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マウンドの将

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第九章


第九章

 第五戦、これはこのシリーズの趨勢を決める戦いであった。この試合を制するということは王手をかけること、将に天王山であった。
 両チームの予告先発である。横浜は第二戦で完封した斉藤、やはり最も頼りになる男であった。それに対して西武は当初西口が予想された。この試合には当然エースを出してくると思われたからだ。
 だがマウンドにいたのは西口ではなかった。横田久則であった。
 何故西口ではなかったか。東尾はここは何としても彼を出したかった。だが出来なかったのだ。
 この時西口は風邪を再発させていた。しかも腰まで痛めてしまっていた。シリーズ中の登板は絶望的とまで言われていたのだ。
 替わりの横田であるが明らかに調子は悪かった。だが東尾は彼を先発に指名した。
 これには理由があった。
「監督」
 シリーズの途中であった。彼は自チームの投手陣に呼び止められた。
「どうした?」
 彼は投手達の方を振り向いた。
「シリーズの登板のことですが」
「ああ」
 彼等はここで顔を決した。
「横田を出してやってくれませんか?」
「横田をか」
 彼はそれを聞いて顔を俯けさせた。
 横田はこの年父親を亡くしていた。西武投手陣はその彼にシリーズで投げさせ弔いをさせたかったのだ。
「・・・・・・・・・」
 東尾は沈黙した。勝負は非常にならなければならない。まして今の横田の調子では横浜のマシンガン打線を抑えられるとは到底思えない。結果は火を見るより明らかである。
 彼はここは退けるべきだと思った。野村や森なら迷わずにそうしたであろう。だが彼は野村でも森でもなかった。
「・・・・・・わかった」
 彼は頷いた。そして横田をマウンドに送ることを約束した。
「御前達の気持ちはよくわかった。俺はそれをくもう」
「監督・・・・・・」
 中には涙する者もいた。彼は非情になりきれなかった。それよりも一年間死闘を共にくぐり抜けてきた選手達の気持ちを大切にしたかったのだ。
「行って来い」
 東尾は彼の背を叩いてマウンドに送り出した。たとえ結果が見えていようと彼は後悔しなかった。
 試合がはじまった。やはり横田は打たれた。石井に打たれるとローズにタイムリーを許した。
 二回にもだ。佐伯のツーベースから指名打者の井上に打たれた。権藤は彼を指名打者にしたのだ。これも一種の勘であった。皆守備に不安のある鈴木を指名打者にするものと思った。だが彼はあえてそれをしなかったのである。
「権藤さんも時々わからないことをするな」
 観客も首をかしげていた。鈴木は足は速いが打球への反応はすこぶる悪かった。しかも肩も極めて弱い。当時の横浜において守備での唯一の弱点とさえ言われていた。
 だが権藤は何も言わなかった。そしてこの意外な采配は何と的中する。
 二回裏西武の攻撃である。鈴木健の打球はレフトへの大きなファールフライであった。
「これは無理だな」
 誰もがそう思った。打球はフェンス際へ向かっていく。
 しかし鈴木は諦めなかった。その打球を必死に追う。
 追いついた。そして何と捕ったのだ。
「えっ!」
 これには観客達も驚いた。東尾も鈴木健も驚いた。
「おい、鈴木ってあんなに守備よかったか!?」
 東尾は思わず傍らにいるコーチの一人に尋ねた。
「いえ、そんな話は・・・・・・」
 そのコーチも信じられないといった顔であった。西武は横浜の守備の弱点を衝くとしたら鈴木だと分析していたのである。
 敵の守備の穴を衝くのは西武の伝統であった。かって巨人との日本シリーズではクロマティの緩慢な動きを衝きそこで思いもよらぬホーム突入を敢行しシリーズの流れを決めている。
 だが横浜の他の守備は固く鈴木もカバーしていた。その為思うように攻めきれていなかったのだ。だが機会は狙っていた。しかし今の守備を見せられては。
「参ったぞ、これは。鈴木は攻められん」
「はい」
 東尾とそのコーチはほぞを噛んだ。守備の穴は衝けそうにもない。
 しかもその守備が試合の流れを大きく横浜に引き寄せた。特に鈴木は波に乗った。
 三回、鈴木の打順である。彼はここでツーベースを放った。
「まずいな」
 東尾はマウンドに向かった。そしてピッチャーを交代させた。
 横田は結局それでマウンドを降りた。彼の背中は泣いていた。
「横田、胸張れ!」
 肩を落としベンチに戻る彼にファンの一人が声をかけた。
「天国で親父さんが見とるぞ!御前はよう投げた!」
 彼はそれを聞き顔を上げた。見れば観客達が彼に対し温かい眼差しを向けていた。
「・・・・・・有り難うございます」
 彼はそれを見て帽子をとり深く頭を下げた。そしてベンチに戻っていった。
 美しい光景であった。死闘の中にも彼等は人の温かさを忘れてはいなかったのだ。
 だが死闘は続く。横浜はその波を止めてはいなかった。
 ローズは三振に終わった。だが次のバッター駒田が打った。このシリーズでは今一つ調子がよくなかったがここで打った。
 打球はセンター前に抜けた。これで鈴木がホームを踏んだ。
「駒田まで打ったか」
 東尾は表情を険しくさせた。彼の脳裏にこの試合で最も恐れていたことが浮かんできた。
 それは森も同じであった。その恐れが制球を乱した。暴投でその駒田を進塁させてしまった。
 そして谷繁のヒットで追加点を入れられる。横浜ファンは喝采を送る。
 西武は反撃に出た。その裏大友進が出塁し高木のヒットで返った。だが斉藤は動じない。
 彼の今日の投球は前回のそれとは違っていた。決め球である高速スライダーはあまり使わない。ストレートとフォークが主体であった。
「今日の斉藤のストレートはあまりよくは思わんが」
 東尾はマウンドで投げる斉藤を見ながら呟いた。
「要所要所で占めているな。中々手強い」
 西武はその彼を攻めきれなかった。
 それに対して横浜の攻撃は止まらない。東尾が最も怖れていたマシンガン打線の爆発が現実のものになろうとしていた。
「今日の森の制球は悪いな」
 権藤は森を見て呟いた。石井に打たれると波留の内野ゴロで進塁を許す。好調の鈴木は敬遠した。何と主砲ローズとの勝負に出たのである。東尾の面目躍如の采配であった。
「東尾も思いきったことをする」
 権藤はそれを見て呟いた。
「だが今日の森でそれはどうか」
 森は制球が定まらない。ここでローズを歩かせてしまった。
 
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