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乱世の確率事象改変

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他が為の想い

 
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 幾多のうめき声を上げ、倒れ伏す金色の鎧を纏った兵。
 ハリネズミのように身体中に矢を突き立てて絶命しているモノは少なくなかった。
 歪な円形に切り取られたその中心では、木の盾を掲げて纏まっている徐晃隊の面々が立っていた。
 されども、円周の隊員達の脚や身体には矢が突きたっている。フルフルと震えながらも立ち続けるその姿は誇り高く、突然の矢の雨から近づけない敵兵たちの心を怯えさせるには十分であった。
 断末魔と鈍重な打撃音が一か所だけ、戦場では鳴り響いていた。
 黒一色に色を統一した衣服を纏い、自身の身長よりも長い剣を振るうそれは圧倒的な暴力を戦場に齎している。
 馬から降りた秋斗の武はケタが違うのだ。
 敵の武器を払うでなく避けながら近づき、打撃と剣戟で並み居る敵兵は吹き飛ばされ、斬り飛ばされるのみ。
 練度が低く、怯えて攻撃も中途半端、連携の取れない袁紹軍の兵では一重の刃さえ掠らせられず、徐々にその数を減らしていく。
 漸く、秋斗は敵の壁を抜ききって徐晃隊の元に辿り着いた。
 また敵味方関係なしの矢の雨を警戒して纏まり続ける徐晃隊であったが、秋斗のその姿を目にいれてすぐさま方円陣に切り替わる。
 ただゾクリと、徐晃隊は寒気を覚えていた。
 秋斗の瞳が嘗てない程に冷たく、目を合わせただけで自分の命を諦めざるを得ないような感覚に呑み込まれて。
 次に沸き立つのは悔しさ。
 御大将が馬を下りてまで戦わざるを得ない状況に追い込ませたのは、抜けきる速度と敵兵を屠る力の足りない自分達であると責めるがゆえ。
 徐晃隊の動きを見て……敵兵も待ってくれるわけがない。足元に人が倒れていようとお構いなしに、膨大な敵兵が雄叫びを上げて再度包囲網を築き上げた。

「……無事ですかい、鳳統様」

 方円の中心、蹲る副長は身体を離さずにそのまま雛里に声を掛けた。副長の背中には二人の徐晃隊が圧し掛かり、代わりに矢を受けて絶命している。乗っていた馬も同じようにその横で倒れ伏していた。
 返答は無言。
 無理矢理身体を少し起こし、ズルリと背に乗る徐晃隊を振り落して、副長は雛里を確認した。
 身体に外傷は無い……しかし、反応が無い。
 急ぎ、心臓の音を確認すると、小さな鼓動が響いていて、ほっと安堵の息を漏らした。次いで頭を少し確認するとこコブが出来ており、急な下馬から頭を打ったのだと分かった。
 応急処置を出来るはずもないが、秋斗によって知識を齎されている為に、なるべく動かさない方がいい事は知っていた。ただ、抜ける為には誰かが背負っていくしかない。

「鳳統様は無事だ! 生き残っている部隊長は彼女を背負ってくれ!」

 誰に言うでもなくただ大きな声を張り上げた。背中を向ける徐晃隊から一人が副長の元に近付き、無言で雛里を背負う。
 やっと立ち上がった副長は、人より大きな体躯の為に戦場がよく見えた。
 膨大な金色が埋め尽くし、剣戟の音が常に鳴り響いている此処はまさに自分達の生きる戦場。
 抜ける為の場所は彼の前しかないと思われるが、一番に敵兵が集中しているのもそこであり、何処が抜けやすいとも言い難い。
 周りを確認すると、矢傷を受けた徐晃隊員の顔色が真っ青であった。

「おい、てめぇら……まさか……」
「へへっ、どうやら毒矢が混ざってたみたいだぜ。それを喰らった俺らに残された時間は少ねぇ。まあ、タダで死ぬわけにはいかねぇな。あばよ、楽しかったぜ」

 不敵に笑いながら、親指を突き立てた拳を示して、その隊員は細い隙間を縫って最前列へと飛び出して行った。
 グッと、胸に来る憎悪の感情を押し留めて、副長は背中から通常より小型の斬馬刀を抜き放つ。

「御大将の右側への道を開けろ! 俺も出てやらぁ!」

 秋斗の周りに行く事は徐晃隊には出来ない。違いすぎる実力から、乱戦に於いて本気を出した彼の周りにいては副長でさえ足手まといになりかねないのだ。
 肩を並べる事が出来るのは燕人か軍神、昇龍のみ。だからこそ、副長はいつものように秋斗の負担を減らす道を選んだ。少しでも敵兵が自分に集中するようにと。
 最前に飛び出した副長が振るった斬馬刀によって幾人もの敵兵の脚が千切れ飛ぶ。まず一列。
 後ろから飛び出し駆ける徐晃隊の刺突によって突き殺す。さらに一列。
 いつもなら、このまま押し切る為に強引に前へ前へと進むのだが、また先程のように矢の雨が来る可能性を考えると広がりすぎる事は出来ず、じわりじわりと纏まりながら進むしかなかった。
 絶望の戦場で徐晃隊のその数――――たった八百余りであった。




 真っ白な頭。思考に潜る事も出来ず、ただ作業のように淡々と、敵兵を切り飛ばしていた。
 目の前の敵兵の一人は……最速の縮地からの中段蹴りで前に吹き飛ばし、合わせて向かい来る右の兵は……身体を捻りながらの切り払いで腰から下を真っ二つにした。
 怯えて下がる兵に掌底を叩き込み、跳躍から真一文字に振り下ろした刃で涙を滲ませた兵を縦に割った。
 哀しみに暮れる心はそのまま、憎悪に燃える感情は無い。
 副長の声が聴こえ、雛里が生きていると聞いて、安堵と共に漸く俺の頭は回り出す。
 ここから生き抜く為にはどうすればいいのか。
 人を殺しながら考えても、既に絶望の答えが弾きだされている。
 認めたら終わりなのだ。それでも、冷静に全てを判断する頭は持っている。
 毒矢が混ざり、再度の矢の雨も有り得て、敵はこちらの十倍以上。抜けきる為には力が足りず、抜けきっても逃げ切るには足りない。
 確実に殺す為だけに来ているのなら、降伏しても生き残る事が出来ない。

 だから……雛里だけでも生かそう。

 一つ、ずっと考えていた事がある。
 俺が死んだらこの世界はどうなるのか。
 もし、俺という異物によって影響を与えられた人物が、俺の想いを繋いでくれたなら……それは世界改変になるのではないか。
 そう考えて、俺は本城に残した徐晃隊の一人に一つの書簡を埋めた隠し場所を告げておいた。
 決して開けるなと上位命令を敷いて、民に紛れさせ、いつか来る時に雛里と朱里に渡るように手を打っている。
 俺が死んだらその存在を二人の天才に伝えるようにと。今回の出立前、桃香の選択後が分の悪い賭けになる為に行わざるを得なかった。
 書いてある事は未来の知識の多くと、乱世での大局の事。曹操を倒すならばどのような戦にするかが第一。
 俺が死なない事が大前提だとしても、戦を行っているのだからふいに死んでしまう事もあるはずなのだ。
 だから残した。全てを。天才たちが煮詰めれば役に立つモノを。虎牢関で呂布に殺されかけてから内密に書き進めていたモノを。
 俺は天才では無い。
 まがい物の実力と、この時代にあるはずの無い知識でそう見せているだけ。
 落ちた時からこの世界の人間にとっては嘘つきで、自分の都合で乱世を掻き回す侵略者。
 そんな俺は死ぬまで嘘を貫き通してから死ねばいい。
 俺もバカ共のように想いを繋いで貰う一人になるんだ。
 あの子が幸せに生きてくれる世界の為に、目の前の肉を全て切り払って死んでくれよう。




 幾刻もの方円陣での進撃も、そろそろ限界が見えてきていた。徐晃隊の連携も、副長の動きも、秋斗の暴力も、全てが鈍く、鋭さが無くなっていた。
 秋斗の身体からは血が滴り、細かい傷が多い為に徐々に体力が奪われている。
 副長も徐晃隊も、連携を齎す数が圧倒的に少ない為に休憩のスパンが短く、さらには大きな傷も小さな傷も受けている為に肩で荒く息をしていた。

「密集形態! 体力を絞りきって俺の後に続け!」

 張り上げた声は力強く、徐晃隊に最後の希望を与える。もはやそれしか手が無い事は誰しも分かりきっていた。少しでも数を減らし、最後の最後でそれを行うしかなかったのだ。
 ふいに、秋斗が自身の首から引っさげていた笛の紐を引き千切って徐晃隊の一人に投げやった。

「副長に伝えろ! 必ず生き残り、雛里を守りきれとな!」

 コクリと頷く隊員を見てから振り向いた秋斗は一人、敵の立ち並ぶ場所に無理やり突っ込んで行った。
 振り下ろされる剣も、突きだされる槍も、ギリギリのところで躱しながら前へ前へ。
 吹き飛ばす方向も、斬り飛ばす方向も、全てが前へ前へ。
 追随する徐晃隊達は、彼に群がろうとする敵を薙ぎ払い、突き殺し、前へ前へ。
 それでも……やはり足りなかった。
 少なくない数の槍は動きの鈍った秋斗の身体、そこかしこの肉を抉り飛ばし、幾重もの剣は彼の大きな身体を切りつけて行く。
 しかし、黒麒麟は止まる事をせず。
 思考も、感情も、想いも、願いも……全てが一人を生かす為に収束されていた。
 自分の代わりに役割を押し付ける多大な罪悪感も、生きていたら幸せになれるのだと信じて。
 愛しい彼女が幸せになれる未来を願って。
 どれほど駆けたのか、どれほど敵を殺したのか、どれほど殺されたのかも分からないままに、彼らは進んで行く。
 遠く、丘の上にある陣の外でそれを見ていた郭図は恐怖に取り込まれて……いるはずも無かった。

「クカカ、頑張れ頑張れ。ほらもうすぐだぜ? そこは兵を少なくしてやったんだから、もうすぐ兵の壁を抜けられるんだぜ黒麒麟ちゃんよぉ! でもざぁんねん! そこには何がいるか考えてないのかなぁ!?」

 楽しそうに、壊れる寸前のおもちゃで遊んでいるかのように、郭図は高らかに笑った。
 人が死ぬ事には拘らない。どれだけ殺されようと構わない。自分の目的さえ達成出来れば問題は無い。
 兵は駒、足りなくなったのなら集めればいい。無理なら簡単な手段で敵を殺せばいい、と。
 郭図は勝ちを確定と見て、一つの伝令を飛ばした。

「文醜には分岐点まで陣を下がらせろ。もうあいつの追撃も必要ねぇ。大徳は屈辱と絶望の果てに袁家に頭を垂れる。張コウや田豊の奴が裏切り者になるかどうかの……楽しい余興に使わせて貰うぜぇ」

 にやりと三日月型に口を歪めた後に、本城に到着したであろう明達のこれからを考えて、控える兵が持っていた杯を掲げた。




 後少し、ほんの少しで兵の壁を突き抜ける。
 思考を戦闘にのみ向けていた為に、俺はそれが来る事を考えていなかった。
 漸く、抜けた。後は笛で月光を呼び寄せ、副長に駆けさせるだけだと思っていた。俺が殿を勤めればいいと、そう思っていた。

 ただ……現実は無情だった。

 眼前に広がるは数多の列を為した弓兵。
 先ほどとは違い、膝を着いた直射の構えで狙いを定め、円形に陣形を組んでいた。
 誰でも分かる程に逃げ場が無く、蹂躙するにも距離が遠く、俺一人ではどうしようも無かった。
 俺の脚がピタリと止まった。後続の徐晃隊は敵の壁から溢れ出し、俺と同じように脚を止めはじめた。
 胸に来るのは絶望だった。
 もう、雛里を生かす事は出来ないのだと、心が折れかけていた。
 しかし、あの子の笑顔を思い出せば、折れるはずも無かった。

――いやだ

 ポツリと、小さく胸の内に火が燃えた。

――好きな女一人守れないのは……いやだ

 抗う心は絶望を理解して凍った頭をかき乱しながらも溶かしていく。

――奪う側は俺だ

 眼前に居並ぶ兵列からは遂に矢が放たれ、スローモーションで俺達に近付いてくる。

――全てを奪って、俺が幸せを与えるんだ

 ふいに、思考にノイズが走り、虎牢関での白の世界の記憶が鮮明に思い出された。

――世界を変えろと言うのなら、俺にその為の力を寄越せ。俺はもうどうなってもいい。ぶっ壊れて、平穏な世界に生きられなくていいから

 懐かしい白の世界で、一人の少女の笑みが深まっていた。

――たった一人の大切なモノを守れない奴が、世界なんざ変えられるわきゃねぇだろ……だから

 矢の壁を弾き飛ばしながらも、ノイズは大きくなり、視界も、思考も、全てが……

「俺にっ……あいつを守る力を寄越しやがれクソガキがぁ!」

 全てが白に包まれた。



 †



 真っ白な世界にぽつりと佇む少女に懐かしさを感じていた。
 ただ、胸の内に溢れる憎悪は留まる事を知らず、武器があるなら切り殺したやりたいと、秋斗は感情を叩きつける。
 涼やかな、見下すような瞳で受け流しながら、にやりと三日月型に口を引き裂いていた少女は指を鳴らし、それを合図に暗転しているモニターが現れた。

「一回しか使えないモノをただ一人だけ助ける為に使うなんて……後悔しますよ? 一つだけ聞いておきましょう。お前は自分の幸せを投げ捨ててでも世界を変えたいんですね?」

 唐突に発された一言に秋斗はさらに怒気を溢れさせた。

(お前が好きに動けと言ったんだろうが。俺の幸せなんざいらねぇから、雛里を救わせろ)

 ため息を一つ。その少女は宙に手を掲げて、キーボードを取り出してカタカタと文字を入力していった。

「心に留めておいてください。今回の暴走のせいで『世界側の強制介入による認識操作』が入りますからお前だけは絶対に幸せになれません」

 最後の一文字、そしてエンターキーを大きく鳴らすと……秋斗の思考はぐるぐるとまわり出した。

(知るかよ……あの世界に生きて、る奴らが……雛里が幸せ、ならもう……それで、いい……あいつ、が願うなら……俺のも、掴みとって、やる……バカが)

 靄のように、その場から秋斗の存在が消え去った。
 何も音が無く、少女以外の気配のないその空間に残ったのは怒りの後の静寂だけ。
 プツリとモニターの電源が入り、その少女が目を向けると画面には血の海が映し出されていた。
 黒き衣を纏い、居並ぶ敵兵も、向かい来る矢も全てを薙ぎ払い、壊していく存在がそこにあった。
 その姿に憐憫の瞳を向けて、茶髪の少女は一人、懺悔のように言葉を紡いでいく。

「この外史は発生が特殊なので一つの存在が認識されずに噂だけで留まっていましたからね。
 本来は確率収束点付近もしくは以降で使う事によって存在定着率を半分下げ、ぼかした状態ならお前自体も幸せになれるはずだったんです。
 でももう無理です。存在定着率の低い今の時点で『妲己姉さまの尻尾』を使って武力を上げると……世界側に認識されますから。
 この二重雑種(ダブルブリッド)でしか収束点は越えられませんし、暴走のせいで『貴人ちゃんの弦』も限界、この外史はこれ以上の事象干渉ループに耐えられませんので、今回の事象で変えられなければ次の手を打つしかないでしょう。
 幸いな事に『実数外史』への介入は始まってます。天の御使いのせいで制限された分化は、天の御使いを否定して変えてしまいましょうか。
 この『虚数外史』……“天の御使いがいなければ、という実数外史内の人間の想念で生まれた”……この外史で変えてしまえなければ……ね。
 さようなら、ただの徐公明。そしてようこそ、虚数外史に於ける矛盾した天の御使い。これからも掻き回して踊ってください」

 少女が言い切ると同時にモニターの下に文字が流れていく。

『虚数外史適性者“徐晃”
 妲己の尻尾解放、一時的な武力制限突破 外史共通上限、飛将軍呂布に移行しました
 存在定着率エラー、妲己の尻尾永久喪失 殲滅以降は通常の武力に固定されます
 外史管理上位個体“ジョカシステム”が適性者を観測、徐晃が天の御使いと認識されました』

 じっと見つめていた少女は小さくため息を吐いた。

「全く……貂蝉達が北郷一刀を幸せにするために呉の曹操を大陸から逃がすからこんな事になったんです。蜀にしても、五胡なんて攻めてこずに曹操と血みどろの戦争するはずだったんですよ。そのせいで世界のルールが固定されてしまったんです。
 それに北郷が幸せになる為に、なんてことをしたら正史の人間に影響を与えすぎるから外史の分化が偏るんですよ。北郷がいなければ恋姫外史と認めないなんて考える人間も出ますし、どれだけの虚数外史が紡がれずに否定されて途中で壊れて来たか分かって欲しいモノです。
 無限大の可能性が北郷のおかげで確立されたのに、残滓である他の北郷のせいで実数固定制限されていくなんて最悪です」

 心底面倒くさいというようにモニターを見やる。
 次にはっとした少女は、

「そういえば、こんな状態で解放したら何が起こるか分かりません。もしかしたら過度な重圧で精神的に不安定になると暴走時のように『弦』が不安定になって弾き出されるかもしれませんね。そうなれば――」

 ぶつぶつと自身の中で予測を組み立てて行った。



 †



 副長の心に来るのは純粋な恐怖だった。
 己が掲げる主は『人』であったはずなのだ。だというのに、あれでは本物の化け物ではないか、と。
 紙屑を散らすように兵が弾き飛ばされ、一太刀毎に五人、鎧ごと切り捨てられていく。
 蹴りを放てば敵の身体は人のカタチを外れ、拳を叩き込めばその背を突き抜ける。
 それは虎牢関で見た飛将軍が如き暴風。人であれば誰しも勝てるはずが無く、近づくモノは全てゴミ同然であった。
 例え武人であっても勝てない。ソレと同じような化け物は、袁紹軍の武将三人と戦った後に、軍神と燕人と黒麒麟を無傷で倒し、孫呉の戦姫と宿将と袁家二枚看板を切り抜け、虎牢関を一太刀も浴びずに勝ちぬけたのだから。
 その化け物と同じように、彼は今、『人』では無くなっているのだと、心が恐怖に彩られる。
 次いで、心に来るのは不思議な想いだった。
 じわじわと広がっていくそれは、昔聞いた事のある噂と重なっていく。

――あの方は、御大将はもしかしたら俺達とは違うナニカなのかもしれねぇ。いや、そうなんだ。御大将こそが……乱世を治世に導き、大陸を救う『天の御使い』なんだ。

 男にしては異常な武力、大陸の外にあるはずの広い知識、乱世を終わらせて平穏な世界を作り出さんとする高き心。
 どれを取ってもそれに当てはまっていく。
 茫然と、恐怖につられて逃げ出す敵兵を余所に彼を眺める他の兵も、彼の事を副長と同じように認識していく。
 副長達は他の事も頭に浮かんだ。
 人は大きな力を得る時に何かを支払う。
 才ある武人ならば、膨大な時間を掛けて力を得る。
 凡人ならば、膨大な時間と血みどろの訓練を以って、さらに命を差し出して力を得る。
 それでは……彼は、何を対価にあの力を振るっているのだ、と。
 最初からそれが出来るならば、飛将軍に殺されかける事も無く、この窮地に追い込まれる事も無く、一人でも多くを救うために最前線で戦い続けてきたはずなのだ。
 誰かを救いたいと言いながら、力を持っているくせに使わないモノは誰もが憎むモノである。
 人を殺したモノが、強大な力を持っているくせに、後ろで指揮を取り続けるのなら、誰もついていくわけが無い。
 それを分からぬ彼では無く、出し惜しみをする彼でも無い。
 だから……彼はナニカを差し出してあの力を得ているのだと、副長も、徐晃隊の面々も考えていた。
 この戦闘が終わったら、彼は『人』に戻れるのか。否、彼は彼で有り続けられるのか。
 現に、その姿は、その瞳はもう『人』では無い。
 人を殺す時の無表情はいつも通りだというのに意思が感じられず、操り人形のように他者を殺し続けるそのモノは、皆が慕い、共に戦い、守りたいと願った彼では無いのだ。
 楽しそうながらも寂寥を隠した声で指揮を取り、からからと嬉しそうに笑い、人死にで苦悶を刻み、誰かがふざければ呆れたように苦笑し、からかわれてへたれながらも怒る……そんな彼が一欠片もいない。

 ふいに、彼らの瞳から涙が零れた。

 それはそんな姿になってまで――彼が絶対になりたくないと零していた――ただ言われるがままに人を殺すだけの存在になってまで先に繋ぐモノを守ろうとする愚かな彼への同情でもあった。
 優しいから、殺す人にも想いを向けているのが彼であったのに、それを捨ててはもう彼では無くなってしまうというのに。

 それは自身への悔しさでもあった。
 人を外れる程の力を振るわせなければならない程、己が主の力になれない自分達があまりにも無力過ぎて哀しすぎて。

 それは殺されたモノ達への想いでもあった。
 今、殺されているモノ達は、彼に想いを繋いで貰えない。人として扱って貰えず、虫のように、蟻の群れのように、ただ殺されていくだけなのだ。

「もう……いい……もう、やめてくれっ……御大将っ……やめてくれぇっ!」

 徐晃隊は涙を零し続け、脚と手を動かして……ソレの代わりに人を殺した。
 雛里を助ける為だというのは分かっている。自分達の力が足りないから、アレが代わりに戦っているのも分かっている。
 でも……その姿が哀しくて苦しくて、徐晃隊は次々に叫びを上げた。
 せめて自分達だけでも、彼の代わりを務めよう、一人でも多くの想いを繋ぐのだ、アレにこれ以上殺させてはいけないと。
 一刻、二刻、三刻……暴風が舞い続けた戦場にて、もう彼らの周りに近付く敵兵は居なくなった。
 郭図の指示も聞かず、純粋な恐怖から、人としての本能的な恐怖から、膨大な距離を取ったのだ。
 徐晃隊の残存兵数は約三百人。敵は、戦中も数を増やしていた為に、被害が八千を超えていた。
 キリキリと、首を回すソレは、敵がもう近づいてこない事を理解して漸く、その場に膝を着いた。
 うつ伏せに倒れ伏し、動かない様を見て、副長の脚はやっとソレに向かう。得体のしれないモノは恐ろしい、されども、彼である事を願って。
 同じようにぞろぞろと駆けて行く徐晃隊の面々。その中の一人の背で、彼女が目を覚ました。

「……んぅ……っ! い、戦はっ……うぅ……」

 飛び跳ねるように頭を上げたからか、雛里の頭に猛烈な頭痛が走る。
 副長は秋斗の身体を確認して、ほっと息を一つ。後に立ち上がって笛を大きく鳴らした。秋斗の笛でのその鳴らし方は、彼の相棒を呼ぶためのモノ。頭のいい月光は遠くから戦場を見ていたのか、その音色に反応して駆けてきた。
 徐晃隊の一人は副長に頷かれて、秋斗の身体をその背に負ぶる。

「秋斗さんっ! どうしたんですかっ!」

 それを見て、雛里は徐晃隊の背からもがいて飛び降り、彼の服に縋りついた。

「鳳統様……落ち着いて聞いてください。御大将は……人として無茶をしました。気を失っているのでこのまま月光に乗せて運びます」
「な、何があったんですか!? あれほどの敵兵が周りにいないなんて……」
「……多分、御大将は人を外れたのです。目を覚ました時に何があるのかも分かりません。御大将が優しい人であり続けられるのかも、俺達には分からねぇんです」

 震える声で告げられる意味不明な説明に、雛里は尚も状況説明を求めようと口を開いたが、副長に掌を向けられて制された。

「追撃があるかもしれんのです。だから……ここで留まりつづけるのは危ねぇんだ」

 しかし、彼の事が心配で堪らず、雛里は涙を零しながら他に情報は無いかと繰り返そうとした。

「秋斗さんはっ――」
「あんたは鳳凰だろうが! 御大将と並び立つんだろう!? まだ戦場の今、その姿はいらねぇ! 考えてくれ! あんたと、御大将が生き残れる方法を!」

 強く、副長の言葉は雛里の胸に響いた。今すべきことはなんであるのか、求められているのはなんであるのか、焦燥に茹っていた頭は冷えて行き、彼女を徐々に鳳凰へと変えて行く。

「御大将の命令はあなたを生き残らせろ、そして我らの願いはあなた方二人の作る平穏な世。だからこそ……この命を駒としてお使いください、その羽で道を指し示してください。我らが大陸一の軍師、鳳統様」

 一人の徐晃隊の言葉が決め手となり、彼女は一瞬だけ目を瞑り……開いた翡翠の瞳は凍えるような冷たさを宿していた。

「その覚悟、受け取りました。捨て奸の用意を。盾を捨て、死に伏した徐晃隊の装備である投槍を拾い、全力攻勢で逃走時間を稼いでください。残る人数の指示は随時私が行います。
 丘の上から見た陣配置から分かりましたが、袁紹軍は森の抜け道を知らないと思われます。それと、馬は月光のみなので秋斗さんと小隊長さんで乗ってください。最後に……夜行軍に於ける松明用の松やに布と炭を動きながら確認してください」

 付け足された説明に疑問を向ける事無く、徐晃隊の面々は腰に据えたポシェットを確認しながら列を整え始める。
 徐晃隊は最後まで生を諦めず、一人一人が生き残る為にある程度の野営の装備は持っている。特に小刀と火起こし用の道具は最優先である為全員に。
 月光が辿り着いて直ぐ、秋斗を担ぎ上げてその背に乗せ、次に小隊長が乗り……何も言わずとも、副長の背に雛里が飛び乗り、彼らは足早に駆けだした。
 徐晃隊全てのモノの想いは重なっていた。
 どうか、彼が無事でありますよう。
 どうか、彼と彼女が平穏な世を、幸せに暮らせますように、と。



 †



 猪々子は怒っていた。
 郭図から齎された指示が余りにも自分勝手であった為に。
 陣を下げろと言ったはずなのに、直ぐに追撃を仕掛けろと来た。
 意味する所は失態を犯したという事。その尻拭いをしろと言っているのだから腹が立たないわけが無い。
 指示は最速で駆けられる小隊を率いて森の抜け道に突入、約三百の徐晃隊を殲滅し黒麒麟を捕縛せよ。
 怒りに燃える心をそのまま、同じように三百の兵を連れて、彼女は先ほど森の中に突入していた。

「くそっ……後で絶対明の奴にも告げ口してやる」

 齎された内容は意味不明であったのだ。
 徐晃が飛将軍のような武力で、たった一人で七千余りの兵を壊滅させた……そんなこと馬鹿げてる、と猪々子は鼻で笑っていた。

――徐晃の実力はあたい達がこの目で見てしっかり知ってんだ。初めからそんな武力を持ってるならなんで呂布相手に倒れるってんだ。自分の失態を虚言で取り繕おうなんて……これで郭図も終わりだな。田豊に全部抑え込まれるだろ。

 馬を走らせ、大嫌いな男にざまあみろと呟いて少し気分が良くなっていたが……猪々子は道中の様子を見て顔が蒼褪めて行った。
 幾多の袁紹軍の死体とほんの僅かな劉備軍の死体。笑みを携えた劉備軍の亡骸には見覚えがあった。
 思い出されるのは幽州の追撃戦。あの時は隣に斗詩が居て、明の率いる張コウ隊という化け物がいたから林道を抜けられた。
 今は……例え郭図が多くの兵を追撃に当てていようと、たった三百の騎兵で同じ事を為せと言っている。それも前よりも暗く、狭い間隔の道で。
 ただ、武人としての目は、冷静に物事を判断してもいた。
 前の戦では死んだ敵兵の数はかなり多い。しかし今回は……少なすぎるのだ。袁紹軍の死体に刺さっているのは矢では無く槍。的確に急所を狙った切り傷も見られる。
 つまり、相手はこういう場所での戦闘を想定して練兵を行っているという事であり、関靖の部隊とは比べものにならない程手強いということ。
 舌打ちを一つ。進む速度を少しだけ緩めた。
 相手は歩兵。進軍速度もそう速くないのならば、まだそこまで焦る事も無いのだと意識を切り替えた。

「おい、相手は幽州の追撃ん時よりやばいバケモン部隊だ。郭図のバカが送った追撃が途切れたら……いや、全滅してたらあたい達は全力で駆け抜ける。この兵の死に方でいったらきっと着くころには五十くらいになってるからさ」

 敵の強大さから、彼女は普段よりも冷静であった。
 失敗出来ないのは猪々子も同じであり、斗詩も同時に追い詰められている。
 捕獲を推している上で今回も失敗してしまうと信用は地に落ち、新たに友達となった明も夕も、昔馴染みである斗詩も麗羽も責められる事になるのだ。
 だから、今回ばかりは普段使わない頭を使っていた。幽州での経験が口惜しくて、どうすればいいかを考え続けていたのもある。
 幾刻か進む内、絶叫が耳に届いてくる。
 遠目から見えるそれは……あまりにも通常の戦闘からかけ離れたモノであった。
 先行させた部隊が少数の兵によって挟撃されている。否、包囲されている。
 一人殺しては逃げ、森の中から飛び出しては斬りかかり、また逃げて行く。
 攪乱されてどうしていいかも分からず、袁紹軍の兵は進もうとするも、道を封鎖する兵は前後七人ずつで間断なく槍を突きだして牽制していた。決死で飛び出すモノがいれば、二人が突き殺し、すぐさま戻る。その繰り返し。
 ただの兵ではあの統率には勝てる訳がない。まず間違いなく、個人武力の高いモノでなければ不可能なのだ。
 そう判断して自身が突撃を仕掛けようと考え始めた時、森の中から高い笛の音がなった。
 瞬間、列を為していたモノ達が雄叫びを上げて……猪々子に向けて槍を投げた。
 十を超える槍が正確に飛んでくるなど、猪々子にしては初めての経験……しかし、彼女は理を以って戦う武人では無く、感覚で戦うモノである為に、大剣を振りながら馬から転げ降りる事でどうにか弾き、躱せた。
 ただ、予想外であったのがその後である。
 森の中から、十名の徐晃隊が飛び出し、彼女に向かったのだ。
 重量武器である猪々子の得物では徐晃隊の素早い包囲連携と戦うには不安が残った。だから彼女は……

「どぉぅりゃぁぁぁ!」

 大地に己が大剣を叩きつけ、その衝撃で土を弾き飛ばし、一瞬の間を作った。
 徐晃隊の武将対策は一つ。秋斗と戦闘を重ねる事。
 何人なら彼を抑え込めるか、練兵を繰り返して積み上げていたのはそれだけであった。重量武器相手は初めてであり、如何な徐晃隊であろうと不可測の動きには即時対応が遅れる。
 その隙をついて、猪々子は袁紹軍の行き詰っている場所へと駆け抜けた。

「お前らは腰抜けか! 敵だって必死で戦ってんだ! 何怯えてやがる! あたいが来たんだからもう怖がる必要もないだろ? さあ、バケモン退治だ。派手にやろうぜ?」

 大きな声を張り上げての鼓舞は瞬時に烏合の衆と化していたモノを兵士へと呼び戻す。
 将とは旗。付き従うモノ達の指標となる存在。たった一人の行動と声によって袁紹軍のモノ達はしっかりとした軍に戻った。
 そして、徐晃隊の空気も変わる。狩るだけの獲物では無く、戦って止めるべき敵に変わったのだから当然。
 カチリと、彼らの中でスイッチが切り替わっていた。

「攻撃主体、決死突撃! 目標、一人十人だぜ野郎ども!」

 小隊長の声を聞いて楽しそうに、彼らは袁紹軍の塊へと突っ込んで行った。先の戦闘も、逃走による疲労も感じさせない程に爛々と目を輝かせて。
 またか、と猪々子は感じた。そして彼女も……飛び切りの笑顔を向ける。

「はっはー! そうこなくっちゃな! ちまちましたのはごめんだ! 命を賭けて向かってきな! あたいは文醜! 袁紹様が一の臣の文醜だ! お前らのかっちょいい生き様に敬意を表して、あたいの剣で地獄に送ってやるぜ!」

 異常な突撃も、異様な死に様も、彼女にとってはかっちょいいで済ませられるモノ。だからこそ袁紹軍の兵は安堵し、それと戦う覚悟を持って行く。
 そしてその誇り高い女武将を俺達が倒したいと、徐晃隊はさらに士気を高めて行った。
 幾多の剣と槍が交差する狭い戦場は笑顔に溢れていた。まるで街でじゃれあい、遊びあう子供のように。
 その場にいる徐晃隊の皆は、一人でも多くの敵兵を屠りながら満足していた。
 これで自分達の敗北は確定だが、最後に闘えるのがこの武将で良かったと。



 †



 休息を繰り返しながら、三百の徐晃隊を分けて進んできた道もあと少し。
 現在は月光と徐晃隊達の疲れを癒す為に秋斗を降ろして休息を取っていた。
 あと少しなのだ。半里ほど進んだ所に崖の道との境界線である川があり、架けられた橋を渡れば本隊との合流まで一本道。
 挟撃と伏兵が無かったという事はこの道はバレておらず、どうにか間に合ったのだ。
 心配そうに、秋斗の片手を握り、もう一方で頬を撫でる雛里は逃走中、ずっと休んでいなかった。服は汚れ、髪は乱れ、トレードマークの帽子はひしゃげている。
 秋斗は、徐晃隊の服を包帯代わりに応急処置を取りはしたものの、身体についた傷の数は尋常では無く、このまま放置すれば危ないのが誰の目にも明らかであった。
 副長以下の徐晃隊はまだマシであった。死んでいった仲間に守られたという証拠でもある。
 残りの徐晃隊の数は……皮肉な事に秋斗の予想通り五十。そして次に残るとすれば二十まで減らす。

「鳳統様、なんで松明を集めたんで?」

 ふいと、疑問に思っていた事を尋ねた副長。それを受けて雛里は、

「追撃をこれ以上行わせないように橋を焼き落とします。そうすれば敵軍は大きく回り道をしなければならないのでもう追ってこれないでしょう。橋に残る兵は三十。敵が間に合えば……橋の上で残ってください」

 足止めの為に橋を焼切るまで残れ、それが最後に切り捨てられる尻尾の役目であった。橋の上という限定された状況で戦えば数が不利でも多くの時間が稼げる為に。
 不敵に笑い、徐晃隊の面々は互いに顔を見合わせる。なんの事はない、随分と楽しい仕事だとでも言うように。
 今、此処に残っているのは黄巾時代から追随してきた古い兵達。
 副長を筆頭に置く幽州組の十五人は最古参、そして黄巾に出立する時に加わったのが残りであり、誰よりも彼に近しいモノ達。

「なぁ、御大将。あんたの所で戦えりゃあ、俺達は幸せなんだぜ」

 ぽつりと、最古参の一人が未だ眠り続ける秋斗に零した。

「だからもう……そんなになってまで劉備軍にいなくていいんだ。天の御使いは好きに生きるべきだ」

 茫然と……雛里はその兵を見上げる。天の御使い、という言葉に疑問を感じながらも。
 その一人は、黄巾の時に自らの手で仲間を殺せと命じられた兵士。彼がどのような存在で、何に一番近いかを知っている兵士だった。

「鳳統様、御大将は曹操殿と同じなのさ。黄巾時代に兵同士って結構話してたんだぜ。まあ、徐晃隊だけかもしれねぇが……。話してみると俺達って曹操軍とそっくりだったんだ」

 自分と同じ事を考えている人が秋斗の一番近い所にいたのだと気付き、雛里はその話に聞き入っていった。

「だからよ……鳳統様、劉備様が覇を唱えられないと判断したなら……助けてやってくれねぇか? もう矛盾に苦しむこの人を見たくねぇんだ。バカな俺達は御大将みたくなりたくて勉強して、ちょっとだけ分かっちまったんだよ。劉備様も正しいけど、御大将も正しい。それなら自分と同じ考えのとこに行けばいいんだ」

 すっと、その場にいる全ての徐晃隊が頭を下げた。副長も同じように。
 交渉次第で、雛里ならばどうにか出来る方法が一つだけある。このまま秋斗が気を失ったままであれば、それが為せるだろう。もしくは……雛里が無理やりに交渉で提案すれば行える可能性があった。
 それに賭けているのは雛里も同じ。想いが通じてから、彼女はその方法を着々と積み上げて行っていた。
 ずっと心にあったわだかまりが解けて行く。一人で考えていた事が誰かと同じだとこれほどまでに違うのだと。
 何かを返そうとした雛里に向けて首を振った隊員の一人は、にやりと笑って口を開いた。

「答えてくれなくていいんでさ。俺らの想いを知ってくれたらそれでいい。御大将の未来の嫁さんの判断ならそれが正しいんだからよ」
「よ、よめっ……あわわ~!」

 瞬間、顔を真っ赤に茹で上げた雛里は一人の少女に戻っていた。
 にやにやと、いつも通りのからかいの笑みを向け始めた徐晃隊。その場にいる皆が心に安息を感じていた。
 その空気に当てられたように、ピクリと……秋斗の手が動いた。

「し、秋斗さんっ!?」

 彼の顔を覗き込みながらの歓喜と不安が綯い交ぜになった声を聞いて、同じように皆も彼に近寄っていく。

「……っ……雛里……無事か?」

 目を開いた秋斗はコクコクと頷く雛里の涙が溢れる瞳を受けて、すっと目を細めた。

「状況は?」

 未だ戦場である為に彼は変わらず。しかしその瞳には安堵の色。雛里が生きている事を理解した為に。
 雛里も間違わず、将としての問いかけには、グイと涙を拭って軍師として返す。

「包囲網を突破後、捨て奸にて徐晃隊の残存数は五十。橋を越えれば敵兵はいないと思われます」
「包囲網の突破については――」
「御大将」

 訝しげに尋ねようとした秋斗を副長が遮った。その厳しい瞳を受けて、秋斗はゆっくりと痛む身体を起こしていく。

「あんたがなんだろうと、俺達の主はあんただけだ。生きてここに居る。それだけで十分だ。何も言わねぇし何も聞かねぇ」

 副長は秋斗の心を気遣い、いつものように支える事を選んだ。
 徐晃隊も、何も言わずに副長に同意を示す為に頷く。
 雛里も、これ以上は何かを聞こうとしなかった。今はただ、彼が彼である為に。
 無条件の信頼ほど彼の心を癒すモノは無く、それを間違う彼らでは無かった。

「そうか……信じてくれるか。ありがとう」

 優しく、秋斗は戦場で見せない笑顔を皆に向けた。心の重荷が少しだけ軽くなった気がしたから。
 同時に、彼は何があったかの予想を立てていた。きっと自分が何かをしたのだろう。そうでなければあの戦場は抜けられないと分かっていた。
 例えば、飛将軍との戦いでも死なないほどの何かがあったからこそ、皆も助かったのだろうと考えていた。
 彼に包囲網突破戦時の記憶は無かった。
 直ぐに意識を引き締めた秋斗は生き抜く為に何をするか考えて行く。グッと拳を握り身体の調子も確かめながら。

「雛里は俺と月光に乗れ。手綱は握れるしまだ身体も動く。お前らは……好きにしろ」

 にやりと、意地の悪い笑みを向けて、言わなくても分かるだろうと言外に伝えた。
 もう既に彼らには命令が下っており、それを貫いてきた。だからこれ以上は必要ない。彼らにとってそれが何よりの信頼の証だった。
 同じような笑みを返して来る徐晃隊の面々を一度見回してから、秋斗は立ち上がり、

「あわわっ。し、秋斗さん、何を……」
「月光に一人で乗れるなら降ろすけど……ほら」

 雛里を抱き上げて、月光の背に乗せて自身も飛び乗った。後に、優しく雛里の事を包み込む。
 外套をはためかせ、血が抜けて蒼褪めた顔ながらも凛とした表情の彼に、皆はきらきらと子供のような眼差しを向けた。

「そうさな、最後まで気を抜くなよ。常に最悪の事態を考えて、無茶をするなら遣り切ればいい。いつも通り、俺について来い」
『応っ』

 小さく、彼らは声を上げる。安堵と……充足感から。
 その数が少なくなろうとも、繋いだ想いだけは途切れさせる事はないのだと。
 先導する彼は皆の憧れた姿のまま、これで我らの願いは必ず叶うと。


 駆けだした彼らが橋に辿り着く直前に、最後の追撃が訪れた。振り返っても見えぬほど遠く、されども地を鳴らす蹄の音は、徐晃隊の数を遥かに超えている事が分かる。

「……副長、命令変更だ。お前も行け。徐晃隊の副長の名を轟かせて来い」
「御意」

 二人の間だけで行われる短い会話。徐晃隊は命を下されるまでも無く、既に速さを上げて橋まで最速で駆けだしていた。
 副長もそれに倣い、秋斗に目を向けずに全力で駆けだす。しかし秋斗は月光の速さをまだ上げず。
 橋の上、全ての徐晃隊が居並んで二つの縦列を組んでいた。
 真ん中を開け、まるで徐晃隊が決死突撃を行い、彼の為の道を作ったあの時のように。
 先頭を担う副長は斬馬刀を、もう一人が剣と槍を天に掲げる。幾本も、全てのモノ達が同じように天に武器を掲げた。

――バカ共が。最後までかっこつけやがって。

 心の内で毒づいて漸く、彼は月光の腹を蹴った。その間を最速で駆け抜けながら、皆に不敵な笑顔を向けていた。

「乱世に華をっ!」
『世に平穏をっ!』

 秋斗と雛里は橋を抜け、単騎で本隊へと向かっていく。徐晃隊が歩兵な為にこれ以上時間を掛けては回り込まれる危険性も考えてと、秋斗が起きたならば単騎の方が辿り着く可能性が格段に上がる為。これまでと同じく、生存率と効率の為に数を切り捨てたのだった。
 言わずもがな、彼の命令でそうしたわけでは無い。徐晃隊が望んでそうしただけ。思考も想いも、秋斗と徐晃隊は一つであるだけ。
 秋斗は一度も振り向かなかった。
 橋を駆け抜けた月光は長い道をただ駆けていた。ほんの小さく、己が主人を慰めるように嘶きを上げる。雛里は彼の胸の前で月光の首を優しく撫でた。
 秋斗は何も言わずに手綱を握りしめていた。強く固く、血が流れる程に。
 震える拳は悔しさから。
 一人でも多く生かしたくて、数多の部下を切り捨て続けてきた。自分が先頭に立つ事によって救われるならそうしてきた。後々の被害を抑えられる方法をいつもいつも選んできた。
 今回は……自分の予測の甘さで全てを失った。
 徐々に、徐々に震えが強くなっていく。

「っ……くっ……」

 そっと雛里は手を重ねる。二人と一頭は初めての賊討伐の時に似ていた。
 違うのは、雛里も涙を零していること。手を口にやってどうにか抑えようとするも、止まるわけが無かった。
 ポツリポツリと、雛里の服に水滴が零れて行く。
 秋斗はその背に頭を乗せた。
 小さく響き続ける嗚咽はどちらのモノであるのか。

「……バカ共が……ごめん……」

 彼は謝り続けた。彼は泣き続けた。彼女も泣き続けた。
 二人と一頭は夜の道を行く。
 どうか、想いを繋ぐから。
 どうか、願いを叶えるから。
 心の内で皆の笑顔と楽しい日々を延々と反芻しながら。


 黒麒麟はその身体の大きな部分を失った。
 されども世界を切り開く意思の角は失われず、想いも願いも全てが彼の元にあった。
 ただ、彼はまだ……気付いていなかった。
 自身の大きな間違いに気付いていなかった。 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

ごめんなさい。
この物語はあくまで恋姫なので外史設定が入ります。
強すぎる力は苦手なのですが、一度だけお許しください。理由がありますので。

多くの設定が明らかになりました。
プロローグであった一度だけの力は飛将軍と同じ力を得る事です。ただ、対価は相応です。
腹黒ちゃんの思惑、世界改変の真実、他にもありますがどれもまだ明らかにしません。
独自設定について答えられる範囲であればお答えしますので、質問等あれば気軽にくださいませ。

徐晃隊の最古参が捨て奸に向かいました。
主人公と雛里ちゃんは交渉の席に間に合うのか、それは後々。
まだまだ絶望があるかもしれませんね。

次は……副長たち徐晃隊最古参による捨て奸を、多分文字数少ないですが描きます。無性に書きたいので。

ではまた 
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