのだ。桃香の目指す所は漢の再興、と。
 異質な価値観がこれ以上広がりすぎないように先手を打った。再興という形ならばどの権力者にも受け入れられるが為、そして曖昧であれど天下統一のカタチとする事で大陸内部が分裂して同盟で終わるという……先の世の平穏を願う華琳にとって最悪の事態になる事を避けさせた。
 桃香は思想家。専制政治の儒教社会で民主主義を説く異端。世界の価値観を壊す事の出来る存在。その思想は猛毒であり霊薬。
 単純に目の前の人を救いたくて、その輪を広げて行きたいだけ……しかし周りが思う事は違うのだ。甘いように見えて恐ろしく厳しい。新しいモノを受け入れさせるという事は、古い概念を否定して追い遣る事と同じなのだ。
 本来ならば、秋斗はその全てを根本から理解して先を示す事が出来た為に桃香にとって一番の理解者と言ってよかった。それを長い期間を掛けて大陸全体に浸透させる事こそが彼の目的の一つではあったが、哀しい事に彼と桃香の進む道筋は違った。
 桃香はそれほど頭脳明晰でも無く、武の才に明るいわけでも無い。秋斗の事は自分と同じだと信じていたからこの結末となった。
 足りなかったのは仲間の把握。平穏な世界を目指す上で、どういった道筋を辿ればいいか、どのような世界を作りたいかを具体的に全員で話し合ってこなかった。秋斗という自分とは全く違う道筋を辿りながらも同じ世界を目指している仲間をよく知らなかった。ただそれだけのこと。
 桃香が敵である事を再確認した華琳は、沈んだ表情ながらも意思の光を宿した桃香の目を見据えて呆れたようにため息を一つ。

「あなたの作ろうとしてる未来は私の目指す未来よりも困難ね。今回の事で一歩進んだとしても、乱世の果てに作られた最後で初めてその本当の難しさが分かるでしょう」
「難しくても、何が何でも私は作り出してみせます。その為に、あなた達にも協力して貰いますから。交渉ありがとうございました。曹操さん、鳳統ちゃん」
「どういたしまして。また会いましょう劉備、乱世の果てに」

 どちらもが放った声は突き放すようにも、受け入れるようにも聞こえた。桃香は朱里のように縋る事をせず、雛里の覚悟を貶める事もせず、ただ自身の嘗ての仲間の選択を受け入れて頭を下げた。感謝と謝罪と決意を込めて。
 雛里は天幕から出て行く華琳の声でその背を追いかけはじめていたが、ピタリと脚を止める。

「劉備さん、愛紗さん、朱里ちゃん……今までありがとうございました。最後に一つ言っておきます。秋斗さんは華琳様の在り方を知っていて尚、劉玄徳が大陸を治める事を望んでいました。彼がこれからもあなた方を信じつづけるその時は……全てを賭けてあの人を私の元に取り戻しますので」

 感情を挟まない軍師の声音で己が見解を示し、そして思い出したかのように朱里に近付いて耳元で囁く。

「秋斗さんは私を愛してるって言ってくれたよ。だから私は自分の想いを返した。
 裏切ってごめんね朱里ちゃん。でも欲しかったら……力付くで来て。取られたとしても私は何も言わない。どんな事になっても、私はあの人が幸せならそれでいい」

 茫然と、朱里は顔を俯けたままであった。
 雛里の言葉は頭に取り込めても、心が拒絶していた。
 しかしゆっくりと……自身の欲も、感情も、想いも、頭脳も……全てに於いて敗北した事を噛みしめていく。
 身体を離した雛里はもはや誰にも何も言わずに華琳の後を追っていく。桂花の隣に並び立ち、曹操軍の新たな軍師として歩みを進めて行った。

 残された者は絶望の中、ぽつりと零された一つの呟きを聞いた。

「……ごめんなさい」



 †



 桂花と季衣も真名を交換し、徐州に分散させた徐晃隊の情報と扱い方、本城で行った策を歩きながら説明されて華琳も桂花も季衣も、驚愕に支配されていた。
 まず一つ。徐晃隊がたった二千と数百で二万の包囲網を抜けてきたという事実。敵が使ってきた奇策があったというのに、大打撃を与えて生き抜いた事が異常であったのだ。
 雛里は敵が秋斗によって壊滅させられたとは知らない為に、徐晃隊と彼の連携で追い払えたのだと説明していた。

「彼が描いていた対価は以上です。曹操軍の練度と連携ならば、早期に袁紹軍のみ徐州から追い遣る事は出来るでしょう。華琳様は曹操軍のみで両袁家と戦う……つもりは無いと予測しておりますが如何ですか? 例えば孫策軍と密盟を結んでいる、とか」

 近くにいる者にしか聞こえない声音で思惑を言い当てられて、これから行おうとしていた全てを示されて、桂花はふるふると身体を震わせる。鳳凰と黒麒麟の先読みに恐怖が刻まれた。

「……徐晃の持ち出してきた対価は想像以上ね」

 素直に褒める華琳の言葉は……兵の被害を減らし、徐州を迅速に平定する為に最良の一手を打てる事を対価にしてきたから零れたモノ……では無く、それを含めて彼が自分を裏切るつもりだったと考えて。

「初めから私達は孫策軍を袁術軍に当てるつもりでした。あちらと交渉する準備も整えていましたし、孫権さんを見逃したのはその為です。美周嬢であればそのくらいの思惑は看破してくるでしょうから」
「ふふ、劉備軍にいる内から私達の為に働いていたかに見えるけれど……結局こちらの被害が増えて、徐晃が後々裏切るなら劉備軍はタダで通行できるという事だから私にほとんど利が無かったのね」

 華琳は言いながらも楽しそうであった。一度手に入れたのなら自分の元から離れさせるつもりなど毛頭ない、という自信が溢れ出ている。
 雛里は少しだけ泣きそうになった。主が臣下の才を正しく評価して用いる軍に大きな安心感を感じて。華琳ならば彼を従わせる事が、重荷を代わりに背負えるのだと感じて。そして……華琳がどれだけ孤独かを理解してしまった為に。
 それを人の心の機微に聡い華琳が見逃すはずも無く、優しく微笑んで雛里の頭を撫でた。

「雛里は今から私の天幕に来なさい。少し話をしましょうか」

 自分の事を気遣ってくれる心は嬉しくとも、華琳は弱さを見せる事は無い。
 雛里の心を案じて、弱さを吐き出させて受け止められるようにと提案した。
 一人の少女に戻りかけた雛里は、そんな華琳の気遣いを間違う事も無く、今はまだ軍師でいようと零れそうになる涙を抑え付けた。

「……か、華琳様、申し訳ないのですが個人の時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「劉備軍の陣内でまだする事があるのね?」
「はい、彼の御付きの侍女が二人いますのでその子達も曹操軍に連れて行きたいんです」

 桂花はその言葉を聞いて不快げに顔を歪めた。秋斗の在り方が華琳に近いが為に、所詮は下半身のだらしない男であるのだという判断を下してしまった。
 華琳も若干の不快感が込み上げて来て眉を顰める。秋斗の事を評価しているからこそ、大抵の下卑た男と同じように肉欲が前に出る者であるとは考えたくなかった。
 季衣はただ一人、何故華琳と桂花が不機嫌になったのか分からずに首を傾げた。

「構わないけれど……雛里が直接話に出すくらいなのだからただの侍女ではなさそうね」

 それは探りの言葉。秋斗にとってその二人がどのような存在なのか。先の席であれほど慕う男の為に泣き叫んでいた少女が連れて行きたいというほどの二人なのだから、疚しい所は無いはずだと希望を込めて。
 黄巾時代に華琳と桂花の嗜好を聞いていた雛里は、漸く二人が訝しんでいる意味を理解して慌て始める。

「し、秋斗さんは獣欲に振り回される人では無いですよ。劉備軍内で誰ともそんな関係を持った事は無いと彼に近しかった副隊長さんからも聞きました。
 彼に生きて欲しいと懇願されて、生きるなら彼の作る世界を見届けたいと言ってくれたんです。願いを持って彼を支えようと傍に居てくれる子達なんです。私も彼女達に支えられていましたけど」
「うーん……結局ひなりんが仲のいい友達って事だよね?」

 言われて思考に潜る華琳と桂花に対して、季衣は愛らしい笑顔を雛里に向ける。
 純真な心に触れた雛里はほっと安堵の吐息を漏らした。

「うん、そうだよ季衣ちゃん。二人は私の大切なお友達。……少し耳を寄せてください」

 一つ返事をした後に、三人は耳元で、

「二人の名は――」

 彼女達にとって驚愕の真実を告げられ、華琳は一つの場面を思い出す。

――そうか、洛陽で徐晃が霞に放った言葉の意味はそれだったのね。敵だからこそ、私が傍にいたからこそ霞に全てを伝える訳にはいかず、ただ生きているという事実だけを伝えた。存外、徐晃は甘い男なのね。しかし……こんなに嬉しい誤算があるとは思ってもみなかった。

 華琳の胸の内に来るのは歓喜であった。
 かつて自身が諦観の元に切り捨てた一人の王が未だ生きていて、思わぬ所から出会える事になったのだから喜ぶのは当然。野心渦巻く乱世の始まりに於いて、洛陽に一人だけ向かった誇り高い英雄をずっと求めていたのだ。
 元から月と詠は秋斗が向かう所に着いて行くと雛里には話しており、華琳の元に行くのなら霞が居る為に存在を明らかにしなければならないと決めていたから、華琳に守って貰う為に打ち明けたということ。

「分かったわ。その二人の身の安全は私が保障する。この戦が落ち着いたら直接二人と話してどうしたいかを決めで貰いましょうか。
 ……雛里はそれが終わったら必ず私の天幕に来ること。それまでは……鳳凰で居なさい。もうすぐ親衛隊の待機場所まで着くから季衣は雛里の護衛をしてちょうだい」

「ありがとうございます」
「分かりました! ひなりん、ボクが絶対に守るから安心してよ!」
「季衣ちゃんもありがとう。では、行ってきます」

 ペコリと一つお辞儀をして雛里は駆け、その横に季衣も並んで行った。華琳はその背を優しい瞳で見送っていた。

「桂花、諸葛亮の代わりにあの子と並び立ち、伸ばし合って支え合うのはあなたの役目よ。時間が経ったら後悔と自責の傷が痛むようになるでしょうからしっかりと気に掛けてあげなさい」

 いつものように御意と返した桂花の表情は喜び。
 華琳に自身が朱里に負けない軍師だと示されて歓喜していた。従った者を分け隔てなく愛する主が誇らしかった。そして、孤独な王を支える才豊かな者が増えた事が何よりも嬉しかった。

「さて、公孫賛くらいには会っておきたかったけれど……そうね、きっとアレは徐晃を信じる。雛里はそれまで見越して最後の言葉を残したのでしょう」
「はい。徐公明離脱の予防線を張ると同時にどんな事態にも対応できるよう人心操作の布石を打ったと思われます。これで今回手に入れたモノは予定よりも大きなモノとなりました」
「……予定以上、か。ふふ、乱世とは本当にままならないモノね桂花」

 手に入ったモノと手に入らなかったモノを数え、これからの乱世を想って胸を高鳴らせながら、覇王とその王佐は二人、大徳の陣を後にした。




 雛里は月と詠の元に着き、季衣を少し離れた所に待たせてから交渉の結果がどうなったかの説明を行い……静かに目を瞑っていた。説明の途中で幾度となく泣きそうになっていたがどうにか堪え、今も気を抜けば零れそうになる涙を抑えている。
 月の胸に来るのは大きな痛みであった。秋斗が現在、どのような状態なのかと気が気でなかった。自分のように秋斗が内に溜め込むタイプである事を熟知しているからこそ彼女の心配は大きい。
 詠は大きくため息をついた。ずっと予測出来るはずの事だったのに、それでも彼の強さに期待してしまった自分に落胆していた。支えると言いながらまた何も出来なかった、と。

「秋斗の失態、朱里の失策、桃香の失敗が全部重なった。早い内から劉備軍全体で話してたら上手くいったかもしれないけど、それでもあいつはここでは生きられなかったでしょうね。桃香はこれからも変わらないだろうし」

 冷静に分析を行っての判断に雛里も同意だというように首を振る。

「私も同感です。劉備さんは根本的に秋斗さんとは相入れません」
「劉備さんって……あんた真名を返したの!?」

 月と詠の表情は凍りつく。他人の真名を最大限に貶める行いをして未だに生きている雛里が異常に見えたのだ。

「私の仕える主ではありませんでしたから。それとあの場で斬って貰った方が華琳様への利となりますし、秋斗さんの劉備軍に縛られる鎖が外れやすくなると思いますので都合も良かったのですが――」

 瞬間、乾いた音が鳴り響いた。
 雛里の頬を打ったのは月。じりじりと熱を持ち始める頬に手をやって月を見やると、溢れるほどの涙を浮かべていた。後にゆっくりと、暖かく雛里は包み込まれた。

「ダメだよ雛里ちゃん。それじゃ秋斗さんが哀しんじゃう。もうそんな事を考えるのは止めて」

 怒られた雛里はぎゅっと眉を寄せた。
 ずっと彼の為にどうすればいいかを考えていた。自分が死ぬ事で彼の為になるならそれでいいとさえ思っていた。
 自分が消えたら彼が救われるのではないか、隣に居てはいけないのではないかと……黒い絶望に支配され何も映さない瞳を向けられて、無意識の内に雛里は自分を殺そうとしてしまった。
 真名の返還は雛里にとってしない方が良かった事。憎しみに駆られただけで感情的に侮辱行為を行うような彼女では無く、仕えるべき主では無いからと相手を貶める彼女でも無い。そして例えその先に彼が助かるのだとしても、自分を殺して他者だけの幸せを願う異端者に堕ちてはいけなかった。
 二人の様子を見ていた詠は厳しい目を雛里に向け、

「秋斗のバカがうつったわね。いい? 好きだからこそ二人で生きようとしなさい。あいつのアレは乱世の間もう治らないと思うけど、雛里はまだどうにかなるでしょう? 雛里まで落ちちゃったら誰があいつを元に戻すのよ」

 指を一つ立てて忠告を行った。
 生きる事の出来る状況で為される自己犠牲は誰も救わない。残されたモノの気持ちを考えない最悪の選択肢。詠と月の二人はそれを最も良く理解出来る。
 緩い吐息を吐き出し、二人の暖かさを受けた雛里は震える声を耳にする。

「秋斗さんは絶対に生きて欲しいって願ってる。詠ちゃんも私も生きて欲しいって思ってる。だから、ね? もうちょっと私達と頑張ってみよう?」

 ジワリと心に染み入る響きは、雛里に自分が一人では無いのだと実感させる事が出来た。詠は二人に近付いて、雛里の頭を優しく撫でた。

「大丈夫よ。あいつは話したら分かる奴だから」

 ただ彼が居ればそれでいいと願った。しかし雛里には仲間がいてくれた。
 一人で無理をしなくていい……それを示されれば雛里は自分を取り戻していく。平穏な日常を思い出していく。
 しかしまだ彼女は鳳凰でなくてはならない為に、いつもなら泣きじゃくる所であるが心を強く持って我慢した。

「ありがとう……ございます。私と一緒に、これからも彼を助けてください」

 それだけで十分だった。月も詠も雛里を挟んで力強く抱きしめた。洛陽でのいつかのように。
 詠も月も雛里を応援している。幸せになってほしいと願っている。彼女達はまだ自分の深い場所に芽生え始めた気持ちには気付いておらず、純粋に友として雛里の事を想っていた。
 ただ、詠は月の幸せを願う為に、これからどうなっていくかを予想して少しだけ心が落ち込むのも詮無きこと。
 幾分かそのままでいた三人であったが、誰ともなく身体を離した。

「もう纏めた荷物があるからそれだけ持って行こっか。桃香達には悪いけど」
「うん、桃香さん達よりも秋斗さんを助けたい。あの人が誰かに想いを託すとしてもほっとけないもん」

 二人は一寸だけ胸がチクリと痛んだ。自分達を助けてくれた軍に対して返すべき恩はある。それでも、命を救って先の世を見るように心を動かしたのは秋斗であるが故に、彼女達に迷いは無かった。
 言い辛そうに雛里が二人に顔を向ける。何事かと思った二人は目を丸くして見つめ返した。

「……私は鈴々ちゃんと白蓮さんと星さんに挨拶してきます」

 すっと目を細めたのは詠だった。月は哀しげに顔を伏せる。

「止めておきなさい。鈴々には桃香から説明させるべきだし、あの二人だってもう劉備軍。曹操に降る事を是と出来なくて今回の事を呑んだんだから公孫賛と趙雲には特に会うべきじゃない」
「私も今は会わない方がいいと思う。雛里ちゃんはもう自分から傷つかなくてもいい。このままじゃ雛里ちゃんまで……」

 二人に抑えられて、雛里は哀しげに俯く。
 白蓮はこれから絶望の底に落とされるかもしれない。それでも彼女は秋斗を信じ抜く可能性が高く、彼が劉備軍に戻った時に支えられる存在となる。雛里はそれを直接伝えておこうと思っていたのだ。
 彼の為に矛盾を否定する事を選んだが、もし彼が矛盾を貫くなら、少しでも幸せになれるように幾つかの予防線を残したということ。そして……彼が矛盾する事を辞めたなら劉備軍を壊すに足る毒を残したというのも一つ。
 自分自身の計算高さに嫌気が差すも、雛里は大きく息を付いて振り払う。

「分かりました。では直ぐにここを出ましょう」

 最後にぎゅっと抱きしめあって三人は立ち上がり、ゆっくりと天幕を出た。
 周辺の警戒をしていた季衣は雛里達に気付き、嬉しそうに駆け寄った。

「お待たせ季衣ちゃん」
「ううん、全然まってないよ。あ、初めまして! ボクは許緒って言います!」

 何処か鈴々に似た雰囲気を持った季衣の姿を見て、月と詠の二人からは警戒が解かれていった。

「今のボク達は真名しか持ってないから……詠って呼んで」
「私は月と言います」

 雛里から二人が持っていた姓名を聞いていた為に、一瞬悲しげに眉を寄せた季衣は……直ぐにヒマワリのような笑みを向ける。

「ボクの真名は季衣です。これからよろしくね!」

 謝罪は侮辱に当たる。同情はするべきでは無い。己の主が踏み潰した相手なら尚更。だから季衣は素直に、これから仲良くなれるように手を差し出した。自分達の行いを理解した上で。
 詠と月は驚いていた。幼い季衣にそこまでの心遣いが出来る事に。雛里は……姿は全く違う季衣が鈴々に被って見えていた。
 ふっと微笑み返した二人は差し出された両手をそれぞれ握る。これからよろしく、と言葉を乗せて。
 季衣は嬉しくて満面の笑顔で返し、そのまま楽しそうに語らいながら四人の少女は劉備軍の陣を抜けて行った。



 †



 曹操軍の陣に着き、桂花からお湯に浸した布で身体を拭くように指示され汚れを落としてから、寝間着を着させられた雛里は華琳の元を訪れていた。
 椅子に座る彼女も既に着替えており、普段とのギャップに雛里は少しだけ妙な気分に陥る。

「桂花の寝間着も似合ってるわね。こっちにいらっしゃい」

 すっと立ち上がった華琳は雛里の手を引いて寝台へと連れて行く。
 華琳の趣味嗜好を知っている雛里は……顔を真っ赤に茹で上げた。しかしこれも対価なのかもしれないと考えて何も言えず、ただ為されるがままに抱きしめられ……寝台に二人で倒れ込んだ。

「あわわ……しょ、しょの……」
「緊張しなくていいわ。話をしましょうと誘ったのだから、あなたの考えているような事はしないから安心なさい」

 耳元で鳴り響く鈴の音のような声にゾクゾクと変な感覚が駆け巡るも、話された内容を理解して雛里はほっと安堵した。
 後に彼女は思い出す。いつもは彼の腕に抱かれて楽しい話をしていた事を。切なさと寂しさを悟られないように、雛里は顔を俯けた。

「何から話ましょうか……それともあなたから話したい事があるかしら?」

 優しい声音は今まで聞いていた覇王のモノとは違い、じわりと雛里の胸を満たしていく。
 戦場から此処まで彼の為だけを想って動いてきた彼女は、漸く一人の少女としての誰かに頼りたいという弱さが内から滲み始めた。他人の温もりを受けてしまうと、彼女はもう抑える事が出来ない。

「……私は彼と一緒にいていいんでしょうか」

 ポツリと内に渦巻いていた疑問を零す。自分を映さない昏い瞳が思い出されて心が悲鳴を上げる。
 強張った身体を感じて、雛里に続きを促すように華琳は少しだけ抱きしめる腕に力を込め、落ち着かせるように背中を数回叩いた。

「私が居なければあの人は劉備軍に所属する事は無かったんです。初めて出会った時に親友に嫉妬する私を優しく導いてくれて、もう少しだけ一緒に居たいと願って桃……劉備さんの元に連れて行ったんです」

 華琳は何もいわずに雛里の話に聞き入っていた。彼女にとって秋斗と雛里の過去の逸話は、秋斗の人となりを再確認出来るいい機会な為に。

「所属を決めた後、秋斗さんは人を殺す事が怖くて、いつ賊討伐に駆り出されるかと怯えながら練兵をしていました。私も同じように怖がってましたけど……彼はもっと怖がってたんです。でも最初の賊討伐で彼は覚悟を決めました。平穏な世に生きていたかった人の為に命を奪う、もう理不尽に殺される人が出ないように世界を変えると強く示して」
「そこから徐晃の全てが始まったのね」
「はい。秋斗さんの……徐晃隊の根本にあるモノはその時から始まりました。如何な犠牲を払おうと、この大陸に壊されない平穏を、誰もが願った平穏な世を作り出す、と」

 ほうと華琳は息を付いた。
 自分と同じ思考が生まれた話を聞いて、自身の過去を振り返っていた。
 華琳は人を殺さずにそこに至った。持って生まれた天与の才と、家族から聞く上層部の昏い話を耳に入れ、貧困や飢餓に喘ぐ民達の姿を見て……幼い時分の彼女は自身の天命を信じ、この大陸に悠久の平穏を齎す『覇王』になろうと誓ったのだ。
 秋斗が人を殺してそこに至った事は華琳にとって意外であり、同時に納得がいった。

――世の中の現状を見て自身から捻り出された思考では無く、他者と関わったが為に起こった思考。自分が人殺しという究極の理不尽を行って初めて背負おうと思ったわけか。私や劉備のように初めから人を救いたかったわけでは無く、他者を殺めてしまったから人を救いたいと願うようになった。だからあれほどまでに異質な存在なのか。

 着々と秋斗の人となりを把握し始める華琳は積み上がる思考をそのままに雛里の言葉にも耳を傾け続ける。

「初めから劉備さんの理想の穴にも気付いていて、私達が人の綺麗な部分しか見ていないのも分かった上で彼は劉備軍に所属し続けていました。連合で飛将軍に殺されかけて……その時に私はあの人の目指す世界を聞きました」
「それはどんな世界だったの?」
「始まりに多少の格差はあろうとも個人の努力の度合いによって人それぞれが自分の幸せを安心して探せる平穏な世界。
 身分や血筋ではなく才で評価され、才あるモノは民のためにそれを振るう。守られているだけではなく民にも才伸ばす機会が与えられ、皆で法と規律による秩序の中で競い合い助け合い成長し合う世界、とのことです」

 華琳は大きく息を付いた。やはり自分と同じ世界を目指していたのだという安堵であり、それを目指していて何故自分の元へ来ないのかという呆れの吐息。
 その様子を見て、雛里は華琳の考えている事に予想を付けた。

「華琳様、あの人が劉備さんに拘る理由はより大きな乱世の後に作ることの出来るより大きな治世が一つです。でも……私は違う理由もあると思っています」
「……それは一番近くに居たあなたにも分からない事なのね」

 コクリと小さく頷く。後に雛里はフルフルと震えだした。
 何が彼を苦しめるのか分からない。死者の想いに引き摺られるとしても、そこまで執着するはずが無いと考えていた。自分を責めているのは知っているが……妄信と言えるほど桃香を信じるはずが無いと理解していた。
 天才だと持て囃されようとも彼を助けられない自分が口惜しくて、ずっと隣にいたはずなのに彼を救えない自分が憎かった。雛里は耐えきれず、ポロポロと涙を零し始める。

「私がわがままを言わなければ、初めからあの人は華琳様の元へ行っていたかもしれないんです。そうすれば矛盾に押しつぶされる事も無くて、自由に天を駆けられたはずなんです。だから……全部私が……」

 次第に消え入る声は華琳の胸にさざ波を作り出す。雛里がどれだけ傷ついているのか、一人の男を愛しているのか理解して。

「……あなたは優しいわね。でも、それがあったからこそあなたは徐晃と絆を繋げた。その巡り合わせを自分で否定してはダメよ」

 厳しく、されども優しく諭す言葉は暖かく、雛里の胸に染み込んで行く。その温もりは初めて彼に出会い、話を聞いてくれた時に似ていた。

「思い出してみなさい。徐晃はあなたと居てどんな顔をしていたかしら?」

 頭に思い浮かぶのは様々な表情。しかし、圧倒的に笑顔が多かった。
 時には楽しそうにからからと、時には恥ずかしそうに照れを隠して、時には優しく微笑んで、そしていつも……雛里には敵わないなと言いながら。

「……っ……いつも……笑って、くれました……」
「なら後悔はしなくていい。楽しい日々は確かにあったのだから、それは大切にするべき宝なのよ」

 ぎゅっと華琳の胸に顔を埋めて、雛里は小さく嗚咽を漏らし始める。

「耐えなくていいのよ? あなたの望みを言っていい。私にはわがままをぶつけていい。これからは……私が、私達があなたを助けるから」

 プツリと、雛里の保っていた心の糸が切れた。
 だから……彼女は華琳の服を握りしめて、彼女のくれる暖かさに泣き縋った。

「うぁ……っ……あの人をっ……助けて、ください……もう……苦しんで欲しく、ないんです……」

 嗚咽交じりに零した願いは華琳の胸に響く。

「華琳様しか……っ……あの人を、包み込めないんです!」

 次第に大きくなる切望の声に、大丈夫というように華琳は雛里の背中を撫で続けた。

「あの人は私を見てくれなかった! あの人は私じゃ救えなかった! 想いを伝えあっても届かなかった! もう……あの人に心を砕いてほしくないんです! 自分に嘘をついて欲しくないんです! 華琳様を裏切ったら、彼は自分を失って人を外れてしまいます! 乱世が終わったら彼には何も残ってないんです! だからっ……だからぁ……っ!」

 言葉が途切れ、雛里はそのまま叫びを上げた。
 ごめんなさいと、何度も零しながら泣き続けた。

 一人、高みに立ち続ける孤独な覇王に頼る事が申し訳なくて
 一人、高みに向かおうとした彼を押し上げる事を諦めて

「ごめん、なさい……ごめんなさい……どうか、彼を……助けて……」

 優しい彼女は懺悔を零し続ける。二人に自身のわがままを押し付けた自分が憎くて、それでも二人で幸せになりたくて。
 自分が彼と幸せになりたいから、彼に人として幸せになって欲しいから……一緒に平穏な世を生きたいから

 覇王に想いの重責を預けた。
 黒麒麟に想いの諦観を求めた。

 少女の優しさを知りながら、彼女の願いを華琳は受け止める。それが自分の為すべきことだと心を高め、自身が望めないモノを手に入れて欲しいと願い返して。
 そして寂しさを抑え込む。ただ一人、天の頂に立って世を救う為に。
 泣き止むまでずっと華琳は雛里の言葉を受け止め続けた。
 泣き疲れて眠ってしまっても、雛里の心を守るように優しく包み込んでいた。

 星煌く夜天の空はまだ明けず。
 しかし鳳凰は……世を照らす日輪の元へと飛び立ち、誰もを導く光に照らされ始めた。















 †



 隠れさせている徐晃隊の部隊長さん達にこれからの指示、そして詠さんと月ちゃんからの激励手紙を添えて曹操軍の斥候に持たせて幾日。
 劉備軍は華琳様の治める領を行軍し始めたが……驚く事に一万の兵が曹操軍に降った。
 その兵達は孫権軍との戦に参加した兵。彼が『家を守ろう』と示した新参の勇者達だった。徐州を守りたいから劉備軍には付いて行かない、ましてや自分達を導いてくれた黒麒麟は此処にいるのだから、と。彼が行った白蓮さんの真似事の効果は絶大だった。
 劉備軍はその兵達の想いを汲み、残った兵達が行軍出来るだけの糧食以外を置いて送り出した。
 徐晃隊やその隊となら指示を出しやすいと判断して戦場へ向かおうとするも、華琳様に止められた。
 曰く、秋斗さんが目覚めた時に傍に居るべきなのは私であり、出来る限り平穏な日常を意識させた方がいいとのこと。
 月ちゃんも詠さんもそれには同意なようで、私と共に付近の出城で秋斗さんの目覚めを待っていた。
 城に到着してもう六日、未だに彼は目を開けていない。
 うなされる事は無くとも、死人のように蒼白な顔で彼は静かに与えられた寝台に横たわっていた。

 世話をした。話し掛けた。頭を撫でた。……口付けもした。
 涙も流した。笑顔も作った。怒ってもみた。
 毎日一人で、時には三人で、彼との時間を過ごしていた。

 それでも彼は起きなかった。

「秋斗さん……」

 もう数え切れない程呼びかけた彼の真名を口にする。何も返してくれない。前までなら不思議そうに見つめて来た黒い瞳は無く、心暖めてくれる穏やかな声音も無い。

 揺すってみた。
 抱きしめてみた。
 手を握ってみた。

 温もりはそこにあるだけで、私に何も与えてはくれなかった。

「……起きて」

 彼がこのまま死んでしまうのではないかと何度も恐怖した。だから私は願いを紡ぐ。

「……起きて」

 目を覚ました時にいつもの笑顔を向けてくれるのだと信じていた。だから私は想いを向ける。

「……っ……起きてっ」

 そっと届けてくれた甘い愛の囁きをもう一度聞かせて欲しい。生き残って自分からもう一度伝え直すと私は言った……その約束を果たしたい。だから私は祈りを捧げる。

「……うぅ……起きてっ……お願い、ですから……」

 涙が零れても、彼が抱きしめてくれたら止まるから。

 もう一度、呆れたように笑って。
 もう一度、優しい瞳を向けて笑って。
 もう一度……いつもの言葉を聞かせて。
 あなたがいればそれでいい。
 私はそれだけで幸せだから。


 今日も目覚めない。それならもう寝ようと思って、手を握ったままで上半身だけ彼の眠る寝台に倒す途中、零れ落ちる涙が一粒だけ彼の手に落ちて……ピクリと、握りしめた手が動いた。
 空白となった思考。私の心に浮かぶのは歓喜……では無く、愚かしい事に怯えだった。
 何も映さない昏い瞳が頭に思い出される。彼が私を見てくれない事が怖くて仕方ない。怒ってくれるならいい、あたってくれてもいい、憎んでくれてもいい……でも、ちゃんとここにいる私を見て欲しい。
 どうか、彼が彼でありますようにと願って、怯えを心から追い払うと……漸く嬉しくて、愛しくて、耐えようのない気持ちが止めどなく溢れ出してきた。
 ゆっくりと彼の目が開かれる。湧き上がるのは、彼が生きていてくれて嬉しいと、それだけだった。
 ぼんやりと、彼は宙を見つめていた。後に、私に視線を向ける。
 ドクンと心臓が大きく跳ねる。身体に熱が込み上げてきて、心が暴れ出し始めて、私は言葉を紡ごうとしても、何故か何も出て来なかった。
 それは罪悪感からの抑圧であったのか、それとも心に言葉が追いつかなかったのか。
 ただ……彼の瞳が綺麗すぎたからなのかもしれない。
 彼の瞳に絶望渦巻く昏さは無く、悲哀込み上げる暗さも無い。

「……ここは?」

 暖かい声音は戦場を住処とする黒麒麟のモノでは無く平穏を生きる彼のモノ。私は直ぐに思考が回り出す。

「ここは華琳さ……曹操様の領内にある出城の一室です。倒れてしまってから七日も眠っていたんですよ」

 彼は大丈夫かと心配する心と同時に、報告ならばこんなにも直ぐに言葉に出来るのかと哀しい気持ちが湧いてきた。
 秋斗さんは視線を外してそのまま押し黙る。
 何を考えているのか聞いてみたかった。でも、自分で答えを出せるならその方がいいから何も聞かなかった。
 私も思考を回していく。その最中で、何故か頭の隅に警鐘が鳴り響いた。

――どうして、絶望の海に沈んだのに彼はあんな綺麗な瞳をしているのか――

 むくりと彼は身体を起こした。走る痛みに顔を引き攣らせながら。
 後に、私の大好きな優しい笑みを向けてくれた。
 だから私の思考は嬉しさで真っ白になった。心は幸せで満たされていった。
 頭に鳴り響く警鐘が聞こえない振りをしてしまった。

――どうして、いつも通りに彼は将としての現状把握をしなかったのか――

「そうか……俺が眠ってた間の世話をしてくれたのか。ありがとう」

 穏やかな声音は私の胸を満たしていく。
 鳴り響く警鐘は警告に変わっていく。

――しっかりと彼の様子を見極めて、何がおかしいかを理解しなければならない。ほら、おかしい所はこんなにある――

 愛しさ溢れる気持ちに思考が勝てるはずも無く、彼に抱きついて言葉を返そうと……する前に頭を撫でられた。初めに出会った時のように優しい手つきで、やっと温もりを与えてくれた。
 心と思考は混ざる事は無く、されどもどちら共が事実を理解する事を拒んでいた。
 最後の警告が頭に響いた。

――此処にいたらダメだ。この人とこれ以上話してはダメだ。この先の言葉を聞いたら……絶対にダメだ――

 彼の口から続きが紡がれた。

 そして世界は……残酷だった。














「名乗りが遅れたな。俺の名は徐晃、徐公明だ。倒れたのを覚えてないんだが……助けてくれてありがとう。恩返しがしたいから君の名前を教えてくれないか?」








 私が大好きな人は

 私が愛した人は

 私が救いたかった人は

 私が共に生きたかった人は
 

 遂に壊れて、この世界から消えてしまった。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

白蓮さんの話は後回しです。

明日か明後日に投稿する次話で第一部「偽りの大徳編」を終わりとします。

次の話ではこの物語における沢山の事柄を明らかにします。
ではまた 
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