秋雨の下で
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第六章
第六章
そのマニエルの守備を古葉は突いた。そしてそれにより第五戦は勝利を収めた。その他にも彼はことあるごとにマニエルを狙った。近鉄はマニエルの守備がなければ第七戦を待たずに優勝を決めていただろう。
その古葉である。切り捨てる時は容赦なく切り捨てる。江夏に対してもそうであった。
「わしは辞めるで」
江夏はそう言った。ナインはこの時は何も言わなかった。
そして別れた。だがこの時江夏に歩み寄る男がいた。
「おい」
「ん!?」
それはファーストを守る衣笠祥雄であった。
後に鉄人と呼ばれ連続試合出場記録を達成する男である。強打と堅守でチームを引っ張り山本浩二と並ぶチームの看板選手であった。
だが彼は反主流派であった。二枚看板といっても広島のトップスターは地元出身であの鶴岡にも見込まれた山本であった。彼は江夏や遊撃手の高橋慶彦等と共に広島の中では外側にいた。
その衣笠が江夏に声をかけてきたのである。
「辞める時はわしも一緒じゃ」
「なっ」
それを聞いて恵熱は思わず小さな声をあげた。衣笠はもう背を向け一塁に戻って行った。
「・・・・・・・・・」
江夏はそれを黙って見送っていた。そしてマウンドに戻った。
「有り難いな」
心の中でそう言った。そしてバッターボックスへ目を向けた。
この時西本は二人の男に話をしていた。一人はトップバッターの石渡茂である。地味ながら手堅い業師である。バントも巧い。
そしてもう一人いた。打順は九番であるから投手である。九回に投げていた山口哲治の打順である。
しかしこうした場面で代打を送るのはセオリーである。西本はそれに従った。
当時の近鉄は言わずと知れた強打のチームであった。いてまえ打線。長きに渡って球界にその名を轟かす強力打線はこの時に誕生したのである。
だが最初は貧弱な打線であった。それを西本は一から鍛え上げたのであった。
羽田に栗橋、平野、石渡、有田、梨田、小川に吹石、そしてマニエル、アーノルドと控えにまで打てる男が揃っていた。皆西本の愛弟子達である。
その中でも最も西本の野球に心酔しそれを忠実に受け継いだ男がいた。佐々木恭介。この前の年には首位打者も獲得している男である。
このシリーズでは身体を壊しており、またマニエルが守らなくてはならなかった為代打に回っていた。近鉄にとっては最後であると共に最強の切り札であった。
その打撃は一見豪快であったがその実シャープであった。コンパクトに振り勝負強かった。特に左打者に対しては無類の強さを発揮する。そう、江夏のような左投手に対しててある。
「ええか」
西本は石渡とその佐々木に対して言った。
「ストライクは全部振っていくんや。迷うんやないぞ」
「はい」
二人はそれを聞いて頷いた。
「よし」
西本はそれを聞いて首を縦に振った。
「行って来い」
そう言うと代打を告げた。
「代打、佐々木!」
そのアナウンスが響いた時球場にどよめきが起こった。
「遂に出て来たな」
「ああ、待ちに待った左殺しや」
近鉄ファンは皆勝利を確信した。その気が広島ベンチ、そしてマウンドにいる江夏にまで伝わってきた。
「負けるか・・・・・・」
古葉は向かいのベンチにいる西本を見て呟いた。
西本は腕を組んで佐々木を見守っている。何も語ろうとしない。表情も変えない。ただ佐々木を見ているだけである。
「頼むで」
西本は心の中でそう言っただけであった。
古葉は江夏を見ながら考えていた。そして佐々木も見ていた。
「ここが勝負だな」
それは彼にもよくわかっていた。
佐々木は西本の一番弟子である。今まで出番がなかったとはいえその打撃には定評がある。前述の通り左には特に強い。江夏が打たれる危険が最も高いのはこの男である。
だがそれを逆にして言えばこの男を抑えれば勝利が見える。両チームは今緊張の頂点にいたのである。
近鉄ベンチからは凄まじいオーラが発せられる。勝利を掴まんとするオーラだ。
それは江夏も感じていた。だがそれに動じる江夏ではない。
彼は今まで後楽園で王、長嶋を向こうに回してきた。甲子園では熱狂的なファンの想いを一身に集め投げぬいた。その彼にしてみればプレッシャーなぞものの数ではなかった。
逆に佐々木を睨みつける。そしてその目を見た。
(強振やな)
その強い光を見て江夏はすぐに見抜いた。
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