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女房の徳

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第六章


第六章

「またそれは」
「これっていう男を見つけますやろ。色気で惑わして馴染みにして」
「それで?」
 首を前に出して問う。これもまた予想通りであった。
「どうなりまっか?」
「貢がせるんですわ」
 やはりこう来た。よくある話だ。
「汚い言葉ですけどそれこそ尻の毛までね。抜かれるんですわ」
「うわ、剣呑なことで」
「それですってんてんになった旦那もおるっていいますわ。まさに女狐ですわ」
「秋田から来た女狐ですか。支那からではなく」
 当時は中国を普通にこう呼んでいた。英語であるチャイナが元になっているのは言うまでもない。今も当の中国人はこう呼ばれても何とも思わない。なおここで菊五郎は九尾の狐に例えている。これも歌舞伎の演目から覚えたものである。
「そうですわ。いや、よかったでんな」
「そうでんな。何かほっとしましたわ」
「おなごはそう簡単にはわかりはしまへん」
 真面目な顔になっていた。
「そやさかい」
「女房が助けてくれたと」
「はい」
 僧侶はこくりと頷いてみせてきた。
「運がよろしゅうおましたな」
「いや、全くです」
 菊五郎はそのことをあらためて感じた。感じてみると女房というものの存在が有り難くて仕方がなかった。それであることを思うのだった。
「いや、これからは」
「どうしはりました?」
「女遊びは気が引けますなあ」
「またそれはどうして」
「いや、女房の心を知りましたからな」
 首を捻って苦笑いで述べる。
「それはどうしても」
「ふむ、浮気はできんと」
「そういうことですわ」
 また僧侶に言う。言うそばから心根が洗われる感じがした。
「どうにもこうにもこうなってはですわ」
「そうでっか。けれどそれは」
「何か?」
「いや、女というか女房の心を知ったらそれ以上のことはできまへん」
「女遊びは止めはるんですか」
 また菊五郎に問う。ようやく僧侶の前で話をするような内容になっていた。それを自分でもわかってどうにも気恥ずかしいものも感じていた。
「はい、これで奇麗さっぱりと」
「それもええかも知れませんな」
 彼は笑って述べる。
「おなご一人でいくのもええもんでっせ」
「そう仰る御坊は」
「いやいや、拙僧は」
 だが彼はその問いに笑って返すのだった。
「まだまだこれからですわ。拙僧は修行が足りませんので」
「修行が足りない」
「左様です」
 いささか人を食った言葉になっていた。
「遊ぶのもまた人の道を知ることですさかいな」
「それは煩悩ではないですか?」
「その通りですわ」
 また笑って言うのだった。
「煩悩を知ってこそなんですわ。修行というのは」
「ふむ。知ってからですか」
「女もそうなんですわ」
 僧侶はまた彼に語る。
「知ってこそですわ。けれど」
「それを知って頃合が来たら」
「離れてさらに上を目指すものですわ」
 そういうことであった。この僧侶もその頃合を見て遊んでいるのである。遊びを知らなければ遊びから離れられず、煩悩を知らなければ煩悩から離れることはできない。そういうことである。何かから離れるにはその何かを知らなくてはならないのである。
「ですから」
「そうですか」
 菊五郎は何か自分がより上に達しようとしているのを感じていた。それが嬉しくもありそれでいて寂しくもあった。その寂しさも今語った。
「しかしでんな」
「何かおますか?」
「いや、嬉しいですけど」
 苦笑いで以って言う。
「寂しくもあります」
「寂しいでっか」
「そうですわ。今までの自分から離れるさかい」
 笑ったその顔も寂しいものが混ざっていた。そうして語る。
「それがどうも」
「それはわかりますわ」
 僧侶の方も彼のその言葉を聞いて言う。
「何だかんだで親しんできましたやろ」
「ええ」
 その寂しい笑みのまま僧侶の言葉に頷く。
 
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