秋雨の下で
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第四章
第四章
「ここで点をとられたら負けだ」
古葉は言った。彼は試合の流れを的確に見極めていたのだ。
ここで西本も動いた。それは彼も見極めていたのだ。
そして出て来たのが藤瀬だった。彼は江夏の前でしきりに動き回って見せた。
「目障りなやっちゃな」
江夏は思った。左投手である彼はそれがよく見える。そしてそれに気をとられてしまった。
近鉄の主砲チャーリー=マニエルに打たれた。藤瀬は瞬く間に二塁ベースを回った。
「なっ!」
それを見た広島ナインも江夏も流石に驚いた。機動力野球を得意とする彼等でもここまでの俊足の持ち主はいなかったのだ。
これで江夏はリズムを崩した。いつも冷静に相手の動きを見、そこで超人的な勘と優れた頭脳を以って打者だけでなく相手チーム全体を封じ込める彼にしては珍しいことであった。
これこそ西本の一手であった。彼は江夏の前に藤瀬を出すことによって彼のリズムを崩すことを狙ったのであった。
これで勝負は決まった。アーノルドの犠牲フライで藤瀬が帰り先制点。その後に羽田が打つ。そして有田修三にアーチを浴びた。あの江夏が呆気なく打ち崩されてしまったのだ。
「嘘じゃろが、これは」
「いや、ほんまじゃけえ」
観客席にいた広島ファンも信じられなかった。あの江夏がこうも簡単に打たれるなど。かって彼等は阪神のエースである彼の剛速球に手も足も出なかった。村山と並ぶ恐るべき敵であった。
広島に来てもそれは忘れられない。彼等はやはりあの時の江夏の方が鮮明だったらしい。
今は広島の切り札である。その切り札が敗れたのだ。
「まずい」
広島は思った。そしてそれを誰よりも感じたのは江夏本人であった。
第三戦では盗塁を決められた。牽制球の名人でもある江夏から盗塁を奪ったのである。
「やってくれるのお」
それを見た江夏は呟いた。そして藤瀬の名を深く心に刻み込んだ。
その藤瀬が出て来た。江夏は彼を一瞥した。
藤瀬は笑っていた。どうやら自分の脚には絶対の自信があるようだ。
「福本でもああはいかんな」
彼は心の中でそう呟いた。だが今彼はバッターに注目していた。
「確かに藤瀬は速い。わしの癖も見抜いとるな」
江夏はそこまでわかっていた。
「じゃあ走ったらええわ。そのかわりホームは絶対に踏まさへん」
そしてアーノルドに集中することにした。
西本はそれを冷静に見ていた。
「江夏は動じていないようですね」
コーチの一人が西本に対して言った。
「そやな」
彼はそう答えて頷いた。
「流石やな。ああでなくてはエース、そしてストッパーは務まらん」
彼は江夏を見ながらそう言った。
「けれど藤瀬はやるで。伊達に脚だけで飯を食うとるわけやない」
彼は藤瀬の脚に絶対の信頼を置いていた。
「羽田も足は遅くはない。けれどあいつの足は特別や。そうそう防げるもんやない」
そう言うとサインを出した。
何時走って来るか、何球目か、広島のベンチとキャッチャーである水沼四郎は藤瀬から目を離さなかった。彼等も藤瀬の足は知っていた。
「来るか」
一球ごとに藤瀬を見る。だが中々動かない。
西本はその都度サインを送る。それが広島ベンチをより一層不安にさせる。
四球目であった。藤瀬がスタートを切った。
「来たか!」
セカンドとショートが一斉に動いた。水沼が送球に備えた。
この時西本はヒットエンドランを指示していた。だがアーノルドはそれを見落としていた。
アーノルドは振らなかった。単独スチールの形になる。だがそれだけで広島にとっては脅威であった。
水沼は焦っていた。それがボールにあらわれた。
「しまった!」
彼は思わず叫んでしまった。送球のタイミングは微妙なところであった。だがボールはあらぬところにいってしまった。悪送球だった。それを見た藤瀬は一気に三塁に向かった。
「まずい・・・・・・」
水沼はそれを見て舌打ちした。藤瀬は三塁に達していたのだ。
これを見た広島はアーノルドを歩かせることにした。外野フライで同点である。止むを得なかった。
西本はまた動いてきた。アーノルドに代走を送ってきたのだ。
吹石徳一。彼も俊足であった。広島にこうしてプレッシャーを与えてきたのだ。
「こういう時になると手堅く攻めて来おるわ」
江夏は西本を見て言った。西本はそれに気付かないのか気付いていてあえて無視しているのか江夏には顔を向けない。ただ自軍のランナー達と次のバッターを見ていた。
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