銀河英雄伝説~美しい夢~
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第十話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その4)
■ 帝国暦486年 8月 2日 オーディン リッテンハイム侯爵邸 ウィルヘルム・フォン・リッテンハイム三世
妻と娘が着飾って出かけようとしていた。
「何処か行くのか」
「ええ、お姉様の所に」
「ブラウンシュバイク公の所か」
「そうよ、お姉様の自慢の息子を見に行くの、ねぇ」
妻が娘に同意を求めるとサビーネは嬉しそうに頷いた。はて、サビーネは出かけるのが嬉しいのか? それともあの男に会いに行くのが嬉しいのか? 気にし過ぎか……。サビーネは未だ十二歳だ。
「自慢の息子か」
「可愛いんですって。コーヒーが苦手でココアが大好き、美味しそうに飲むってお姉様が笑ってたわ。お姉様は新しい息子に夢中よ。ケーキ作りが得意でとても美味しいんですって。今日はそれを御馳走になりに行くの」
気楽なものだ、男の世界の葛藤など女達にとっては何の意味もない。美味しいケーキを御馳走になる? あの男がケーキ作り? 今このオーディンで何が起きているか分かっているのか? いや分かっていても行くのだろうな。女にとって美味しいケーキは麻薬と同じだ。分かっているが止められない。まるで別世界の話だ。
「最近は気兼ねなくお姉様の所に行けるし本当に楽しいわ。どうしてもっと早くこうならなかったのかしら」
「……」
「お土産貰ってくるわ、美味しいケーキをね」
屈託なくそう言うと妻は娘を連れて外に出て行った。
最近は気兼ねなくお姉様の所に行けるか……。昔、大公と張り合っていたころは妻も大公夫人と会う事を控えていた、というより控えざるを得なかった。気兼ねなく話せる相手を失う、TV電話で話すことは出来ても会うことは出来ない。寂しい思いをさせていたのかもしれん……。それにしてもお土産にケーキ? あの男が作ったやつか?
妻が出かけて一時間も経った頃、書斎でうたた寝をしていた私をリヒャルト・ブラウラー大佐が起こした。
「どうした、ブラウラー」
内心、起こされた事に腹立ちは有ったが抑えた。ブラウラーが詰まらない事で起こすような男ではないと分かっている。
「お客様がお見えです」
客? 来客の予定は無かったはずだ、何故私を起こした……。私の訝しげな表情を見たブラウラーが済まなさそうな表情で“急なお客様です”と言った。なるほど、ようやく頭が動いてきた。
「コルプト子爵か?」
「はい」
一週間ほど前、ブラウンシュバイク公がコルプト子爵との関係を断った。理由はコルプト子爵がベーネミュンデ侯爵夫人を唆しグリューネワルト伯爵夫人を陥れようとしたこと、それによって夫人の弟であるミューゼル大将の失脚、そして部下であるミッターマイヤー少将の殺害を図った事……。皇帝に叛くかのような行いをする愚か者とは関係を断つ、そういう事だった。
「コルプト子爵が来たのか、当家も付き合いは断った筈だぞ」
「いえ、そうでは有りません。ヒルデスハイム伯、シェッツラー子爵、ヘルダー子爵、ハイルマン子爵、ホージンガー男爵、それにカルナップ男爵です。コルプト子爵の一件でご相談が有ると。……失礼しました、ラートブルフ男爵を忘れていました」
やはりな。コルプト子爵が親しい貴族に泣きついていると言う話は聞いていたがそれだな。話がまとまってここに来たと言う訳か……。面倒な……、妻と一緒にケーキを食べに行けばよかった。
「忘れてくれて構わんぞ。どうせならあと二、三人忘れて欲しかったな」
ブラウラーが困ったような顔をした。無茶を言うと思ったのか、それとも誰を忘れれば良かったのか考えているのか。あるいは私に呆れているのか……、判断に悩むところだが、気晴らしにはなる。
それにしても妙な顔ぶれだ。当家に親しいものもいればブラウンシュバイク公爵家に親しい人間もいる。なるほど、新当主には話し辛いか。これまでの経緯を考えれば無理もない事ではある。あの小僧、余程敬遠されているらしい。結構な事だ、昼寝の邪魔をする馬鹿が居ないという事だからな。
「それで何を望んでいるのだ」
「コルプト子爵を受け入れて欲しいという事でしょう。その後でブラウンシュバイク公へのとりなしを頼むつもりかもしれません」
「……」
溜息が出た。そんな目で私を見るな、ブラウラー。全く話にならん、連中は何も分かっていない。リッテンハイム侯爵家はブラウンシュバイク公爵家と手を握ったのだ。その手は政府、軍とも結ばれている。
ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家、政府、軍は内乱を防ぎそれぞれが繁栄するために四者連合を結んだ。この連合によりサビーネは皇后になりリッテンハイム侯爵家は帝国屈指の権門として繁栄する事が約束された。
何故コルプト子爵如きのためにその輝かしい未来を捨てねばならないのだ? コルプト子爵にそれだけの価値が有るか? ベーネミュンデ侯爵夫人を唆してグリューネワルト伯爵夫人を害す? 良くもそんな愚劣な事を考えたものだ。そんな馬鹿を助ける価値など何処にあるのだ。
もし当家がコルプト子爵を受け入れればどうなるか、当然だが我が家はブラウンシュバイク公爵家、政府、軍から敵対行為だと非難されるだろう。繋いだ手を離したとみられるのだ。そして当家が代わりに握ったのは役に立たないコルプト子爵の手だ。我が家の立場は恐ろしいほど不安定なものになる。
連中は何も分かっていない、いや分かろうとはしない、認めたくないという事なのかもしれん……。四者連合は彼らには何の関わりもない所で生まれた。その事が気に入らないという事は十二分に有り得る……。
「話にならんな」
「会えないと伝えますか」
「……いや、会おう。連中の蒙を開いてやろう。大広間に通しておいてくれ」
ブラウラー大佐が一礼して部屋を出ていく。全く、話にならん……。
大広間に入ると皆がこちらに視線を向けてきた。昔はこの連中に取り囲まれて喜んでいた。そう思うと自分が嫌になってきた。若気の過ち……、とは言えないな。何であんな馬鹿げたことをして喜んでいたのか……。おかげでもう少しで滅びかけた。
自分の愚劣さを見せつけられたような気がしてうんざりした。まるで粗相をした後のパンツを見せられたような気分だ。汚れたパンツは捨てるに限る。あの男はこの馬鹿どもを潰したがっているが大賛成だ。こんなにも汚れたパンツが有るなど人生の悪夢だ。もしかすると大公も同じような気持ちかもしれない。
「皆、何の用かな」
出来るだけ穏やかな声を出した。最初から喧嘩腰で行く必要は無い。
「今日は侯爵閣下にお願いが有ってきました」
先ずはヒルデスハイム伯が口火を切った。
「コルプト子爵の事です。出入りを禁じ一切の関係を断つとはいささか極端ではありますまいか。それに不当でもあります。子爵は侯にとっても近しい一族のはずです」
ヒルデスハイム伯の言葉に皆が頷いている。頷いていないのは私だけだ。
「コルプト子爵はベーネミュンデ侯爵夫人を煽り、グリューネワルト伯爵夫人を害そうとした。彼の行動は皇帝陛下に対する反逆行為であろう、そのような人物と繋がりを断つのは当然だ、卿らが何を騒ぐのか分からんな」
敢えて冷淡な口調で答えた。もっともそんな事で引っ込む連中ではないことも分かっている。
「コルプト子爵は弟の仇を取ろうとしただけです」
「反逆は許されん。いかなる理由が有ろうともな」
ヒルデスハイム伯達が顔を見合わせている。彼らの顔に有るのは困惑ではない、確信だ。何を考えた?
「コルプト子爵もその事については反省しています。自分の取った行動が反逆と取られるとは思っていなかったそうです。ただ弟の仇を取りたいと、その思いが先走ってしまったと」
ヒルデスハイム伯が神妙な表情をしている。もっともこの男の神妙な表情など当てにはならん。
「ヒルデスハイム伯、私がブラウンシュバイク公から聞いた話とは少し違うな。子爵は自分の行為が反逆だと理解していたと聞いているぞ。それとも卿は公が嘘をついていると言うのかな」
敢えて厳しい口調で言った。相手が乗ってくれば激高した振りをして叩き出す。だが伯はこちらの思惑には乗らなかった。落ち着いた口調で話してくる。
「そうでは有りません。子爵はブラウンシュバイク公の前では興奮してしまい愚かな事を口走ったと後悔しております。本心ではなかったと」
それが本当なら殊勝ではあるが、到底信じられんな。
「コルプト子爵の気持ちは理解できますし無視して良いものでもありますまい。誰だとて肉親が殺されれば平静な気持ちではいられません。まして我々貴族の血が平民によって流されたのです」
ヒルデスハイム伯を補うようにシェッツラー子爵が言葉を続けた。なるほど、こいつらの狙いはミッターマイヤー少将か。
「コルプト子爵は釈明の機会を与えて欲しいと言っております」
今度はカルナップ男爵だ。入れ代わり立ち代わり汚れたパンツが忙しい事だ。
「釈明だと」
「そうです。釈明の機会さえ頂ければ自分に反逆の意思が無かった事を証明できる。全てはベーネミュンデ侯爵夫人に罪が有るのだと言っております」
ミッターマイヤー少将を殺せれば、ベーネミュンデ侯爵夫人の事などどうでも良いという事か。コルプト子爵は侯爵夫人を徹底的に利用するつもりだ。彼女に全ての罪を着せそして自分は望みを叶えようとしている。哀れな女だな、侯爵夫人。そなたはミッターマイヤー少将の命と引き換えに今売られようとしている……。
「幻の皇后などと呼ばれて少し増長したようですな。侯爵閣下も不愉快では有りませんでしたか」
「……」
妙な目で皆がこちらを見ている。……なるほど、そういう事か……。
こいつらは私と取引をするつもりだ。侯爵夫人はブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家に対して敵意を隠さない。脅威ではないが目障りな存在だ。これを機に侯爵夫人を処断してはどうかと誘っている。そしてその代償がミッターマイヤー少将だ。
ブラウンシュバイク公の所ではなく私の所に来たのもそれが理由だ。ブラウンシュバイク公爵家は既に代替わりをし、しかも当主は養子だ。これでは取引は難しい。だがリッテンハイム侯爵家は違う。この連中は私なら取引が可能だと見た……。
「卿らはミッターマイヤー少将の命をコルプト子爵に委ねろと言うのだな。私にブラウンシュバイク公を説得しろと」
私の問いかけに誰も答えなかった。つまり反対者はいないという事だ。
「筋が違うな」
敢えて冷淡に答えた。こいつらと取引する必要などない。
「あの遠征の総司令官はブラウンシュバイク大公だった。大公はコルプト大尉を射殺したミッターマイヤー少将を咎めなかった。少将の行為は軍規を正しただけで問題は無いと判断したのだ。総司令官が判断した事を卿らがどうこう言う資格は無い」
「しかし」
抗議しようとするヒルデスハイム伯を手で制した。
「この件は私とブラウンシュバイク大公、ブラウンシュバイク公の間で話し合い、公が預かる事になっている。話が有るなら公の所に行くのだな。幸い今日は屋敷に居るはずだ。今の話を彼にするが良い、御苦労だった」
「……」
汚れたパンツよ、さようならだ。さてもう一眠りするか。
■ 帝国暦486年 8月 2日 オーディン ブラウンシュバイク公爵邸 エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク
「美味しいわね、サビーネ」
「はい、お母様」
リッテンハイム侯爵夫人が娘のサビーネとティラミスを食べている。二人ともニコニコ顔だ。こうして見ていると何処にでもいる母娘だな。というより何処にでもいる家族か。居間には俺の他にブラウンシュバイク大公夫妻、エリザベート、リッテンハイム侯爵夫人母娘が居る。和気あいあいだ。
「そうでしょう、エーリッヒはケーキ作りが得意なのよ。養子に迎えるよりパティシエとして迎えた方が良かったかも」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら大公夫人が言うと皆が笑った。笑えないのは俺だけだ。
「失敗だったかな、アマーリエ」
「どうかしら、まあケーキを作れる息子と言うのも悪くないわ」
「良かったな、エーリッヒ。息子として認めて貰えたようだ」
また笑い声が上がった。頼むよ、仲が良いのは分かるが俺で遊ぶのは止めてくれ。
「しかし義父上が甘いものが好きだとは思いませんでした」
「この人、お酒も好きだけど甘いものにも目が無いの。糖尿病が心配よ」
大公が夫人の言葉にちょっとバツが悪そうな表情をした。公爵とか大公とか言ったって女房には弱いか。まして相手は皇女だからな、頭が上がらんのだろう。
だとしたら俺はどうなるんだろう。小糠三合持ったら養子に行くなって言うよな、養子先は公爵家? 先が思いやられる……。エリザベートを見た、美味しそうにティラミスを食べている。大丈夫かな。
「この人が髭を生やさない理由を知ってるかしら?」
「おいおい、アマーリエ」
「良いじゃないの。リッテンハイム侯が髭を生やしているのにこの人が生やさない理由は……」
大公夫人は言葉を切ると悪戯っぽい表情で周りを見渡した。大公だけが困ったような顔をしている。
「お髭に生クリームが付くと威厳が無くなるから」
皆が笑い出した。悪いが俺も笑わせてもらった。大公も苦笑している。エリザベートが“本当なの、お父様”と訊くと大公は曖昧に頷いた。その有様に皆がまた笑った。
楽しい一時を終わらせたのはアントン・フェルナーの声だった。
「公爵閣下、御寛ぎの所を申し訳ありません」
「お客様かな」
「はい」
「例の方達かな」
「はい」
大公と顔を見合わせた。リッテンハイム侯より馬鹿どもがこの屋敷に来ることは聞いている。先程までの和気あいあいとした空気は消えていた。女性陣も沈黙を守っている。
「申し訳ありません、来客のようです」
「御苦労だな、エーリッヒ」
「いえ、それほどでは有りません」
「わしに遠慮はいらぬ、ブラウンシュバイク公爵家の当主はお前だ。好きにやるがよい」
「はい」
席を立ち軽く一礼してから離れる。フェルナーが先に立って歩き出した……。
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