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秋雨の下で

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第八章


第八章

「危なかったな」
 広島ナインは全身から冷や汗を流した。それ程までに危ういボールであった。打った佐々木もまだ打球を名残り惜しそうに見ている。
「いったと思うたんやけどな」
 特に安堵していたのは三村であった。彼はボールがグラブに触れた、と一瞬思ったからだ。
「ふれたんじゃなかったのか」
 そういう感触があったように感じた。だが判定は覆らない。
 当の江夏は落ち着いたものであった。彼にはさっきのボールは絶対にファウルになるという確信があったのである。
「今の打球をフェアにできたら野球の神様や」
 江夏はそう思った。それ程自信のあるボールであった。
 ここでファーストの衣笠が歩み寄って来た。
「ん!?」
 江夏はふとそれに気付いた。
「まだ気にしとるか」
 彼は江夏に対しそう尋ねてきた。
「気にしとる、何をや」
「ブルペンのことじゃ」
 衣笠は率直に言った。視野の広い江夏である。彼はこの時もまだ自軍のベンチを見ていた。
「気付いとったか」
「そりゃな。ここからはよう見えるけえのお」
 衣笠は言った。そして雨を挟んで江夏に対して言った。
「気にすんなや。わしは御前と同じ考えじゃ」
 そしてこう言った。
「同じ考えか」
 江夏はそれを聞いてその言葉を繰り返した。
「そうじゃ。そんなもん気にする必要はない。投げることに専念せい」
「ああ」
 江夏は頷いた。そして打席にいる佐々木に顔を戻した。
「そうさせてもらうわ」
「よし」
 衣笠はそれを聞くと頷いて一塁に戻った。江夏は佐々木に神経を集中させた。
「行くで」
 四球目はストレート。しかしボールである。佐々木はその卓越した選球眼ではっきりと見ていた。
「やっぱりあれはわかるか」
 江夏は返球されたボールを受け取りながら呟いた。
「じゃあこれはどうや」
 そう言うと投球動作に入った。
 そして投げた。同じコースである。だが今度はカーブである。
「しもた、それか!」
 佐々木は別のコースにストレートがくると思っていたのである。若しくはボールになるシュート。だが何とフォークを投げてきたのである。
 実際に江夏はあまりフォークは投げない。ストレートにカーブを織り交ぜる。シュートはその次である。フォークは持ち球の中でも最も投げることの少ない球であった。しかし江夏はあくまでストレートを主体に投球を組み立てる男である。しかも今日は特にそうであった。それがここで投げてくるなどとは。
 佐々木は間に合わなかった。バットは空しく空を切った。
 三振であった。これで近鉄の切り札を退けた。
「やったな」
 古葉はそれを見て呟いた。
「あとは石渡か」
 そして打席に向かう石渡を見た。
「やってくるな」
「何をですか?」
 それを聞いたコーチの一人が彼に尋ねた。
「スクイズじゃ」
 古葉は短い言葉でそう言った。
「まさか」
 コーチはそれを聞いて首を横に振った。
「西本さんですよ。まさかこんな時にスクイズなんて。それに」
「御前の言いたいことはわかっとるけえ」
 古葉は彼に対して言った。
「あの時のことやろ」
「・・・・・・はい」
 コーチはその言葉を聞き頷いた。
 十九年前の日本シリーズ、大毎と大洋の戦いであった。この時西本は大毎の監督をしていた。
 このシリーズは今だに語り草となっている。三原マジックがその妙技を見せつけたシリーズであった。
 ターニングポイントは第二戦であった。
 八回表、大毎の攻撃であった。スコアは三対ニ、大洋一点リードであった。
 マウンドにいるのは大洋の誇るエース秋山登、バッテリーを組むのは盟友土井淳である。当時このバッテリーは難攻不落と呼ばれ怖れられていた。
 だが一死満塁、大毎の逆転のチャンスである。
 当時大毎は強打のチームであった。いよいよそれが爆発するものだと誰もが思っていた。
 打席に立つのは五番の谷本稔。西本はここでスクイズを命じたのである。
「なっ!」
 それを見た観客達は思わず唖然とした。まさかここでスクイズとは。
 だがそれは失敗した。ダブルプレーに終わりその回の攻撃は終わった。
 
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