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Meet again my…

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Ⅱ ライトグリーン・メモリアル (1)

 
前書き
麻衣は自分の知るナルとは異なるナルに出会うも、彼の世話になることに。そこで見た「ナル」の姿は―― 

 
 XXX2年8月7日。
 僕が、殺された。





 眠りから浮上する意識が敏感に他人の気配を感じ取った。
 師に鍛えられた僕の体は意思と関係なしに覚醒し、気配の主を捕まえてソファーの上に押し倒し、その人物の喉を押さえた。

 意識がはっきりした僕は、押さえ込んでいる相手が麻衣なのだとようやく理解した。

 麻衣は僕に急所を捉えられているという状況が理解できていないのか、目をぱちぱちと瞬いて、動かない。
 なんたる失態。よりによって麻衣を刺客と勘違いするなんて。ああ、こんな時は勝手に反応するように鍛えた体が憎い。どうしていいか分からない。麻衣を怯えさせていたらどうすれば……

「おはよう、ナル」

 ――何でそんなに普通の反応ができるんだ?
 麻衣はほほえみさえ湛えている。下がった目尻が、上がった口の端が、恐れのない声が、狼狽していた心を包み込んでくれた。

 理性で体を動かして麻衣の上からどいてソファーからも降りる。起き上がった麻衣に対して俯いて謝罪を口にした。

「すまなかった……麻衣に攻撃しかけるなんてどうかしていた」

 すると麻衣は僕の両頬を両手で包み込んで笑った。麻衣の手もすごく温かいわけではないのに、ほうっとした。

「別に気にしてないよ。何ともない。ホラ、あたしピンピンしてるでしょ」

 そうだな。今目の前にいるあなたは至って元気だ。

「朝ご飯、作るよ。台所借りていい?」
「ああ。好きに使ってくれ」

 麻衣の手が頬から離れた。少し惜しいな。せっかく温まってきていたのに。やわらかかったな、麻衣の手。男の手とは根本的にちがうやわらかさだった。

 麻衣がキッチンに姿を消してから、僕はソファーに座り直した。来日して自炊する覚悟を決めていただけに、こうしてまた人の手で用意された食事をとるのには拍子抜けだ。

「SPRの仕事はいいの?」
「休業にする。奴が現れたからには悠長に構えているわけにはいかない」

 どうせ僕が日本ですべきはオフィス開設に当たっての下見と準備だ。その先は本国の管轄。多少遅れても僕に被害が来るわけじゃないんだ。

「Her Majesty’s Blend?」

 キッチンから麻衣の声。ああその茶葉か。

「イギリスの知人が餞別にくれた物だ。まったく、今生の別れでもあるまいし」

 くれた同僚は高級品でもぽーんと人にやって平気なほど物に拘らない神経の持ち主だが、今回は特別上等な物をくれた。僕が何のために来日するか知っていたからだ。僕は話してはいないけれど、察しだけは背筋が凍るほどいいから……

「ったぁ」

 キッチンで麻衣の痛そうな声がした。どうしたんだろう。様子を見に立ってキッチンに入る。

「麻衣。今何か」
「あ、ナル、何でもないよっ。ちょっとドジっちゃっただけ」

 麻衣は指を立てた。――指先から滴り落ちて手の平まで赤く濡らす、血。
 血を流しているのは、麻衣。
 麻衣が、血を流している。



 フラッシュバック。鮮烈な赤。赤い海に浮かぶ死体とも呼べない女の肉塊。赤く汚れた栗毛の下に瞳孔がなくなった目。
 幻像を結ぶ。赤い風呂敷包み。下のほうだけ赤い。赤い。ちょうど人間の首が入る程度の大きさの包みが赤い。中に入ったものは静かに目を閉じていた。



 シンクに手を突いた。吐き気がする。気持ち悪い。血。血。麻衣の血。やめろ、僕の思考を犯すな。

「ナ、ナルっ? ちょっと、しっかりして! ねえ、どうしたの!? やだ、なんでっ」

 麻衣が泣き出しそうな声を上げた。少しだけ理性が戻った。
 手を伸ばす。麻衣の、血がついたほうの手を掴んで覆い隠した。

「君のほうが、パニックになって、どう、する。しばらくすれば治る、から、騒がしくする、な」

 落ち着け。この麻衣は関係ないんだ。いくら別の世界の同じ人間だからってどうってことはないんだ。だから落ち着いて……

 ――え?
 背中が温かい。誰かが撫でてくれている。
 誰か。ここにいるのは僕と麻衣だけ。だから、僕を宥めるように背中を撫でているのは麻衣しかいない。
 今までの誰にもされた験しのない行動、味わったことのない安堵。ああ、これなら、大丈夫だ。

 ようやく落ち着いて顔を上げた。麻衣が不安げに僕の顔を見つめている。悪いことをした。こんな訳の分からない行動を目の前でとったりして、びっくりしただろうな。

「ひょっとして、……血、ダメなの?」

 するどい。逡巡したが、首肯した。

「あの人が死んだ時、一面血の海で、それ以来ずっとだ」

 だから麻衣の血は僕にそのトラウマを呼び覚ますには充分すぎる威力だった。

「あの人って?」
「家族」

 手を放してシンクに両手を突いて長く息を吐いた。
 麻衣は納得した様子を浮かべ、次いで残念そうに眉根を寄せた。あの人、を誰だと思ったかはどうでもいい。どうせ麻衣が浮かべたのが誰であろうが外れだ。僕だけが彼らの陰惨な死に様を知っていればいい。

「一面血の海って、事故?」

 普通はそう思うよなあ。でも申し訳ない、ちがうんだ。

「殺された」

 麻衣は目を見開いてひゅっと息を呑んだ。ああそうか、麻衣の世界ではまだ人殺しは大事件として扱われているんだった。こっちじゃ人なんて、僕の家族に限らず、右を向いたか左を向いたかだけの差で殺されるものだ。動機があるだけ僕はマシだ。

「やったのは生粋の妖怪を従える術者の女。その人は奴が使役した妖怪に食い殺された。僕を庇って」

 僕さえいなければ生きていられた。あの女は僕しか殺すつもりはなかったんだから。
 まだ覚えている。僕を庇うために飛び込んで、僕を抱きしめたまま妖怪に食い殺された時の音。引きずり出された臓物と、噴き出す血。僕を抱いた腕は死後硬直でどんどん冷たく硬くなって、周りにいた大人が引きずり出してくれなかったら危うく死体の腕から抜け出せなくなるところだった。

「その人のこと、好きだった?」

 麻衣は恐る恐る僕に尋ねた。

「……愛してた?」
「――――ああ」

 愛していたさ。きっとこの世の誰よりも。僕の世界の半分だった人だ。あの人が死んで僕の半分が死んだ。別の個体である者が死んで自己も死んだというなら、そのつながりは愛と呼ぶ他ないだろう。

 とたん、麻衣が僕に背後からタックルした。女の細腕が僕の鳩尾辺りで交差している。ちょうど肩甲骨の下にささやかながら確かなふくらみが押し当てられている。ハグされていると分からないほどにぶくはない。

「どうした、麻衣」
「ベベべべ別に!? 何となく!」

 自分からやっておいてその狼狽ぶりはないだろう。いや、おもしろいけど。

「動けない」
「うわ! スイマセン」

 麻衣が離れたところでまたシンクに手を突いた。気分が悪くなったんじゃない。おかしくなったんだ。麻衣があんまりオタオタするものだから。
 漏れる笑いを必死になって殺した。麻衣は顔を真っ赤にして、陸に打ち上げられた魚のように口を開閉させている。侮辱されたとでも思っているんだろう。

 そこでトースターが鳴った。

「あ、ごめんっ。すぐ作るからもうちょっと待って」
「分かった」

 麻衣はバタバタとトースターに走り寄った。いても手伝えることはないだろうし、手伝わないほうがいいだろう。この僕が手伝いを申し出るなんて麻衣の精神衛生によろしくないから、あえて無言でキッチンを出た。


 バスルームに入って洗面所で手を洗う。麻衣の手を握った時についた血を洗い流す。

 血がトラウマだと麻衣には言ったが、自分自身に付着したもの、流したものなら別に平気だ。いくら残虐な殺人現場を見ていたといっても、血を全て恐れていては生活などできやしない。麻衣が出血していたという事態がトリガーだった。

 リビングに戻ると、麻衣がトーストの載った皿をテーブルに置いた姿勢のまま、物憂げな風情で立っていた。喜怒哀楽が出やすい彼女だが、哀の表情は初めて見た。僕の過去に思いを巡らせてくれているんだとしたら、どうにも胸が詰まった。麻衣を憂えさせたくて話したわけじゃないのに。

 ふいに麻衣はぽつりと漏らした。

「それでもナルなんだから、いい」

 麻衣は自分の言葉に納得したようで、足取り軽くキッチンに戻って行った。

 ――僕は麻衣を騙している。
 僕は麻衣のナルじゃない。姿形が同じなだけでナルじゃないんだ。
 でも言えない。言ったら僕は破綻する。麻衣に僕が何者か知られたら、辛うじてバランスを保っている僕の積み上げた歳月が意味を失ってしまう。あの女との決着を控えている僕に、そんな予断は死を招く。

 ごめん、麻衣。
 本当の名も告げられない僕をどうか許して。

 
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