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象徴ストーリー

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象徴ストーリー

 
前書き
なんとなく。 

 
 彼女の長い舌を見慣れた午後の日に、温かい日が射していたから、僕は彼女の長い舌がどんな歴史を持っているのか聞く事ができた。彼女のそれは少し寒いから、そのことを聞くには温かい日差しが必要だったんだ。
 僕らが出会ってから、彼女の舌の長さを克服して性交にいたってもやはりその長さは僕を躊躇させる。もう、何度となく性交で舌同士を交わらせたり、僕の陰茎を上手に勃起させてきたのに。その長くて細いものは、伸びる度に僕の世界の範疇を飛び出してしまい、米神に緊張が張り付く。
 僕は思う。これは男性のペニスみたいなものだろうな、なんて。何度見ても自分のもの意外はグロテスクで、それでも目をそらせない、やるせなくも引力を持つあの種々様々な気持ちのよいモノたち。
 彼女の舌はその良し悪しに関わらず、僕に刺激を与え続けている。彼女を抱くときはいつも体がダルダルと重く、性的な感覚が鈍くなり、じりじりとした痺れの中で腰を振れば彼女は何度となく頂きにゆくのだけれど、僕の方は必死の思いでゴールにたどり着く。僕は彼女の隣ですっかりと疲労に埋まりながら、下腹部の重みを感じている。このままでは前立腺がだめになりそうだな、と思う。僕にとっては数少ないチャンスなのだ。女の子をすぐに手放す事はできない。いつかその長い舌で、とてつもない快感が得られるのじゃないだろうか?
 僕は彼女のかくぜつのよくない思い出話を、飛び飛びになるイメージの集まりを、頭の良い子が自分の想像力を学校の数学に当てはめるようにしつこく頭を回している。

 彼女の長い舌は、絶倫男の赤黒い巨根みたいだ。僕はそう思った。彼女の話の中にいくらか見世物小屋の驚きが混ざっていたからだ。僕の脳みそのスイッチは『象徴』に変わる。


 暗い世界で、僕は、足もすくみそうな何も見えない空間を、猫の仕草みたいに、霊感がある臆病者のように、くるくると首を回して見ていた。時に足元をすくいあげるような大きな揺れを、自分のめまいのように感じながら、上へと昇ってゆく箱の中にいる。経験的に、雰囲気でここはエレベーターのような気がする。黒い世界は壁を消してどこまでも黒い。暗闇は、手探りで見つけた世界の終わりの向こうまで続いているように感じる。思考を散々廻らしたその向こうまで続いているように。
だだっ広い世界は、今までの光ある、地平線のある、罪と罰のある世界は実は、人間が逃げ込むところであるのだ、なんて言いそうな雰囲気だ。ここには許しなど一つもないのだよといわんばかり。悲観的に逸る心で及び腰にやっと手に触れた壁はひんやりと冷たくて、硬い。とりあえずの安心と、行く先の不安。
 僕は手探りでボタンを押した。僕のイメージは現実と符合する。エレベーターのようなものらしい。エレベーターだろうか? エレベーターと考えても悪くはないだろう。

「世の中が価値を与えたものには、それを持つ人をどこにも導いてくれないということがあるんだよ」
「すいませんもう一回お願いします」と、僕は言ってごく光薄い闇の中で指を立てた。そして手探りでボタンを押しまくった。オレンジ色に光る丸いボタンは少しだけ闇を照らす。
「世の中が価値を与えてしまうものには、それを持つ人をどこにも導いてくれないということがあるんだよ。そして非常スイッチはないかい?」と、彼は同じ調子で繰り返した。僕の目にはぼんやりと紳士が、以外にも僕より背の低い、たっぷりと髪の毛のある紳士が映っている。なるほど人がいたんだ。
「スイッチは無いみたいです」と僕は言った。
「無いのか。探すのを忘れていた、申し訳ない」と彼は答えた。
「どこに向かうのですか?」僕は両手を広げて賢人に問うた。「このエレベーターはどこに?」と大声で答えた。「マッタク!」紳士は怒ったのだ。
「そんなもの知らない! 私が聞きたい。君はどこから入ってきたのだ! 入ったところがわかれば向かう先も分かりそうなものじゃないか。ビルの一階で乗ればその屋上に着くとかね!」紳士が怒っている。
「知らないうちにここに居たんだから、知らないよ。知らないうちに真っ暗だったんだから。さっきエレベーターなんて言ったけれど、本当にエレベーターかどうかもわからない。本当にこれはエレベーターなの?」と、僕は更にテンションがあがってしまった。
「君は何もわからない事に腹を立てているようだけれど、私は君と同じようにここに迷い込んだとき、すでに君に教えた事を思いついていたよ。君の思考は何一つ救いを見出していないのかな!」
「救い?」と、僕は声を裏返してしまった。「何が?」
「世界が価値を与えたものには・・・」
「そういう問題じゃない!」と僕は言葉をさえぎった。こういう場面になると僕は年上にとことん逆らう。
「だいいち言わせてもらえば、世の中から価値を与えられることで、自分を再発見できる可能性だってあるんだからね!」そう言ってしまってすぐ、僕は随分青臭いなあ、と思って醒めた。醒めて紳士への憎らしさを腹にためた。
「僕が言ったことはこのエレベーターらしきものの形而上の意味を踏まえた名言なのだけれどね」と、紳士は言った。
「あなたはこのエレベーターにそんな価値を与えたのですね。きっとエレベーターは自分を再発見しますよ」と、僕は言った。
二人のあいだに沈黙が降りた。そして僕は振り返る。二人? 二人しかいないのだろうか?
「すいませんタバコを吸ってもよいでしょうか」と誰かが言った。「長い時間吸っていないとちょっと耐えられないもので」
 それはオレンジの光が届かない箱の向こうからの声だろうか。
「私はかまわない。もともとへービースモーカーなのです」と紳士は言った。「一本もらえるとうれしい」
「僕も一本もらいたいけれど」
「この箱密封されてないの?」と女の声がした。
「君は背が高いから天井を探ってみてくれないか?」と紳士が言った。
 僕は手を伸ばし、さらに背伸びをし、足元に気をつけながらジャンプをした。ジャンプをしてもそれほどエレベーターは揺れなかったので、思い切りジャンプをした。僕は垂直飛びが七十センチもある。ジャンプが好きなのだ。
「上は随分高いみたいですよ。それにこれだけの人数がいても息苦しくならないし、空気は流れているでしょうね」と僕は答えた。
 タバコはすべての人に配られた。この禁煙が蔓延している世の中で全員タバコを吸うなんて。
 タバコの明かりで女の人の顔が確認できた。目のおおきい人だ。僕は、女の人がいたんだ、と思いながら薄闇の中を空気の流れに沿う煙を注視していた。ここでナンボほどの時間を過ごさなくてはならないのだろう? それでもエレベーターは止まっている事はなく、ただ上へ上へと僕らを運んでいる。それがどこかはわからないけれど。

 タバコの光を見つめていると、他の四人が僕より背の低い事がわかった。僕は彼らの口元に光る赤い火を見下ろしながらエレベーターの大きさを思った。大きさというか、その僕らの意思と無関係に動くという存在としての超然さについて。
 
まったく人を無視して上に上に舞い上がりやがって。見たいとも思わないときに金閣寺を見せられるようなもんで、きっとどこかについても感動なんかしないでしかめ面でタバコでも吹かしたろうかしら? もともとおいらはどこに行こうとしているのかな。みんなの意思がまとまってないから無関係さを感じるほどあべこべな方にゆくのじゃないかな。まあ、多分おいらはどこに行こうと思っていたわけじゃないから。云々・・・

 独り言は、僕の喉元に上がり下がりしながら、胸の中で響いたのか、外に向かって発せられたのか定かではない。他の皆もじっとして思考の風に吹かれているのかしら。誰一人として声を発することはなかった。
 僕は不意にセックスな事を口にした。
「男の中に女が一人ですね」
 箱の中に笑い声が響いたが、女のそれは聞こえなかった。気分を害しているはずの女の人に、僕はチンポがでかいから頭が鈍いの、と僕は言いかけてやめた。頭が鈍い事と、ペニスの大きさに何の関係があるのだろう?
何本目かのタバコを吸っている男が口をあけた。
「これ、別に外に出てもよいのじゃない? ボタンは押してもドア開かないんだから、無理やり連れて行かれるのでしょう? じゃあ僕らは僕らの意思を使うべきじゃない?」
「ドアをこじ開けると言うですか」と、僕は聞いた。
「安全な場所につれってってくれる保障あるの?」と、男は言った。
「君は導かれて着いたその先にも、導いたものの恣意がまみれていると思うのだね」と、紳士が言った。「いつも被支配感にさいなまれているわけだ」
「煙たくなったからじゃない?」と、女の声が会話に差し込まれた。
「確かに煙い」と、僕は言った。男はわかったタバコは消そう、と言って足元に火を落とした。
「それでも試すよ」と言った男を止める人はいなかった。男は丁寧に壁を指でさすり、引っかかりを見つけては指先をぐりぐりとねじ込ませようとしている。オレンジの薄闇の中でもその姿が感じ取られる。腰が出っ張ってサルのようになり、力を入れた指先は痙攣して、箱を振るわせた。
「案外カタカタいいますね」と紳士が言った。
「ジャンプしても大して揺れないのにね」と僕は言う。
「あんまりやらないで」と女が言った。「不安にさせないでよ」
「このまま波に任せて不安じゃないのかい」と男は強く言った。言葉に強い訛りが入っていた。僕は波に任せるセックスを想像していた。僕は日ごろの行為に満足していないらしい。すぐセックスな事を思いつく。脳の深部に突き刺さるような刺激があり、それが体の真ん中を通って陰茎に辿り着いた。少しだけの勃起。
「ボタンを押したところにだけ止まる。それがエレベーター。ボタンを押しても止まらないところは無いはず。ボタンを押しているところにはまだ着いてないだろうから止まらない。エレベーターは神様。人間の自由にはならないところがあるから」と、紳士が早口でまくし立てた。いったい何を言っているんだ。神様とか。
 それでも男は壁をこじっていた。僕は成り行きを見守っている。まだ命の危機は感じていないから、僕はおちんちんが大きすぎて鈍くて感じないから、黙って壁をこじ開ける彼を見つめていた。黙って見ている僕はニヒルだろうか? いや、ニヒルに見えるけど実はそうじゃないんだ。僕の心の奥底には、出口への眼差しがしっかりと据えられている。今は黙って見ていよう。いつか心の留め具が、ピンとはじけ時まで。
そして僕はパンツの中で大きくなり続けている陰茎を、別に出しちまってもいいかな、暗闇だから、と思いながら意識して勃起をおさめようともしていた。
「ボタンを押した階は形而上の出口。我々の心の中にある」と紳士はきっぱりと言う。「我々が気付かない限りのぼり続ける」
「何に気付けば止まってくれるのかしら」と女の人が聞いた。
「このエレベーターの存在が何であるかを探るのだ」と紳士が答える。
「わかったわ。やってみる」と女の人が答えた。
 僕は思う。何故そんな話に乗るのだ。

 僕はゆっくりと目をつぶって、上昇しているであろう床の圧力を感じるように膝を少しだけ曲げたり伸ばしたりして、かかとに圧力を与えた。足元にある硬い感じ。床は確かに僕らを支えている。大分時間が経ったからその下には僕らを死なす奈落が控えているだろう。僕はもっと床の確かさを感じるために靴を脱いで、靴下を脱いだ。ひんやりと冷たい床はやはり硬くて僕らを確かに上に運んでいる。僕は静かに溜息した。大丈夫、奈落の底になんて落ちやしない。
これは僕らを殺すために作った兵器なんかじゃない、と僕は心で唱えた。
「これは人殺しの兵器じゃない」
そして扉が開かないのを薄目で確認して、彼らの会話に耳を傾けた。実はこれが答えだと思っていたんだ。

「十二天使になんか二人加わらないか? 六地蔵にプラス八体でもいいぞ」と紳士は言った。
「何でぴったりの十四で考えないの?」と女は言った。僕はオレンジ色に光るボタンを何気に数えた。十四個。なるほど。
「ラッキーセブンの二倍は何だ?」と紳士は言った。「日本人男性の性器の長さの平均は?」と僕に聞いた。僕は黙っていた。僕は大きいから平均なんて気にした事がないのだ。「セブンスター二本あるか?」と紳士は男に聞いたが、さっきすべて火をつけてしまったと答えた。紳士は暗闇の中を手探りで吸殻を探しているようだった。
男はオレンジ色に光るボタンを「ツーツートトツートトトツートツーツー・・・」と言う風に押し続けている。一つが終わればまた次に移り、同じくリズムを刻む。
「なんて打ったの? モールス?」と僕は聞いた。
「開けゴマ」と男は答えた。彼の顔は少し笑っていた。僕も笑った。
 吸殻を集めた紳士が言う。「セブンスターはニコチンは何ミリだ?」
「これはカスタムライトだから0.8だよ」と男が言った。男は先ほどまでとは違うリズムでボタンを叩いていた。「ツーツーツートンツーツートン・・・・」
「なんて打ってるの?」と僕は小さな声で訪ねた。
「OPEN」と男が答えた。英語に変わったんだ。この男がなんだかかわいらしい。
「多分そういうこと関係ないんだと思うのよ」と女が言った。「そういう解釈ってなんだか運命的なものを考えていないって言うか、もっと人知を超えた神様の思し召しみたいなものの方が近いんじゃないの? 何でこの場合にタバコのニコチンが関係あるの? 第一、タバコのニコチンの量なんてフィルターに穴が開いているかどうかで決まってるんでしょう?」
「フィルターに穴が開いているのか」と紳士が言った。「どこに」
「フィルターを巻いている紙に小さな穴が開いてるのよ。そこから煙が逃げてニコチンの量が少なくなるの。もともと同じもの吸っているのよ。発見したとき少しがっかりだったけど」
「だからどうすればいい」と紳士は言った。
「どうしようもないわよ。どうしようもないけど、ニコチン何ミリとか、セブンスター二本で十四個の星とかなんでそんな中学生並みの発想なの? あなたなんでその歳まで生きてそんな感じなの? 四十を越えた男のにおいするのに。暗いからわからないけど。オナニーし過ぎたおじさんの匂いがするわよ」と女はまくし立てた。
「それは否定しない」と紳士は言った。「それで君は一日に何回やった事がある?」僕を指差している。僕は黙っていた。こういう中年はたまにいるのだ。
「すいませんけど誕生日はいつ?」と女の人が僕に訊いた。何故? と僕が聞き返すと「八月十日じゃない?」と訊いた。
「悪いけど僕は八月じゃない」と僕が言うと、八月の人いないかしら? と彼女は他の二人に問い始めたが、二人とも八月ではないようだ。
「何故八月十日なの?」と僕は訊いた。
「速水もこみち君の誕生日なの」と女は言った。とても困った調子の声だった。
「それと何の関係があるの?」と僕はまた訊いた。
「彼の写真で着てたバスケットボールのユニホームが14だったの。しかもね、14番が好きになって競馬で14番を買ったら当たったのよ」
「彼が好きなんですね」と僕は彼女に言った。彼女は黙っていた。彼が好きなんだ。
「14番ならいくらでもいるよ」と男が口を開いた。指はボタンを叩き続けている。「俺が知っている14番は試合には出ないが試合をコントロールするんだ」
「それはどういうことですか」と紳士が言った。「気功ですか」
「いや、14番が元気だと試合に勝つんだ。機嫌を損ねると試合に負けちまう」
「それはシンクロニシティーかな」と紳士は意気込んだ。
「試合に勝っているから機嫌がよいのじゃないですか?」と僕は言う。
「いや、言葉には出来ないが、そんな因果じゃない」
「14番を持ち上げていれば試合には勝つんですか」と僕は訊いた。
「14番は気難しいから簡単には気分が乗らないんだ」と男は言った。
「それは間違いなく気功の一種だ。14番の気が皆に伝染したのだよ。とてもいいヒントだ」と言って紳士は何か集中し始めた。
「モールス信号、打ち方変わりましたね」と僕は男に訊いた。
「少し長いの打ってる」と彼は笑みを漏らした。少年のような笑みだ。
「何と打ってるんですか?」と僕は訊いた。
「懺悔してる」
「何を」と僕は言って「モールス信号で打つより口に出しませんか?」と勧めてみた。だいいち、口に出して「開けゴマ」とも言ってないんだ。
 僕らは『開けゴマ』とか『OPEN』とか『速水もこみち君』などと今までのキーワードを口にしている。『速水君』の名前のときだけ紳士は黙っていたし、女の人は彼の名前を言えなかった。そしてやはり扉は開かなかった。
僕達は大きな箱に抱かれて、何か広大な土地に投げ出された都会人みたい。すべては空気に吸い込まれて届くべきところに届かないのかも。救いを求めるなら、すべての恣意を汲み取るような大いなる思考が必要なのかもしれない。十四のオレンジ色の光はそのまま消えることなくぼんやりと闇を照らしている。
 
紳士はまだ吸殻をもてあそんで、手をかざしたりしている。僕がそれについて質問すると、気功で吸われてしまう前のタバコに戻していると答えてくれた。男はひたすらにモールス信号を送っている。ちなみに内容を訊いてみた。彼がこの前買った風俗嬢のことだった。
僕は考えてみた。モーツァルトの絶対音感のように、緻密によくよく考えてみる。
 僕らはここを出たいと願っているのか? もし願っているなら何に願うのだろう? 神様? いや他には? 誰もいない。他には誰もいない。願いが純粋ならば神様に届くのだろうか? 人が何かを願うこと自体もうすでにそこには届かないほどの心の澱みが、神様の意識にまじわれないほどの澱みが生まれてくるような気がする。例えば『開けゴマ』なんて言葉を口にするとき、その人間にどれほどの純粋さが残っているだろう? 僕は意識の正しさについてイメージした。そしてすべての意識から不誠実を取り除いていった。そしてかすかな光に照らされている三人を見る。これらは神様を体よく口説いているレイプマンなのではないだろうか。そう考えたのだ。紳士の掌で転がされ、意思を注入されているのは吸殻ではなくて、汚れない肉体なのではないだろうか。男が執拗に押しているボタンから放たれているオレンジの光は傷口から漏れる血液なのではないだろうか。そして僕は女が何を犯しているのかを考えたとき、僕の脳裏に浮かんだのは、僕が初めて女性に体を開いてもらったときの開放感だった。好き放題に四肢と唇でむさぼる事を許された喜びを懐かしく思い出した。犯しているのは彼らだけじゃない。僕もだ。僕がそう思いついたとき、女の人がこう言った。
「私たち少し悪者になってさ、ここから吐き出されればいいのじゃないかしら?」
「悪者」と紳士が言った。
「もともと善人じゃないべ」と男が言った。
「あからさまじゃないといけないかと思って」と女が言った。
「ウンコみたいに出ちゃうのかい」と紳士が笑いを漏らしている。
「誰に対して悪者になるんだい」と男が言った。
 僕は一人で神様と思ったけれど、口にしなかった。しばらく誰も口をきかなかった。
そして僕は「西遊記みたいだね」と言った。紳士が「ドリフのだよね」と付け足してくれた。人形のドリフターズの面々が旅をするテレビ番組のことだった。巨大な人の体内に飲み込まれたドリフのメンバーが、上から垂れ下がる紐を引っ張って、最終的には巨人のクシャミで吐き出されるという感じだったと思う。このストーリーのもとはなんだったろう? 鯨に飲み込まれた少年の脱出劇だったろうか? その話の荒唐無稽ぶりが僕らの笑いを誘っている。女の人は話に参加せずに黙っていた。自分のイメージが出来合いのものにされてしまったから女は怒っていたのかもしれない。
「それにしてもテレビの言うこと真に受けるのかい」と男が言った。
「テレビを作る人も同じ人間だからね」と紳士が言った。「イメージするものに大差はないよ」
 僕は、引っ張るものなんて何もないよ、と言った。もしかすると闇の中に何か小さなスイッチがあるかもしれないけれど、僕はやる気がないからそう言った。
「バカ」と女が言った。彼女の息は上がっていて、僕の鼻孔には女の体臭が。
「呪いならあるよ」と男が言った。
「やればいいじゃないか」と紳士が言った。
「やってくださいよ」と僕が言う。
「へえ」と女が言った。
 もしかすると空気が薄くなっているのかもしれない。僕は少し怠慢の空気を感じている。
「へえ、俺はホームランを阻止できるんだけどね」と男は言う。
「それは形而上のホームランですか」と紳士が言った。
それに対して男が憤って言う。「形而上のホームランって何? 野球のホームランよ、俺の言ったのは。形而上のホームランってあんた」
「形而上のホームランって下ネタですか」と僕が言った。紳士は黙っている。僕はよくセックスのことをホームランと言うんだ。僕の下腹部は少し熱くなっている。ここの空気は少し薄いし、少し熱い。
「早くしてくれないかしら」と女が言った。「少し空気悪くなったし」
 それからしばらく、僕の体には性欲が満ちて、静けさの中で男は何かを呪いはじめて、紳士は黙って、女は匂いを出し続けている。空気は薄くなって、僕は静かに雑念のない気だるさに包まれながら、男の念が空気を薄くしているのではないかという憤懣に駆られ、しかしながら何も言わず、背中にある壁に中指を立ててくりくりといじくっている。僕は、このまま何も物事は動かずに、呪いや、願いなどとは関係なく、このエレベーターが僕らを安全なところまで運んでくれるのだという幸せな思考に。そして、女の匂いに少し膨らんでしまった僕のペニスがこのまま硬くなってしまうのか、静かに冷えてゆくのかを探っている。

 扉は開いてしまった。

 扉が開いた瞬間、女は何を確認する暇もなく飛び出していった。僕ら三人は逃げてゆく女の後ろ姿を見ていた。僕の目には彼女の大きなお尻が焼きついている。僕は初めて同乗者の顔を見た。そして大きく膨らんだ紳士の股間を確認して、「おお、あなたも」と思った。
新しい空気が僕の意識を満たして、ここから出なくちゃ、と思ったときすでに扉は閉まってしまっていた。
 エレベーターはまた暗い箱になって僕らを運びだした。オレンジ色に光っていたボタンは、気付いた男に押しなおされるまで黒く死んでいた。

「オレンジ色の服を着ていたんですね」と僕が言った。二人が失笑した。彼女がオレンジ色のきれいなスーツを着ていたんだ。まったく僕らは暗闇で何を考えていたのだろう。脱出し損なってしまうのも無理はないよ。
「逃げるように行きましたね」
「臭かったんじゃないですか」
「彼女、悪者になったから吐き出されたのかい?」
「ドアの向こう行き止まりっぽかったけど、その向こういけるのかな」
「上の方がいい逃げ道ありそうですよね」
「まだ、呪い効くんでしょ?」
 僕らは上手く逃げ出せなかった自分の不甲斐なさをまったくごまかして、一瞬見えたお互いの容姿を褒めあいながら自尊心を保っていた。そして長い時間が経って、もう呪いは効くことなく、僕は幾度となく反吐を吐いている。扉など開くわけもない、そう何度も思った。よこしまな考えを持ってしまった事に自責の念が。
空気は薄くなり始めている。薄いことに気付くほどに薄くなって、なるほどそれほど高いところに運ばれたのかと思わせる。僕は、男の気が悪くならないように、彼の念を乱さないように静かに暗闇と酸素不足に耐えていた。彼の念だけが救いなのだ。静寂と暗闇と人いきれで忍耐のキャパシティーに不快感が満たされてゆく。もう一時間以上ドアは開かなかった。

「なあ、仕事中遮って悪いが、何を念じているのだ」と紳士が訊いた。
「何を?」自信無げに言う。「いや、テンピュール・・・」
「テンピュール!?」と僕は男に言った。「テンピュールに何を念じていたんだ!」
「怒るなって! テンピュールをしつこく勧める男と戦ってたんだ。もみくちゃにされながら、想像力を駆使して戦っていたんだよ。何せやつはどんどんテンピュールを押し付けて来るんだ。低反発の効果がなくなるほどに強く押し付けて勧めるんだぞ。これは気持ちがいいってね! どんどん押し付けられて本当に疲れたんだぞ! それに扉も開いたじゃないか!」
「そして今、何を念じている」と紳士が言った。
「まだ、テンピュール男と戦っているよう」と男が答えた。
「それが呪いか、願いか、妄想なのか、見えないものと闘っているのかも知らんけど、もうドアは開かないんだな?」と僕は言った。
「開くかもわからないじゃないか! 何で信じない」
「あほか! お前は。何でそんなイメージで扉が開くなんて思うんだ」と僕は声を荒げた。
「きっと君の念で扉が開いたわけじゃないよ」と紳士が皮肉を込めて言った。「テンピュール、いい枕だ…扉を開けさせたのは、きっと彼女の『俺たちから逃れたい』『犯されるのはいやだ』という強い想いだったのだろうな」
「やはり僕らは臭いますかね?」と僕は言った。「僕らから逃げたかったか…」
「よし、壁をぶち破るぞ」と紳士が僕の言葉をさえぎって言った。「こう見えても空手やってた。極真だ」
「ここから出るぞって気合を伝えるんですか」と僕は訊いた。
「その通りよ」と言って紳士は拳を固めてドアの方をど突きはじめた。そして僕もやわな拳を使ってドアを叩き始めたのだ。
 僕は紳士に負けないような大きな気合の入った音を出そうと、数回殴っただけで皮がはじけちまいそうなひ弱な拳で、必死にドアを叩いた。僕の隣では紳士が鍛えられた男の拳をドアに叩きつけている。そういえばドアが開いたとき彼の拳には拳だこが見えていた。僕らが歯を食いしばっている間、男は黙っていた。
「あなたもやってくださいよ! 出たくないの?! 僕だって我慢してやってるんですよ!」
「我慢してよい事があったなんてこと俺にはないね」と男は答えた。「俺の人生、我慢して我慢して我慢して、我慢しただけの男になったんだから」
 僕らは男を尻目に壁を殴り続けた。壁は堅牢で分厚く、この努力が僕は無駄だと感じてきた。
「いいか、『出たい』と思う気持ちを拳と一緒に繰り出すんだぞ」と紳士は言う。僕は拳の痛みには麻痺してきたが固い壁の反動に耐えられず、肩や、肘を痛め始めていた。僕の見えない精神が見えない痛みに侵されてゆく。暗闇の中で僕の拳はぬるぬるとした液体に濡れている。皮が裂けて血が流れているのだろう。一発『出たい』と咆えながら思い切り叩いた。それは人生を投げ出すときの感じだったかもしれない。何も動きはしないドアを見て、僕は「もういい」と言った。
「足で蹴っていいですか?」と僕は質問した。
「足蹴は神様に失礼だ」と紳士が答える。殴るのはいいのかい。まったく。
「お前の分は私がやるから」と言った紳士は、更に激しくドアを叩く。しばらくして嫌な音がした。目を凝らすと、紳士は右腕一本でドアと格闘していた。
「安全装置でもあればね」と男が言った。「きっとエレベーターに振動があれば止まって救助が来るんだけどね」
「エレベーターじゃないんですよ」と、隅にうずくまって僕は言った。「エレベーターはもっと優しい」
「努力は認められるまでやるの?」と男が言った。「努力だけでも認められればいいね」
 紳士の壁を叩く音が収まるまでそう時間はかからなかった。彼も限界だったんだ。空手家の彼に随分とついてゆけた僕は相当頑張った。思い残す事は無い。

 エレベーターの中には薄闇と沈黙。それは以前より濃くて深い感じ。

 男は静かに話し始めた。
「あんたたちには感心するよ。努力を気合で前に出すもんな。二人ともあの女に欲情していただろう? うらやましくてさ。俺なんかもう、女を我慢して、訳ありで女を我慢して我慢して、気付いたときには性欲なんて渇いちまったよ。十年も我慢したかな。二十代終わりからから三十の終わりにかけてさ。女のヴァギナ触っても、もう勃起しないよ。ほんと。風俗はプライドがあって行けなかったからさあ。もしかしたらもう女抱けん思うたとき、初めて行ったのよ、風俗。ひどい屈辱だったよ」
「何か問題があったんですか」と僕は訊いた。
「いや、ちょっとトラブルが、っはは! 怖い人とね」
「努力は報われる」と紳士が言った。
「なりたい自分になる努力はね」と男が答えた。「我慢が美徳なら神様がとっくに俺を救い出してくれてるよなあ、っはは!」
「死ぬ覚悟をしたらそこからの人生は我慢ではないのでは」と紳士が言った。
「失意の中に覚悟は無いよ」と男が言った。
「なるほど」と僕が言った。その後に誰も言葉をつながなかった。箱の中はまた沈黙が舞い戻り、かつてそこあった僕らの声を飲み込んでしまう。

深く濃い沈黙がやさしい毛布のように僕を包み込み、体の痛みを黙って耐えている僕には心地よいナルシズムが滲み始める。体をしたたか痛めて、脳内に多量なホルモンが分泌しているのかも。気持ちいい。

 もう、どれほど僕らは運び去られたのだろう。この際、上昇しようが下降しようが関係は無い。ただ、もう、とてつもなく遠くに運ばれてしまっているのは確かだし。
 僕らがこのエレベーターに運ばれはじめてからどれほどの時間が? 一時間は越えただろうか。例えば秒速数メートルで運ばれたとしても、もう数千メートルは移動してしまった事になる。現実感も無いほど奈落の只中にいるはずだ。多分本当のことは知らない方がよい、と言われるくらいひどい状況だと思う。うん、本当のことは知りたくない。そして僕は自分の鈍さを恥じた。何故、本気で逃げなかったのだろう。
人間は後から振り返って、何故? という選択が多い。それが吉と出るか凶と出るかはまったく運しだいだ。

「とりあえずやる事はもうないのですか」と僕は薄闇の中に問いかけた。
「時が来れば試す事も見つかるだろう」と声がした。紳士の声が少し変だった。何かがこみ上げているのかもしれない。
僕は暗闇の中を手探りで、壁を順に叩いたり、ちょっとしたくぼみや秘密のスイッチが無いか漏れなく確かめた。もっと早くやるべき事だと思ったが、そんな陳腐な脱出劇を思いつくなんて恥ずかしかったから。そして僕は何も発見できなかった。僕がガタガタやっている間、二人は黙っていた。期待していたのかもしれない。僕が諦めると誰かが溜息をつく音が聞こえた。そして再び沈黙が降りた。
沈黙の中で感情は膨らんで、形を変え、流れ、空間を満たしている。僕は今度ドアが開いたら必ず出てゆくんだと心に決めて暗闇を見つめている。
ホルモンが多量に分泌する僕の頭は爽快に自由。僕の自由じゃなくて神様の自由。オレンジ色に光るボタンたちに目を閉じ、僕は、あまねき妄想に身を浸した。

 灰色の世界にゆっくりと、赤い液体の雫が後を引いている。それは人の血管組織のような密度をもっている。灰色の世界は無限の大理石のような輝き。上を見ると赤い液体は遥か遠く上空から最新式の繊維のように、複雑ながら規則的に進路を変え、尾を引きながら空間をじりじり進み、それらは絡み合って灰色の世界に赤を侵略させている。
そして僕は灰色の大理石の中にいる。硬い意識でそれを見つめている。僕の思考回路はほとんど機能しないで、耳からは聴力まで奪われている。ただ、まだ心臓が強く打っていることが鼓膜に届いているぐらいだ。僕は脳みそがまったく硬い石になってしまったのではと思う。だからどうしろというのだ。脳みそが石なのだ。どうすればいい。どうする気も起きない。
 石の中で僕は一ミリたりとも僕以上じゃなかった。僕は、はみ出すこともなく、犯されることもなかった。一種究極の生き方なのだ、とインスピレートされた。そう浮かんだのだ。
 僕の前を、灰色の空間を、灰色の猫が歩いている。世界も猫も灰色だけれど、猫であることはわかったし、別におかしくなかった。それより心地いいデザインになっていた。灰色の背景と三次元に絡み合う赤い線とバックに馴染む黄色い目の猫。猫は赤い文様をするすると抜けて、たまに赤い溜まりのところの匂いをかいで振り返る。僕の傍を通り、向こうに行ってしまうまで、猫は鳴かなかった。僕を見て警戒もしない。ただゆったりと、世界の道筋を歩きなれた肉球で歩く、そんな感じだった。
 猫とは何か高尚な人物の生まれ変わりかしら? そう、疑問した時に僕の頭の中でテレフォンコールがなった。

ルルルルル。。。。ルルルルル。。。。ルルル。 カチ!

 電話の声は若い女の声だった。
「今どこにいる?」と若い女がこそこそと話している。
「だれ?」
「地下鉄の駅なの、ちょっとまずいからすぐだよ」
「だれ?」
「こないだあったでしょ?」
「どこで?」
「あったどころじゃないでしょ? あの地下鉄のね…」
「あったどころじゃないって!? なに?」
「地下鉄の!」
「なに? あったどころじゃないって!?」
「大事なものくれたでしょう?」
「大事なもの? 何! とても眠いの、俺」と僕は怒鳴った。
「何言ってんのよ、その大事なものがふらふらと出かけていってエライ大事な事になってんのよ!」と女も怒鳴った。
「俺はあなたに大事なものはあげてないし、大事になるなんて知らなかったし、大事な事になっても俺のせいじゃないだろ? 違う? 突然電話で名前も名乗らないなんてバカみたいだし、俺は眠いし、ここまで付き合っただけでも奇跡だ、切るよ」
「地下鉄の早稲田! 今す…」僕は女の電話を切ってしまった。

 地下鉄 早稲田駅 

行かなきゃいけないじゃないか。僕は仕事で駅近のバイトをしている。十年前に通っていた映画専門学校の職員なんだ。
 僕は断りの電話を入れようと思っていながら、シャツを替えて出かけようとしている。職場は近い。東京を東西に走る地下鉄でひといきだった。頭の中ではそこを避けようと考えているのに、リアルな自分はますます何も気にせず前に進んでいる。僕は顔を洗っている。顔を洗いながらさっき電話の向こうで起こっていたことを想像する。想像の的は固い気の塊みたいで、僕の思索を許してくれない。僕は平和ボケだから何事にも当たらないと考えて部屋を出てしまった。ウン、僕は宝くじにも当たらないからね。
 僕の体はそこに着くまで縮んではいないし、膨らんでもいない。僕の中身は僕からはみ出す事をせずに落ち着いている。頭の中は余計な物事に苛まれることはなく、良く言えば静寂、悪く言えば白痴のような、僕は白痴ではないけれど、それを疑われるような停滞。そこから抜け出さなければならないと神様に言われているような気もする。「そのままでいいのかい? 君」と誰かが問いかけているよう。その答えはとりあえずの臆病な避難。「オレはいいよう・・・」そんな僕だけの帳の中。飛び出したいけれど、犯されるわけにはいかない。飛び出してゆく冒険の道は険しいという古からの情報。

第一僕は冒険などする必要があるのか? 何故ここから出たいのか? そのままでいいじゃないか。

僕の体を境目にして、せめぎ合う空気。その中で僕はじっと電車の軋む音に耳を澄ませていた。僕が僕をはみ出すとなにやら悪い事が起こる。そう感じていたんだ。
 電車の騒音の中で際立った静けさから、開いた扉を抜けて、自然と耳に舞い込んでくる喧騒の中まで階段を駆け上がる。その向こうに何がしかがある。走り抜けなければならない。犯されるわけにはいかないのだ。

 嫌 しかし。

嫌しかし、そこにいたのは十年前の僕だった。ぬらぬらとした目で、目玉が球面である事も疑われるほどぬらぬらとした目で歩いている僕の周りに、何故笑っているのか自分でもわからない人々が笑ってそこにいる。その僕は口をもごもごさせながら、しかし唇を結んでその奥で何かを話しているような様子だった。目の張り出しと、深い色の隈が街灯に照らされて、彼から健康的な要素をすべて剥ぎ取っていた。そして僕はただそれを見ていた。どこからかカメラのシャッター音が聞こえてきて、彼はそれを振りかえった。彼は怪訝な顔をしたけれどもそのまま向き直って、僕の前を通り過ぎて行ってしまった。彼が何かに反応すると呼応するように周りから笑いがまた漏れた。彼が僕の前を通り過ぎてしまうと、僕の周りは静かになった。さっきまで彼の周りにあった喧騒は彼に引き連れられて彼と共に去ってしまった。漱石の碑がある山にカラスの群れが見える。時間にして十数秒の出会いだった。
彼は救済を求めていたのだろうか? 深く落ち窪んだ心は目から何かを訴えていたのか。おそらくそれは彼に触れることもなくドーナッツのようにして笑う人々に対する落胆でもあったろう。僕は彼の、その落ち込みの深さゆえに触れる事さえできずにやはりドーナッツのようになり、他愛のないものに触れる事ができても大事なことには手を触れる事のできないドーナッツになり、少し彼を弁護すれば太陽の周りを回るおまけのような惑星のドーナッツになり…触れない。

僕は地下鉄早稲田駅にいる。電話をかけてきた相手の女は見つからない。一応探したのだ。それらしい女の人に声をかけたが、その女は手を上げてタクシーを捕まえて去ってしまった。彼の背中は闇に去って、僕の心には幾分かの柔らかさが帰ってきて、僕の想像は、彼と彼を取り巻く喧騒との戦いと、その中で疲弊してゆくものに届き、僕の体に鳥肌を立てた。僕は被害妄想的に過去を探したけれど、そんな体験はしていない。僕は三十年上手くやってきたのだ。何か大きな穴に吸い込まれるような、漠然とした被害妄想が僕の思考の中に巣食っていたのだろうか? それが僕を彼に出会わせた? 彼が去った後、僕の中から何か不確かなものが消えて、クリアな感情が残った。

 僕は仕事をしなければならない。

 僕は確かに思って早稲田通りを歩き出した。そして世界が明るくなった。扉は開いたのだ。

 扉が開いたのを確認したときすでに、他の二人は駆け出していた。僕は飛び上がるようにして立って扉の向こう側に走った。扉が開いたのだ。
扉の向こうは明るい。晴れた屋外プールの水中のように明るくて澄んで視界が突き通る。僕らは石の中にいたようだった。振り返ると石の肌がある。固い青灰色の磨かれた肌。滑らかに神様が撫で付けたような岩肌。走り出たところに踊り場があった。階段が巨大な石柱に張り付いているような造りだ。頂上は近い。下界は遥かに遠い。雲が足元をはっている。僕らはこんな所まで運ばれてしまったのだ。空気が薄い。
男はにこにことして頂上を見ている。息が上がった紳士がいる。彼の手は血にまみれている。僕は彼らに指を指して頂上に行くのか? 下に下りるのか? を無言で尋ねた。男は手を振ってうずくまり、紳士はボウと僕を見ていた。僕は酸素不足で思考がまったりしている。のっぴきならない状況であるのにまるで夢の中にいるように僕はぼやけている。そして僕はゆっくり頂上を目指した。僕らをここまで運んだのだから頂上には誰かいるはずだ。それだけを信じている。僕は手招きをして二人を誘った。彼らは手を振って拒んだ。僕は向き直って頂上へ歩き出した。
 
無意識な一歩。
不意なつまずき。
ときに目の覚める恐怖。
疲れと麻痺の悟りの一歩。
僕は頂上に辿り着いた。

 頂上に着いた僕はそれまでの道のりを忘れた。傷が自然に癒えるように忘れた。道のり自体が痛みだったかのようにきれいに、まるまると忘れてしまった。忘れてしまった僕は、それまでの僕ではないようだった。
 頂上は大きな部屋になっていた。天井が高くヨーロッパの教会みたくドームになっていて、柱があり、壁はなく、風が吹く。遠くに太陽が見える。太陽は黄色く、太陽の周りも黄色い。世界は青く、青い世界が太陽に打ち破られてそこだけ多少黄色く。
周りを見ればそこかしこに石柱がそびえていて、しかしその詳細は遠すぎて確かじゃないけれど、その姿は銅鐸の群れを思わせる。
こんなものがいくらあるの? 目を凝らしてみると十四まで数を数える事ができた。下を見ると、僕がいる塔よりずっと低いものもある。雲の波間に消えかかるものがいくつか。それはじっと目を見張ってようやく確かめても、そのすぐ後には霞んで消えてしまう。
ここはとても高い。ここの見晴らしは最高だった。しかし、いくら風景を眺めていてもわからない。何故僕らはこうして運ばれてきたのだろう? 僕は風景に目を凝らすふりをしてその中にある核心的なイメージの抽出を試みるのだけれど、中学生のとき見たセックスの幻のようにそれは指をすり抜ける。確かに人生はどこの海に流れ出るかも分からないような、他力に任せたものだけれど、こんな所まで連れてくるなんて。マッタク。
 拳の痛みが思い出される。それは肘を通って首まで。痛みを意識できるようになると、僕は僕になり始め、僕の体を包む僕色の空気が脱げてしまって、ピリッとした空気を感じる。そして僕の想像と扉が開いた事との関係性に意識を寄せる。それは僕のマスターベーションがAV女優にもたらす影響を考えるほど次元を超えたお馬鹿さんかも。

 犯されることのないそれぞれの石の佇まい。彼らは音もなく深い思索に耽るように。風は世界を縫って穏やか。時間を運ぶ。僕は心地よく立っていられる。
時はゆらゆらと流れて僕の回復と共に。時は確かに僕を癒している。僕の人生ではわからなかったことを、そのことを理解する事で得られる悟りで僕を癒してくれる。僕は小人物だと思う。なぜか理解できはしないけれど、小人物だと思ったんだ。
 風は右から左へ。僕が回れ右をすれば風は左から右へ。太陽は黄色く、世界は澄んだ青。変わらず時は流れゆく。


 僕は部屋で彼女の長い舌で愛撫されていた。下半身を剥き出しにして半ば欲情しながら、それを誇らしく見ていた。僕は陰茎に手を添える彼女に訊いてみた。
「長い階段のある塔を昇ったことはある?」
 彼女は舌を動かしながらしばらく考えていた。
「イギリスのお城?」
「イギリスよりもっとオリエンタルなもの」と僕は訊いた。
 彼女は首を振って彼女の舌が僕の乳首に触った。
「小さい頃の夢は何だったの?」
「パレード」と答えた彼女の口角に唾液の泡が出来ていた。
「パレード?」と僕は訊いた。
「紙ふぶきの舞うやつね」
「長い道のりを歩いて?」
「パレードだから車じゃない?」
「いじめられたことはない?」と僕は訊いた。彼女は人気者だったと答えた。長い舌でいろいろと芸をしたらしい。特に年長の人に可愛がられたらしかった。
 僕はあの塔が彼女の人生を象徴する何かであると思っていた。長い道のりを経て、彼女が辿り着いた景色を僕は見たのだと思いながら愛撫を受けている。僕は彼女の体の上に浮かぶ形而上の世界を思い浮かべている。そこには塔があり、痛みの向こう側にある悟りがあり、僕の胸をほのかに温める。僕はその世界に憧れを抱きつつ、彼女の舌に包まれた陰茎の興奮により、五感の支配する肉欲へと埋没していった。

一つの風景。その風景の一部には彼女も僕も等しく関わっているように見える。

 君の雨も僕の雨も
 決して上がらないだろう
 風が吹いて運んだ雲が
 降らすものじゃないから
 雨は僕らの心の傷が生みだした
 厚い雲から降りしきる
 君の心には森が見えはじめる
 君にはまだ愛があるから
 僕の心はまだ砂漠みたいに渇いてる
 あの日にすべてもぎ取られたから
 僕は君の森へ歩いてゆく
 取り巻く甘いドーナッツを横目に
 赤いりんごを食べに行こう
                 

                 了
 
 

 
後書き
オール読物だったか。落ちたやつ。 
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