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秋雨の下で

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第十章


第十章

 石渡はこの時思いきり振るつもりであった。だが江夏のカーブの鋭さに手が出なかったのだ。それを見た西本は思った。
「わしの言葉が上手く伝わってなかったか!?」
 そう思うとその疑念は急激に膨らんでいく。彼の疑念は不安となった。
「まずいかもな」
 三振や内野フライならまだいい。だが得意の右打ちを下手に失敗して併殺打を打ったなら全てが終わる。広島ナインはそれを予想してか既に前進守備である。
「外野フライでも難しいかもな」
 広島は外野守備も固かった。センターの山本浩二もそうであったが特にライトを守る助っ人ライトルの強肩と守備範囲の広さは脅威であった。如何に藤瀬といえどこれは危なかった。
「どうするかや」
 西本は考えた。まずは三人のランナーを見る。
 三塁から藤瀬、吹石、平野。三人共俊足である。おそらくヒット一本で二人確実に帰る。
 だが広島の外野は先に見たように固い。レフトにいる水谷実雄にしても普通の守備は出来る。ましてや狭い大阪球場である。外野へ飛ばすのはあまり期待できない。
 では内野を狙ってはどうか。だが広島内野陣はセリーグ一の守備力を誇っている。強肩俊足のショート高橋だけでなく三村も木下もその守備は堅実である。衣笠もそれは同じであった。余程上手く打たないと抜けそうにない。抜けなければお終いである。
 ましてやピッチャーは江夏である。そうそう余裕をもって打てる男ではない。西本は広島ナインを見回して腕を組み替えた。
 石渡はパンチ力もある。ここは振らせてみてもいい。狭いこの球場だとスタンドに入るかも知れない。だがそれはヒットや外野フライを狙うより可能性は低かった。
「やっぱり江夏をどうするかや」 
 そう呟き江夏を見る。そこで彼はあることに気付いた。
「江夏か」
 そう、江夏である。彼の特徴はその太った体型である。
 今では太ったピッチャーも珍しくない。だが当時太ったピッチャーというのはそれだけで失格の烙印を押されることも多かった。実際に江夏はその体型を嫌われて阪神を追い出されたところがあった。当時阪神は田淵幸一等太った選手が目立ち『阪神部屋』等と揶揄されていたのだ。
「そうや、ここに穴があったわ」
 西本は広島の堅固な守備の穴を遂に見つけ出した。彼は江夏を攻めることにした。
 そしてサインを出した。それを見た石渡の目が光った。
(わかりました)
 石渡は目で西本に頷いた。誰にも気付かれることのないようにそっと。
 だがこの時顔が僅かに白くなった。しかしそれは誰も気付かなかった。そう、広島の者は。
 一塁にいた平野は石渡の顔が白くなったのを見た。だがすぐにそれが元に戻ったのを見て思った。
(そうや、それでええ)
 彼はそれを見て勝利を確信したのだ。
 だが三塁にいた藤瀬は違っていた。
(ほんまか!?)
 彼はそのサインを見て蒼白になった。そしてゴクリ、と喉を鳴らした。
(確かにわしは脚には自信はあるが)
 彼は西本を見て思った。西本はその彼に対して目で言った。
(御前ならやれる、安心せい)
 彼は藤瀬の脚にも絶対の信頼を置いていたのだ。
 だが藤瀬は狼狽していた。彼にもあの大毎でのことが脳裏にあった。
(もしここで失敗したら・・・・・・)
 そういう不安があった。石渡の方を見た。
 それに対して石渡は冷静だった。彼は自信があった。それで定評があったからだ。
(あいつ、何でああまで冷静でいられるんや)
 藤瀬はそう思った。それがつい顔に出てしまいそうになる。そしてそれを抑えるのに必死になる。
 江夏は左である。従ってそれを見ることはできない。だから藤瀬の動作はよくわからない。
 石渡はさっきと変わらなく見える。だが外見上そう見えるだけだ。内面は見ようとしたが見抜けない。どうやらあえて隠しているようだ。
 江夏に藤瀬は見えなかった。だが彼は広島ベンチからはよく見えた。
「あいつの様子、どう思う?」
 古葉は隣にいたコーチに対して囁いた。
「藤瀬ですね」
「ああ」
 古葉はそれに対して頷いた。
「怪しいと思うじゃろが」
「ええ、確かに」
 そのコーチは頷いた。
「来るな」
 彼はそう言うとベンチにメモを送った。
 
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