雷様
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第一章
第一章
雷様
誰でも子供の頃には言われたことだろうが雷が鳴る時に腹を出していると臍を取られるという。俗に言う迷信であるが広く伝わっている話だ。
実際にあるかどうかというと迷信である。しかしこうした話も残っている。嘘か真かは今となっては確かめる術はないがこの話が残っているのは確かである。
駿河の国、今で言う静岡県の話だ。丁度茶摘みの季節で人々は忙しい日々を送っていた。
駿河は豊かな国で米の収穫もよく茶の他に蜜柑も採れる。何かと実入りのいい国であり東海道にもあり何かにつけて金が入ってくる国であった。
しかも幕府の天領なので税も軽かった。幕府は他の藩の範とならんとして年貢等を軽くしていたのだ。その為この茶にしろ蜜柑にしろかなりの収益が民百姓のものとなっていたのである。
周吉とおたみの若い夫婦もそうした茶で大きな儲けを得ている者達の一つであった。まだ若いというのにその家は中々の大きさであった。食べるものにも困らず朝から米の粥を食べていた。茶や蜜柑も当然ながらあり天領の百姓として豊かな生活を楽しんでいたのであった。
その茶摘みは今日の分は終わった。夕刻風呂で汗を流し夕飯前に少しくつろいでいた。
木綿の服を着て炉辺に向かい合って座わっていた。そこで茶を飲みながらこれからのことについてあれこれと話をしていたのである。
「今日であらかた終わりか」
「そうだね」
おたみはその丸い顔を周吉に向けて答えた。その手の中には今年生まれたばかりの赤子がいる。男の子だ。
「今年は茶がよく獲れたね」
「ああ、豊作だな」
周吉はそのことにまずはにこにことしていた。右の膝を立ててそこに肘を置いて茶を飲みながらの話であった。姿勢もかなりリアックスしたものであった。
「いい感じだ」
「その分忙しかったね」
おたみは笑いながらまた声をかけた。その先には周吉の少し痩せた顔がある。おたみの顔を日とすれば周吉のそれは月のようであった。
「おかげで肩が凝ったよ」
「そうか?」
「そうさ。子供だって生まれたばかりだし」
そう言いながら自分の手の中の子供を見る。見ればすやすやと眠っている。
「何かと大変だったよ」
「しかしこれでまた今年も随分と儲かるぞ」
周吉は金の話をしだした。
「おかげでな。茶が売れる」
「お茶と蜜柑は本当に何があっても売れるね」
「特に茶はな」
江戸時代はあらゆる産業が発達して多くのものが広まった時代であるがその中でも茶は特に広まったものの一つである。それまで長い間非常に高価なものであった茶が瞬く間に人々の口に入るようになったのだ。日本文化の根幹の一つとも言えるものであるがその茶が定着したのは江戸時代以降である。それを考えるとこの茶の定着は案外遅いものであるのだ。
「売れて売れて仕方がない」
顔を崩して笑う。
「江戸の人達が盛大に飲んでくれるからな」
「そうだね。江戸の人達に足を向けて寝れないよ」
おたみも笑って亭主に返す。子供を時折あやしながら。
「何かとね」
「そうだよな。んっ?」
「どうしたんだい、御前さん」
「いや、天気がな」
窓の向こうの少し暗くなってきた空を見上げ出した。
「何か悪くなってきたと思ってな」
「そういえばそうだね」
おたみもそれに気付く。天気は見る見るうちに悪くなっていく。そのうちに雲が厚く黒いものになっていき雨が降り出したのだった。
「もう降ってきたな」
「仕事遅くまでしないでよかったね」
おたみはまずはそのことにほっとした。雨に遭っては洒落にならない。雨を見ながらそれに遭わなかったことに安心していたのである。
「そうだな。それで晩飯は何だい?」
「雑炊でどうだい?」
「雑炊か」
「米のね。あと色々入れてね」
「悪くないな、そりゃ」
それを聞いて頬を緩ませる。彼は雑炊が好きなのだ。それも米の雑炊が好きだ。味がもっともソフトで食べやすいからだ。そこに色々と入れて食べるのである。
「もう少ししたら作るからね」
「頼むぜ。坊主の面倒は俺が見とくからな」
「頼むよ。しかしねえ」
空を見て言う。雨はどんどん強くなっていた。激しい音を立てて土砂降りの雨が降る。地面は川のようになりそれでもまだ降っている。
そのうえ雷まで鳴ってきた。周吉とおたみはそれを見て顔を顰めさせた。
「今度はこれか」
「お臍隠すかい?」
「といっても俺もおめえもちゃんと服着てるじゃないか」
そう女房に返す。
「坊主だな、後は」
「大丈夫だよ、ちゃんと隠しているから」
子供を見せて言う。見れば布で奇麗に覆われている。何も心配は要らない格好だった。
周吉はそんな自分の子供を見てにこりと笑う。その後で言った。
「じゃあ安心か。臍のことはな」
「そうだね。雷様が落ちて来ない限り」
ここで稲光がする。しかし二人はそれを見ても平気だった。
「そんなことあるもんか」
周吉はそれを聞いて笑った。笑ったところで一際大きな雷が落ちた。黄色い光の後で轟音が辺りに響き渡る。本当に雷神が落ちて来たかのようだった。
「凄かったな、今のは」
「凄いなんてものじゃなかったよ」
今のには二人もかなり驚いていた。それだけとんでもない光と音だったのだ。
「今のはちょっとね」
「本当に雷様でも落ちて来たのかね」
「まさか」
亭主のその言葉は一笑に伏す。
「そんなことはないよ、幾ら何でも」
「そうだよな」
「そうだよ、やっぱり」
流石にこれはないと思った。ところがだ。それがあるのが世の中のとんでもないところだった。そう、その幾ら何でもないことが起こったのであった。
「頼もう」
いきなり玄関の方から声がした。二人はその声を聞いて顔を見合わせる。
「お客さん!?」
「こんな雨の時にか」
二人は顔を見合わせて言い合う。まさかこんな時に客が来るとは思わなかったのだ。それも当然で外は呆れる位の雨と雷だ。それで客とは、誰もが思うことだった。
「どうしよう、御前さん」
「といっても放っておくわけにもいかないだろ」
この雨だ。濡れて困っているに決まっている。それで放っておくのは周吉も本意ではなかった。
「とりあえずは入れてあげないとな」
「そうだね、やっぱり」
おたみもそれに頷く。これで決まりであった。
「じゃあな」
周吉がゆっくりと立ち上がり女房に声をかける。
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