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水深1.73m 背伸び 遠浅

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水深1.73メートル 背伸び 遠浅

   1

校庭に「ハイっ!」が響く午後の一時。
校舎裏の砂利を踏むとその奥に軟式庭球のクレイコートが見える。白い薄着の女子がラケットで球を拾う。僕はそれをマジマジと見ないように視界の脇で目に留める。とても短いスカートだし。恥ずかしいし。彼女達はそれを着てはつらつとしている。薄着のせいなんだな、きっと。コートの脇には手を後ろに組んだ直立の女子達が並び、ラケットが球を捕らえるたび「ナイスキャッチ!!!!」と声を上げる。
 親友から聞いた。僕はあの子のうちの誰かに片思いをしているらしい。そうらしいいんだ。聞いた話だけど。
とても強い横顔をした女の子がいた。とてもまつ毛の長い肩幅の広い娘だ。その横の娘が彼女に耳打ちをする。彼女の強い目線が僕に移り、「ひゃっ!!!」と叫んだ。首が大きく後ろに反れて細い鼻の穴をこちらに向けた。そして笑い声を聞いた。みんなの手前直ぐに収まった。彼女は下を向いて唇を歪めている。変に反応してしまったからかな。「ガバッ!!! ァァァッ」って感じで。でもまぁ僕のせいだろ、きっと。
 僕は目をそらして校舎の二階を見た。それが彼女達の目にどう映るかなんて気にしていられない。下は見たくない。見たくないんだ。僕の喉仏が肥大していくように感じる。ジンジンする喉の、その皮をつまんで鼻を啜る。まばたきが多くなる。僕は身体を、その内側を薄めていく。外気に馴染む様に希薄にして僕と「外」との境目をぼやかす。いや、「ぼやかす」というのは嘘かも。ぼやけていくのに逆らわないようにしているのかも。その力は凄く強いものだから。何だろ? 女の子を意識する時は、どうしてもそうなっちまう。
庭球場から見えなくなるまであと50メートルはある。その道をひどくぼやけた僕が歩いていく。

「ナイスキャッチ!!!!」

 体育館に続く長い廊下を途中で左に折れると誰も使わないトイレがある。「音楽準備室」の前のトイレ。鏡の中には青白く浮腫んだ顔の僕がいた。眼球が少し飛び出して見える。瞳孔が開いて無感情に見える。少し髪の毛を切りすぎたと思う。僕はもう少し顔を隠さなきゃ。
 鏡の前に一人でいると、馴染みの僕の顔が自惚れの扉を叩く。
「イケるんじゃないっすかね? あの娘」
浅いため息をついて、「ウン」と力強く頷いた。僕は自惚れなんて滲ませて歩きたくない。

 そう、この日、僕は片思いを止めた。

マキヲ一四歳の夏の終わり

 暖かい寝具に包まれて、僕らは温かい空気を胸に宿す。それを頭に満たし、空気と溶け合い、温かい未来を見つめる。身を起こせば冷ややかな現実は折り重なり、温かなつながりを引き離し、サンドウィッチの具の様な態度で、「我々こそが人生の醍醐味なのだ」と言わんとする。僕達は走り抜けなければならない。冷ややかな「人生の具」を突き抜けて、柔らかなあの場所に辿り着くまで。

 そう全力疾走で駆け抜けるんだ、マキオ。


   2

 坂巻町。丘の上の天神様に向けて大路・小路の坂が多い。都市開発の波は、この町を遠巻きにして迂回した。年寄りは「天神様がおられるから」と言い、若者は「この町捨てられた」と言う。実際、天神様は国から守られているのだ。そして町は天神様に守られているのか。天神様のおかげで。
「テ・・・テンジンサマの・・・おかげでねぇ・・・ふぅーん」
 「天神様を下ること四町、右に入る」の所に一面ガラスの家がある。昭和を彩る凡庸建築物に看板が上がっている。
「カワサキ☆上村モータース」
キュートな看板にモルタルの壁。色気のないアルミサッシと色気のない蛍光灯が東欧社会主義国の様。決して促販しない雰囲気が一寸無骨だ。
 「あっ! そう! 私の家、バイクを売っちょります」これが最近の僕の口癖だ。「ウッチョリマス」をロシア人風に言うと良い。

僕は店の正面、アルミサッシの引き戸をカラカラゆっくり引く。僕の体から滲む、母親に悪い予感を抱かせるであろう「雰囲気」を一つ残らず消し去りたい気持ち。僕の呼吸は浅く、カナリアのように敏感になる。その過敏を抑えるのに強い自制が働いている。

女の子の前にいるときのようにマキヲは曖昧になになっている。少し膨張したマキヲを見てその母が言う。
「どこ?」
マキヲは、「吉行」とだけ答える。ガラス戸の向こうに「気をつけて」が響く。その言葉はガラスに少し撥ねてマキヲの耳に届く。背中を丸めて歩き出す。左に曲がって大通りを目指す。制服の右のポケットに手を突っ込み鳩のマーク「Peace」を叩いている。とても重いタバコだ。

浅野吉行の家は天神様の丘と対を成す西側の丘にある。蔵前石の石垣の向こうに大きな枝垂れ紅葉が見える。それは庭の中央に坐し、その周囲は緑の芝生がきれいに整えられ、踏み石がその脇を経由している。その紅葉を背に、密に入り組んだ枝葉を見る。それらは同心円状に低・中・高と植え分けられている。光を求め広がる枝葉はそれぞれに宙を区切り、空の高さを柔らかに意識させる。家の造りは南に面した左右対称の凹の字になり、「超然」ないし「不動」の印象を与える。京都の庭職人「小川何某」の弟子の作品と言うことであった。見えることの無い水の流れが耳に届く。

呼び鈴を鳴らす。吉行が扉を開ける。格子戸の向こう、薄綿の闇がお香の匂いと混じる。敷居を跨がせるか否か、のヴェールを吉行が開けてくれる。
「まぁ入って」
僕は唇を歪ませて、プフゥーと息を吐いた。二人、小走りで縁側のウグイス張りを踏みながら、吉行は
「風流、風流」と唱える。
僕らが部屋に入る時には、すでに一階の応接間から「アイネ・クライネ・ナハト・ムジク」が流れていた。吉行の祖父の計らいである。表向きの「教養」は吉行の父の耳を遠ざける情けだった。
吉行は僕に一つのカメラを差し出して見せた。
「OM。オリンパスの」
 それは僕らの年齢でも手に馴染む大きさで、シンプルな佇まいは黒とシルバーの比率のバランスがよく、レンズとボディーの連結部を握るとしっくり手に馴染んだ。かつて僕は吉行の家で初めて一眼レフカメラを触った。大きなレンズをのぞくと、そこにはコーティングに染められた光の影が幾重にも重なる。美しくて僕はすぐその大きなレンズの虜になった。この〝OLYMPUS OM1〟のレンズはその胴に目いっぱいまで大きく、その美的な存在自体が「傷を付けられる」事を拒んでいる。
「このレンズの端っこなんて書いてある?」僕が聞く。
「ズイコー 100mm」吉行は何のてらいもなく答えた。
「良く撮れる・・・の?」
「学際使ったらいいし。ためしやん。今年バンドめっちゃ派手らしいで。照明がいいらしい、何か音声も新しいの入れたらしい」
 僕は「学際」という言葉に少し戸惑う。僕らの年頃で文科系であることはタブーだ。特にカメラなんてイヤラシイ物を写す道具なんだし。
 僕らが出会った頃に吉行はすでにカメラマンだった。吉行は十歳の時から兄のお下がりの「ニコン」を手にマニュアルで写真を撮り貯め、そのアルバムは人物を被写体としたもので埋まっていた。気取った大人の女性から、気の抜けたおじいさんまで、あらゆる年代を切り取っていた。吉行はそれを「コレクション魂」と笑って説明してくれた。一から一〇〇まで集めたいんだと笑って言う。そして僕は吉行に少しの距離を感じた。人と面と向かうというのは、派手なシャツを平気で着ることくらい、とても難しい事なんだ。
それから僕らは親友になった。そう、無二の親友って奴だ。


   3

 男女平等に日焼けをした九月の初めに休みが明ける。小麦色に統一された生徒達は、それぞれに匿名性を得る。同じ色である事に落ち着いてそこかしこに笑顔がもれている。
クラスでは月末の学校祭に向けて本格的に準備が始まる。運の悪い生徒達が責任を負い、運の良い生徒達が自由に遊びまわる。徐々に棲み分けが進み「輝ける人たち」と「輝くのをためらう人たち」に分かれる。これからのティーンエイジをどう生きていくかが決まり始める。
全てのクラスは合唱団を結び、巨大なポスターを描く事になる。クラスにはそれぞれ最上級生の優等生が指導しに来て恋なんかが始まる。毎年、三年生はバンドを組み、歌をうたい、そして恋が始まる。一、二年には許されない。後輩が先輩の前で目立つことなんて許されてはいないし、学年を飛び越え、ましてや恋なんて。下級生の恋は女の子にしか認められてはいない。生徒それぞれが学校近辺の商店街の店主と模擬店を出す。そしてやはり恋が始まる。
「まぁ田舎町だからさ」
僕は合唱の練習を抜けて一人家に向かう。僕の前には尖った靴の、太いボンタンをガニ股で揺らす人たちが見える。僕達はこの時期、毎日が午前授業だ。
僕もあと五センチ背が高くてハンサムなら彼らの仲間になっていたんじゃないかな、とハンサムではない僕が思う。多分僕はハンサムである事に耐えられないんじゃないかとも思う。ハンサムな彼らは僕の知らない空気に触れている。きっと引き締まった緊張感のある空気だ。僕は僕の不細工な顔に甘えている。僕の立場は緩い空気に流され放題だ。僕は不細工なりの人生を送るのだと心に決める。
そして僕は誰も見ていない事を意識して一人ガニ股で歩く。僕は夢の細部みたいに曖昧な男の子だ。

 「カワサキ☆上村モータース」には二人の学ランの男と、級友上川がいる。学ランの二人は〝GPz400F〟を眺めている。二人とも黒の細いスクエアートゥーの革靴で、飾り革のあるつま先は「くるり」と上に向いている。靴紐の蝶々結び、はボンドで固められ、かかとは踏まれている。猫背、リーゼント、肩パッド、細いウエスト、ボンタンのラインの先、「くるり」と上を向いたつま先までのラインが流麗な〝GPz〟のボディーを思わせる。上川は店内の中央の回転台の上の〝KAWASAKI Z-1フロントカウル付き〟を眺めている。そのカッパーオレンジとシルバーのカラーリングは僕の手によるものだ。エンブレムは〝KAWASAKI〟から〝M・UEMURA〟に付け替えられている。「上村牧緒」である。少し恥ずかしい。「何で俺の名前なんか付けるか? アホかっ!!!」父親に怒鳴った思い出がある。     
僕は二人組みと上川を視線の脇にして奥の作業場に向かう。後ろで声がした。
「だっせー面つけてる」
 工場の窓ガラスから上川と学ラン二人の視線が合うのがうかがえた。斜め前に解体されたエンジンと父親がいる。ブラシで点火プラグを磨いている。
「牧緒、オモテの奴全部クラッチ握ってこいや」
「何で?」
「重さ量ってこい。重すぎるといけない」
 クラッチレバーはバイクの左のハンドルについているやつだ。ギアを変えるときにいちいち握らなきゃならない。これが重いとすぐ腱鞘炎になる。信号待ちの度に左手を握ったり放したりが億劫になってイライラする。
「今?」と僕が聞く。
「今」と父親が言う。
 僕のお父さんは小心なのに息子を荒海に放り投げたがる。
僕はため息をついて鞄を置いた。背筋を伸ばしてゆっくり三人の間を抜け、左端の奴から順番に左手でクラッチを握っていく。バイクは全部で十二台。彼らの前で、僕の息は浅い。カナリアみたいに敏感なんだ。〝GPz〟の前の二人に右手を差し出し「ちょっと失礼」って感じでその二台をチェックする。右端までやり終えて、上川を背にして〝Z-1〟のクラッチを握った。僕以外の三人はその間誰も動かなかったし口も開かなかった。
 僕はその三人を背にしてまた作業場に戻った。
「どれも重くない」
僕は父親にそれだけを伝えて椅子に座った。緊張で正確な事は何も分からなかった。僕の緊張は彼らが帰った後もしばらく続き、クラッチを握った手の汗ばみの事、僕の汗がついたクラッチレバーの事、それを触ったであろうか彼らの事、言葉にはならない劣等感の事を考えていた。
我が家の「カワサキ」君は身の丈に合わない物として僕の首を締める。僕は上手に大人になれていない。少なくとも十四歳の僕は「カワサキ」君に見劣りしているのだ。

 夕食の後、一服するために工場の二階に上がった。ここは工場と店舗を見張るために祖父が泊り込んでいたところだ。昨年祖父の死んだ後、母親に懇願して僕がその役になった。三畳の部屋に机と照明がある。短波の入るラジオがある。まだ夏の終わりで外には虫の声が響いた。ここにいるときは四六時中タバコの煙を吸い込む。缶ジュースを半分に千切った灰皿はいっぱいになる。
「最初は美味かったのになぁ・・・・」タバコの体から疲れを抜く効用に「素晴らしい!」と思ったのは昔、タイガーバームのように次第に魔法は薄れてゆく。
 ラジオが今年の天気の長期予報を流している。
「残暑厳しくその後厳冬 二十二年ぶりの大寒波 シベリアの風」を伝えた。「二十二年前」そう、僕の生まれる前にも寒い冬があったのだ。

僕は思い出している。一年くらい前のことを。

 僕は思春期と反抗期に踏み込んでしまい、両親を遠ざけ、憎んでいる。離れの工場の二階にある管理室、つまりここに閉じこもりがちになる。そこで祖父と父親の会話と工具のカチカチ当たる音を聞いていた。僕の父さんは二代目だ。おい、顔色が悪いとの祖父の声に父さんが答える、
「歳を取って生まれた子は何処かに欠陥があると誰かが言ってますよ、偉い学者さんだったかと思いますけど」
「何だ、卑屈か」と言って祖父が続けた、「自分の首絞めたら家族みんな首絞まるわ。欠陥なんて言うな、顔色悪いだけじゃないかい」
 父さんは何も答えなかった。父さんは四番目の子供だ。その時祖母(父さんのお母さん)は四十も半ばを過ぎていたらしい。年老いた人間から年老いた風の人間が出来るのは想像に優しい。あぶなく納得してしまいそうだ。
「全てを許したんですかね。四人も作ったんですから、自分を許したんですかね」
 父さんの言葉に祖父が答える、
「卑屈言うなて。生きていけば分かる」
「分かったんですか」
「分かった」
「それは凄い事ですか」
「凄くはないが面白い」
「どういう風に」
「趣がある」
「人生が趣きありますか」
「人生じゃない。肉体じゃ」
 それから二人は長々と肉体と意識について話していた。話しは、妄想的なところと、想像的なところと、現実的なところが入り混じっていた。
僕は身じろぎもせず、じっとその会話に聞き入っていた。それまでの会話にもそれからの会話にも僕自身のことは出てこなかった。僕は「この僕」の不出来が、何かしらの欠陥が、彼らに語られるのを待っていたんだ。「あの子の不出来は誰々の遺伝じゃないか」という風に、そんな決定的な評価を待っていた。僕の中のまだ見出されない不出来は、触れられない事でますますその存在を堅くしていく。
その時の僕は少し覚悟していたんだ。何に対する覚悟かは分からない。でも多分・・・凄く個人的な悩みを一生背負うとか、そんな感じのことだと思う。僕はその覚悟を、胸の中の確かなしこりを壊さないようにずっと横になっていた。身体を動かしてしまうと僕の覚悟は生ぬるい現実に流されてしまいそうだった。
 部屋に夕闇が迫る。目は開かれたまま闇に馴染み、部屋は残さず夜の藍に染まった。夜の藍のヴェールは、部屋の色達を闇に統一しようと染み入る。僅かな光にやっと滲んでいる個々の色に僕は新しい喜びを覚える。静かに覚醒した意識で僕は「覚悟」の事を思う。

 そう、それから一年ほど後 僕は片思いを止めたんだ。

 ん? 片思いを?片思いだけを?

 僕は今同じ部屋で考えている。「人から想われることを頑なに拒む」事について。それはすごく楽なように思える。そしてひどく臆病な僕は究極に「決して人を想わない」「決して人から想われない」事で安定さえ求めてしまっている。僕の身体は創造された孤独と胸の温かなぬくもりとを同時に感じ、決して同じではないはずなのに「孤独」=「温か」を創り上げる。そして僕は目を開いたまま夢を見た。窓の外の月が梅干の仁のようにぷよぷよと白く輝いている。

弱い風が吹き、不揃いな前髪が揺れていている学校の午後。僕の右手には吉行から貰い受けたカメラがある。想像のそれはレンズが深く大きく、全てを包み込み凝縮するかに見える。腹に溜まらない、あさはかで未熟な言葉、笑いの込められた歳の浅い性愛の風、そのすべてを頬に浴びて、微動だにしない僕がいる。外は雨なのかもしれないし、ただの曇りかもしれない。学校は薄い光の幕に覆われている。その弱い光は、僕らこの学校の生徒がこの学校に属しているのだ、ないしはまだ大人社会から遠く離れた場所にいるということを強く確かに感じさせる。強い日差しなら照らされて焦げ付いてしまいそうな、心の中にジワリと生まれる大人になる事への焦り。柔らかな光が胸の焦がれを優しく冷ましている。その作り出す表情が教室のそれぞれにある。
たまらずシャッターを切る。僕はありきたりのカッコよさを突き抜ける。彼らの本質を、迷いを写し取らんとする。彼らの目の内に宿り、まだ全てのことをショートカットで理解することの出来ない無知による迷いそのものを映し出すんだ。光の粒まで描写したい。闇の艶やかささえ映し出し、主張したい。僕は超然としている。誰に嫌悪されるでもなく、冷やかしも上っ面の尊敬もなく、僕は僕としてある。そして僕は世界を包み、捉えることができる。何に怯えるでもなく、何を威圧するでもなく。

あらゆる糸で編み上げられている世界を、僕はその関係を、背後関係をフィルムの中に・・・フィルムの中に・・・・フィルムの中に・・・・・「それをぉ・・ぉ・・・」

「フィルムの中に写し取りたいっ! あぁぁぁぁっっっ!」

横になった僕の側頭部から、たくさんの物事が意識に触れてくる。その物事を初めて経験するときの新鮮な感触をイメージさせる。未知への憧れと恐怖は名付けるのを拒んだら、次々と逃げて消えていった。一つ残らず追っ払おうとしたら、イメージは意地悪にもその形を変えて的外れな問答を押し付けてきた。それは、うやむやに頭に染み込んで留まり、僕の心は固まった。

無味乾燥はやわらかな心を守る天婦羅の衣。一足飛びに若年寄へ。すべてを知った森のフクロウへ。

 僕はいつか見た「アイスクリームの天婦羅」を思い出している。


   4

 次の朝早く、早朝の風が肌に優しい季節に、僕はコンクリートが四方を包むこの街の中心部にいる。ゆっくり歩いてきた。アディダスのスニーカーの踵を踏んで。踵までスッポリだと、やる気満々じゃないか。恥ずかしい。僕の家のある、古い町並みの郊外から坂を下って国道に出るまで十五分。双つの丘の裾野はすっかりコンクリートの森だ。意外と都会に近い。僕らの住む町は都市圏の端にある。都市が町外れにまで侵食してきた、とも言うのかも。昔から今へと時が流れ、人口は増加に。ビジネスの波は寄せて、幾つもの生活を双つの丘の向こうに追い出していった。国道の向こうに大きな建設中のビルを望むことが出来た。建設会社が本社を移すのだそうだ。僕らはそのビルを前景に、太陽を、月を見る事のなるのだろう。

「ターン、ターン、タタッ」
むき出しの金網の向こう、三方をビルに囲まれたコートに吉行の兄、浅野孝太がいる。

孝太さんはナイキのシューズにグレーのチャンピオンのトレーナー上下、ニット帽、右腕に黒のリストバンドという格好だった。孝太さんの腋にも背中にも汗は染み出していない。きっとインナーをしっかり着込んでいるのだろう。とても清潔に見える。彼は僕らよりひと回りも年上で東京の大学にいって勉強し、父親の仕事を継ぐために戻ってきたらしい。孝太さんは僕の中学の先輩でもある。吉行のところに遊びに行ったとき、「僕はここで練習しているんだ」と孝太さんに教わったのだ。
緑にペインティングされたコンクリのコートにシューズの摩擦音が響いて孝太がオレンジのリングにボールをそっと置く。ボールはゆっくりとネットをくぐりまっすぐ下に落ちてはじけた音を立てた。
 孝太の両手から皮の少し擦り切れたバスケットボールが放たれる。金網にあたり派手な音を立てる。金網の外のマキヲはそれでも驚く。
「やってみぃーって」
 孝太がワンハンドシュートのジャスチャーでマキヲを金網の中に誘う。転がったボールを律儀に拾う。マキヲは孝太から大分離れたところからシュートを狙った。ゴール下に孝太がいる。
近付けないじゃないか、マッタク。
「そんな遠くから届くか?」
 3Pラインの少し後ろだった。マキヲは膝を使って、ジャンプしながらボールを宙に放つ。未経験者の無様がマキヲの顔をしかめさせる。放たれたボールが硬い軌道を描く。バックボードに当たって転がる。それを孝太が小走りで追いかける。孝太が手招きをした。フリースローライン辺りで、両手でボールを「コロコロ」ハンドリングしながら待っている。孝太が一対一の相手をしてくれって言った。ふてぶてしいふりで頭を縦に振る。
マキヲのシュートは五本中一本(おまけつきで)決まり、孝太は三本中三本ゴールを決めた。その後、孝太さんは「バックスイッチ」や「フェイント」、「フェイク」、「フェードアウェイ・シュート」を教えてくれる。マキヲは遠慮しているが孝太は教えたがっていた。次々と教えてくれる。あまりに次々なので、ふて腐れている。マキヲは小さい頃から運動音痴なのです。スタイリッシュな動きを見ると凹むのです。マキヲのシャツに汗が滲んでていた。もういいだろうって感じで二人ともベンチに腰掛けている。

僕らは黙ってしばらく前を見ていた。口が利きにくいシチュエーションになってしまったのだ。僕は孝太さんの相手をしている間、ずっと卑屈に苛まれていたのだ。僕はしばらく何かを考えて、改まった風に口を開いた。
「レギュラーだったんですか?」
「いいや18番だ」孝太さんが答える。「18番て言ったらベンチウォーマーだ。バスケットボールのユニフォームは4番から始まる。レギュラーは五人。六人目までが注目を浴びる選手だ」
「これだけ出来てもですか?」
「今の俺が中学生なら試合には出られたかも」孝太さんが続ける、
「でも俺は今一人だからさ。世知辛い中学のしがらみなんかないから。今でもあの時分のメンバーと一緒だったらつつかれて、つつかれて、収まるところに収まるんじゃないかな」
 僕が少し間を置いて聞いた。
「つつかれるんですか?」
「うーん、つつかれるね。運動神経如何に関わらずつつかれる奴はつつかれるね。ニワトリのつつき順みたいにね、一度つつかれたら終わり、つつき返せないね。ローティーンの時が一番激しいだろうね。立ち位置が決まり始める」
僕は、つつき返すつもりじゃないのですかと聞いた。質問した後、少し失礼かと思って言葉を「取り返す」とか「チャレンジ」とかいう言葉で濁しながら聞いた。
「チャレンジやね。うん、チャレンジ」孝太さんは頷いた後こう付け加えた。
「俺みたいな人間がどこまでいけるかってね。俺、大学の頃やたらに考えて。俺はどこまで行けるのかって。しがらみのない所まで来てどうやと。どうなんやと。例えば世界が100人だったとする。そしたら俺は50番目位の男や。真ん中へんだな。この真ん中へんの俺はどこまでがんばれるかって。平均点の男はどれだけ速く走れるの? どれだけ高く飛べるの? どれだけ女抱けんの? ってチャレンジなんよ。毎日証明し続けてる。あの日お前らに笑われた人間はどこまで行けるのかを証明し続けてるような人生なんよ、俺」
「コンプレックスなんすかね?」と僕が言う。
「コンプレックスは集団生活でしか生まれへん。集団から抜け出せばそんなもん知らん振りできる。もう俺知らん振り。全然」
 孝太さんは相変わらず両手の中でボールをハンドリングしている。
僕は僕の位置をぼんやり眺める。学校が測るすべての物は順位が出るのにいまいちピンと来なかった。それほど興味がないみたいだ。そんなこと言ったら僕は、スポーツにも興味がない。興味がない僕は少し焦る。何かクラブ活動でもやっていないと大人になれないんじゃないか、と焦る。自分の位置を確認してないと大人になれないのかな、と思う。僕の中では「大人になる=女の子にもてる」ということだし、チンチンが大きくなれば大人なのだと言うわけにはいかないのだ。
僕は知らないうちに焦燥に背を押されながらも薄暗い部屋に向かう。イヤイヤをしてスタートラインを遠ざけ、あらゆる喜びに満ちているはずの一つ一つの物事を時間と一緒に苦痛としてやり過ごしている。それでも僕は賢い男になる事を確かに思う。僕は暗い部屋で真実を見ているのだ。軽薄な人間関係より、真実をつかみとっているのだ。そう、その筈なんだ。
僕が孝太さんに聞いた。
「それってポジティブっすか?なんか、前向きっすかね」
「まぁポジ。ギリギリね」それだけ言うと孝太はしばらく眉間に皺を寄せながら考えてまた口を開いた。
「人と直接競いたくないのはネガな感じ。OK? 解かった?」
 僕はうんうん頷いてどこともなく宙を見つめている。孝太さんは、いつでも帰っていいからと言って立ち上がりボールを突きながらコートに戻っていった。
 孝太さんの3Pシュートが三本連続で決まる。強いバックスピンのかかったボールがまっすぐ彼の元に帰ってくる。
「どうも、失礼ーッス」頭を下げるマキヲに孝太が「お疲れ」と言って一瞥をくれ、また視線をゴールに向ける。

 「奴、自分探しの旅になんか出ちまうのかな」と僕は苦笑する、「そんなん要らぬプレッシャーじゃん」とも思う。実際、息苦しかった。

「自分の位置を常に確認し続けるなんて! マッタク!」

 帰りの道、沢山の人とすれ違う。そのスーツ姿が僕に安心を与える。別にグレーや紺に僕を落ち着きに導く力があるわけじゃ無いのだろうけど。僕は街のちょっとイケてる奴のグレーのチャンピオンのトレーナーにはビビッちまうし。そう僕はファッションに弱い。疎いわけじゃ無い、「弱い」んだ。バイクのボディーの流麗さには酔うし、カッコいいジーパンには目がないし、逆三角形「短ラン」に「ボンタン」は、なんか、こう、憧れる? し。しかしながら、僕には似合わないと思える。どうしても超えられないんだな、「カッコいい」に足を踏み入れる一線てやつを。それで僕は制服やスーツに安定を求める。僕だってバイクに跨りたいんですよ、ホントは。好きなバイクスーツもチェックしてるし。しかし、しかしですよ、あなた、僕に似合いますか? この僕に? 鏡はよく見ましたよ。穴が開くほどね。でもさ、どうしても許せないんですよ、まだ。
「バイクに跨っているのは、僕じゃない誰か他の人であることが望ましい」そう思って、僕は遠ざけていたんだ。

 そう、この朝、その氷がゆっくり溶けていった。ちょっとした父親の実験魂で。そう14歳の信念なんて何てこともないことだった。「雪解け」なんてちょっとうれしい響き。想像の中のそれは「衝撃的」であって欲しかった。現実のそれはとても「常温」。当たり前の睡眠よろしくやって来てくれた。そうか、そう言えば僕はバイク屋の息子なんだ。

 朝の工場にはまだ誰もいない。工場の壁一面には父さんが書いた「近未来バイク」のデッサンが張りめぐらされている。その脇にある階段を上る手前、張り紙に見えるラフなスケッチ。バイクの左ハンドルのクラッチレバーが描かれている。クラッチレバーの根元から、薄い天使の羽のような装飾のあるもう一枚の「クラッチ補助?」が見える。それはクラッチレバーより短く、構造的に言うと、飛んでいる昆虫の飛ぶための薄い長い羽が本来のクラッチレバー、その上の硬い短い羽がクラッチ補助という感じだ。矢印にこうある。

 クラッチ握る→二枚羽との間に隙間→人差し指で跳ね上げる→半クラ→もう一段跳ね上げる→ニュートラル→二枚を一緒に握る→フラット

「あぁそういや交差点でニュートラル入れんの面倒だもんな・・・
それか?」
二階から階段を下りてくる足音が聞こえた。古い木造でギシギシ音がする。足早な音から父親だと判る。店舗をぬけて工場に顔を出した。
「オウ牧緒。それ見たか?」
「クラッチか?」
「オウ、握ってみろや」
 僕の後ろにはカワサキの百二十五CCがある。
「出来てんの?もう」
「試作した」
 僕はそのカワサキのクラッチレバーを握ったり放したりする。スケッチにあったように二枚羽になっているのを人差し指で跳ね上げたり握りなおしたりする。
「これ楽になるか?」父さんに聞く。
「いや坂道信号多くて、ここ。大変だろ、ハンクラ」
「すげーな」
「いや、俺は運転できないから。あったら楽かなと思って造ったし。握力省エネしたいし」
その言葉で僕は父さんとタンデムで走った日々を思い出してみる。父さんは運転できるのだ。父さんが一般的な大人の男なのか思い描いてみる。腕相撲の左手が強かったのかを思い出す。父さんが他の「お父さん」より遊びが少ないのを劣等感に感じる。お酒を飲むと顔が青くなるのを思い出した。ペニスの大きさはどうだったろう?    
皮はムケていたか。その後ほとんど関係ないイメージに支配されて言葉の意図が掴めなかった。たまに僕はこうなってしまう。言われた言葉をストレートに理解できないでまったく別のイメージが湧いてきて、結局僕の中でうやむやになる。何もかも。まぁ別に父さんが「運転できないって」言うならそれでいいけどさ。
「今日、学校早いか?」父さんが聞いた。
「まぁ早いかな」僕が答える。
「実験しようや」
「場所は?」
「天神裏通りの坂まで」
 僕は「うん」と言ってそのまま工場の二階に上がった。「天神裏通り」は天神の丘を登る坂道である。「天神表通り」は人々の活動する町になり発展を遂げている。裏通りは舗装のない田舎道になる。信号もない。エンジンの吹け上がり音で文句を言う民家はない。
「よっしゃ、今日も早抜けじゃ」
 僕は朝食を済ませ、明るい陽の射す学校に向かった。


   5

 午前中の学校はとても静かだった。皆の背筋がピンと伸びて真直ぐ前を見ている。それはテレビの中の昭和の記録フィルムの中の丸刈り君達みたい。僕の耳には左前の上川のボンタンが埃を払うのに「パン!」と打ち鳴らされた音しか聴こえなかった。
僕は、教室の中心に白い台を見る。その上でやつれた男にトリミングされている白いマルチーズの柔らかな毛が柔らかな音をたてて冷たいリノリウムの床に落ちる。そのくらい静かだ。「本醸造」と書かれた酒樽の脇十二センチ。角刈りの男、ひっそりと立つ。もうそのくらい、そのくらいに静かだった。ちなみに十二センチは僕のチンチンのサイズだ。幻想の中にまで僕のコンプレックスが割り込んでくる。
 僕は、合唱練習前その理由を聞く。吉行が話してくれた。このクラスの一番の女の子が指導しに来た「優等生」君と恋に落ちたらしい。それをやっかんだ奴がその上級生に「いや一寸・・・」と触れたらしいんだ。「優等生」君には少ないチャンスの場だ。「諸先輩方」はもちろんそれを守りに入る。「俺たち『優等生君』の事心配だから」って。ちょっとした小競り合いになったらしい。先生が飛び込む。小競り合いもろとも恋が終わる。昨日の午後は女子生徒のヒステリーが爆発だったらしい。それは静かにもなるだろう。
 僕が、机を後ろに集めだした教室を後にしようとしたのを吉行が止める。
「あんまり出んとヤバイぞ。シカトになる」
 僕は用事があるとか言って何度か玄関に向かったのだけれど、吉行は放してはくれなかった。今更練習に加わって何になるの? 実際歌わない奴もたくさんいる。合唱なんてやる気のある何人かの物でしかなかった。
 僕ら男子が歌うパートは「アルト」。ソプラノの気持ちのいい主旋律から外れた低い旋律は、歌う喜びには満ちてはいなかった。確かタイトルは「水芭蕉」だったかな。地味な奴だ。僕らは三十八人で二十人分ぐらい歌った。各々のやる気はまちまちだ。僕が一割なら吉行は三割、その隣の女の子は十一割(十一割・・・って)という具合で。そのほとんどは、数人の全力で補われていた。彼らは脳天からよく声を出した。「青春」を押しのけるように顔を歪ませ、「美声」を凌駕するように喉を震わす。彼らは少しヘンテコな人々に見えた。本筋から逸れた「誠意」と「集中力」だけを売り物にするセールスマンみたいに。まぁ何も言うまい。世の中の人々の興味や、やる気の方向性なんて千差万別だ。彼らは見えない何かに追い立てられていて、しかしながら、それが何かも分かっちゃいない。追い立てられた彼らには緊張感が張り付き、それから来る彼らの堅さは客観的に「凛としている」と表現してもいいだろう。指揮者が言う。
「明日八時から朝練ねー」
 朝練もあるんだ。ふうん・・・。

僕は校門を抜け真直ぐ天神裏に向かった。天神様と浅野家の双つの丘が見下ろす僕らの町を、右に左に割いて県道が走る。南の新都市と、北の森を抜けた向こうのベッドタウンまでをつなぐ。それは双つの丘のつくる谷沿いに走って蛇行している。タイトなワインディングを楽しむバイカーに好まれる道だ。北の森は「文化財」の天神様と同じく県に保護されて開発の波を逃れ、人々の何かしらの保養に働き、その向こうに広がる盆地には新しい街が形作られつつある。今昔開拓された田畑は未だ森の裾を明るい緑に染め、丘の上からの眺望は古き良き時代として目に映える。遠くに見える灰色の街は建築群の塊として風景となり、そこに暮らす人々の生活を深く覗き込む余地を我々に与えない。その街には鉄道の駅があって、南の新都市に向けて天神様の丘の東の裾野を迂回するように線路が走っている。電車は僕らの町を遠巻きにして走っているのだ。
新しい街のほとんどの人々は新都市に依存し、この坂が多い双つの丘の町をすり抜け、またサービスエリアのように使う。
僕らの町には新しい人はいない。一見さんを呼び込むほどの魅力に満ちているわけじゃないのだ。僕らの町にたまり込むといったら、都会の威を借る不良の子達だ。僕は彼らから都会の匂いを覚え、その偏って抽出された都会風味に焦がれながらも、触れないように目を背けている。

 マキヲは鞄を肩に担ぎ歩く。父親は「天神裏通り下」にいた。普通に話してマキヲに声が届くほどの距離になって父親が言う。
「学校終わったのか?」
「いつもより遅い」僕は右手の親指を立て、「クイクイ」と後ろを指し、うつむきながらこみ上げる笑いを抑えて「長引いた」と付け足した。
「後ろめたいのか?」
「いつもどうりだし」
「勉強、大丈夫?」
「何で急に心配事を言う」
「いつでも心配はする」
「心配は毒だろ。何も変わらんし」
「変わるとは思ってない」
「何がわかる」と、唐突に僕が言う。
「何が?」
しばらくの沈黙。その後、僕の曖昧が響く。
「・・・・俺の事・・・ですか?」
「何も分からん、お前の事何も分からん」
「俺もあんたの事よく分かりません」
「難しいな、お前」
「難しくない人を見た事はないな。皆それほど簡単ではないし」
「父さんの言うことそんな意味深じゃ無いぞ」
 僕は少しの間、頭が空になった。それほど意味のある会話であったようには思えない。反射神経を鍛えるためだけに会話していたのかな。赤旗を揚げたら右にハンドルを、みたいに。
 僕はカワサキの百二十五CCのブレーキを握りながら聞いた。
「このバイク金儲けそうか?」
「金儲け?」
「金儲けではないん?」
しばらく考えて父親が「楽をするためじゃない?」と答えた。その後、自分に握力が無いことを付け加える。父親は広がる術を知らないようだった。少なくとも「新しいクラッチシステムを世の中に普及しっ!!!バイク産業の発展を目指し!!!!」って感じの人ではないのだ。
「エンジン暖めておいた」父さんがスターターを回すように右手で合図した。僕はバイクにまたがりスタンドを後ろに蹴り上げる、リアのサスペンションが柔らかく受け止めてくれる。クラッチを握り、スターターを押してエンジンを回した。暖めてあったエンジンはスロットルに敏感に反応し、軽く8,000回転を通り過ぎる。改良されたマフラーがエンジンの爆発音を隠さず露にする。民家は遠い。森は静かに僕らが去るのを待っている。「もう一寸だからさ」心で唱えて、人差し指を前に指した。
「行っていいの?」
「分かるよな?」
「1、 半クラ。2、ニュートラル。で」
「半クラで上まで行ってくれるか」
「ゆっくり?」
「ゆっくり」父さんが頷いている。
 僕は左足でギアをローにつなぎ、二枚羽のクラッチレバーの天使の羽を人差し指で一つ前に送り出した。「半クラッチ・・・と」
 カワサキはゆっくり、速度を変えずに僕を坂の上にと運び始めた。スロットルを絞ってエンジンを回しても安定した速度で僕を押し上げる。
「坂道・・・坂道・・・坂道発進・・・」
 僕は左レバーを握り、クラッチを切り、ブレーキを踏んだ。二枚羽のクラッチ補助レバーは一段階跳ね上げられたまま動いていない。
「このまま・・・このまま左放すと行ける・・か?」
 左のクラッチレバーを放し、ブレーキから足を退けるとまたゆっくりとバイクは坂を登り始めた。
「おお・・・楽・・・ハハ・・・楽じゃんかこれ」
 バイクを坂道で発進するときはブレーキをかけたままクラッチレバーを微妙に操作して、頃合を見計らってブレーキを開放してやらなきゃならない。しかもクラッチレバーは半分握ったまま保っていなきゃいけないこともしばしば。街乗りで一気にクラッチをつないで「トンっ」って感じで発進するのもよく見るけど、渋滞じゃそうは行かない。我慢強くクラッチをシコシコやらなきゃならないんだ。これが下手だとバイクがガタガタいってかっこ悪いしとても危ない。
 まぁ大抵のバイカーはすり抜けで信号待ちの一番前に出てかっ飛んじまうんだけどさ。親父、真面目だな。
 僕はゆっくり天神裏をUターンして二枚羽をフラットにしてローギアでとろとろと坂を下った。半クラで痛んでしまうバイクを少しだけ自分に重ねて反復と日常の疲弊を想う。
「ビッグバイクならありかな」待っていた父親を少し慰めてやりたかった。正直街乗りはスロットル一本のスクーターなんだよ。

 それから五日間、毎日の僕達の夕闇は決まって天神裏だった。何故か用事を作ったほうが学際の練習も真面目に出てしまう。毎日歌を歌いバイクにまたがった。
二日目からはエンジンを暖めるのも僕の役目だった。多分親父の愛だ。僅かばかりの生きる知恵だから。
僕は坂道を登り、父さんにレスポンスし、また坂道を登っては現実を遥かにして反発するようにアメリカンバイクに焦がれた。百二十五CCの単調なトレーニングは茫洋と広い高速を走るアメリカンバイクに跨る僕を夢想させたんだ。ハードルなんて無い。もしくはもともと無かったか、ないしはこの日々の蓄積が物を言っているのかも。僕は「経験が物を言う」の意味を肌で感じる。数多あるバイク達はもはや誰の物としても存在しない。咥えタバコの似合うイカシた奴等だけのもんじゃないんだ。
 この何日か、僕は誰よりも、知っている限りの誰よりもバイクを解かり続けた。もうクラッチ無しでどこまでも走り出せる。レーサーみたいだ。

そう、僕はレーサーにだってなれる。そう思った。

 僕達二人は最後に少し喧嘩をした。喧嘩をしたから最後になったのだ。
「牧緒。お前何になる」
「レーサー」
「お父さんはなれんぞ」
「何にぃ?」
「バイクレーサー」
「遅過ぎるわ、風圧で骨折れるぞぉ」
「博士にもなれんかったぞ」
「高校で諦めたんじゃろ、ベンキョ」
「爺さんは絵描きになれ、言った」
「何になりたいか、そんなに沢山」
「お前の方が才能あるわ」
「何の?」
「絵描き」
「いやなんで絵描きにならんかったかぁ言うの、自分」
「多分お前も絵描きになれん」
「はぁぁぁぁぁぁ? したら別に何にもなって欲しい事ないんか?俺バイクーレーサー言ってるし」
「それもなれん、きっと」
「御もっとも、んじゃあんた何になれた」
「エンジニア」
「エンジニアってなんじゃ」
「想像と現実つないどる」
「あぁ、夢想家かぁ」
「夢想違う、現実だ」
「夢の話してるんじゃぁないかい」
「現実にアクセスする。アクセスしてつなげる」
「現実にアクセス・・・」
「かなわない事じゃない」
「おいおいおいおい・・・今までいくつ繋げてくれたぁ? ナンボかでも稼いでくれたか? なんじゃ? 夢にはアクセスしても現実にはアクセス出来ませんか!」
「なにをっ! 見とれぇ十年後! うちのバイク走りまくりじゃ! 走りまくってスカートめくれるわ! そのために毎日新開発じゃぁし」
「未来バイクでも作るんか」
「作るわ」
「工場のデッサンか?」
「あぁ」
「これが第一歩か? クラッチが」
「あぁ」
「がんばれ」
 僕はため息をついて歩き出した。その後ろでバイクが横転する音が聞こえた。振り返らなかった。ちっちゃい意地だ。

実際、僕らには夢を見られるだけの才能はあるんだ。きっと僕も、父も、祖父もみんなそうだ。中学やそこらの年齢までは世間に立ち向かうだけのポテンシャルはある。父さんは自分でクラッチのシステムを編み出そうとしている。自分でディティールをデザインし一人で組み上げた。全ての設計図を書き上げ、緻密に計算した。少し的外れなシステムである事を除けば、上出来だ。しかしながらの知恵の浅さが世間の心を打つに足りないだけなんだ。そう、中学生レベルを抜け出せないんだ。誰かが頭を撫でて「良く出来た」と慰めて終わるんじゃないか。僕はただ僅かながらの絵心で、上村モータースの看板「Z‐1」を塗り、飾った。

悪くない、全然悪くないじゃないか。
それでもやはり、花が咲く事に焦がれ、胸が痛む。

 父親に言い放った言葉の余韻が僕の胸を刺す。少しだけ彼の成功を予感する。そして父親より成功する自分を確かに夢想する。


   6

 夏の終わりに秋からの乾いた風が吹く。じっとりとした夏にそれを思うより、現実のそれは爽やかに吹く。酷暑に浸かった頭ではレモンドロップの味の機微を感じ取ることもできない。秋は僕のアンテナを正しく保ち、これからのビジョンを前頭葉に映し出す。夏の最中に見た熱帯の纏わり付くような夢を引きずりながらも、秋風の運ぶ爽快な答えで脳みそをやりくりする。

箸を右手に、茶碗は左手に。
 
怯むことのなかった緑がブロンドに向けて色を淡くし、頭の上三センチを揺らす風は手の届く者にしかわからない高揚をもたらしていた。
純情は僕らをかすめるこの風。見える限りの空を青く染める。
純情は僕の頭上三センチ。僕は173センチ。背伸びを促す。

 僕のタバコは「Peace」から「セヴンスター」に変わっていた。


 長い廊下の突き当たりにある誰も使わないトイレット。

誰にも触れない心が大人びた匂い。

しらけた煙とジョージアの缶コーヒーとリーゼントパーマ。

右の拳とシルバーのリング。

彼が遠く響く歌声に現実を見て醒めた息を吐いた。逆らうように見た運命を超えた夢。
意図無く、心地よく流れる頬を冷ます空気。
ある男が吐露する幸せ。それは遥か遠く、また指の先に触れるほどの薄幕の向こう。一歩踏み出せばそれは二歩遠ざかる。振り向けば冷たく心地いい場所が広がっている。そこは心の密度が濃い。
鏡の中、茶色に染まった髪をなで上げ空っぽにした脳みそに誰かがささやく。

「シアワセ?」

 僕の左手はワンカット毎にカメラのフォーカスリングを回し被写体を捕らえる。被写体は動きが多い。感度の高いフィルムを用意した。一組十分足らずのパフォーマンスに36枚取り三本を使う。シャッターを切るごとに重みのある渇いた音が耳に届く。

 僕は第二体育館ステージ下にいた。僕らの合唱は終わり、三年のステージ発表が始まったばかりだ。
 
僕は背中を引き寄せるしらけた空気を感じ、共感し、己の中でそれを虐げる。僕はカメラを持っている。ひねくれの解決には糸口が必要だ。僕の右目はその糸口を通して辛うじてステージと繋がる。盛り上がるのは三年のハジけ組とその仲間達。ホント言ったら僕だってドーナッツの身みたいに遠い群集になれる。ブヨブヨとした腹を恥ずかしいと思いもしない傷を舐めあった群集に、だ。でも僕はもう十四だ。時間がない。
 クラスメイトの上川が言う。
「次のやつらすげーから。他のやつらと違うから。しっかり撮っといて」って。
 彼らは二年生で唯一バンド発表を許されている三人だった。ボーカル、ギター、ベースが二年でドラムスが三年だ。ドラムスは女の子でピンクのタンクトップ。強調された胸に視線が集まりとても不機嫌。

 歌が始まる。


僕らが打ち上げたロボットの国は
宇宙の果てを目指しエンジンを探す

僕らは飛び立たないゆらゆらしない
今日の果ては相も変わらず明日

背中に羽が生えても舞い上がらない
心奪われる夢なんて見ない

眠る前に立ち止まって
空の国を思い出した

よいどれエンジニア達 最新兵器の心 
僕と想像をつなぐ 
間違った道はもう御免さ

僕らはロボットから エンジンをイタダキたい。
一つ分けてくれないか
明後日に行きたいだけなんだ


僕らが過去の日に別れたフィクション
別の世界で知らない夢を見てる

水に映る螺旋のジェットコースター
交わるようで交わらないの心

地球にフィクション滲んで涙は枯れず
心あふれる宇宙にリアル

眠る前に立ち止まって
空の国を思い出した

空から降り注ぐのは いつかの誰かの涙
僕は思い通り明日も
しかしながらの胸の焦がれ

僕らはあの星から エンジンをイタダキたい。
一つ分けてくれないか
明後日に行きたいだけなんだ ♪


 僕の隣で上川が言う。
「どうよ?世の中変わっちまうだろ」
 僕は曖昧に頷いた。

 MC「どうもー。皆さん眠くないですかぁ。えぇ、まぁここ温かいから。眠くなるから。まぁしょうがないけど。まぁどうでしょ? 皆さんコーヒーなんか好きですか? 何人かね、こう、頷いてる方もいられますが。大人やね。大人な感じやね。んじゃ、セロリ? んっ? 好き? 僕嫌い。ん? 好き? 僕嫌い。うん。眠くなるとコーヒー飲むね。コーヒーって知ってます?赤い実のやつ。あれ艶々してんのな。えっ?赤い実じゃ無い? それよりセロリはどこに行ったか? うん、セロリ君は大人やからあんまりいじられたくないんよ。セロリ君はスジがいっぱい。そのスジがいっぱい。触れられたくないんよ。なぁわかるやろ? コーヒー飲むと急に眠くならん? なぁ、この間もこれから試験勉強言うときに飲んだんよ。もう爆睡やで。呪いや。コーヒーの呪い。これは間違いない。遠い南の国の労働者の呪い。プランテーションの呪い。近代国家の呪い。まぁ赤い実を摘むのじゃなくて、摘むのが不幸の種とかであったら・・・幸せやね。うん、幸せ。僕も摘んでみたい。こんな曲で」

昔つくられた歌の意味
あなたから語られると
嫌味も消えて素直に響く

苦味受け止めるコーヒーフィルター キメ細かくまろやかな味に・・・

少し眠くなって赤い木の実を想う
素手でむしって一かじりすれば昔の恋の味


98番目の彼は私が2人目の男
この街に住む素敵な1000人の男の中で777番目の男
本当に素敵な感じ・・・


今が大事だって言う君
自分がかわいい女
腕の届かない位置にいるのかも

彼女の鈍さを「強さ」という 過ちさえ聞き流して

少し大人になるココロモチ空が近い
素手でむしって一かじりすれば昔の恋の味

98番目の僕は 君が2人目の男
この街に住む素敵な1000人の男の中で
777番目の男 そう言ってました。
本当に素敵な感じ・・・♪


 僕の隣の上川が聞く。
「すげーだろ?」
 僕は確かに頷いた。
「うんすげーかも」

MC「少しだけメッセージ。少しだけ嫌味。あの、皆さんあれですよね。音楽。国境無い。言いますね。国境。全然ないって。平和って。言いますよね。僕は国境、言われて政治思い出すのね。政治家の政治。国境を消すって何? 国無くすの? 政治無くすの? 僕らの心の中だけ? 何か消えるの。表向きは何も変わらないの? でも、表向きな事で皆苦しんでない? 結局変わらないの? 何も。じゃ、何無くすの? 隣にいる人と分かり合える? 分かり合う気持ち大事。平和だからその方が。でもひねくれモンはその裏を読む。こんな造られた平和って。社交辞令だって。偽善だって。それで建設的な人、自分を表現し始めたりする。ひたすら自作の曲聞かせたりする。これが俺なのよって。この歌で俺を解かれーって。どこまで行けば分かり合えるかね。僕らと皆。卑屈すぎますか? まぁいいっすよ。でもこの気持ち大事よ、きっと。心の裏にあったもの、例えばそれが、ウーンそうね、大事なモン間違えているな・・・あいつ、なんて気持ちだったら表にしなきゃね。裏にあるものを表にしなきゃね。密かに思うのはどうかな? 愛じゃないのでは? 愛? 偉そうっすか? 堪忍して。言いたいこと言わんとね。んじゃぁ、ラストです。聞いてください『才能』です」


僕は椅子の上に立つことを止めようと思う

少しだけ空気の薄いその場所は

僕をひどく大人にしたけれど

すべての人が小さく見えて

僕を太らせてしまったんだ


あの人は高いところがきらいだと言った

高いところにいる僕のこと

嫌いだろうか

僕は椅子の上に立つことを止めたい



 「サーンキュー。」

 ドラムスの女の子が激しくビートを刻んで上機嫌。胸の大きさが少しエロティックじゃなくなっていた。

 僕がフィルム交換している最中、上川が肩を「ポンポン」と叩いてありがとうを言った。
「俺、教室戻ってるから。時間あったら来て。話しあるから」
 僕は「あぁ」とだけ言ってステージに向きなおす。
「ん?」僕は振り返る。体育館の後ろにいる二年生が熱気を帯びている。「あぁ、すごかったのか」と思う。「まぁそうかな」

 乾いたシャッター音が僕だけを包んで僕は僕になる。僕は中学生じゃなくて僕。轟音が周遊する舞台。音の届く限り、胸震わす限りの電波塔をフィルムに収め続ける。三原色のライトに色づく彼らがモノクロームの世界に飛び込み、印象派の波を刻む事を意識する。僕の手のひらに汗はない。その世界に溶け込み、温かな興奮を握り締める。僕は好ましい動物になり続ける。昨日より、五分前より、一秒前よりも好ましい動物になり続けている。全てが終わった後、誰か背中に触れてくれないかな。女の子とか・・・。かわいい女の子とか。背中に惚れましたって。

 僕の集中力の磨耗と満足感が交わり六組のステージが終わる。30分の休憩がアナウンスされる。この後に控える演劇部が好演を謳って観客を引き止めている。人々のざわめきが廊下に吸い込まれる。群集の一部になり僕は廊下に吐き出される。僕はお決まりの便所でタバコの煙に酔う。学校にいて一番に探さなきゃいけないのは友達と誰も使わないトイレだ。すごく落ち着く。縄張りの排除された集団生活での憩いはトイレット。中学生だって欲しいのさテリトリー。
 僕の胸は高鳴っている。ジクジクと疼いている。誰もが持つ「一息にスーパーヒーロー」の夢は僕の指を濡らそうとしている。「写真」が「芸術」で、「芸術」を手に入れた僕スーパーヒーロー。全然、まるで疑ってない。
僕の唇はタバコを咥え、輝く世界に触れることができる。触れてなお僕に変わりはない。触れているのに気づかないほど鈍くはない。触れてはしゃぐほど子供じゃない。僕は大人になったのか。そう、この一時間あまりで、

「僕は大人になったのですか」

 僕は四本のセヴンスターを水に流して教室に向かった。

 教室には数人の女子生徒と上川がいる。教室の一番前、カーテンの揺らぐ窓側に上川が座り机に突っ伏している。数人の女子生徒は教室の後ろで頬を赤らめてスカートを揺らすように身をくねらせている。会話の内容は「男の気持ち悪い仕草」の話だった。
 僕は鼻を啜り、緊張を隠しながら上川の前のパイプ椅子に座った。いつも教師が使っているやつだった。「ギシリ」と座って、僕が声をかけた。
「来ました」
「オウ・・・」上川はありがとうと付け加えた。上川はありがとうが言える人だ。僕は少し笑っている。気持ちではなく、表情としてそういう感じになった。
「すごかったですか。すごかったか。よく分かりませんが、すごかったっすね」上川はガタイがいいのだ。手首が僕より一回り太い。そこに繋がっている拳にはパンチだこが褐色に光る。五本の指の真ん中三本の付け根に光っている。当たりのいいパンチを撃つんだ。僕はその事に触れない。
「あの人らプロになるんすか」
「五年後はどうなるかなぁ。五年後、五年後、五年後俺らいくつ?」
「二十歳前」
「二十歳・・・夢消えるころやね。悲しいかな夢消えるころや」
「結構すごかったんじゃないかなとは思うけど」
「ただ俺はさ、今のポップにないかな、ぶち破れるかなと思っただけ。どいつもこいつも『始めての恋・最後の恋』『君に出会えた・君とサヨナラ』『永遠を信じたい・あなたは永遠・この愛よ永久に』疲れるよね。アホかって、うんざりだろ。違う?」
 僕は少しだけ頷く。黙って続きを待っている。流行の歌に対して腹に据えかねることなどそれほどない。工場の二階で流行の歌をラジオで耳にしても次の日の話のネタにするくらいだ。
上川は黙っている。僕が眉間で質問を搾り出す。
「上川はバンドやらないんすか」
「才能がない。あっても気づかないし、誰にも触れられたくないな。そっとしといてくれと言う。未来が暗い。どの道を選んでも。多分そうだろ」
 上川は続ける。物心ついたときには、手の届きそうなところにある世の中の全ての物は誰かの物だ。気づいたときにはほとんど全ての物が、または物事が誰かの物なのだ。自分が選んだすべての物に嫌なおまけを付けられている感じがする、と。
 僕は考える。所有欲と食欲と性欲について。全てのものは元々誰かのもの・・・。少し息苦しいのか窓の向こうの黒々として新しい県道を眺めている。今日の朝食が思い浮かぶ。誰かの作った卵をほおばっている。的外れだ。多分そういうことではないのだろう。もっと誰かに強烈に所有されている物に辟易している、ないしはその所有者がつけた黒いしみが気に食わないのだろう。
僕は外の景色から目をそらす。あらゆる物に所有者の影が滲みはじめているから。すべてを奪われるにはまだ歳が若すぎるのだ。
「所有者全員殴ったら・・・」と言いかけて止め、
「あっ、応援はするんすか」と聞いた。
「あぁ、それは大事な気がする。応援って大事だろ?」
「まぁ」
「元々何にも無い奴らじゃないから。きっと響いてるし」
「好きなんすか」
「えっ? 誰」
「応援」
「あぁ。少し」

 それから僕らはお互いのタバコの銘柄を語り合った。今まで何を吸ってきたか。ニコチンの量や鼻に抜ける感じ、メンソールの爽快感、アメリカンと日本のタバコの違いについて。そして恋について。タバコはアメリカンは折れやすくて好かないこと、恋の話はいつしか風俗が気楽な事に落ち着いた。僕らの年頃は恋の話しが自尊心を傷つける。話の途中で女子生徒は教室を出て行ってしまった。それほど(から)い話の内容でもなかったのにと思う。僕ら二人とも・・・何か・・・遠い・・・気に触れるタイプの遥か遠い人々・・・だったのだろう。

 それから僕と上川は廊下に出て第二体育館に向かおうと教室を出る。教室は廊下の突き当たりにある。長い廊下の向こう玄関から冷めた乾いた風がゆるりと流れ来る。長い廊下のリノリウムは寒さに敏感だ。いや、僕を敏感にさせる。
二年生の教室は一階にある。職員室の近くにある。二年生は一番危ない道を歩み始める年齢であるから、がその理由だ。職員室は玄関の向こう角を曲がったところにある。そこに至るまで二つの便所がある。その一つ近いほうの押し戸の前にクリクリのパーマがいる。押し戸が「ギッ」と音を立てた。踵を踏み潰した短髪の男の革靴が「カツン」と響きその男が斜に構える。パーマとその後の短髪の目が風に嫌われて冷ややかに半開きである。二人ともあごを突き出している。彼らのボンタンはその拳で膨らんでいる。上川はゆっくりと歩みを進める。マキヲが五歩下がって付いていく。彼らの学ランを見る。隣の中学の物だ。前身ごろがジッパーで紺色である。上川は彼らに一瞥をくれながら拳の交わる距離をすれ違う。プライド。遠巻きには出来ない。
「靴脱げや」上川が言う。
 短髪が上川の右足を払った。上川が振り向き左手の手のひらをマキヲに向けて「一寸待て」と合図する。瞳孔が開いている。その刹那上川の左フックが短髪のガードを上げた右腕を吹き飛ばした。彼の右腕は弾け、ワンテンポずれて上体がのけ反り、腰を落とされ三歩のあとずさり。半開きだった瞳が動揺に見開かれる。上川のコンビネーションの右ストレートが鼻っ面に見舞われる。彼の顎が跳ね上げられ、うつむき、歯を食いしばり「ブッ・・イィィィーーー」と息を漏らす。上川の左手が顎を挟んで、その握力で割らんとしている。上川は「ウラァァァ」と小声で威圧する。抵抗が無い。上川の手が離れた。パーマは体一つおいて立ち玄関を確認している。ポケットからは手を出さない。二人の胸が近づく。上川はパーマより大分背が高い。つむじが見えるくらいだ。上川の右フックがロッカーを叩く。その拳は明らかにパーマの顔からは距離をとる。二発、三発・・・四発。ロッカーの扉が壊れんばかりに叩かれた打楽器のごとく鳴る。

「打楽器みたい」とマキヲが思う。

マキヲはまともな思考回路を絶たれている。

「打楽器みたい」は無いだろ、俺。

 僕はその光景を目の当たりにし、少し冷えていた。指一つ動かさずに冷え固まり、全ての行為が終わったその後にしばらくの間をおいて「僕の鉄拳」と心で唱えた。喉元までふてぶてしい余裕がでかかる。もう目の前にど突く奴などいないのに。震えていた。

「僕の鉄拳」と言ったのは誰なのだろう? 一体、誰? えっ? 僕じゃないよ。

 上川はパーマを見送って僕に言う。
「ちょっと出よ」
 職員室が近いのだ。

 僕らは校門を出て2ブロック離れたビルの二階にある喫茶店に入った。喫茶店には窓があるがフィルムが張られていて、外からは見えないようになっている。外からは見えないことでここいらの学校の先生の巡回を受けているが、丸見えのカフェには入る気にはならない。それに巡回にぶち当たるのは事故だ。僕らの学校は再開発の中に取り残されている。再開発の波は古い町を碁盤の目にならし、古参の商店を遠く丘の向こうに追いやった。とても住みやすい冷えた町だ。風は微風。僕のモミアゲをさらう。
 上川と僕は二人でアイスコーヒーを飲む。上川が言った。
「お前、度胸あるよな」
「どうでしょう・・・」僕はしかめっ面で斜めを見た。「どうでしょう」
「クラッチ握ってたろ」
「クラッチ?」
「いやだいぶ前」
「クラッチ。あぁクラッチ。家の店」
「根性あるだろ」
「ギリギリ・・・ギリギリ・・・まぁギリギリ」僕の頭は「ギリギリ」と言うたびに細かく縦に振れた。「ギリギリ」
「普通な、びびる奴は装えんのよ。滲み出てくんのよ。もう空気が歪むんよ。それ自分には無いな思って」
「歪む?何が」
「いや、ブワッと。体臭みたいに空気歪むんよ、ホント。ヤリたがりを誘うように歪むのよ」
 僕は鼻を鳴らし「心外だな」と独りごちた。上川は何も言わなかった。
僕の言葉はいつも間違う。間違った方向に向かって放たれる。一体何に向けて言われたかも定かではないんだ。
「ボクシングどうよ」上川がその自尊心を抑えて聞く。コーヒーも飲む。チュウチュウ。
「どう?」
「・・・好き?」
「まぁ、広がるかも」
「広がる?」
「世界とか」それを聞いた上川は、あぁと言って続ける。
「かほり道どうよ?」
「どう?」
「どうよ?」
「行くんすか」
「どうよ?」
「まぁいずれ」
「行かんか?」
「もう? 早くない? やばくない?」
 店の空気が少し張り詰める。マスターもウエイトレスもこちらには目を配らない。僕の股間は少し縮み上がっている。僕は言葉を探す。適当な言葉が見当たらないとすぐストローを咥えた。考える風をして固まった頭と格闘している。そう「かほり道」ねぇ。

 「かほり道」とはこの町の向こうにある新都市の風俗通りの名称である。まだ新都市が宿場であった頃からある旅籠の集積で、男の旅人たちが「旅の恥」をかき捨てた場所である。新都市の開発に従いそれは縮小し、その他多種多様の飲食街に飲み込まれていった。今でもそれはネオンの海に存在している。ないしはネオンに隠されて存在を許されている。そういう所である。

 僕らはその後、軽い爆発的な笑いを挟んで話を続けた。
上川がもう三年もボクシングジムに通っている事。誰にも伸された事のない事。いくら勝ってもその行為自体に大した愛情を感じられない事。彼自身の体が太すぎる事。アメリカ人の身体は膨らみすぎて何か大事なものを見落としてやいないか。広がりすぎる事への恐怖。何もかもが不自由になる広がり方と広がった後の責任について。僕は相槌を打って最後にこう言った。
「上川、大丈夫、アメリカ人より膨らみすぎてやしない。大丈夫」
 僕はその日からアメリカ人が嫌いになった。なんとなしにではあるけれど。少し安心したんだ。僕にも嫌いだと言えるものができて。

 僕らは十二月にある市民ホールでのボクシングの試合を見に行く事を約束して別れた。地方興行だ。上川の同門の八回戦がある。上川はまだ誰もいないボクシングジムに暇を潰しに行き、僕は吉行のいる学校に戻った。


   7

祭りの終わり。燃焼の温かさを風にさらわれる日々。現の悶々がロマンティシズムに押し流される。「ロマンティック氏」はその恩恵を少数の人々に与え、その他大勢を現実の寒風に曝す。寒風に曝された多くは足元を見て、また遥を思う。リアリストに含まれる一割のロマンティシズムはリアルなパントマイムとなって現実を花の色に染め上げる。花の色に染め上げられた人々はリアリスティックの流れ去るのを好しとして渦に巻かれている。日に日にその味の辛さを増し続ける本当のロマンティシズムを知る僅かの者は、その身体で卑屈をかなでる。ロマンティストに類される感傷的な人間の、その血の濃いほどに滲む卑屈。その卑屈はロマンティシズムを覆い隠して失笑を誘う。
ひそやかな「かほり」は少し鈍い頭に春を運び、そのまだ若いからの罪悪感は蜜の香りの蝶の羽を運ぶ確かさにさらわれている。あからさまに剥き出た赤い蕾は、風にあおられ右に左に揺れている。

 通り過ぎる時間の曖昧さは十年をかけて確かさを増すと謳い、一日の矮小さを笑い、己の勝利を手繰り寄せんとする。僕らの昼時間は日増しに短くなり、ツーサイクルは氷の到来を見届け、その過ぎるのを待つ。

 秋に想うより春は冬にて遠ざかり、白亜の世界は喜びを一人噛みしめんためにあるか。この身にふるえを運ぶ。閉口の日々。


 十一月の終わりの週、僕と上川は「かほり道」に出た。
 日暮れ間近の斜陽の中。視界の中にいる上川が、もしくは僕の中の上川との記憶が胸に若干の余裕を与える。風は冷たく、僕の感覚を鈍らせる。僕は僕のからだ以上に膨らんで、忌むべきものになりつつあるのに。
ポケットからは手を出さずに歩く。革靴が氷をカリカリ踏む。僕ら二人の猫背は虐げられた者の哀愁みたい。この胸のナルシズムをくすぐる。眉間に皺が寄り、僕は僕を忘れている。

 通りに湯気が満ちる。暗い電灯に照らされて揺れ、消毒と石鹸の匂いを運んでくる。白壁の長屋造りが向こう十メートルほど左右両面に続いている。等間隔に木戸がある。木戸は塗料がはがれて灰色になり、格子入りの小さな窓とワンセットになっている。通りは突き当たりに向かって緩い勾配になっており、その突き当たり、ツルツルなコンクリートの階段の向こうにヨーロッパ調のドアがある。人通りは無く静か。壁を隔てた向こうを知れるのは湯気の運ぶ匂い、それのみである。たまに甲高い笑い声が響く。この白壁の向こうか、通りの向こう側ネオンの飲食街のものか。
 上川が言う。
「適当に窓覗いて決めろな。窓閉まってるのは休みか客がいるってことだから」少し迷っている風の僕を見て続ける。「ここまで来て説明とかしてると初めてってばれるから。ボッタくられっから。あっ! 二万八千円って言え。ニッパチ! あっ、サービス抜いてニマンエンかも」
 上川がドアの向こうに消える。
 僕は上川に振り払われた気がする。僕がそう感じただけだけれど、上川の中にもその感じはあったのだろう。僕がそう感じたのだから。
 そして僕は一人その袋小路に立ち、暮れかけた太陽と灯りはじめた電灯と湯気の湿り気に曝される。全ての温かさは僕を浮き立たせる。僕の頬は冷たい。温かさは未だ誘惑には変わらず僕の身体を押しのけ続ける。その壁の向こうには「夢に見た温か」がある筈なんだろ? 何故!
僕の心は未分化な震えに満たされている。誰かに問われたら、クールに「寒いから」って答えるだろ。きっと。膝までガクガク震えちまう。マッタク。

 僕の未熟な思考回路は僕に男らしい結論を導く。

「僕は売女はだめだ」

 僕はとりあえずのあきらめを抱えて少し大胆を見せる。ジリジリした頭で、ゆっくり窓の向こうを覗いてまわった。「だめだ」の後にそれが覆るようなこのジリジリ。僕は通りを二往復かそこらし、もうその頃は「女は顔じゃない」と言う論まで頭に浮かんでいた。実際、化粧の巧い世慣れた彼女達の顔に綺麗を感じていながらも、あの無意識の膨らみはやってこない。
もっと解きほぐすような何かあるだろ? えっ、ないの? そんなのどうでもいいの? みんな。そんなに乾いてるの? どうでもいい感じでそこになだれ込むの?
もう僕は綺麗な娘に黄色い歓声をあげてしまう同級生の子らに啓蒙して回りたい気分だ。少し怒りたいし。

「本当に勃たせてくれる娘にしなよ」って。

 僕は腹の底少し上で「今日はもうないな」と括る。腹の底少し上で。そして僕はもう何度目かの窓の向こうの女と目が合った。年の頃は分からない。年の頃なんてそのときまで意識してはいなかったから。腹の重みが少し胸に込み上げる。目をそらす。鼻を啜る。上川の入った部屋を意識する。その部屋の閉まった格子窓の隙間を凝視する。中を覗くのではなく足を寄せるでもなく、その向こうの光に釘付けになっている。命一杯頭を絞って考えてるのだ。

振り返っちゃだめだ、俺。

 通りの突き当たり、湯気に煙る階段の向こう、ドアがパタリと音を立てて開いた。短い毛をカールさせた女の子が立っている。彼女はヨーロッパ調の装飾の前に立ち、その細い身体を細い衣服に包んでいる。彼女とマキヲの二人はそのまましばらく動かない。

マキヲはゆっくり彼女に近づいて早口でこう言った。

「今度の日曜日ボクシングの試合見に行きませんか?一緒に応援してその応援したほうが負けるのを見て僕らが応援したから負けたんだって思ってその後馬券を買ってやっぱり負けてその後ゆっくりお茶でも飲みながら将来のことについて話しませんか?」

「堅実ですね」と彼女は言った。

 何処かの部屋の中で大きく「パン!」と音が鳴った。二人の首があべこべの方向に振れる。男女の笑い声が響いている。僕の横を彼女が歩いて去っていった。後姿、皮のロングブーツのヒールの細いことに見入っていた。彼女の大きな瞳とおっぱいが印象に残っている。その白い顔の輪郭はほとんど記憶に残ってはいない。僕は思う。

「少し汗ばんでいたんだな」

 上川が部屋から出てくるまでネオン街の外れ、「焼肉」の黄色い看板の前でタバコを吸っていた。灰皿に丁寧に灰を叩いて入れた。心持ちいつもより美味い。
さっきの女の子は想像の中で「カッコいいですね」と言う。耳元で何度も言うんだ。
僕はひたすらに応答を考える。「そうですか、ありがとうございます」「そうでもないよー」「凄いよね、体。ものすごいじゃん」「僕は中の上だけど、友達にいいのいるのよ。会ってみー」
僕は馬鹿になったのかもしれない。
彼女のセリフがリフレインする。
「堅実ですね」
「堅実?」
何が?
「将来について・・・」
「あぁ将来について・・・ね」
唇を乾かす風は西から吹く。空は紫に染まった雲が圧する。日が落ちて大人の街になるのにそう時間はかからなかった。
 僕は彼女にまだ応答を続けていた。
「ねぇ、堅実っていいの悪いの」って。


すいません、誰か、これは片思いですか?


   8

暗幕を張った体育館にゴングが打ち鳴らされる。

「ただいまより本日のメインイベント J・ライト級8回戦を行います」

「全国のボクシングファンの皆様今晩は。今日はゴールデングローブツアー1984『流鏑馬』をご覧くださいましてまことにありがとうございます。この放送は神楽天神の双丘を望む鶴下総合体育館より全国深夜ネットでおつたえしております。解説は元WBC世界バンダム級チャンピオン吉村不二雄さん、実況は私 嵯玉幸緒がお伝えいたします。吉村さんどうかよろしくお願いいたします」
「はい、よろしくどうも」
「まもなくゴングです」

「カンっ!」ゴングが鳴る。

「ゴングと共に二人ともリング中央。ジャブの突きあい。赤のグローブ玉岡のジャブが優勢か?」
「二人とも左は早いですねぇ」
「真っ黒に日焼けした背中、ゴールドのラインの入った黒のトランクスに赤い『豹』の刺繍が入ったのが赤コーナー 〝レッドパンサー〟・玉岡伝二、東京ナショナルパークジムです。その向こう側、坊主頭に白のトランクス赤いシューズが地元、谷坂ジム所属の山吹哲。ワン・ツー、早いワン・ツーはその山吹。吉村さん、二人とも非常にスピードのあるパンチを持っていますね。どう見ますか」
「二人とも良い物は持ってるように見えるですね。フットワークは良いようなのですが、強いて言うならですね、肩に力が入ってるかなと言うところですね。力みすぎ。もっと捨てパンチ、捨てパンチワン・ツー・スリー欲しいですね。ナァイスフックゥっ!」
「まだ第一ラウンド。徐々にほぐれるのは四ラウンド、五ラウンド辺りですかね?」
「まぁ、ほぐれると良いですね。ほぐれると勝てると思います。ほぐれたほうが勝つと思います。ナイスジャブナイスジャブゥっ!!」
「では二人の戦績から紹介しましょう。赤のグローブ玉岡はデビュー丸二年経ちました、七戦して七勝。そのうちKO勝利は六つ。デビュー戦が唯一判定勝利と言うことになっております。自他共に認めるハードパンチャー。試合前のインタビューでは『昔はやんちゃだったけど今はボクシングで更生できたよ』と語ります二十二歳、まだ若いボクサーです。吉村さん、この玉岡と言う選手はまぁ昔いわゆる暴走族に所属していたと言う話を聞いていますが、その時ですね力で自分に歯向かう人たちをねじ伏せよう。力で自分の正しさをアピールしようと思っていたのだそうですよ。しかしいくらやっても人から煙たがられてしまう存在だった。だったらギリギリ正しい世界で天辺取ったら誰も僕の事を世間から外れた人間とは思わないだろうと。ボクシングこそ正しい道なんだ。そう信じて今プロのボクサーとしてチャンピオンを目指していると言うことなんですが」
「ギリギリですか。ボクシングはギリギリなんですかね? ナイスアッパーァっ!」
「一方、青いグローブ白のトランクスの山吹選手。今年でデビュー七年目の二十九歳。十二戦七勝五敗、ここ一年勝ち星から遠ざかっています。オーソドックス、右構えのアウトボクサータイプです。インタビューでは『自分はそれほど器用なタイプではない、会長から教わったワン・ツーだけで行きます』との事でした」
「ナァイスアッパァーっ!」
「赤コーナーのトレーナーは玉岡についてはですね、『彼は力が強い分だけそれに溺れる癖がある、無茶なパンチで自滅しないようならいいんだが』と話しています」
「力は強いんでしょうね。フックを思い切り振っていますからね。ナイスジャブゥ!」
「玉岡の方は体力には非常に自信を持っていてですね、試合前検診では心拍数45、握力・右が55、左が強くて67、視力は両目とも1・5となっております」
「はぁー握力が67。ずいぶん強いんですね。私も昔強いと言われたんですが、それでも47kg位でしたけどもね。お前は強いと言われ続けましたけども、嘘だったんですかね?」
「吉村さん何年前ですかね? それは」
「もう三十数年前ですけども」
「あはははは・・・私がまだ青っ鼻の時ですね、間もなく第一ラウンド終了です」

「カンっ!」

 僕と上川はリングサイドにいた。放送席の裏側に座りテレビカメラはしょっちゅうこちらに向けられる。周りの観衆は上川の同胞のジム生達が目立つ。山吹君はみんなの先輩であるがそれほど先輩っぽい人でもないらしい。「目立たない稼ぎ頭」だと上川は教えてくれた。目立ちたい盛りのジム生達がテレビカメラに向かってアッパーカットを繰り出して舌を出している。えっ? 第一ラウンドアッパーを見舞ったのは相手方だろ。まったく。
 「目立たない稼ぎ頭」色白の山吹君のわき腹がボディーフックで赤く腫上がっている。僕の隣の中年夫婦は色白と色黒はどっちが強いのだろう事を論議している。その話は奴隷制度の話にまで及んでいる。夫が白人の残虐性を口にしたとき第二ラウンドが始まった。
 へぇ、舞台に上がるモンは色んな物の象徴なんだぁ、と僕は思う。放送席を背にした山吹君の白い背中は筋肉で隆起していた。色の黒い玉岡君に比べても、それは注目を集めるに足りない事はない。しかし僕はそれが何の象徴なのか全く分からなかった。僕は今まで自分の背中をまじまじと見つめた事がない。
隣の夫が山吹君について、ああいう顔つきの男は大概精力がないと言い、いくら鍛えても勝てる男じゃないだろうと言った。その向こう妻が、あら嫌だ、それは個性よと返した。隣でその夫が苦笑いをしていた。妻のほうは自分たちの子供の事について話していた。決して今みたいな事を子供達に口にしないでと。
 リングの上の二人はそれぞれに様々なイメージを抱えて戦っている。この試合のどちらかの勝ちで、彼ら二人とはまるで遠い関係の史実が捻じ曲げられてしまう可能性について考えていた。何故そんなにも繋げたがるのだろう? 繋げてしまうことでその物の本質を見失う事は無いのか? それともこの戦いはそんなに多くの事実の優劣の決定を背負っているのか?
「背負いたくないな」と僕は思う。僕は僕の裸から滲み出るイメージを人前に曝して戦う勇気なんて無い。上川に視線を移す。上川は手を前に組んでリングを静観していた。
 試合があからさまに動いた。玉岡君の左ボディーフックが山吹君のレバーに決まり(上川が僕の右わき腹をつついて急所の事を教えてくれる)左右のフックがたてつづけに顔面にヒットする。第二ラウンド残り時間一分半。山吹君の腰が砕けている。彼の顔が青くなったのが確認できた。上体を屈めてガードを固めた山吹君はロープ際から動かない。ラッシュを見舞われている山吹君の顔をレフリーが確認し、時計を気にした。数えられただけで二十発余りのラッシュ。拍手と歓声、セコンドの怒声が入り混じって試合はレフリーのストップを迎える。

 振り返ると人々の背中が見える。それぞれの人はそれぞれの人の背中を見て観客の多さを今更に語る。上川に聞く。何故東京でやらなかったの? 上川が答える。地方に女が欲しかったんじゃねぇ? そうなんですか、と僕が聞く。知らないと上川が答えた。
僕は思う、地元で勝ちたかっただろうなと。でもマグロ君とも思った。金で買われたとも。それは運命とか考えた。生まれつきの性質のなせる・・・。僕は「フー」とため息をつく。すべての諦めに都合のいい言い訳が思いつきそうな夜。
 人気が引くのを待って僕らはアリーナを出る。暗い廊下にまだ人がたむろしている。上っ面なアドレナリンが振りまかれている。パンチを乱れ打つ人がいる。衣擦れの音が彼をまたその気にさせる。僕は喫煙コーナーを見つけてタバコをポケットから出した。
「いや、それはやばいだろ」上川が言う。
 あぁ、そうか僕は中学生なんだ。鏡の中の僕もまだ中学生なのだろうし。必要以上に周りに火を着けてしまう。

夜の闇を背に僕を映すガラス。
半透明の僕。
半透明だから冷ややかな心。
あの時の鏡の中の僕。
あの片思いをあきらめた僕。
半分だけ透明の僕は僕から目をそらさないで、
「そこに立っていてもいい」と言う。

「ソコニタッテイテモイイ」

「優しいな、夜のガラス」慰められちった。

 そう、そのとき僕は一ミリたりとも僕以上じゃなかった。


   9

 遅れるわけにはいかない。探し物は深い藪の中。世界を動かす小豆を、ダイヤモンドほどに押し上げている。見えない姿を見つける、高尚な作家気取り。知らないままじゃいられない。豆はどこ? 豆はどこ? 豆はどこ? 遅れるわけにはいかないのさ ♪


   10

校舎の四階、端っこ、その窓、無人のグラウンドを望む。その、もう使われなくなった教室には「写真部分室」と張り紙がある。鍵を掛けなくても済むものだけがそこに置いてある。僕の写真がある。「学園祭」
そっけない展示。そっけない見出し。
六つ切りの白黒がある。僕のシャッター。僕の白黒。
壁中に写真がある。雑誌の切り抜きがある。この部屋の「ルール」がある。とても丁寧なマジックインキの字だ。それが日に焼けて黄色くなり、破けている。写真の拡大コピーがある。砂丘の白黒写真だ。砂丘の中に着物の婦人が立っている。そのコピーの上から細い白インクが細かい方眼を描いている。婦人が檻に入っているように見える。
 少し笑った。何故可笑しいのかは分からなかった。恐らく「真面目」であろう行為に不似合いな僕の薄笑いを分かる気にはなれなかった。分かってしまったら僕はとても浅はかな人間だと認める事になるじゃないか。多分、それは誰かの写真論に依っているのだろう。でも、これが、この升目を書く事が僕の思い描いた世界に届く道には思えなかった。黄金比率なんて僕には味気なく響く。否定してまわりたい。そうそれは「黄金比率」を見出す升目。
感じる理由を見つけ出す筋道が潤いを奪っていきそうだ。それにそこにあった僕の写真はそれほど悪い出来じゃなかったんだ。

僕は自分の作品がかわいい。とても。

 壁の写真の一枚。吉行が映っていた。枯れかけたバラを束ね、棘のある茎を握り締めている。袖を肘までまくった腕に血が滴っている写真だった。
 
毛筆の一文がある。

「世界中のカラーフィルムが
人間の目の
その感情の色の
再現性を求めて進化するなら
  
僕らの目指すところは
  己の目よりも
遥かに
  ビビッドに
  世界の色を見つめる人達の視点である!

  所謂 進化への焦がれなのだぁぁぁぁ  昭和四十九年 卒」

 僕はその部屋を後にした。


11

 風は枝を鳴らさず、凡庸は日を改める太陽と闇を寛容で包みその稜線をぼかす。何かを待ち焦がれる、そんな気持ちの生まれる気配もなく。優しい金縛りが世界を満たしていた。とても優しい、柔らかな金縛り。一刻の切実を訴えるでもなく、それは一秒を境目なく刻む。鼓動は中庸、四肢の隅を満たす。僕はその中で旅をする。被写体にある筈の体温と匂いを遠くにした写真から、そのフレームから薄膜の向こうへ。ごまかしの向こうにも彼方に見えた地平の現にも落胆は無かった。全ての美しさはその理を告げず、全ての醜さは許しを請うすがしさを備えている。僕の歩みは鳥のごとくでもなく、魚の揺らぎでもなく、氷河のそのある様、無意思の静けさでもなかった。それは僕の望ましい姿であるのか、僕であり僕ではない。僕は誰にともなく、訳も知らず、人の幸せを願う。瞳を覆う薄やかな涙は目に映る全てを僕に向けた魔法に変え、言葉による冒涜への導きを消し去っている。

あらゆる情景を具象として捉えるせっかちな不感症は遠ざかっている。マキヲは少しの間カメラと距離を置く事を思いつく。学園祭の後それを手にする事はなかったのだが、それはいつも引き出しの中にあった。悩み事みたいに。

丘の上の浅野邸は相変わらずその大きさで新鮮な驚きを与え続けている。その玄関に着物姿のおじいさんが立っている。
「すいません吉行君いらっしゃいますか」僕が言う。
「探してみます。どうかお待ちを」少しの間を空けておじいさんが聞いた。「どちら様で」
「上村と言います」
「えー、上村様、はいちょっと、少々・・・うん・・何の用で・・・ぇ?」
 カメラを返しにきた事を伝えると、おじいさんは黙って二階に僕を招き、重い渋色のドアを静かに閉める。おじいさんは僕の目を見て唇の前に人差し指を立てた。そして左手を差し出す。おじいさんはカメラを受け取るとそれを奥にしまう。静かな声で言う。
「貸してはいけない事になってます。お父さんの物なんだ」
 合点した僕に趣を変えて言葉を続ける。
「この部屋は初めてか」
「はい」と答える。
「吉行の友達か」
「はい」と答える。
「祖父です」
「どうも」と答える。おじいさんは少し笑う。初めまして、を促されハジメマシテと言った。おじいさんは僕の右ポケットをつついて、お母さんには会わないほうがよいと言う。その中にはセヴンスターとライターがある。少し待っているように言っておじいさんは部屋を出て行く。一階からクラッシックが響く。

「あぁ吉行の御祖父さん」

アイネ・クライネ・ナハト・ムジク。

 部屋には明り採りの障子と小さな窓がある。窓からは裏庭が見える。丘の斜面に建てられているので裏手は二階から足の届く所に土がある。雪見障子の向こうには正門が見えている。裏庭には紫に色づいた枝垂れ紅葉があり、その足元を苔が覆っていた。苔は枯れて褐色になり、裏の山林からは枯れ葉が舞い込んでいた。

 一階で声が響く。
「それぐらい常識じゃ無いかっ! 何も問題無いじゃないか。礼儀が足らん」

「何を言うか失敬だぞ。そうやって大きくなる。誰だって大きくなるんじゃないか」

「大きな声出さないでください」女の人の声がする。足音とドアの音と食器の当たる音がそれぞれの音を威圧的に高める。

 御祖父さんは僕にお茶とお茶菓子を運んできてこう質問する。

「吉行はどこに行きましたか」

 吉行は僕に会いに行くと言って家を出たらしい。僕はここしばらく吉行と帰っていない。心当たりがなくも無い。

「どこに行ったのでしょう」と僕は答えた。

 僕は詮索される前に退散しようとモジモジしていた。小さな窓から少し遠めの所に吉行の兄、孝太さんが笑いながら顔を出した。その手にあるエロティックな雑誌をこちらにちらちらさせている。

「僕、探してきます」と答えを出して部屋を後にした。あの雑誌は僕が買った物だ。「ビニ本」のビニールがまだはがされていないのを吉行に預けていた。忘れていた。しかもビニールははがされて、角が少し欠けていた。燃やされたのかも。

玄関まで孝太さんが送ってくれた。爽やかに手を振っている。

 僕は帰りの道中の坂を転げて走る。イケナイ秘密がばれる時の高揚感がある。

「あは。  馬鹿。  見つかった。  吉行。  やべぇ。  」

僕は「かほり道」の事を考えていた。はじめて行って以来、吉行にはその事を語っていた。どうだろう? 危ないかな。

「明日学校来ればわかるか」

 僕にとって明日はそれほど遠くなかった。深い傷を案じるよりは簡単な答えだったし。馬鹿な僕は「男の傷は勲章っしょ!」とさえ思えた。僕は性的な秘密が広がる事に少しの興奮を感じている。とても話したかったんだ「かほり道」を知っている僕のこと。



12

 翌日の教室で僕は喋り倒しておりました。「かほり道」の事は伏せて、総てを伝聞したという感じで話し、所々に自分で考えた名言を混ぜながら爆笑をさらっていたのです。話しの中心にいるのはそれほど嫌ではありません。そのプライベートを打ち明けて、笑い飛ばす感じは話し手の僕の取っ付き難いイメージを取り払ってくれておりました。クラスでのイヤラシイ打ち明け話しは、周りにいる人々の子供な感じの子に受け、爆笑され、大人な感じの子に冷ややかに鼻で笑われていました。なんだ、同じじゃ無いかとか、そんな感じなんだとかいう風に笑われていたのです。
 吉行は何度も僕に「かほり道」の事を話せと暗に促します。大人ぶっていたのでしょうか、僕は吉行より先輩ぶって彼を制しておりました。しかしながら若い精神の高揚は抑えがたく、多くを語り、赤い顔をして次の授業に臨んだのです。
 授業のまだ始まって五分も経たないときでした。二人の大柄な男が教室の後ろのドアから入ってきたのです。彼らの服装は一見してそれと分かるその筋の方のものでした。鴨居をくぐるように入ってきたので身長は一八〇を軽く超えていたものだと思います。相手は二人。教室の中には教師を入れて三十九人。多勢に無勢ですが皆は「誰がやらかしたんだ」と身内を責める気持ちしか無かったのでしょう。「浅野吉行君はいるか」の問いに、あっさりと彼を差し出しました。彼はまた抵抗しながらもあっさり剥き身にされていきます。理由は誰も知りません。しかしながらほとんどの人が彼から視線を逸らしませんでした。最後の一枚を剥き取られるとき彼は大きな声で「あぁっ!」と叫びました。その声に教室が凍り着きました。露になった下腹部には少し大きめのマカロニが付いていました。二人の男は「うち等の女の子に手ぇだすなやぁ」と言うとそのまま悠然と去っていきます。僕はすぐに散らばった服を集めて吉行の股間にあてがいました。そして教師に少し頭を下げ、彼らが遠くに行ったのを確認して教室を出て行きました。僕らが教室を出ると男女入り混じった大きな笑い声が聞こえてきました。教師がそれを叱責していました。吉行は震えていました。僕は彼を保健室まで送り、そして何も聞きませんでした。騒ぎのせいで廊下には何人かの生徒がいました。それを避けるように僕はトイレに入ります。そこで一人で恥じておりました。「僕は馬鹿だ」と。

そのとき、「僕は馬鹿だ」などという内省的な言葉で総てが終わるような気がしたのです。何度も繰り返し唱えました。それで終わるような気持ちになっていたのです。

 僕は誰もいない教室にいる。担任の先生が経緯を聞く。僕は何も答えなかった。答えられる事ではないし、僕の推測は吉行が風俗街でイタイ事をしたというものだったのだし。僕は考えている。吉行が大人の女性とセックスしているところを。全然マッチしていなかった。大体において、僕は僕自身がセックスしている様を想像できやしないのだ。そこに届くほど上手く物事を考える事なんてまだ出来はしなかったんだ。僕は上手く女子生徒と話す事も出来やしない。
そして僕は自分の初心を盾にとって「清廉潔白」を掲げたい気持ちだ。
「俺、全然悪くない」と。

吉行はどうなのだろう?

 
孝太さんが車で吉行を迎えに来た。孝太さんが言う。マキヲ君も乗って行きなさい、家まで送るから、と。
 僕は吉行と後部座席に座った。吉行の手から紙切れを受け取った。
「パンツの中を見ただけ」と書かれている。
 僕は吉行の目を見る。吉行は真面目な顔で小さくうんうん頷いた。吉行の顔からは動揺は伺えなかった。僕は右手で輪を作り「銭は?」とジェスチャーする。吉行が人差し指を立てている。僕は嫌な予感がする。そう、お金のこと。吉行の家はとてもお金持ちなんだ。
 道の向こう、フロントガラスの向こうに僕の母親が見えた。店の前でちりとりを手にしている。一面のガラスがめちゃめちゃに壊れていた。僕は「クっ!」と小さく叫んでのけ反り膝を叩いた。怖くて胸がパクパク言っている。奥歯で何かを噛み潰そうとしている。
「やられちゃったのね」孝太さんが言う。
「降ります」と僕は言って飛び出していった。
「後で電話するから」孝太さんが叫ぶ。
 僕は走りながら振り返って頭を下げ、店まで駆けていく。
「あぁ、無事やった。あぁぁ、ひどかったんよぉ今日ぉぉぉ。早く家入って。なんだろうねぇあの人たちは。いやぁ・・・ホント」お母さんが鬼のような顔をして困っている。
 店の奥の居間から父親が顔を出した。父の目は少し潤んでいる。
「牧緒。大丈夫か。何でか分かるんだろ。大丈夫か。何にも悪くないか。おい、言ってくれ、何にもわしら悪い事ないって。・・・どうした」
「俺ら、悪くない。全然。悪銭一文 マッタク」僕は現実を見ないように僕の正論の一言一句で押しのけた。
「よし分かった」それだけ言うと父親は決然と、また少し早足で出かけていった。
「どこ行くのぉ。こんな時。いてくれへんと敵わんわぁ。ちょっとぉ」母親は父親のシャツを掴んでいる。父親はそれを払って、
「大丈夫だ」と言った。「大丈夫、上手くやる」
 道を歩いていく父親を見て、僕は少しだけ難が去るのを感じる。
僕と親父はそれぞれの身体に正論を叩き込んだんだ。もう正論のカタマリが歩いていく。おう、あれならまかり通りそうだと思うほど。
まばらな人出の商店通りを青色のジャンパーで歩く後ろ姿は、角を曲がるまで一切の儚さを感じさせない。僕はつぶやいた、
「オトコジャ。ウレシイカナオトコナノジャ」僕は彼をずっと小心者だとして恥じていたんだ。

 警察が調べに来て、事情を母親に聞いていた。吉行の事からのつながりである事は家族誰も知らないだろう。父親の不在にも偽りの供述をして、その場を切り上げた。警察は、危険だから割れたガラスは業者に来てもらって撤去してもらいなさい、それからしばらくの間重点的にこの近辺を警邏すると言って去っていった。

「何だかこの人たちはモッサイのぉ」
 牧緒が小声で言ったのに反応がある。
「何かトラブル? あなたが招いたの?」
「いや、僕じゃないっす。トバッチリですから」僕が答える。
警官は周りを見回し、「上村モータース」以外被害のない事を確認している。

 吉行の家大丈夫かな。

 吉行から電話があったのはその日の夜遅くだった。その日の電話はすべて僕が取った。家族の誰にも話しを聞かれたくない。夜分遅く申し訳ありません、と大人の女性が言った。彼女が少し長い謝辞を述べた後、吉行が電話を変わった。彼が大変迷惑をかけた事を改まってわびている。長い沈黙があった。とても彼の家の状況を聞くことは出来なかった。吉行の鼻息だけが受話器のマイクロフォンを揺らしている。少し遠いところ、押し殺した声で本当の事を言えと誰かが言った。吉行は小さな声で「俺、悪くないよな」と言った。僕は「うん」と言った。堅い物を叩く平手の大きな音がした。
「悪くないって言ってんじゃんよ!ボケェ!」とても大きな声で吉行が叫んでいる。
大きな物音と受話器が落ちる音と誰かの奇声が聞こえた。その後すぐ電話は切れてしまった。少しの間、受話器の信号音を聞いていた。受話器を置いてしばらく電話機を見ていた。僕はもう、ちょっと電話を取りたくない気分だ。その後かかってきた電話は母親が取った。とてもにこやかに話しをしていた。社交辞令的の連発でとばっちりを避けて上手くやっていたのだと思う。
「お父さん遅いな」と母親が言う。僕は黙っていた。どんな話しから糸口が見つかってしまうか分からなくて恐々としている。話してはいけない秘密が先回りして口を閉ざす。すごく無口。

見知らぬ圧力はマキヲの記憶を次第に黒く染め上げ、それを責められるべきものとし、思い出すという生理に逐一苦痛を突き刺した。マキヲの記憶は徐々に剥ぎ取られ、それに付随する大事なものと共に落ちていった。

とても小さな箱に身体を埋める猫の気持ち。

その夜、工場の二階の牧緒は何も無い男の子になっていた。母屋の電気は消されずに、父親を待っている。風が窓を叩いた。牧緒はため息をついた。頭の中でいつかのCMソングが流れていた。

 翌日、僕は一週間の停学を母親から聞いた。

 色々な理由を考え、僕は自己弁護的にそれを納得した。その一週間の内に僕は料理を覚え、エンジンの解体を覚え、父親に頭を下げる事を覚えた。部屋に置いたラジオからはジャパニーズポップスが流れていた。すべての歌は僕のために流れて、それに涙を流す事もあった。僕は親の気づく所でのタバコを控え、マンガ雑誌を遠ざけ、少しだけ文学をかじった。その一週間、一度も勃起することがなかった。そして僕は強烈に大人になることに焦がれた。
僕は僕の脳みその中の何処かにある大人の領域にアクセスが出来るようになる。アクセスの先が大人なのか子供なのかが次第に分かり始める。そして僕はまだ、そのいびつな入れ物と格闘せざるを得ない。まだ十四歳なのだ。
 僕は停学明けに学校へ向かう直前、ドアの前で両親に幾晩も練り上げた言葉を言う。
「俺、大学行っていいか」
母親も父親も「うん」と言ってうなずいた。二人とも優しい顔をしていた。僕は少し泣きそうだ。涙に滲む師走の町はそれほど寒々しいものではなかった。


   13

 朝早くの学校はいつも通りのやかましさだ。一部の生徒からは僕と吉行は敬遠される存在になっていた。僕らの噂には尾びれが付き、僕らをおちょくる奴や覗きに来る他のクラスの人間が目立っていた。
その話しの中に僕の父さんが土下座をしたことが含まれている。何処かで生徒達は流行りのギャグみたいにぶーぶー泣いて土下座する仕草をしていたらしい。馬鹿いうな父さんは「ぶーぶー泣いてない」・・・でも土下座したんだ。そうらしい。
 吉行の実家の事は余り知られていなかった。内々で済ましたのだろう。後で吉行から聞いた話では、彼の家の会社は父親の代で終わるそうだ。会社の一族支配が終わるというような言い方だったかもしれない。孝太さんが跡継ぎになれない事だけは分かっているらしかった。よく分からないけど、と言い分けして吉行は「黒い金」の話しをした。その話しの間中彼は笑っていた。

僕は終わってしまった事をどうこう考えるのは好きじゃないって言葉をよく耳にする。ごく一般的に。でも僕らには考える時間が有り余っている。考えざるを得ないし、考えるのを止めてもそれほど物事は急に前には進まないんだ。そして僕は白いものにじわじわと黒い影が染み込んでいくイメージを浮かべる。それほど怖くはなかった。それは僕の中の現実と何一つ結びついてやしなかった。
 すべての物の正確なイメージは僕には掴まれず、僕のそれも誰かの想像からはみ出している。そこにある救いは、いち早く芯まで温まる場所へと僕を走らせたがる。寒々しい批判の無い世界を思い浮かべる。誰かが言う、「ゴールまであとわずか」と。誰も触れられない場所まで。

「絡みついたイソギンチャクから抜けだすまでまであとわずか」


   14

 冬休みのある朝。僕と吉行は孝太さんの車で太平洋に出た。初めての太平洋だ。いや僕の初めての海なんだ。
孝太さんは行きの車中で父親の跡を継がないことを僕に話した。継げないとは言わなかった。僕はその後を聞かなかった。車内には小さな音で外国のロックが流れている。僕の下で革張りのシートが落ち着きなく軋んだ音を立てていた。吉行は運転席の後ろに座り、バックミラーの視野から外れるようにサイドガラスにもたれていた。一件以来関係がギクシャクしているらしい。そうだろう、いろんな人の人生が変わってしまったのだ。孝太さんが聞く。
「上村君は将来何になるの?」
「大学生あたりになります」
「都会に出ますか」
「好きなところには行きたいです」
「行ければ良いね」と孝太さんが言った。
「太平洋きれいですか?」と僕が質問した。
孝太さんは「キレイよ」と言ってその後付け加えた、
「初めて見る人は大抵がっかりするけど」
 孝太さんは目をつむって車に揺られる僕にレモンドロップをくれた。僕はそれを口に含んで転がしている。
空は薄いブルー。視界の隅まで澄み渡ってキレイ。

 吉行とマキヲは太平洋の淵に遊ぶ。孝太はその後ろ堤防から腕組みで遠くを望む。初めての裸足の砂浜は冬の寒さにもかかわらず快さを惜しまない。漂着のオブジェは目新しさに罪を拭われる。遠浅の海に波がはじける。マキヲの口からコカコーラが泡を吹いて笑いを誘う。

吉行が波打ち際に枝で文字を書いた。

「ちょっとだけ有罪」

 牧緒は心からは笑えなかった。波の、その文字を消そうか消すまいかを気にして吉行と走る。孝太を遠くに見て吉行が言う。

「俺のチンコどうだった」

 牧緒が答える。

「剥いとけ」

 冬の日差しは高くはなく南に。しかし、確かに僕らを暖める。

潮風は潮風。ただの潮風。


   15

 新しい季節、新しい年度、新しい仲間、嗅ぎ慣れた匂い。

 マシュマロのような白い意識。暗闇と深い穴。それを無理やりに埋める賛辞。

 涙のようにすぐ乾く慰め。大地の風化と記憶の堆積。傷は知らずに癒される。


   16

 僕は河川敷を歩いている。春休みに父親を手伝った小遣いを当てカメラを買った。ソビエト製のバッタもの。僕はバッタものであることがなおうれしい。春の陽気と気分の高揚、厚手のシャツ。汗ががベルトまわりを濡らしている。左のポケットにはリバーサルフィルムを二本用意していた。とてもカラー写真が撮りたい。右のポケットには相変わらずのセヴンスターが入っている。僕の向かう先には新しい街が広がっていた。その街には鉄道の駅があった。僕の住む町を迂回した鉄道だ。汗をかいた僕は駅前の喫茶店に入る。店の名前がひどく和風だった。僕は勇気がある。こんな店に入れるのだもの。

ドアの向こうにはカーリーでグレイの髪をしたマスターがいる。臙脂のベストがぴったりとしている。マスターの色と店内の色が馴染んでいて落ち着く。御絞りとお冷が運ばれてくる。「アイスコーヒー」と僕の声が響く。声が柔らかい空気に吸い込まれてとてもソフトな感じになった。
一匹の虫が照明を叩いては床に落ちる、を繰り返している。彼は何度もアタックしていた。とても硬い虫だ。マスターが店の奥の扉をノックする。扉を少し開けて柔らかく口を開く。
「仕事です」
 扉は少しだけ開かれたまま。空気の流れが少しだけ変わって僕の意識に緊張感を射し込む。
 サイフォンがコーヒーを淹れてくれている。僕はサイフォンの仕組みをあれこれと推測している。
 扉の向こうから女の子が出てくる。黒のタートルネックに細いブーツカットのジーンズを履いて小さな石のネックレスをしていた。短めの髪を前から後ろに流してカチューシャでまとめ、毛先が艶々した茶色でウエーブが爆発している。耳たぶにはピアスの穴が開いていたがピアスは見えなかった。横顔はオデコの少し出た幼い形をしていた。
男は照明を指差し、虫のいる事を伝えた。彼女は小さい蓋付きのちりとりとほうきを持って虫が照明に当たって気絶するのをその下で待っていた。僕はその細いウエストを視界の端でじっと見ていた。アイスコーヒーはカウンターの裏で出番を待っている。虫が「カンっ」と電球を叩き床に落ちた。それを彼女がほうきで蓋の中に閉じ込めてそのまま店の奥に持ち去っていった。彼女のヒールの音以外、店には音が響かなくなった。
僕は今まで、そんなに細いウエストを見たことが無かった。女の子は歳を取るとウエストが細くなる。ん? そうなの?
運ばれてきた「アイスコーヒー」にガムシロップを入れて混ぜたとき、氷がグラスにあたって大きめの音を立てた。僕の自己中心的なエロティックな想像を注意したみたいだ。少しイヤラシイ事を想像していたんだ。コーヒーはとても甘い。シロップを入れすぎてしまった。
 彼女は店の奥の扉から小さな男の子を連れてきた。カウンターの奥で椅子に座る彼女の膝の上に男の子が座る。僕はアイスコーヒーを飲みながら横目で気にしていた。男の子のさらさらの髪が揺れて、その後頭部が女の子の胸に触れては弾んだ。赤いベストの男はじっと窓の外を眺めていた。
僕の汗はもう引いていた。コーヒーグラスを空にして御代わりを頼もうとした。ガムシロップを入れすぎた僕を言い訳するようにもう一杯ブラックで飲みたかった。でも何故か気が引けて口を開くことが出来なかった。彼女に対して気が引けてしまったんだ。
 

 君が僕の光だとして 僕はどこに向かう事になるのだろう

 僕が君の光になれるとして 君はどんな幸せを見つけるのだろう

 僕の見つけた繋がりが間違いだったら

 手を上げて 間違いといって 赤いボタンを押して

 逃げていって 違う糸へ

 君はもう若くないかもしれないし

 そう僕はしばらく前に「片思い」をあきらめたんだ

 とりあえずその話しはどう?


 春の午後を満たすのは陽光、きっと神様の陽光。恋の匂いが僕の頭に満ちる。

「そう、それは僕の100%の初恋だった」

 僕の十四歳が終わろうとしている。

(了)
 
 

 
後書き
落選。 
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