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魔法世界の臆病な「魔法」使い

作者:七織
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進みゆく世界

 
前書き
読みづらい気がしたのでちょっと改訂しました 

 
「確認をお願いします」

 不意にかけられた声に女性は顔を上げた。
 真っ直ぐな髪の所々に寝癖をつけた、可愛らしい女性だ。長く伸びた髪は机仕事で邪魔にならぬように雑に一纏めにしてある。疲れているのか、声をかけてきた相手に向けた眼鏡越しの瞳の下には隈がある。
 相手から渡された紙の束に目を通す。見れば、どうやら急ぎのものらしい。

「……遅くない、これ。ここに来て増えるとか、気力が」

 机の上にはいくつもの紙の束があった。女性個人ものからそれ以外のものまで。女性自身が目を通さねばならぬ物ばかりだ。
 だが、長い付き合いの秘書は素知らぬ顔を向ける。

「さきほど渡されたものです。文句なら先方にお願いします」
「ボク、死にそうなんだけど」
「そう言ってるうちは死にません。それと、いつも言っていますが」
「はいはい。皆の前ではちゃんと、私、って言うから平気ですよー」

 女性にとっては慣れた事だった。そうせざるを得ない事情もわかっていた故の、たわいない愚痴だった。
 秘書が、溜息を吐く。
 
「お願いしますよ。いくら確かな功績があったといっても、あなたの地位は彼らからすれば酷く小さいのですから」
「長く続いたものを、そんな簡単には変えられないからね。知ってる」

 女性が住む社会において、彼女の地位は高くなかった。王がいて貴族がいる。その制度の中で由来も血筋も無い平民の女性の地位は、高いものではなかった。高貴とされる者たちの髪には特有の色が証ともされたが、女性の髪にはその欠片もなかった。
 女性はその社会のある分野において確かな功績を上げていた。この国で女性の名を知らぬものは少ないだろう。今、女性を悩ます机の上にある書類もそれに関係したものだ。中には貴族の名が入ったものもある。だが、それでも認められる事とは別だ。

「まあ、ボ……私としては、邪魔さえされなければいいか」

 生計を立ててはいたがある種、生きがいとなった趣味や興味、好奇心のそれだった。名声や富の為にやっているわけではないのも大きかっただろう。
 最も、功績のおかげで女性からしてみれば潤沢と言えるだけの資金は持っていた。この家も目の前の秘書への支払いも、その資金で支払っていた。

「会まで時間もありません。そのクマは隠して下さい。それと、食事も取るように」
「分かってます分かってます。大事だもの」

 入ってきた資金のお陰で、昔とは比べられぬほど女性の食事事情は問題がなくなっていた。
 女性が死んだ目で時計を見ると、時間は確かに残り少なかった。だが机の上にはまだ多くの書類が残されている。急を要する物は少ないが、それでも気が削がれる思いだ。
 少しの時間女性は視線を宙に飛ばす。疲れからか自然と口が僅かに空き、とうとう気が触れたのかと心配する秘書の視線を横目に女性は暫し思考し、書類の山の一部を横にのける。

「確かさ、今日のが終われば、暫く用事はないよね」
「……ええと、はい」

 手帳を確認した秘書が頷く。ならば問題ないと、女性はのけたそれらをカバンに乱雑に詰める。
 先ほど渡されたのを含め、急を要する物に女性はざっと目を通し、サインをする。秘書に渡し、カバンを持って立ち上がる。

「そろそろ行こうか」
「分かりました」

 秘書が、バッグから取り出した棒状のものを女性に出す。

「ただ、その前に寝癖を直しましょう」




 

 国内の貴族、現状の資金提供を受けている相手の屋敷に女性はいた。
 高い天井にそこに吊り下げられた装飾の凝ったシャンデリラ。椅子の一つをとっても意匠が凝らされ、外から覗かれぬようかけられたカーテンが無ければ窓から射す光に磨き上げられた大理石の床が光っていたことだろう。
 部屋の中にいるのは女性と秘書を除けばパトロンである貴族と、女性と協力関係にある、言うならば現在の同僚というべき仲間が一人、それと貴族の意見役が一人だ。
 
「説明は要点を簡潔にいきます。詳細は手元の資料をご覧下さい。気になることは随意に質問を」

 結局直しきれなかった寝癖のついたままの髪を抑えつつ女性は周囲に言う。壁に映し出された、ボケた画像を木の棒で指し示す。

「前もって知っているかと思いますが、薬莢に関した進捗です。従来の様式である火打ち式は弾の充填が面倒だったので、これはその時間を短縮するものです」

 女性は科学者だった。それも、酷く優秀な科学者だ。
 女性が発明したものはこの国の生活に根付き、技術レベルを上げるものだった。そしてその功績は数多の分野に及んだ。
 細菌と消毒の概念、誘導発電の技術、高純度の精錬法、新種の合金、発酵食品の開発、簡易映写機の発明、ライフリングや散弾の開発、安価でのガラス製造、etc。
 庶民の手に届くものから、材料や技術費、手間の面から一部の人間にしか扱えぬものまで、多数の物が女性の手によって開発、或いはその技術や概念が提唱された。

 『無色の魔法使い』

 あらゆる世界に通じ解き明かしつつ、名誉や保身に汚れることなく。
 世界の法則を操る血筋を持たぬ身なれど、その法則に手を入れ作り出す。
 故に女性は平民でありながら、貴族にのみ許された名で、そう呼ばれた。

「火薬や雷管などに関しては問題ありません。現状はそれを覆う外殻と、発射時の熱による筒の変形と放熱です。具体的に言うと――」
 
 眠い目を凝らし、滔々と、女性は説明をしていく。
 
(……めんど、くさ。だるい、眠い。別にいいんだけどなあ、これ)

 睨んでくる秘書を見つつ、女性は心の中で呟いた。
 礼を欠き、支援者からの不況を買えば提供は無くなる可能性はある。だが、女性としてはどうでもよかった。切られれば別の、女性の手持ちの資金で出来る別の研究に映るだけだの話。或いは、別の支援者を探す事もあるだろう。
 そもそも女性は、技術自体は好きだが、その利用法は好きではないことが多々あった。
 だが女性には、これに携わる理由もある。だから、積極的に切られる動きをすることもない。

「頼むよ君。隣国の『錬鋼』に負けてもらっては困る」
「はい。大丈夫です」

 苛立ち混じりの声を上げる貴族に、女性は適当に返す。

(超伝導の実験したい……液体窒素でアイス……トルマリンで……輪転弾倉……眠い)

 女性はこの後には他の場所で、また別の技術の説明会への出席予定があった。研究者や技術者が集まり、そこで女性は発表をする。それが終われば暫く休みだが、女性は気が重い。理解が及ばない貴族と違い様々な質問などが寄せられるだろう。それだけ帰る時間が遅くなる。
 
(早く、帰りたいな)

 休みに入ってまず最初に向かう場所を思い、女性は気力を絞った。













「疲れたなあ」

 会合が終わり女性が帰途につけたのは夕方になってからだった。疲れた足に鞭を打ち、堅い反発を返す石畳の上を歩き家に向かう。その後ろを秘書が歩く。
 乾いた風が吹き、枯葉が舞う道を多くの人々が歩いている。並ぶ煉瓦造りの家々に、あちこちに入口を晒す路地。カランと、風に揺れた看板が音を立て存在を示す。時たま見えるマントを羽織った人。手に持つ杖は、貴族と、魔法の証。魔法学院がさほど遠くない場所にあることもあり、来る学生も多い。

(魔法、か。今でも憧れはあるなぁ)
 
 空を飛び、火の球を撃ち、水を操り、風を生む。そんな事に、女性は憧れがあった。
 女性の体は疲れていたが、やっと解放された心は軽い。
 
(まあ、一番じゃなくなったけど)

 自然とマントを追っていた視線を戻し、女性は足を進める。
 自宅に帰り、女性は昼間にいた部屋に向かう。

「お疲れ様でした」
「うん。疲れた」

 秘書に振り返る。

「これで終わりだよね。言い忘れてたって言われても、逃げるけど」
「ご安心を。言い忘れはありません」
「そう。よかった」
「存分に休み、好きな研究に没頭してください」
「そうだね。私は一番の方法で、休むよ。君も休みでいいよ。暫く適当にさ」
「は、はぁ……まあ、そういうことでしたらお休みをいただきます」
「うん。じゃあね」

 手を振り、女性は秘書を見送る。
 暫くし、完全に秘書が行ったことを確認すると、女性はカバンを持って部屋を出た。ベッドのある私室には向かわず、戸締りを終えると裏口へ。誰にも気づかれぬよう女性は人の群れに紛れ、足を進める。時折、知人や追ってがいないか女性は確認する。
 だるさと眠気の混じった顔はそのままだが、女性の口元は期待に緩んでいた。









 暫く歩き女性がついたのは、一件の家だった。女性がいた家から比べれば小さいが、一般的な平民の家から比べればずっと大きいと言える、そんな家だ。
 玄関前で女性は、今更ながらに寝癖のついたままの髪を思い出す。何度手で撫でても直らず諦め、服の乱れなどを直してからポケットに手を入れる。合鍵を取り出して鍵を開け、家に入る。来たのだと存在を示すように、閉じるときは少し力強く閉め、女性は中に進む。
 
「……忘れてた」

 呟き、女性は玄関まで戻り靴を脱ぐ。久しぶりだったからか、嬉しかったからか。小さなポカだ。
 女性は改めて家の中を進す。そして途中の部屋の扉を、コンコン、と叩く。

「誰だ? どうぞ」

 聞こえてきた声に女性は口を緩ませながら、扉を開け中に入る。
 そこそこ大きな寝室だった。大きめのシングルベッドに、壁際には本棚と暖炉、その前にはソファーがある。安楽椅子も一つある。窓から入る夕日に照らされる部屋は、少し薄暗い。
 パチパチと、火が入った暖炉の前のソファーには、一人の男性がいた。読んでいただろう本が、その手元には一冊あった。
 ソファーから立ち上がったのは中肉中背で、目立った特徴のない男性だった。女性より歳は五つほど上といったところだ。怪訝そうに潜められた眉は女性を見ると解かれ、瞳は驚きに少し大きくなった。

「久しぶりだな。何か用か」

 答えぬまま少女は男性に近づき、そのまま抱きつく。伝わってくる驚きなど意に介さず、少女は回した腕に力を込め、その胸に顔を埋める。嬉しげに、女性は頬をスリスリさせる。

「何か用がなきゃ、ボクは来てはいけないんですか先生」
「そんなつもりじゃないが……おい、力入れすぎだ。痛いから離してくれ」
「嫌です。ボクはもっと、強く抱きしめられたいです。んー落ち着くー」

 存分に男性を抱きしめ、その暖かさを感じてから女性は拘束を解く。
 男性は疲れたような表情をし、ソファーに戻り本を読み始める。女性はすぐさまその元に行き、男性の膝の上に座る。そのまま体を後ろに倒し、男性に寄りかかる。前からは暖炉の熱、背中は男性の体温が女性に伝わる。

「隣が空いてるぞ」
「ここがいいです」
「ならオレが隣に……」
「体勢、反対にしていいですか?」
「分かった、そのままでいい。そのままでいいからな」

 女性としては向き合っても一向に構わなかったが、このままでいいと言われたら無理にするのも気が引ける。

「先生はボクが嫌い何ですか……そんな離れたがるなんて」

 単なるからかいのつもりだったが、実際に言葉にするとそうなのではないかという恐れが女性の脳裏に浮かぶ。男性に嫌われる。その想像をして、女性は声が震えた。
 小さく、男性は呆れたように息を吐き、持っていた本から手を離し、女性の体を寄せ頭に手を置く。びくりと、女性の体が震える。

「そうならとっくに切り離してる安心しろ。お前には色々と恩もある。嫌いになんてならないよ。……まあ、少しくらいは離れてくれとは思うけど」

 少女はとても嬉しそうな緩んだ顔になる。乗せられた手に頭をこすりつけ、撫でろと行動で要求する。
 
「ボクは先生の奴隷ですから。離れるのはダメです」
「あー……何年前の言葉だ。忘れてくれ。もう無しでいい」
「嫌です。忘れませんし、無くしません――全部、先生のおかげですから」

 髪を撫でる手の感触と、伝わる熱の心地よさに女性は目を細める。
 男性は片手を女性の前に回し抱きしめるようにし、もう片方の手で目の前の髪を撫でる。

「寝癖か。少しは気をつけろよ」
「はい。よければどうぞ」

 嬉しげに、女性は持ってきた櫛を男性に出し、僅かに体を起こす。男性は呆れながらもそれを受け取り、女性の髪に通して梳いていく。

「切ったりしないのか。長いと大変だろう。上手く洗えなかったりさ」
「もしかして臭いますか!?」

 慌てて離れようとするのを男性は抱きしめて無理矢理に抑える。

「臭わないから気にするな。単に色々と面倒だと思っただって」
「良かったぁ……長いと少し大変ですが、ボクは面倒だとは思いません。先生が昔、髪は長いほうが好きだって」
「……それで切ってないのか。というか言った覚えがないぞ」

 記憶を巡り、男性が言う。

「長いの、嫌いなんですか?」
「いや、好きだ」
「なら良かった」

 安心したように女性が言う。
 一通り梳き終わり、最後に男性が軽く手で髪を撫でる。女性が再び体を倒してくるのを受け、ふと思い立ち、その頭の上に男性は軽く顎を乗せる。女性は男性より頭一つと少し、背が低い。顎を載せるには丁度いい位置に、女性の頭はあった。

「今日はまた、どうして来たんだ」
「暫く休みなんです。疲れてて、だから、休もうと思って」
「ならどうして」
「ここが一番、ボクが安心して休めるからです。あの家のベッドで寝るより今、こうして膝の上にいる方が、ボクは絶対休んでます」

 女性は力強く断言する。

「なので今日は一緒に寝ましょう。昔のように抱きしめられて眠ることを所望します」
「随分昔だなおい。トラウマは克服したはずだろ」
 
 一時期、女性は幼少時の体験から一人で寝れない時があった。その際、女性の要望で男性が協力した事があった。

「トラウマは関係ありません。疲れたボクが最高に休むためです。絶対に凄く安心して眠れて、疲れなんか飛びます」
「……まあ、たまにはいいか。原因はオレだしな」

 いや、だがやはり。そうブツブツと男性は呟く。
 お茶でも飲もう。そう男性が言って女性の拘束を解く。女性がどいて男性は立ち上がり、ティーポットを出してお湯を入れ、紅茶を二つのカップに注ぐ。
 女性が出された一つを受け取ると、男性は正面から女性の顔を見つめ、その目元を指で撫でる。

「クマが、出来ているな。いつも苦労をかけて悪い。矢面に立たせるような真似をさせてしまってる。今更だが、後悔したことはないのか?」
「……ずっと、疑問に思っていました。先生はどうして、ボクに全部くれたんですか」

 小さく紅茶をすすり、体が温まるのを感じながら女性は問うた。それは女性がずっと抱いていた疑問だった。今なら、その答えが聞けそうだった。

「ボクは一度も、後悔した事なんてありません。疲れたり、大変だったりはあります。けど、先生の役に立てているなら嬉しいです。好きなことをして、お金も、沢山貰えます」

 男性はソファーに座ろうとはせず、立ったまま女性の話を聞いていた。

「けど、分からないんです。世間でボクは『無色の魔法使い』って、貴族でもないのに二つ名があります。平民のボクが魔法使いなんて、嬉しかった。けど、違う。だって――」

 
「――ボクの発明は全部、先生の物だ。化学肥料も、新しい生産方式も、電気や電波も、色んな数式も、全部。先生が教えてくれたんだ。売られていたボクはただの奴隷で、魔法使いは、先生のはずなのに。何で全部、ボクにくれたんですか」

 
 男性はその言葉を、何も言わずに聞いていた。何を言うべきか吟味しているようだった。少しして男性は、ソファーとは別の方に動いた。すぐ傍の、暖炉の横にあった安楽椅子に腰を下ろし、紅茶のカップを両手で持った。ソファーの女性と距離を置くように、椅子に座った。
 男性はじっと、カップの中の水面を見つめ続けていた。 

「……私は」

 少しして、男性は口を開いた。

「私はね、臆病なんだ」

 落ち着いた声で、普段とは違った丁寧な言葉で、何時も通りの表情で、けれど泣きそうに男性は言った。

「臆病で卑屈で……そのくせ、自尊心だけはある。そんなダメな人間なんだ」

 男性はまるで、懺悔をするかのようだった。ならば女性は必然的に、その告解を聞く神の従者だった。
 窓から差し込む夕日は男性の場所まで伸び、朱く染まった男性の姿は影に隠れ、その顔は見えなかったが、泣いているように見えた。
 ずっと今まで溜めてきた、心の底の澱を少しずつ掬うように男性は話し始めた。
 
「ずっと前に話したことがあるよね。私は、こことは違う世界にいたって」
「はい」

 ずっと昔にされた話を思い出し、女性は頷いた。男性はこことは違う世界からこの世界に来た。その世界ではこの世界は、物語の中の世界だった。
 知らぬ誰かならきっと、戯言だと笑い飛ばすだろう話。けれど女性は、男性の言葉だから、それを信じた。

「私の教えた技術は……科学は、その世界の物なんだ。何十年、何百年と数多の科学者が研究し、そして積み上げてきた結果なんだ。そして私は、同じ学問の徒ではあったけれど、その世界ではただの学生だったんだ」

 堪えてきたものを押し流すように、男性は話し続けた。
 何年もの間溜められた心は、堰を切られ濁流となる。

「科学技術を作物に例えた話を覚えているかい?」
「アイデアを種とし、その時代という土壌に植え、肥料や水の量、温度や湿度などの試行錯誤をして、より良い果実を実らせる。そして出来た果実が、その世界に行きわある」
「……よく、覚えているね。その果実を誰もが食べ、生活の糧とする。そしてその中の誰かが、その熟した実から種を取り、また植える。出た芽を時に腐らせ、枯らせながらもより甘い実を、大きな実を作ろうとする」
「そしてその樹が、大きく、高くなるように。世界中の人が気づけ、その実を手に取れるように。その樹の上で、葉に乗り果実に誰もが手を伸ばせるように」
「そしてその実を取ろうと手を伸ばした人が、より遠くまで、より多くの世界を見渡せるように。誰もがその樹に乗れるように、樹を、天へと伸ばす」

 女性が小さかった頃、男性から教えられた言葉だ。その言葉を胸に、一時も忘れずに女性は今までを来た。

「けどね、私はその樹に、毒を植えてしまったんだ」

 

「科学者とは、研究者とは未だ見えぬ地を切り開かんと足を踏み込む、有志だ。科学は一日で成る物じゃない。誰かの発見があるからこそ、また誰かの発見がある。誰かの実らせた果実を食べ、種を受け取るんだ。そして繋がっていくんだ。けれど私は、その種を奪ったんだ」

 滔々と。
 言葉は流れ続ける。

「学生だった私はね、種を植える研究者じゃなかった。配られた果実を食べるだけだった。そんな私が、その実を持ったまま、この世界に来てしまったんだ。そしてその種を植えてしまった」

 男性は、それは強すぎる毒だったと言った。

「私が植えた種は、私の世界の誰かが身命を賭して明かした成果の結晶だ。それをただ教えられただけの私が、この世界に私の名前で流してしまった。それは決して許されることじゃない。人の功績を自分の物のように扱う。それはただの盗人だ」
「よく、分からないけど。先生は泥棒じゃないよ」
「いいや、泥棒さ。それも最悪の泥棒だ」

 そして男性は、その過去を語りだす。

「種の系譜を甘く見すぎていたんだ。それを初めて自覚したのは、最初の知識を形にして暫く経ったときのことだ」

 この世界の人間でなかった男性は、この世界での生き方に疎かった。生きるための術を持たず、金銭が必要となり一つの知識を外に出した。

「きっと、自尊心もあったんだろうね。遅れた技術で生きる人々を見て『なんて不合理なことを』『もっと便利なものがあるのに』『こうすればいいのに知らないなんて可哀想に』。今思えば馬鹿なことだよ」

 形にした知識は幾ばくかの金となり、目をつけた商人によってそこそこに広まった。そしてある日に男性は、その商人に古びた蔵へ連れて行かれた。来る権利がある、と。

「そこはね、ある研究者の家だったんだ。研究者は破産し、行方をくらませていた。権利を買った商人が物色しに行ったんだ。追い詰めたのは私の知識だったよ」

 蔵にあった本を読んだところそれは研究の成果を記した物だった。その研究者は、男性が出した知識の、それよりもずっと幼い雛形の研究をしていた。積んであった本は何冊にも及び、僅かずつだけれど着実な進歩が記されていた。どんな温度で安定するか、どんな材料を使えば良くなるか。失敗も成功も、全部が記されていた。何年にも渡る地道な成果がそこにはあった。

「出始めていた芽を、私が踏みにじったんだ。数日後、その研究者の死体が見つかったと教えられたよ」

 女性は男性の声の奥にある震えに気がついた。泣きたいのに泣けないのだと、そう気づいた。そんな資格さえないと、そう思っているのだ。

「その時代にはその時代の、土壌にあった種があるんだ。少しずつ大きくして技術の水面を、樹を上へと伸ばすのに、私は下からじゃなく上から降りてきたんだ。勝てるわけがない。育ちすぎた種はね、根を張った土の栄養を根こそぎとってしまう。あったはずの他の芽たちは枯れてしまうんだ」
「……確かに、そうかもしれません。けど、それで助かった人も、沢山いると」

 蹴落とした人じゃなく、掬った人の数も見ろと、女性は言う。女性自身、その一員だから。

「確かにそうかもしれないね。異世界だからこそ、私のしたことに気づきもしないだろう。けれど、本当なら報われていたはずの人を、異物である私が……毒を撒いて殺したんだ。殺した相手自身も、その毒には気づかずに。きっとあの人は、有能だったはずの彼は、自分の無能さを嘆きながら死んでいったはずだ」

 答えから降りてくる相手に、勝てるはずがないのにね。そう男性が言う。
 やっと、女性も気づき、理解する。男性が何に苦しんでいるのかを。

「それだけじゃない。他人の成果を奪うという事は、その研究者だけじゃない。私がいた世界の、数え切れないほどの誰かの成果や努力さえも奪っていることに気づいた。そしてこの世界の人は気づかない。してしまった私の行いは、糾弾されることすらない」

 とても怖かったと、男性は言う。
 男性の瞳が、女性を見る。

「だから、お前を使ったんだ」

 その意味を、女性はすぐさま理解した。

「残っていた金で奴隷を買ったよ。臆病だった私は、変わり身にしたんだ。奴隷の少女を育てて知識を与え、世間的な発明者にした。この世界の人間を通せば、そうすれば私が悪いんじゃないと、言い訳できる気がしたんだ。どこかの誰かを出来るだけ殺さないよう、少しずつ知識を出すことにしたよ」

 知識を止めるわけにはいかなかったと、男性は言った。殺してしまった彼のために。そしてどこかにいるはずの、男性が殺してしまった他の誰かの為に。枯らしてしまった芽を、男性は育てなければならないと思った。
 そんな事を思いながら、これ以上奪うことが男性は怖かった。
 その使命感さえも、勝手な思い込みだというのに。そう、男性はわらった。

「何故、ボクだったんですか。適当な他の誰かでも、良かったはずです」
「奴隷だったからだよ。自分勝手な罪悪感を押し付け、私が気兼ねなく道具として操れる相手。社会的な目を気にせず、捨てていい相手。きっとその相手は名声を手に入れるだろうね。卑屈な私はきっと、自分でしたことなのに嫉妬してしまうと思った。だから見下せる相手を。年下の少女なら、なお条件に合うと思ったよ」

 それでもお前だったのは、足を向けたその先に偶々いて視界に入ったから。必然性などなくただの偶然だと、男性は言う。
 ずっと思ってきた『何故』。望んだその理由を女性は何一つ隠されることなく男性から話される。

「優しくしたのもその罪悪感からだ。死ぬしかない奴隷を助け慈しむ。そこまでしてやるんだから、どう扱ってもいいじゃないかって、そう思い込んで……臆病な小心者とは、私を体現する言葉だよ」

 男性がカップを置き、頭を下げる。

「済まない。これが私の、オレの、お前を選んだ理由だ。謝ってもどうにもならないことは理解している」

 ずっと言わず、今になって男性がこの事を話してくれた理由を女性は考える。きっと男性は、いつか胸の内を吐き出したかったのだ。そして今なら大丈夫だと思ったのだ。糾弾され絶縁されようと、女性は問題なく生きていける。十分な知識と教養を与えたから、研究者としても一人でやっていける、そう考えられたのではないか。そう、女性は考えた。
 だから、女性はカップを置いて立ち上がり、男性に近づく。
 それは間違いなのだと、教えるために。

「大丈夫です、ボクは気にしてません」

 ソファーの時と同じように、女性は男性の膝の上に乗る。
 違いは、先ほどとは姿勢が逆だということだ。正面から抱きつくように、女性はひとまわり以上大きい男性を抱きしめる。姿勢の関係で、先ほどよりも女性の頭部は上の位置に来るので胸というより首元近くに顔を埋める。

「んー。やっぱり凄い落ち着く。このまま、寝ていいですか」
「お前、オレの話を聞いて――」
「そんなの、どうでもいいですよ」
「いいや、理解していない」

 女性の耳元で、男性の震えた声が呟かれる。

「そういうことじゃ、ないんだ。決して許されない罪を知らぬお前に押し付けた。私が踏みにじったのは個人の人生だけでなく、倫理そのものなんだ。お前はそれを理解していない」
「そんなこと、どうでもいいんです。ボクは我侭だから、そんなの、どんとこいです」

 マーキングをするように顔をうずめながら、本当にどうでもよさそうに女性は言う。

「あの日、先生が買ってくれなければ、ボクは野垂れ死にか、変態の玩具でした。けど、先生のお陰で、ご飯が食べれました。暖かな部屋で、抱きしめられて眠ることが出来ました。色んなことを教えてくれて、先生のお陰で、科学が好きになりました。憧れだった魔法を、教えてくれました」

 パチパチと、暖炉の中で薪が燃え爆ぜる小さな音が部屋の中に響く。その炎の熱よりも女性は男性の熱の方が暖かいように感じた。

「先生のお陰で、その魔法を使い続けられてます。まだ空は飛べないけど、きっといつか飛べます。ボクは先生の味方です。先生がいないのは嫌です」
「……道具として見ていたのにか」
「ボクは別に、損はしていません。得ばかりで困ってます。それに道具でいいです。道具はうまく使わないとダメです。あと、身近に置かないと駄目です」

 一層強く、女性は抱きつく。

「ボクは先生の奴隷ですから、離れるのはダメです」



 少しして、男性の手が女性の頭に置かれ、優しく撫でられる。

「そうか。離れられないか。ならまあ、これからも宜しく頼む」
「はい。ただ、悪いと思ってるなら、今日は一緒に寝てください。ぎゅーっと、後ろから強く、抱きしめて」
「……」
「考えても、ダメです。はむはむ」
「甘噛みやめろ」

 首筋に噛み付いてきた女性を、男性が引き剥がす。女性はひどく嬉しげに口元を緩ませる。

「あ、そうだ。よければ先生の、昔の話聞きたいです。前の世界のこととか、来たばかりの頃のこととか。どんなふうに生きてきたか、寝るとき聞かせてください」
「まあいいが、お前疲れてるんだろ。早く寝ろよ」
「やです。寝ません。根性で起きます」
「寝ろよ」






  
 その夜、一人用には大きく、二人用には小さなベッドの中に二人はいた。語られる物語は波乱万丈に満ちており、その物語は朝日が差し込むまで続けられた。
 日が昇った頃、ベッドの中にはやっと眠った二人の姿があったという。
 
 

 
後書き
ボクっ娘は大正義だってはっきりわかんだね。
二人の過去編書けたら書きたいな。
文体はいつもとはちょい違う感じにしました。



この世界の人間が、持てるだけの論文を持ち、百年前に行って発表する。
それも、自分の研究成果として。
その成果は誰のものになるか。名誉と功績はどうなるか。

その時代の人間なら、自分が遅かったのだと諦められる。
一緒の場所から出発したのなら、自分が劣ったのだと分かる。
けれど相手はゴールから出発して到達する。

そんなお話でした。

※ハーメルンの方にも投稿しました 
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