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女房の徳

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第四章


第四章

「何かおありですか、そこに」
「へっ!?」
 その言葉に驚いたのは菊五郎の方であった。主の怪訝な顔に彼も怪訝な顔で返す結果となった。二人して目を丸くさせて戸惑っている様子は実に滑稽なものであった。
「見えまへんか?」
 菊五郎はその顔のままで主に問うてきた。
「あの、わての横に」
「横って言われましても」
 主もその言葉に何と言っていいかわからない。心の中では菊五郎が物の怪にでも憑かれたのかとも考えていたがそれは口には出さなかった。
「何もおまへんが」
「おまへんって。ここに確かに」
「確かに?」
「うちのが・・・・・・ってあれっ」
 菊五郎は今までサトがいた場所を見てまた声をあげた。そこには今までいた筈のサトはおらずただ空いた空間があるだけであったのだ。これには菊五郎はまた驚くしかなかった。
「いまへんな」
「あの、旦那さん」
 主は本当に驚きながら菊五郎に声をかけてきた。
「酒、もう回ったんでっか?」
「えっ!?」
「ですからお酒が」
 ここで彼はこの主が自分を頭がおかしくなったのかどうか本気で窺っているということに気付いた。そうなれば後で何かと面倒なことになりかねない。下手をすれば店の主の座も隠居させられてこうした遊びもできなくなる。彼は咄嗟に機転を利かせることにしたのだった。
「回ったのでっか?」
「いや、すんまへんな」
 彼は笑顔を作ってそれに応えてきた。
「かなり飲んだようですわ」
「そうでしたか。いや、そうだと思いました」
 主もそれに応えて笑顔を作る。二人してそうだとすることにしたのだった。
「どうでっか。このお酒は」
「いや、かなりのもので」
 笑って主に述べる。
「美味しうて次から次に飲んでしもうでもう目が回りますわ」
「おや、では今日はおなごの方は止めということで」
「いやいや」
 だが彼はそれに笑って返す。実際にはそれ程酔ってはいないからこちらは大丈夫であった。
「安心してくんなはれ。こんなのは少し風呂に入ればすっきりしますわ」
「そうでっか。それでは」
「はい」
 笑って答える。
「少し風呂をお借りしてから行かせてもらいますわ」
「してどちらを」
 話を遊女に戻してきた。これが本題である。
「相手にされますか?」
「そうですな。それでしたら」
 ここでさっきの女房の言葉を思い出す。ここは今まで通りそれに従うことにした。
「岩手の方を」
「岩手でっか」
「はい、そっちの娘を頼みますわ」
 にこりと笑って主に伝えた。
「それで宜しいでっしゃろか」
「ええ、こっちはそれで」
 主も笑って言葉を返してきた。
「進めさせてもらいますわ。それでは」
 主は右に顔を向けて両手をぽんぽんと叩いた。すると店の者が二人襖をすっと開けて出て来たのであった。どうやら先程からそこで控えていたようだ。
「こちらの方をまずお風呂へ」
「わかりました」
「それからお軽のところへな」
「ほお、お軽っていいますんか」
 菊五郎は遊女のその名前を聞いて面白そうに声をあげた。
「仮名手本忠臣蔵でんな」
「やっぱり承知でんな」
「あれは好きな演目ですわ」
 また笑いながら主に答えた。
「廓文章と同じ位」
「そうでっか。それでは」
「はい」
 こうして彼は風呂の後でそのお軽と楽しく遊んだ。女は噂に違わぬ美しさでしかも気立ても良かった。彼は一晩楽しく遊んだ後で家に帰った。そうして朝に開店の用意をしている女房に声をかけたのであった。一晩遊んだせいで上機嫌の顔になっていた。
「おう」
「ああ、今帰って来たんやね」
 サトは店の前にいた。そこから彼に挨拶をしてきた。
「御飯は中に用意してあるで」
「そうか」
「お味噌汁とお豆腐でな」
「ええこっちゃ。ところでな」
「何や?」
 亭主の言葉にまた顔を向けてきた。
「はよ食べて店の支度見るんやったら見てや。忙しいさかい」
「一つ聞きたいことがあるんや」
 彼はここで昨夜のことを思い出して女房に問うてきた。
「聞きたいことって?」
「昨日の夜のことや」
 彼は言う。
「御前あの娘のこと知ってたんか?」
「知ってた?」
 亭主の言葉にキョトンとした顔をみせてきた。
「誰を?」
「誰をって御前」
 ここで辺りを見回す。誰もいないのを確かめてから彼女にそっと囁いてきた。横目で見ながら。その横目は女房の顔をじっと見ていた。
「今は二人だけや。とぼける必要はないで」
「だから何をなん?」
 しかしサトの様子は変わらない。相変わらずキョトンとしたものであった。
「とぼけるも何も」
「あれっ、御前」
 女房が本当に何もわかっていない顔なのでこちらも戸惑いながら述べてきた。
 
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