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第八章
第八章
「そうだけれどどうしたんだい?」
「前に何かあったのかい?」
こう尋ねるのだった。
「前に。何かそんな気がするんだけれどな」
「私の過去の話ってわけだね」
「そうさ。ちょっとそんな気がするんでな」
「どうしてそんなふうに思ったんだい?」
「勘かな」
赤藤は首を少し捻って述べた。
「これはな。勘ってやつだな」
「勘かい」
「ああ、そうさ」
あらためて頷いてみせる赤藤だった。
「ピッチャーってのは勘が良くないと駄目って部分もあるんだよ」
「勝負だからね」
「そういうわけさ。怪我について色々詳しいみたいだしな」
「まあね」
ここで未樹は。そのことを認めたのだった。赤藤はそれを聞いても意外には思わなかった。その勘で察するものがあるからだった。
「それはね。中学校の頃だけれど」
「やっぱり何かあったか」
「交通事故に遭ってね」
こう赤藤に答えてきた。
「それで。リハビリとかも結構してね。大変だったんだよ」
「今の俺と似ているな」
「同じだったね」
同じだと言った。未樹の偽らざる本音であった。
「今のあんたと。だからわかったんだよ」
「そうだったのか」
「怖かったよ」
少し俯いて。表情を見せないようにしての言葉だった。
「また走るのが。ずっと動かしていなかったからね」
「それでも走ったんだよな」
「そうだよ」
そうしての言葉だった。その言葉と共に顔をあげてもみせてきた。
「先生とかに励まされてね。それで」
「いい先生だったな」
「それでも怖かったよ」
はしれるようにはなった。けれどそれでもと。未樹は言うのだ。
「走るまでがね。けれど走ってよかった」
「よかったんだな」
「そうさ。だから今の私があるから」
未樹は言う。
「走ってよかったよ」
「俺が同じなら」
赤藤はここでやっと右腕を上げた。いよいよ投げようとしていた。
「投げるべきだよな」
「受けるよ」
未樹もまたグローブをその顔のところに持って来た。キャッチボールの基本の構えだった。赤藤はそれを見ても未樹に対して声をかけるのだった。
「意外とさまになってるな」
「そうかしら」
「ああ、キャッチボールははじめてか?」
「子供の頃従弟に付き合ったことはあるけれどね」
「従兄弟!?従兄弟がいるのか」
「そう、一個下の。私は下に妹が二人いるけれどね」
さりげなく自分の家族のことも言った。
「従弟もいるんだよ」
「その従弟とキャッチボールをしていたのか」
「小学校の時にね」
「小学校か」
赤藤はそれを聞いて少し不安を覚えた。
「随分昔だな。大丈夫か?」
「何とかやってみせるよ。だから」
「ああ」
話はここまでにして。赤藤は腕を振った。上から下に。そうして遂に投げたのだった。
「おっ!?」
「どうしたんだい?」
「やぱりいいな」
投げ終えたその瞬間に。笑みを浮かべたのだった。
「投げるっていうのは」
「いいんだね」
「ああ、やっぱりいい」
ボールは高々と、そしてゆっくりと宙を舞う。久し振りに投げたせいかかなりゆっくりである。
「投げるのは。いいな」
「そうだろうね。わかるよ」
未樹もそれに応えて頷いた。
「私もあの時はそうだったし」
「そうだったのか」
「そうさ。最初は確かに怖かったけれど」
またその時の話になった。しかし今度は別の意味合いになっていた。
「それでも。いざ走ると」
「気持ちよかったか」
「今のあんたと同じだね」
また言った。
「そこのところもね」
「そうか」
「さて、ボールだけれど」
ボールはまだ宙を舞っている。山なりにゆっくりと。宙を舞い続けていた。二人は今度はそのボールを眺めていた。それぞれの目で。
「そろそろかね」
「悪いな、ゆっくりで」
「いいさ。久し振りなんだろ?」
「ああ」
もう隠さなかった。何もかも。
「あえてゆっくりに投げたしな」
「じゃあこんなものさ。これでいいんだよ」
「いいんだな」
「ああ、いいさ」
やっと落ちてきた。次第に速くなっていく。赤藤も未樹もそのボールを見上げている。
未樹はそのボールをゆっくりと受け止めた。左手に嵌めているそのグローブで。彼女がキャッチしたのを見て赤藤は微笑みつつ言うのであった。
「上手いな」
「そうかね」
「ああ、上手いさ」
そう未樹に言うのだった。笑顔と共に。
「野球殆どしたことないんだよな」
「ああ、そうだよ」
隠すことなく述べてみせる未樹だった。
「その通りさ。ずっと陸上一本さ」
「それでそれか」
「従弟相手にしていたからね」
「それでも筋がいいな」
赤藤はあらためてこう言うのだった。
「随分と。しかも左利きなのに」
「だってボール緩かったしさ」
ここで未樹の顔が変わった。その顔を見て赤藤は思わず言った。
「おい、今のあんた」
「?どうしたんだい?」
「笑ってるぞ」
彼が言うのはそれだった。
「笑えたんだな、あんた」
「あっ、笑ってる?私」
「ああ、笑ってるぜ」
穏やかな顔で微笑んでいたのだ。しかしそれを見ている赤藤もまた笑っていた。笑いつつ言葉をかけていくのだった。未樹に対して。
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