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秋雨の下で

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第一章


第一章

                     秋雨の下で
 七九年一一月四日、大阪には雨が降っていた。
 時間はもう夕方であった。もう肌寒い季節である。それだけにこの雨はこたえる。その中で戦う戦士達がいた。
 近鉄バファローズと広島東洋カープ。両球団は日本一の座を巡って死闘を繰り返していた。
 三勝三敗となり遂に最後の第七戦となった。泣いても笑ってもこれが最後である。
 試合は僅かに広島が有利に進めていた。四対三。そして九回裏、最後のイニングを迎えた。
 広島はこの回を抑えれば日本一である。近鉄はこの回で二点を取ればいい。一点だと延長だ。
 そうした場面である。広島の指揮官古歯竹職は七回から切り札を投入し万全を期していた。
 江夏豊。阪神にて黄金の左腕の名を欲しいままにし幾多の強打者をその剛速球で捻じ伏せてきた男である。
 剛速球だけが彼の武器ではなかった。独特の曲がりをするカーブとスライダーの中間の様な『スラーブ』という変化球も持っていた。シュートや速くキレの鋭いフォークも持っていた。しかしそれだけで多くの強打者を抑えられるものではない。
 威圧感。江夏がバッターに与えるプレッシャーは相当なものであった。彼がマウンドにいると独特の世界が球場を支配した。阪神ファン達は今でもそれをよく覚えている。そして彼を村山実と並ぶ阪神の長い歴史でも最高のピッチャーとして挙げるのである。
 そしてその驚異的な勘のよさ。相手の心を見抜き投げて来る。人間離れしたその勘の良さに王も長嶋も打てなかった。
「南海にいた頃よりさらにすごうなっとるわ」
 近鉄の監督である西本幸雄はマウンドにいる江夏を見てそう呟いた。
「あんだけの球をほうれるのは左やトうちのスズだけや」
 そう言って自軍の左の大黒柱鈴木啓示を引き合いに出した。
「おまけにあれだけの勘の良さと威圧感や。そうそうなことでは打てんわ」
 彼は腕を組みながらそう言った。
「そやけどな」
 ここで西本の目が強い光を放った。
「うちも負けるわけにはいかんのや。ここで打ったら日本一やからな」
 そして彼はナインに顔を向けた。
「ええか、この回で決める。度胸据えて思いきり振って行けや!」
「はい!」
 ナインは一斉に頷いた。そしてバッターボックスに六番の羽田耕一が入る。
 羽田は西本が手塩にかけて育て上げた男である。そのスイングを見て近鉄に入るのを決めた程である。
 しかし彼は不器用な男であった。必死に努力はするが成長は遅かった。時には高めの速球につられ情ない空振りをしたこともある。
「高めのボールに手を出すなというのがわからんか!」
 西本はその羽田を殴った。憎くて殴ったのではない。あくまで羽田のことを想い、羽田の成長を願って拳を振るったのである。
 羽田はその西本の熱意にようやく応えてきた。このシーズンでは数多くのホームランを打ちチームの優勝に貢献している。西本はその彼に対して言った。
「初球から行け」
「わかりました」
 羽田は頷いた。そしてゆっくりと右打席に入った。
「まずは様子見やな」
 江夏は初球は軽く見ていた。確かに羽田は強打者だ。しかしだからといって臆する江夏ではない。彼はこれまで多くの強打者を屠ってきたのだから。
 長嶋茂雄、王貞治。巨人の黄金時代を支えた二人の男に正面から立ち向かっていたのである。
「御前は王をやれ、長嶋は俺がやる」
 かって阪神のマウンドをその凄まじい闘志と気迫で支えた伝説の大投手村山は彼に対してこう言った。村山はあくまで長嶋を終生の敵をみなし闘ってきた。だがあえて江夏に王を任せたのである。
 左対左、という意味もあった。だがそれ以上に村山は江夏のピッチャーとしての卓越した力を見抜いていたのである。
「この男ならやれる、絶対にあの怪物を抑えられる」
 村山は確信していた。そして江夏はそれに応えた。彼は村山と共に甲子園のマウンドに仁王立ちし巨人の前に立ちはだかり続けた。だがそれも昔の話である。
「まさかまたこの球場で投げるとはな」
 シリーズでこの球場に来た時江夏はふとそう思った。彼は愛する阪神から南海に南海のエース江本孟起との交換トレードで南海に入ったのである。
「ずっと甲子園で投げたかったんやけれどな」
 彼のその想いは現役終了まで変わることはなかった。引退の時には阪神のユニフォームを着て記者達の前に姿を現わした。それこそが彼の常に変わらぬ心であった。
 だが南海で彼は変わった。当時南海の監督を務めていた野村克也にストッパー転向を命じられたのだ。
「わしは先発や、先発で投げな何処で投げるねん!」
「まあ聞けや」
 野村はそんな江夏を丹念に教え諭した。その陰気そうな外見とマスコミの前での嫌味な口調から彼を誤解する者は多い。だがその実は繊細で人の苦労をよくわあkる人物なのである。
「わしは嫌味を言うのが好きで好きでしょうがないんや」
 世間に対してはこう言う。だがその内面はまるで違っているのが野村であった。
 それは彼の生い立ちに関係があった。野村の父は彼が母のお腹の中にいる時に日中戦争で戦病死している。当時の戦争ではよくあったことである。そしてそういう時代であった。
 野村の母は病弱で寝たきりであった。兄が働いて彼を養っていた。
「母ちゃんや兄ちゃんに迷惑かけるわけにはいかんわ」
 彼はそう思い南海にテスト入団した。彼の身体を見た当時の南海監督鶴岡一人が壁に丁度いいという理由で採用したのだ。当時キャッチャーとはピッチャーの球を受けることだけが仕事だと考えられていた。
 
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