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幸せな夫婦

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第五章


第五章

「御堂筋でパレードや」
「御堂筋やね」
 南海は優勝したならばここで凱旋パレードを行う。後に静かなエースと言われ驚くべき成績とシリーズで四連投四連勝という空前絶後の偉業を為した杉浦忠にとり日本一になった時もそれを行っている。
「そうや。それが見られるで」
「もうすぐやねんやね」
「巨人を破ってな。親分を先頭にして」
 当時南海の監督であった鶴岡一人である。名将として、指導者として誉れ高く長い間関西球界において絶大な影響力を持っていた。采配だけでなく人望も高く、また人を見抜く目を持っていた。前述の杉浦にしろ後にミスター赤ヘルと呼ばれる山本浩二にしろ彼が見出した逸材である。
「凱旋やな。それを見に行くんや」
「ほな身体大事にしや」
「身体か」
「そうやで。お祝いにせいらい飲むつもりなんやろ?」
「まあな」
 芳香のその言葉に頷く。
「浴びる位飲んだるで。何度も煮え湯飲まされてきたんや」
 南海は長い間パリーグの覇者であったが球界の覇者ではなかった。シリーズで何度も巨人に敗れてきたからだ。巨人独特の『自称』球界の盟主であるという不遜な思い上がりはこの時期にはじまっているとも言われている。
「今度こそな」
「そやからや。暫くお酒は控えてな」
「肝臓休めろってことかい」
「そういうことや。ええやろ、それで」
「ああ、わかったで」
 妻のその言葉に頷いた。
「そやったらな。それで」
「お酒は勝負が決まった後でな」
「ああ」
 女房のその言葉に素直に頷いた。彼はこの時南海の勝ちを確信していた。しかしそれは脆くも打ち破られたのであった。
 それから巨人は三連勝したのだ。絶体絶命にあった巨人は水原の腹を括った若手投入により崖っぷちから盛り返し逆に南海を倒した。南海にとっては痛恨の敗北であった。
 康友はその話を最初に聞いた時我が耳を疑った。だが事実だった。彼は呆然と大阪球場を、そして御堂筋を眺めるだけであった。
 人が周りにいるがそれは見えなかった。ただ灰色になってしまった球場と道を見ているだけだった。もう何と言っていいかわからなかった。
「負けたんやね」
「そや」
 彼の横に芳香が来た。その言葉に頷く。
「まさかな。負けるなんてな」
「勝負やで」
 うなだれる夫にこう言うのだ。
「負けることもあるわいな」
「けれどや」
 それでも彼は言う。
「何でや」
 顔を上げても出て来る言葉はこれであった。
「何で負けるんや。あそこまで来て」
 全ては水原の采配故だった。やはり彼は名将であったのだ。伊達に野球以外でも多くの修羅場を潜り抜けてきたわけではない。絵になるスマートな男だったがそれでも勝負師だったのだ。なお彼はその鶴岡、宿敵である三原と並んで三大監督とまで謳われるようになった。非凡な男だったのだ。
「わからんなあ。ホンマに」
「だからそれが勝負やって」
 芳香はまた彼に声をかける。
「気を落としたらあかんで。それにや」
「それに?」
 ここで女房に顔を向けてきた。
「一番落ち込んでるのはあんたやないで」
「わしやないか」
「そうやない」
 笑顔を作ってこう声をかける。
「選手に決まってるやん」
 こう言うのだ。
「それと監督さんな。負けて一番辛くて悔しいのは」
「そうか」
「そうや。そやから」
 また声をかける。
「気を落としたらあかんで。ええな」
「ああわかった」
 そこまで言われて遂に頷いた。
「そやな。そやったら」
「気を取り直してな。飲んだらええわ」
「ああ、わかった」
 まだ項垂れていたがそれでも頷いた。
「そやったら」
「そうそう。じゃあ家に帰るで」
「家にか」
 芳香のその言葉に顔を向けてきた。
「だからとびきりの酒買ってるって言うたやん。それで」
「買うてくれてたんか」
「勝っても負けてもな。必要やと思って」
 そう答えてきた。
「それでや」
「悪いな」
 女房のその言葉を聞いてほろりとしかけた。しかし女房の前だったのでそれは止めた。この時代はまだそうした男の意地というものが少しではあるが残っていたのだ。
「ほな。帰ろか」
「ベーコンもたっぷり買ってるさかいな」
「済まんな。じゃあ今日は飲むわ」
「せいらい飲んだらええわ」
 また夫に対して言う。
「今日はな」
「わかったで。そやったら」
「うん」
 夫の背を支えるようにして御堂筋を後にする。彼は何とか女房の支えで持ち堪えた。その日はかなり深酒だったがそれでもその日だけで終わった。それも芳香のおかげであった。
 
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